主要登場人物
・雄輝 ゆうき …… 粉砕分隊〈クラッシャー〉の隊員。
小銃手。一等陸士。十四歳。
・薬音寺 やくおんじ …… 同。衛生兵。十六歳。
・マリア …… 同。機関銃手。十五歳。
・ノイズ …… 同。通信兵。二等陸曹。二十五歳。
・紫苑 しおん …… 同。小銃手。十四歳。
・真幸 まさゆき …… 同。狙撃兵。十二歳。
・樽本 たるもと …… 同。分隊長。陸曹長。十七歳。
・美奈 みな …… 同。擲弾手。十三歳。樽本の妹。
・村崎 むらさき …… 小隊長。二等陸尉。十七歳。
・キャシー …… 操縦士。十七歳。マリアの姉。
・佐々木 ささき …… 医師。老人。
第一章 灼熱の黙示録〈スコーチング・アポカリプス〉
咆哮〈スペル〉と光が、目前で炸裂した。
ギリギリの跳躍。
敵の放った炎が、たび重なる戦闘で砂地と化した大地をえぐる。
直後、爆発。砂塵が舞う。
ガスマスク越し、砂塵の向こう、垣間見える敵の姿に突撃銃を向ける。
M16A2の三点バースト。
四匹の敵が弾を避けながら一か所に集まっていくのを確認し、銃に装着されたM203擲弾発射器で、まとめて粉砕する。
「四匹、殺った。これで合計、十六匹だ」
襟もとの無線に告げると、怒りに湧いた声がとどろいた。
《くそったれ! まだ戦闘開始して五分だぞ!》
声の主が、少し離れたところで短機関銃を掃射しているのを、視界の隅に確認する。
百メートル走、中隊内一位の脚力による俊敏な動き。
耐熱スーツに身を包み、顔には、もちろんガスマスクを着用している。
《こっちは、まだ十三匹だっての!》
彼のさけびをかき消すように、通信にべつの声が入りこんでくる。
《あのぅ、僕、十五匹倒しました》
優秀な狙撃兵の幼い声が遠慮がちに言う。
《ちくしょう、真幸もかよ!》
衛生兵でナンバーワン走者の薬音寺が嘆く。
《だったら、あたしがイチバンね!》
甲高い女性兵士の声が、炸裂する連射音の合間から聞こえてくる。
《雄輝、薬音寺、あんたら、ノロすぎ! いま、十八匹目を吹っ飛ばしたわよ》
パワフルな機関銃手マリアによる制圧射撃に正面は任せ、側面からの敵に集中する。
向かってくる敵に照準を定め、撃つ。
そろそろ装填弾薬が尽きる、と脳が告げている。
弾倉内の残り弾薬数を、身体がリズムで覚えている。
「装填!」
さけぶ。
薬音寺の援護射撃。
敵の攻撃を避けつつ、空になった弾倉を落とし、予備弾倉を叩きこむ。
装弾。
その間、わずか一秒足らず。
習慣化された動き、訓練のたまものだ。
《今日は早く帰れそうだなぁ。お前ぇら、敵は既に壊滅状態だ。圧倒的に撃滅しな》
無線から分隊長の声がする。
「了解」
全員が唱える。
自然な連携で敵を追い詰める。
たがいのすがたなど、もはや、目視していない。
ただ、認識している。
誰がどこで働いているか、皆、理解している。
身を隠す障害物も、周囲を見わたす高台も存在しない、どこまでも広がる荒野。
淡々と、ライフルを撃ちつづける。タタタン、と三点バーストがリズムを刻む。
突然、真下の地面が膨れ上がった。
地を蹴って後退し、裂けていく大地に銃口を向ける。
咆哮〈スペル〉。大地の奥から。
轟音と共に、炎に包まれたかたまりが地中から飛び出してくる。
人間の倍はあるであろう巨大な身体。
岩石に包まれた硬質の肉体。
溶岩を内蔵し、赤く沸騰する表面。
全身を包む高熱の炎。
燃える岩の塊。
「突き出た岩〈クラッグ〉──」
思わずつぶやく。
新たに大地から出現したクラッグは、迷わず「僕に」突進してくる。
四つの赤い目がこちらを向く。
巨大な岩を思わせる身体から突き出した腕を振り上げ、迫ってくる。
四つの目の下の岩が割れ、尖った歯のようになる。
咆哮〈スペル〉。
そこでようやく、「引き金を引く自分」以外の自分を再認識する。
おびえず、おそれず。
落ち着いて、背中のタクティカル・ショットガンを抜く。
目前に迫ったクラッグの突進を、回転しながら回避する。
ショットガンの轟き。
意外にもろい岩が、簡単に弾け飛ぶ。飛び散る炎。
もともと、内部に爆弾を抱えているような存在であるクラッグだ。
少しの衝撃で破裂する。
肉の爆ぜた悪臭。
周囲から敵の姿は消えている。
気を抜かず、息を吐く。
「落ち着いたもんだべ、岩石男〈クラッギー〉」
となりに大きな図体の通信兵がならぶ。
通称ノイズ。
生まれつきか後遺症か歪んだ顔立ち。
それに、どこでおぼえたのか、奇妙なしゃべりかたをする。
「お前さんの破壊力は誰にも止められないだな」
ノイズ二曹の言葉には応えず、周囲を見わたす。
敵のすがたはない。
「殲滅完了、オールクリアすね」
ノイズにつづき、となりまで歩いてきた同い年の小銃手──紫苑が口にする。
整った顔立ちに、戦闘時はスーツの内側に隠してある、肩まで伸びた髪。
女の子特有の円らな瞳に、小さめの唇。
基本的に無表情・無感動を、彼女は保持している。
「まあアレだ、俺の特技は射撃じゃねぇ、治療だっての」
薬音寺がマスクを半分脱ぎ、言いわけしながら帰ってきた。短機関銃を肩に当て、宙に向けている。黙っていればハンサムな横顔で、マスクの内側には、戦場を舐めているとしか思えない黒のサングラスと、バックに流したロングショート・ダックテール。
「どれだけ殺すかじゃなくて、どれだけ救うか。お、いまの名言?」
スパン、といい音がして、薬音寺がつんのめった。マリアに後頭部をはたかれたのだ。
母親がフランス人のハーフである彼女の髪は、戦場に似つかわしくない、赤毛のポニーテールだ。
薬音寺より一つ下の十五歳で、さきほどから噛みつづけているピンク色の風船ガムを紅い唇のあいだから膨らませる。
弾ける。
「あんたはねぇ、手よりも先に口が動いてる人種なの。行動力がないのよ行動力が」
機関銃手マリアによる説教連射は、薬音寺にとっては、いつものことだ。
「だいたいね、あんたが足を引っ張るから、あたしは──」
「おおい、みんな聞いてくれ!」
突如、薬音寺がマリアをさえぎり、さけぶ。
「我が粉砕分隊の女性隊員が、紫苑とマリア、天と地ほどもかけ離れたプロモーションを備えていることに、お気づきか! DカップにBカップ。片や夢の狂乱、世界の華である一方で、残る一方は……遺憾である! 嘆かわしき由々しき事態である! 両名ともに豊満であったなら、我らが日常はぁ――!」
「いっぺん死ねぃ!」
マリアの拳が薬音寺の腹に沈みこむ。
ぐふぅと倒れこむ薬音寺。
「あたしのだって、需要あるわい!」
「あ、あのぅ、みんな、怪我はなかったですか?」
狙撃手の真幸が、自分のからだより大きめの狙撃銃──自動方式のM21を担いで登場した。
あどけない童顔で、どういうわけか、つねに泣きべそをかいている。
「大丈夫。今日も見事な狙撃だったよ、真幸」
いつもの荒さとは打って変わって、すっかり母親顔で優しい口調のマリアだった。
「いやぁ、お前ぇら、お疲れさん。帰ってコロッケでも食おうや」
十七歳の樽本陸曹長は、粉砕分隊の分隊長だ。
坊主頭の猛犬と呼ばれる、ガラの悪い人相。
額から右頬に傷痕が走り、片目を潰している。
彼は、一年後に現役引退が迫っていた。
「美奈ぁ、お前ぇも、よくやったなぁ」
真幸と同じくらいの背丈の少女、美奈。
金色に染めた髪の、短く小さいツインテールの少女は、手榴弾を大量に所持した、小さな擲弾手だ。
「死んじゃえ腐っちまえ腫れちまえぶいぶいぶい」
下を向いたまま、なにやら呪詛のようなものを、ブツブツつぶやいている。
「あいかわらずウツな感じですな、妹さん」
薬音寺が樽本の肩をたたき、銃をかついで伸びをした。
「あたし、カレーコロッケに一票」
マリアが手を上げると、薬音寺が怒鳴る。
「馬鹿、クリームコロッケだろ」
「ばかばかばーか、撃破数最低のあんたに、決める権限なんてあるわけないでしょ」
コロッケの中身が決まらないまま、回収のヘリコプターがやって来る。
ヘリに乗りこみつつ、あちこちで燃えくすぶっているクラッグたちの残骸を見つめる。
クラッグ。
突然の襲撃者。人類の脅威。敵。
地中から現れては人類を襲う魔物。怪物。
地震がクラッグ出現の予兆であり、地震計による敵接近を察知し、クラッグの到来と同時に駆逐作戦を展開、戦闘を実行し、結果、勝利する。
これが、日常だ。
散らばった死骸。
いまだにつづいているコロッケの話題。
ヘリが上昇し、基地へと帰還する。
途中、ヘリから見える景色は、とくに変化なく、見わたすかぎり、荒野がつづいている。
草一本見あたらず、枯れ果てた地が延々と伸びている。
クラッグにより焼きつくされた世界だ。
クラッグの吐く息は、分析の結果、成分としては火山ガスに近い。
百度の熱を帯びたそのガスは、周囲の生態に大きな影響を与える。
そのため、兵士たちは耐熱スーツを着用、ガスマスクも常備しており、周辺の大気成分を分析した衛生兵の判断によっては、身に着けることも多い。
すべての動植物に死をもたらす生命体、クラッグ。
ヘリが都市へと近づいていく。
守られた都市。守るための都市。
大勢の人間が住む都市。
かつての埼玉県を中心とした地点に造られた、高く厚い外壁に囲まれた、とてつもなく巨大な都市。
人類の、どこまでも広がろうとする飽くなき欲求を捨て、一つの都市に閉じこもることで、いまのところの安全を確保している都市。
おそらくは、現段階でのこっている日本の集合体のなかでは、もっとも大きく安全な都市。
外部の集合体との接触・交渉など念頭になく、取りこむか、もしくは気にしないかのどちらかしか選ばない都市。
自らを完全に閉ざし、それを求める者だけを受け入れ、成長も失墜もせずに、変わらぬ安全を提供している都市。
名もなき都市〈シティ・ウィズ・ノー・ネーム〉。
長いことつづいた戦いは、徐々に県の境を削り、全人類を等しく巻きこみ、もはや日本には首都も道府県も存在せず、ただ、都市の内側か外側か、ということだけが問題になった。
生き残るために日本人が選択した閉鎖。
それは、全資源・資金を費やした大プロジェクトだった。
凝縮された日本。それが、この都市だった。
東北側から、都市の上空へと入る。
建ちならぶ近代的な建物。高層ビル。夜になれば輝き始める数々のネオン。
鋼鉄で固められた地面。
それが、地中からのクラッグの侵入を防ぐ。
鉄の上を走る車。行き交う人々。
都市の中心部にある大きな円状の建物は、大気処理工場だ。
植物の激減した世界のバランスを、何とか人類存続可能な環境に保っている、世界各地に造られた最重要施設の一つ。
大気処理工場を境目に、都市の東北〈アップタウン〉には裕福な層、西南〈ダウンタウン〉には貧困な層が住んでいるかたちとなっている。
それは、街の外観からも明らかだ。
だが、いちばんの大きな差は、目に見えない。
この都市において新たに定められた、市民権の有無。
市民権とは、「与えられた権利」ではなく、「獲得する権利」だ。
市民権資格試験の合格、もしくは、自衛隊志願。
もしくは、自衛隊への子供の提供。
提供を行わなかった市民や志願しなかった子供は、西南に住むこととなり、社会的な援助を得ることができない。
高等教育が高額であるため、西南の人間たちにとって、市民権資格試験の合格は不可能に近い。
子を産み、その我が子を自衛隊へと差し出すか。
それとも市民権を諦め、西南での暮らしをつづけるか。
まさに悪循環だ。
それを抜け出そうと、もがく人々。
さっさと子供を産み、捨てるようにして自衛隊に押し付けていく者が多発し、自衛隊で育つ子供が多発する。
幼いころから訓練を受けた優秀な兵士。
それが唯一、人類がクラッグに反撃できる対抗策──未来を担うはずの子供だ。
歪んだ都市。そこでしか生きられない人類。
音を聞いた気がした。世界が調和を失い、それでも均衡を保とうとして、軋む音。
自衛隊の基地は、外壁沿いに多数、位置している。
自衛隊と、都市にのこることを選択した在日米軍の混在によって構成された「軍」の基地。
大気処理工場の上をヘリが通過する。
その向こうには、東北側とはうって変わり、村とでも形容すべき状態が見えてくる。
華々しさなどとはかけ離れた、質素な生活環境。
まばらに建ち並ぶ、ぼろぼろに腐った古臭い建物。
地に座って野菜などを売る人々。
布きれによる簡素なテントのようなものも、あちこち見受けられる。
粉砕分隊の所属する基地は、西南の外壁沿いにある。
ヘリが、基地の真上へと到着し、ヘリポートに着地を始める。
地に降り立つと、「ご苦労さーん」「お疲れー」と大人の兵士たちが声をかけてくる。
クラッグとの戦場におもむくことのない、成人兵士たち。
「帰って来たな、粉砕分隊」
いつしか付けられた、分隊のあだ名。その由来は、圧倒的なまでの敵撃破数だった。
大人たちの声を無視して、基地内部の建物、兵士宿舎へもどろうとする。
あたりが、さわがしくなる。
ふりむく。
一機の米軍用ヘリが、こちらへ向かって飛んでくるところだった。
シコルスキー・MH‐53・ペイブロウ。
脇を二機のF‐22戦闘機〈ラプター〉が固めている。
いつでも撃墜できる態勢だ。
大人の兵士たちが飛び出して来て、銃をヘリに向けた。
戦車も待機している。
「なんでしょう?」
「未確認機みてぇだな」
真幸の問いに答えた樽本が装備を取り出しながらヘリを見上げ、つぶやく。
「ラプターが機体を確認したところ、二週間前に消息を絶ったヘリだそうだ」
大人の兵士が言った。
「機との交信は?」
「試みているようだが、応答なし」
ヘリの操縦席に座る男の顔を見る。ヘルメットに隠れてよく見えない。
敵意を持った人間であろうか。それにしては行動が不可解だ。
大人たちが、軍用ヘリをとり囲む。
戦いたくて、うずうずしている様子だ。
成人兵士が唯一参加可能な戦闘。それが、人間同士の争いだった。
「嫌な予感。気味が悪いだよ」
ノイズが呟く。
「あのぅ、あの操縦士、様子がおかしいです」
片膝をついて、狙撃銃のスコープをのぞいていた真幸が言った。
精度重視の、手動装填方式レミントンM24対人狙撃銃で狙いを定めたまま、つづける。
「小さく痙攣しているように見えます。薬物中毒でしょうか」
突然、ヘリの窓ガラスが全て粉々に砕け散った。
寒気。背筋が凍りつく。
その場の全員が、岩のように動きを止め、ヘリを呆然と見つめた。
響き渡る咆哮〈スペル〉。
あちこちで軍用車両や基地の窓ガラスが割れていく。
ヘリのコクピット内部で、男が灼熱の炎に包まれながら、大声で吼えていた。
「共鳴者〈シンパサイザー〉──」
樽本が唖然とつぶやく。
「奴らがヘリを操縦できたってぇのか?」
ヘリ内部で、全身から炎を吹き出しながら、男が吼えつづける。
「あがががぁあぁぁぁぁあぁ!」
一番ヘリの近くにいた成人兵士が、突然、胸をかきむしり始めた。
その全身を、一気に炎がつつみこむ。
兵士の内側から、炎が湧き出たのだ。
その男もまた、吼え始める。
敵が一匹、増えた。
「撃て、撃て!」
「了解」
「成人は退避だ! 退避しろ!」
一気に現場はパニックへと陥った。
そこでようやく理解する。
あのヘリコプターは、一種の投下爆弾だったのだ。
基地のど真ん中を狙った、破壊意志。
問題は、クラッグたちにそのような知恵があるのかということだ。
共鳴者が、乗り物などの道具を使用できるなどという話も聞いたことがない。
周囲で共鳴者の数が増えていく。
戦車が内側から炎に包まれる。
乗員が発病したのだろう。
視界が炎だらけになる。
銃をかまえる。狙いを定める。撃つ。
クラッグと同じく、共鳴者たちも、ちょっとした衝撃で砕け散る。
殺すのはかんたんだ。異様なまでに。まるで自らの死を願っているかのようだ。
周囲にいた大人は、みんな、退却するか発病するかしたようだった。
とりのこされた少年少女の兵士たちは、炎を噴きだす共鳴者にかこまれている。
「粉砕しろ!」
「りょーかい、任せてよね!」
マリアが、高機動多様途装輪車両〈ハンヴィー〉のキャビン上に設置された五十口径M2重機関銃による掃射を開始した。
連続的な発射音、着弾音が響きわたる。
マリアはそれらに対抗するかのように雄叫びを上げながら撃ちまくっていた。
「真幸、ヘリの奴をしとめろ」
「了解」
ごぅん、とうなる狙撃銃。
空気を切り裂く音。一撃で倒す真幸。
ふいに爆音。
樽本陸曹長自慢の妹、美奈の業績だった。
爆発が立て続けに起こり、共鳴者たちが甲高くさけびながら爆発に呑まれ、消えていく。
薬師寺とノイズが短機関銃を連射している。
樽本と紫苑は八九式五.五六ミリ小銃。
こちらは、あくまで三点バースト。
着実に敵を倒していく。
一匹、一匹、確実に。
一発も撃ち損ねず、無駄弾は存在しない。
ふと、右脇に気配があった。
爆発し損傷した車両と車両のあいだ、燃え盛る炎のなかから、共鳴者が飛び出してくる。
咄嗟の判断。
背中のショットガンに手を伸ばす。
共鳴者と目が合う。
瞬間、激しく湧き起こる既視感。デジャヴュ。
その目を知っている、という不気味な感覚。
そういうたぐいの目を、自分は知っている。
思わず相手の目を見つめ、その奥でうごめくものを読み取ろうとする。
なにかを、求めている目。諦念にも似た、深く暗い欲求。
「遊んでんな、雄輝!」
薬音寺のさけび。
はっとして状況を再認識。
バックステップしつつ、目前に迫る敵に目がけて引き金をしぼる。
炸裂。
爆発した共鳴者の肉片が飛び散る。
避けようとしてバランスをくずす。
一瞬、地面との距離に目を取られ、ふたたび飛び散る肉片に視線をもどしたとき──。
左眼に焼けつく激痛が走った。
苦悶の叫び。
左眼をかばいつつ、地面へと背中から倒れこむ。
焦げつく臭い。
じゅうっとなにかが焼ける音。
視界を奪われた左眼。
飛んできた燃える肉片が左眼に命中したのだ、と理解する。
マスクを装着していなかったからだ、帰還後だったから、とどうでもいいことが浮かぶ。
「雄輝!」
薬音寺の声。
のこされた右眼の視界で、駆け寄ってくる衛生兵のすがたを確認する。
「動くな、暴れんな」
薬音寺の手に押さえられ、初めて自分が左眼をかきむしっていることに気づいた。
「やめろって! 大人じゃねぇんだ。直接接触したところで、感染したりしない!」
(我々は我々の意思で我々を終結させる)
頭のなかで囁き声がする。脳に何者かの侵入を察知して、絶叫する。
「畜生、しっかりしろ!」
薬音寺が左眼になにかを押し当て、消毒を試みている。
敵の制圧は完了しつつあるらしい。
周囲から、咆哮〈スペル〉が聞こえなくなった。
(我々は我々の一部を我々として迎え入れる)
「雄輝! 聞こえるかっての! 雄輝!」
その声にすがる。
雄輝、という言葉が頭のなかでこだます。
お前も一緒に、という叫び声が、心の闇をつんざく。
感覚が遠のく。
(我々の一部は我々を拒んでいる)
感情のこもらぬささやき声に、戸惑いに似た揺れが生じる。
「どうした、なにがあった。雄輝は無事か?」
樽本の声。
戦闘は終了したらしい。
空が見える。
青くかすむ空だ。
雄輝、と耳もとで響く。
「様子がおかしいんだって。こんな状態、見たことねぇよ。なんだってんだ」
薬音寺の上ずった声。
樽本の呼ぶ声が、頭の中を反響する。
脳裏で煌めく刃。
溢れる記憶。
暗く燃える炎の記憶。
腕に刻みつけられて紅くにじむ、幾筋もの線のイメージ。
意識が遠のく。
最後に、ささやき声が告げる。
我々の一部は我々と拮抗した、と。
*
意識が回復する。
近くに気配を察知する。
二名。男と女。なにかを話している。二人とも、既知の声だ。
「感染の可能性がある。危険すぎるわ」
「けどなぁ、あいつぁまだ十四だぜ。その年齢で感染した前例はねぇし。現在、感染が確認されてんのは、十八歳を越える人間だけのはずだよなぁ。それ以下の者は、スペルを聞こうが、傷を負わされようが、感染するこたぁねぇ。周知の事実だろ?」
「奴らがヘリを操縦して基地のまんなかに現れるなどという前例もなかった。なにごとにおいても、もはや楽観視や予断は許されない状況なのよ、曹長」
「奴らに傷を負わされた連中なんて、大勢いるじゃねぇか」
「私が問題にしているのは、その傷が、あっという間に消えてしまったということよ」
目を開く。
状況把握。ベッドに眠らされている。
ぼんやりと、天井の蛍光灯を見上げる。
──両眼で。
はっとして、手を左眼にやった。
なにも異常はない。問題なく視界は良好、火傷の跡もないようだ。
上体を起こし、周囲を確認する。
ここは、医療施設の中の隔離室だ。
マジックミラーに囲まれた、ベッドがあるだけの小さな部屋。
「お目覚め?」
となりで、青い防護服に身をつつんだ少女が言った。
バイザー越しに顔を確認する。
村崎二等陸尉。十七歳の小隊長。
眼鏡の奥、ナイフの切っ先にも似た、鋭い眼光が、こちらを見ている。
横には、おなじく防護服に身をつつんだ樽本。
発病したときのために、成人ではない二人が寄越されたのだろう。
村崎二尉の言葉に答えず、部屋をかこむ鏡に目をやる。
何も変わらない、自分の顔がそこに映っている。
「何か言いなさい、雄輝一士」
声に険しさを察知して、村崎をふりかえる。鋭い視線が待つ。
なにも言うな、と遠い記憶が呼びかけてくる。
拳をにぎりしめる。
「自分は、どうなったのですか」
声を発すると、あきらかに安心した顔で樽本が溜息をもらした。
「それが分かりゃあ苦労しねぇよ。お前ぇは、倒した共鳴者の肉片に目を焼かれ、気を失った。即座に医務室へと運ばれたが、直後、その目は──再生した」
樽本は、わけが分からんと手を広げて見せた。
「検査の結果、肉体的にゃ、とくに異常は見受けられなかった。ただ、脳波に少し異常があるってぇ診断が出ている。けどそれもわずかなもんで、見たところ問題ねぇ。お前ぇなら、今すぐにでも、勤務に戻れるだろうよ」
「すぐには無理ね。数日間、ここで過ごしてもらうわ。精神科医による、いくつかの軽い診断テストも受けてもらいます」
村崎が言い添える。
感染の傾向が現れないかを調べるためであろう。
三日間。
診断の合間に筋力トレーニングを欠かさず、からだがにぶらないよう動きつづけた。
その間、身体・脳に目立った異常なし。
医師たちも安堵したようだった。
三日後、せまい部屋を解放され、もとどおりの勤務に就く。
向かうは、兵舎のとなりに建っている娯楽施設。
ジムやシャワールーム、図書室などが用意されている。
その中の一つである食堂。
皿を手に行列を並び、セルフサービスで料理を取っていく。
都市の内部で栽培されている植物や、飼育されている家畜が供給されている。
主に、高カロリー、高栄養素のものが用意されている。
「おお雄輝! 大人しくしてたか? この無敵野郎め」
薬音寺が大声で呼びかけてくる。
料理を手に、みんなの待つテーブルへと近づき、座る。
朝食。
部隊の生活は、六時起床に始まり、午前中は訓練、昼食を挟んで、午後は体力錬成や整備、夕方五時以降は自由時間となっている。
「無事で良かっただよ。これは、退院祝いだべ」
ノイズが自分の皿の肉じゃがコロッケを回してくれる。
「すまない、ノイズ。薬音寺、感謝してる」
型通りの礼儀をしめす。それ以外に、この気持ちを伝えるすべを知らなかった。
「気にすんな。俺の仕事だ」
肩をすくめる薬音寺。
「別に、雄輝がいなくたって、粉砕分隊は成り立つけどね」
マリアが、皿の上のサラダを突きながら言う。
「ふだんから影がうすいんだから。でもまあ、無事で良かったじゃない?」
「おいおいマリア、こんなときくらい素直に、好きです雄輝あなたが無事でホッとしてますって言うくらいのサービス精神はないのか?」
「ばーか、あんたなんかコロッケ逆流させて死んじゃえ」
マリアから投げられたフォークを片手でキャッチし、もう片方の手でウィンナーを噛みちぎりながら、そう言えば、と薬音寺が口を開く。
「お前、普段は無口なくせに、寝言はやたら多かったな。だいぶ、うなされてたぜ」
顔を上げる。なんと言っていたのか、問う。
「僕は、僕は、てくりかえしてた」
「えー、雄輝の一人称って、僕だったの。可愛いー」
マリアが喜んで口をはさむ。
「あんたって、自分の思ったこととか話さないもんね。ときどき、会話してて存在をわすれちゃうくらいよ。戦場では、あんだけ存在感あるのに」
「雄輝は、ベッド上の夜戦も、すっごいらしいぜ」
「ばかばかばーか、あんたなんかウィンナー喉に刺さって死んじゃえばいいのよ」
マリアからフリスビーのように投げられた皿を片手でキャッチする薬音寺。
「雄輝先輩も、僕って言うんですね。僕と同じだ」
うれしそうな真幸。
「あのぅ、ちょっと言ってみてくださいよ、僕って」
「やべぇ。俺も聞いてみてぇ。言ってみろ、雄輝」
真幸と薬音寺、マリアまでもが顔を近づけてくる。
しかたなく、背筋を伸ばして、「僕」と言う。
「なーんか、もの足りねぇな。文章に織り交ぜて言ってみ」
「……僕は、コロッケが大好きだ」
口に出すと、強い違和感をおぼえた。
気持ち悪い。
僕=自分、という感じがしなかった。
「あんたがコロッケを好きだってのも、初めて聞いたわよ」
「新たな発見じゃん。よぉ紫苑、お前も無口だよな。なんかしゃべってみ」
薬音寺が、会話の矛先を、テーブルの端に座る紫苑へと向けた。
少女は、なかば自動的に食事を口に運びながら、ぼんやりと宙を見つめているところだった。
「自分、無口なつもり、ないんすけどね」
顔を上げ、小さな声で言う。
「明るく可愛いお茶目さん、が自分のキャラ設定だと信じてるんすけど」
紫苑に焦点を移したみんなの会話を聞きつつ、コロッケに箸を突き刺す。
硬そうな表面を突き破り、内側の柔らかい部分を掘り当てる。
連想されるクラッグの死体。
その程度の連想で食欲が失われるわけでもなく、コロッケを口に運び、咀嚼する。
どうして、と、ふと思う。
どうして、クラッグは人類を襲うのか。
そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。
なぜ、今になって急に、その問いが頭に浮かんだのか。
(問うことは求めること)
突然のささやき声。
雑音のように耳もとをかすめる。
思わずうめく。
(なにかに向かって問うということは、なにかに問いかけるということ。そこには、問われているもののほかに、問いかけられているものが属している)
頭のなかを流れる言葉の渦。意味も分からず、その言葉に耳を澄ます。
(我々の一部は我々に問いかけ、問うということを自己の存在の可能性の一つとしてしめした。ゆえに我々の一部は我々と拮抗し、独自の時間軸を築いた)
僕は、僕は、僕は、
ぐしゃりと、手元で嫌な感触があった。
気づけば、いつの間にか、皿の上のコロッケが滅茶苦茶に散らばっていた。
箸で引き裂き、すりつぶし、かき乱したようだ。
鼓動が高鳴っている。
クラッグを殺す。
それは、なにかへ行き着く手段ではなく、目的。
その理由など、考えたこともなかった。
ただ、引き裂き、すりつぶし、かき乱す。
そのことに、なんの問題があるのか。
これは、本当に自分の思考か?
クラッグになんらかの影響を受けているのではないか?
考えるな。
コロッケを口に運ぶ。噛み砕く。
それだけで十分だ。
以後、行動に支障をきたすような異常がつづくならば、医師に報告すれば良い。
「今日の模擬戦闘訓練には参加すんのか、雄輝?」
いきなり会話の矛先が戻ってきたことに戸惑い、思考をふりはらい、うなずく。
「そりゃあ、良かったべ。全員がそろえば、ほかの分隊には負けっこねぇだ」
「おうよ。今日も、粉砕分隊の力を、ほかの連中に見せつけてやろうぜ」
薬音寺がコップを頭上に振りかざす。皆もならう。
「粉砕〈クラッシュ〉!」
*
障害物や高台がまばらに設置された砂地の擬似戦場で、二個の分隊が互いの陣地にあるフラッグを奪い合う、対人模擬戦闘訓練。
訓練用ペイント弾を用い、撃たれた者は即、戦線離脱。
少し離れた監視塔から、大人の訓練教官たちが、腕組みしてこちらを俯瞰している。
高いところから命令を下すだけで、実際には戦地へと赴かない大人たち。
棒立ちの監視者〈ウォッチャー〉というあだ名のゆえんだ。
「準備はいいかよ、お前ぇら?」
樽本が隊員を見まわす。銃をかまえ、教官の合図を一べつする。
「ロックンロール!」
号令。
障害物に身を隠しつつ、突撃を開始する。
粉砕分隊は、この訓練において、総合成績一位を獲得している。
今回の対戦相手は、粉砕分隊のせいで、不動の二位を余儀なくされている爪牙分隊〈ファング〉だ。
粉砕分隊が青、爪牙分隊が赤のチーム。
ペイント弾、ヘルメット、腕に巻いたバンダナ、目標の旗、それら全てが、自軍に定められた色に設定されている。
擬似障害物で視界の悪い道を、索敵しながら進む。
樽本の指示で二手に分かれ、左右に展開する。
薬音寺・マリア・真幸の三人とともに、敵地の奥へと向かう。
前方斜め右の物陰から銃撃。敵は二人だ。
すかさず死角に隠れる。薬音寺もとなりに来る。
壁にたたきつけられるペイント。
「奴さんたち、必死だぜ。敵意むきだしだ」
つぶやきつつ、薬音寺が、そうっと顔を出す。
再開される射撃。頭を引っこめる薬音寺。
「さぁてと、どうしたもんかね。進めねぇや」
単発的な射撃音。
無音。
無線連絡。
《あのぅ、そちらの物陰の敵を始末しました。クリアです》
「でかしたぜ、真幸!」
薬音寺がさけび、だれよりも速い疾走を再開する。
すかさず追走。
銃声。
避ける。
腕をペイント弾がかすめる。体勢を立て直す。
索敵──目の疼き。
燃えるような痛み。
「っ!?」
足を止める。呻く。
左眼が熱い。
痛みが引いていく。
熱さだけが残る。
視界が赤みを帯びる。
視覚的情報が、心なしか、くっきりと見える。
聴覚も異常に研ぎ澄まされ、耳もとで、離れたところにいる人間の吐息音をキャッチする。
あまりの大音量に顔をしかめる。
しだいに馴染み、調整されていく感覚。嗅覚や触覚も同様に。
あきらかなからだの異変に、銃をにぎる自分の手を見つめる。
左脇に気配。
ふりむく。
敵が物陰から飛び出して来る。
戦地の真ん中で突っ立っている間抜けな標的を狙い撃とうとする。
こちらも遅れて動き出す。
銃を敵に向けるが、脳内シミュレーションの結果、直感が、間に合わないと告げている。
撃つ。
倒れる敵。
すべてがスローモーションのように見えていることに気がつく。
さらに右脇から気配。
一人を狙った挟み撃ちか。
敵の位置が、実感として分かる。
ふりむく前から分かっている。
銃を向けられ、おどろく相手の顔まで、はっきりと認識している。
撃つ。
ふりむいたときには、すでに敵が倒れている。
驚愕の表情。
いまや、焼け石を押し当てられているかのように、熱くなっている左眼。
さらに前方からだれかが駆け寄って来る。
迷わず。
撃つ。
またしても驚愕した顔。
その顔が近づいて来る。
黒いサングラスが光る。
そこでようやく、左眼の熱が引いていく。
一気に頭が冷める。
薬音寺のおどろいた顔。
防具にくっきりと張りついている青いペイント。
「なんだよ、恨みでもあるのかっての」
唖然と聞く薬音寺。
その手には、敵側の赤い旗。
やがて、訓練終了の笛音。
*
男女共有の小さなシャワールーム。
石鹸で疲れもろとも汚れを洗い落とす、粉砕分隊の面々。
みんなのからだから立ち昇る熱気、シャワーの湯気。
何も身に着けていない八人。
男女の境には、申しわけ程度にくもりガラスの敷居が立てられているだけだ。
「戦闘の後のシャワーほど、スッキリするもんはねぇな」
薬音寺が顔面からシャワーを浴び、言う。
右肩から背中にかけて、見たこともない生物の刺青がある。
本人いわく、バンダースナッチ。
左肩には二つのアルファベットの刻印。
『R.O.T.F.L』=「笑い転げちまうほど面白ぇ〈ローリング・オン・ザ・フロア・ラフィング〉」。
『J/K』=「冗談だっての〈ジャスト・キディング〉」。
「本能に従い身体を駆使する猛獣から、冷静な人間にもどる儀式みたいなもんさ」
「ばーか、あんたが人間だった試しなんて一度だってないじゃない、この野性児」
くもりガラスの向こうで、肌色の身体が大ざっぱに自分を洗い流している。
「それはお誘いか? 今夜のお誘いなのか? おお、マリア!」
くもりガラスの前で仁王立ちする薬音寺。
「ばーかっか! 真幸、ちぎっちゃって」
「どこをだっての!?」
真幸が顔を赤くしてうつむく。その華奢な左肩に遠慮がちに小さく刻印がある。
『P.O.A.H.F』=「何があっても笑ってたいです〈プット・オン・ア・ハッピー・フェイス〉」。
「そうかい。お前みたいな貧乳、こっちから願い下げだっての」
「貧乳って言うなぁ! これは天然記念物なの文化財なの!」
薬音寺がマリアから紫苑のシルエットに視線を移す。
紫苑は、食事のときと同じく、一番隅のシャワーで、機械的に髪を洗っている。
マリアとくらべると、平均的な女の子の肉体。
ガラス越しに見ても、手にした乳性石鹸と似たような肌。
背は低いが、からだの線は意外としなやかだ。
そのとなりには、美奈の鮮やかな金髪と、幼く小さいシルエットもあったが、さすがに薬音寺も、からかいの対象にはしなかった。
「紫苑、お前ってさ、ほんと、意外と胸でけぇんだよな」
「うわぁ、下品っすねぇ。初潮をむかえて間もない感じの少女相手に」
紫苑が、こちらを向いたのが分かる。
濡れて垂れた髪のあいだから薬音寺を見上げている。
「そういうの、男同士でやっといてもらっていいすか」
「あい、わかりました。んじゃ、雄輝&ノイズ、聞いたことなかったけど、お前ら童貞?」
とんだ角度からやってきた跳弾の問いに、ノイズが「んだ」と答えた。
二十五歳の彼の額には、古い謎の手術痕が走っている。
左肩に『G.O.K』=「神様だけが知ってるだ〈ゴッド・オンリー・ノウズ〉」。
「いつまでも、混じりっ気のない自分で居たいだよ」
「それはそれで崇高なことだ、頑張るように。雄輝、お前は?」
なにも答えずにいると、薬音寺が肩を抱いてきた。
「おいおい、俺はお前に撃たれたんだ。これは大きな貸しだぜ。質問に答える義務がある」
「すまなかった」
すなおに謝ると、薬音寺はちょっと困ったように鼻先をかいた。
「い、いや、そいつは、いいんだっての。まだ本調子じゃなかったんだろ。気にすんな」
「みごとに味方殺しの異名を獲得したなぁ、雄輝」
樽本が、からかって声を飛ばしてきた。
全身に虎の入れ墨が彫ってある。
左肩の刻印『T.F.B』=「胸糞悪ぃぜ〈トゥー・ファッキン・バッド〉」。
「いくら敵を倒せても、味方まで撃っちまう奴のとなりで戦いたくぁないわなぁ」
「もういっぺん言ってみろよ、曹長殿。いまのは俺のダチの悪口か?」
薬音寺が言いかえす。樽本はそれ以上なにも言わず、肩をすくめた。
「今後、気をつけろってことだよ、クラッギー。薬音寺も」
とノイズが意訳する。
「わかってるって。軽いコミュニケーションだっての」
中指を立てる樽本に、中指を突き返す薬音寺。
双方とも、顔は笑っている。
大人の目の触れないところでは、階級など関係なしだった。
それらを眺めつつ、頭の中では、薬音寺の言ってくれたことを吟味する。
まだ本調子ではない。それだけのことだろうか。
いや。
むしろ、調子は良かった。
良すぎたのだ。
極度まで敏感になった身体の反射神経を、自分自身がコントロールできなくなっていた。
あの左眼のうずき。ささやき。フレンドリー・ファイヤ。
これは異常だ、と身体が告げている。
自分の身体のことは自分で把握している。
それが戦場において重要になる。
自分という肉体の性能、限界、各部位のサイズ。他者との距離感。
一つ読み違えただけで、致命傷となる。
あの模擬戦が実戦だったら。
自分は味方の兵士──薬音寺を撃ち殺している。
医師に告げるべきか。
しかし、そうすると長いあいだ、実戦から離される可能性がある。
二度と戦地に赴けない可能性もある。
役立たずの見物人〈ウォッチャー〉となるのか。
シャワールームから出ると、全員、ラフな格好に着替えたうえで、兵舎内をとくにあてもなく散策する。
樽本は、報告書を提出するとのことで、村崎二尉の士官部屋へと直行した。
美奈は兄にしか懐かず、兄がいないあいだは、部屋に閉じこもってしまう。
「曹長殿は、いつもいそがしそうだな。その点、俺たち一介の兵士にゃ、訓練以外、することもねぇしな。どうするよ、甘いもんでも食いに行くか?」
頭の後ろで腕を組み、ぼやく薬音寺。
「ねぇ、暇なんだったら、ちょっと付き合ってくれない? これから、お姉ちゃんのお見舞いに行こうかと思うんだけど」
とマリア。
「お前って、ほんとシスコンな。そんな何回も見舞いとか行くなっての」
「あれ、お姉さん、どこか悪いんですか?」
真幸の心配そうな声に、いやいや、とマリアが手を振って否定する。
「出産よ、出産。真幸は知らなかったっけ? もうすぐ子供が産まれるのよ」
「あ、もしかして、だから最近、禁煙してるんですか?」
真幸が、爪楊枝をくわえているマリアの口元を指さす。
「まぁ、ね。ほら、産まれる前からヤニ人生にしちゃったら悪いじゃない?」
マリアが照れたように頬をかいた。
「それに──」
「煙草なんて、乙女の吸うもんじゃないよなぁ?」
「わあってるわよ! ちょっと、ぐれてた時期があったのよ! もうやめたわよ!」
ばーか、とマリアが口をすぼめる。
爪楊枝をぺっと吹き捨てる。
「うわー、がさつ……」
「うるさい! ばかばかばーか! トイレでおぼれて死んじゃえ!」
「実行したくない死にかたランキングベスト五位に入りそうだな。嫌だっての」
兵舎を出て医療施設の病棟へと向かう。
マリアより二つ上の姉はヘリの操縦士で、産まれてくる子供の父親は極秘扱い。
さまざまな憶測が飛び交うなか、じつは上官だ、との情報もある。
《この都市はセーフティ・ゾーン。人類最後の砦だ。それを守るのも統べるのも私の仕事。私はこの都市の安全を約束する。発展も成長も必要ない。必要なのは、最上を目指す向上。求められているのは永久不滅の安全性だ。諸君は兵士である。私の意思は諸君らの働きで実行される》
道中、スピーカーからは内閣総理大臣の声が聞こえてきている。
「景気付けってヤツか? 大臣ってのも面倒なご身分だな」
「えらそうよね。実際に戦うのは、こっちなのに」
薬音寺とマリアが、それぞれの所感をぼやく。
《諸君らの活躍によって、この都市は守られ、人々は安穏と暮らすことができる。平和も、娯楽も、勉強も、何もかも諸君あってのものだ。この都市が世界だ。この都市は諸君らであり、諸君らこそ、この都市である。我々が、この都市を作っていくのだ》
大臣の声を背景に、病棟へとたどりつく。
目当ての病室につくと、マリアがノックして「お姉ちゃん」と呼びかけ、扉を開けた。
「やっほい、元気にしてた?」
「マリア……また来たの? ありがたいけど、他にすることないのかしら」
ベッドに横たわったまま、あきれ顔でマリアを迎え入れる姉──キャシー。
やはり赤毛の髪が、肩まで伸びている。
手足が細く、表情が優しいところを別にすれば、妹マリアとよく似た風貌だ。
白いシーツに覆われた腹の膨らみ。
「こんちは、キャサリン。元気だった?」
と薬音寺。
「いつも驚くだが、マリアとそっくりなのに美人さんだ。どういう仕組みだべ?」
ノイズの言葉に、紫苑もうなずいている。
「失礼なこと言わないでよ。お姉ちゃん、産まれるまで、もうちょい?」
「今週中には、てお医者さんは言ってたわ」
「名前とかは? 決めたんですか?」
真幸の問いに、キャシーは肩をすくめる。
「内緒。産まれてきたときに、紹介してあげる」
「男の子だべか?」
「女の子よ。あいかわらず、変なしゃべりかたね、ノイズ」
「こいつは、おいらのアイデンティティーだべ。だれにも真似できねぇだ」
「たしかにな。おい、真幸。キャサリンの娘さんを嫁にもらったらどうだ?」
「真幸君なら、幸せにしてくれそうね。おねがいしちゃおうかしら」
薬音寺とキャシーにからかわれ、真幸はあいかわらず赤面沸騰中。
みんなが笑っている。
祝福の気持ちをこめて。
シーツの下、膨らんだ腹のなかの生命に向けて。
「ここも、一つの戦場っすね」
紫苑が言った。
「死であふれた戦争とは逆の、生を与えるための戦い。女の戦っすよ」
「へー、言うじゃん、紫苑。そのへんが、鉛臭い男どもとのちがいだよねー」
これも一つの戦い。
その言葉が、意識せずも、脳裏で波紋を呼んだ。
(かわいそうに)
まるで無線からの声のように、頭の中を雑音が走る。
おどろき、おののき、壁にもたれる。
今のは?
笑っている薬音寺、真幸、ノイズ、紫苑、マリア、キャシー。
今のは?
急に息苦しくなって室外に飛び出したくなるのと、あちこちで警報が鳴り響き始めるのとは、ほとんど同時だった。
全員、一気に顔つきが変わる。
都市中で鳴り響く警報。
それは、クラッグが都市へと近づいて来ていることを意味する。
スピーカーからの声が、敵は西南側の外壁に接近中だと告げていた。
張り詰める緊張のなか、呻き声が上がった。
「お姉ちゃん!」
マリアが駆け寄る。キャシーは腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。
薬音寺がブザーを押して医者を呼ぶ。
「どうした? 産まれるのか?」
「分か……らない」
キャシーが歯を食いしばり、言う。
「痛い……これは違う……こんな、こんな悲しい痛みなんて……」
警報は相変わらず鳴り響いている。
混乱しているのか、なかなか医者が来る気配がない。
「おいこら、何やってやがるっての! 給料もらってんだろがよ!」
薬音寺が扉を開けて怒鳴る。
気圧された看護婦が、医者を呼びに走った。
くりかえされる警報。隊員への非常招集の声。
とまどい、動けない粉砕分隊の面々。
「行って、マリア」
キャシーが汗だくの顔で言う。
「あなたには、あなたの戦いがある。私もここで戦うから。私は必死でこの子を守る。だから、お願い。この子が生まれてくる、この都市を守って」
キャシーはまっすぐ言った。
気高き母親のすがた。
すでにキャシーは、母だった。
マリアの拳が、開かれ、握られ、開かれ、握られる。
ここにいても、できることは、なにもない。
それでも、そばにいてあげたい。
そう思い悩んでいるのが、見ているだけで伝わってきた。
「行こう。俺たちは、守ることができる」
薬音寺がマリアの肩に手を置く。
マリアは一瞬、両手で顔をおおい、髪をかき上げ、うなずいた。
誇り高き戦士の顔。
やはり、姉妹は姉妹だった。
みんな、キャシーに応援の言葉を投げかけ、病棟を飛び出し、都市の外壁へと向かう。
外壁付近には、装備一式を積んだ軍事車両が停車していた。
基地で待機していた兵士たちが、すでに到着して戦闘配備についている。
樽本と美奈も到着しており、無線で連絡を取り合い、合流。
みんな、すばやく防具など装備を整え、各々武器を手にする。
都市は周囲すべてを高い外壁で囲まれており、北と南に一つずつある外との出入り口も、巨大な鉄のゲートで閉鎖されている。
兵士たちは、梯子や階段を駆け上り、厚い外壁の上に立って、態勢を整える。
いた。
都市の外に広がる、なにも存在しない砂漠化した空間に、クラッグの集団が群れを成し、怒涛の勢いでこちらへと向かって来る。
まるで、大きな炎がこちらへ向かってくるようだ。
「すごい数だべ」
ノイズの言うとおりだった。
これまでにない規模での防衛戦になる。
いまだかつて、このような数でクラッグが攻めてきたことはなかった。
なにかに触発されたのか、偶然の産物か、あるいは――。
爆発が起こった。
クラッグが、地雷による防衛ラインに突入したのだ。
F‐22戦闘機がうなりをあげながら頭上を飛んで行く。
爆撃。
クラッグたちが悲鳴を上げながら爆発する。
爆発が爆発を呼び、連鎖していく。
それでも敵は次から次へとやって来て、空白を埋めつくす。
鉄のゲートが開き、戦車が出動した。
次々と放たれるロケット弾。
止まる様子もなく、後から後から湧いてきて、着実に近づいてくるクラッグの群れ。
外壁の上に装着された重機関銃が、次々と発射され始めた。
「敵しか、敵しか見えません」
真幸の声。不安、焦り。
戦車が退却を始める。
だが、クラッグのほうが移動が早い。
鉄のゲートがすかさず閉じられる。
見捨てられたも同然の戦車たちを、あっという間に、クラッグの群れがつつみこんだ。
「畜生、悪夢だ」
薬音寺のつぶやき。
外壁の上に並ぶ兵士たちの掃討射撃。
戦車のすがたは、もはや一つも見えない。
地上は燃え盛る炎につつまれていた。
クラッグが壁に到達し、体当たりしてくる。
そう簡単には壊れないはずだが、このままだと時間の問題だ。
銃を真下に向けて連射。
砕け散るクラッグ。
後方のクラッグが、上から見下ろす兵士たちに炎を投げつけてくる。
絶叫。
直撃を受けた兵士が、炎につつまれて落下していく。
炎が、まるで火矢のように飛んでくる。
実際、それは石火だった。
クラッグは、高熱の炎に包まれた自身の身体の一部を、投げつけてきているのだ。
「くそったれ、くそったれ!」
悪態を吐きながら炎を避け、銃撃する薬音寺。
弧を描き、向かってくる数々の石火。
いつものように背中のショットガンを引き抜いて、撃つ、撃つ、撃つ。
ポンプアクションを起こすたび、横に薬莢が弾き出され、地に散らばる。
散弾を受けて、宙で破裂する石火。
火の粉が舞う。
耳もとで絶叫。
すぐとなりで応戦していた兵士に炎が直撃したのだ。
兵士は、悲鳴をあげながら、その拍子で引き金をしぼる。
宙を舞いながら落下していく兵士の、手元から発射された銃弾が飛来する。
直前に避ける。
左の肘辺りをかすめる。
血が一筋、滲む。
ぶわっと熱気が足元から舞い上がった。
あの目の疼き。
燃えるような痛み。
五感が研ぎ澄まされる。
「雄輝!」
となりで薬音寺が、おどろいた声を出す。
恐怖にも近い。
兵士たちの視線が、こちらを向く。
からだが熱い。事実、燃えている。
兵士の一人が慌てて銃をこちらに向ける。
とっさに両手を上げる。
「ちがう! 共鳴者じゃない!」
みんな、あ然とこちらを見つめる。
全身が燃えている。
服や装備はすでに燃え尽き、手にしていた銃器も、熱で歪み、ねじ切れ、溶けていた。
肌は硬質化し、鉛色に変色。
肩や肘などが、尖った岩のように突き出ている。
からだ全体が、岩、または岩の集合体にでも変貌してしまったかのような変身を遂げていた。
はたから見れば、まさに突き出た岩〈クラッグ〉。
でも、ちがう。
僕は意識を保っている。
熱い。
人間の身体が耐えられる温度をはるかに超える炎が、身をくるんでいる。
炎。炎。炎。
生まれたときから、自分は炎だったのではなかったか。
火を噴いていた。
火を纏っていた。
あの人を殺しながら生まれたのだから。
火のような子供だったのだ。
「熱! 熱つ!」
薬音寺がさけんで僕からはなれた。みんな、はなれていく。
「共鳴者じゃない!」
さけぶ。
突如、銃弾が飛来した。
だが、からだに到達する以前に、炎に燃えつくされ、消滅する。
撃った人間――村崎二尉の、おどろきの顔。
共鳴者やクラッグですら、銃弾をぶち込めば殺すことができるはずなのに。
とっさに、やるべきことを把握した。
壁の上から、地を蹴り、クラッグの押し寄せる外世界へと跳躍。
「あああああああっ!」
疑心の目から逃れ、信頼を取り戻し、ひとまずこの戦闘に決着をつけるために。
からだが、なにをすべきか、本能的・直感的に知っていた。
燃え盛る炎のなか、クラッグの群れのどまんなかに、轟音・砂塵と共に着地。
岩のように硬化した身体に損傷なし。
クラッグの炎と自分の炎がぶつかり、混じり合う。
今や周囲は、戦車も一瞬で溶けてしまう灼熱の世界。
クラッグの一体が体当たりをかましてきた。
衝撃は感じたものの、痛みはごくわずかだった。
踏ん張る。
もう一度、攻撃を受ける。
少しよろける程度だった。
息を吸う。
熱く力がたぎる。
拳を突き出す。
目の前のクラッグに叩きつける。
岩で岩を砕く感覚。
まさに粉砕。
拳は、クラッグの表面の殻を突き破り、内側の柔らかい肉を引き裂いた。
コロッケを連想。
そのイメージを削除。
戦闘に集中。
クラッグの群れが押し寄せて来て、からだとからだがぶつかり合う。
強力な重圧。
押しつぶされそうになる。
受け入れがたいなにかを、押しつけられる感覚。
なにも言うな、と怒鳴りつけてくる遠い記憶。
あまりにも理不尽な感覚に、怒りが沸く。
絶叫〈スペル〉する。
否定の詩。拒絶の叫び。
クラッグたちが、甲高い唸り声を上げた。
内側から破裂する目の前のクラッグ。
周囲のクラッグたちも、それにつづいた。
次々と破裂する岩の塊たち。
限界を感じない。
戦う。戦い続ける。
ただ、破壊のために。
それだけのために、生まれてきたような感覚。
だんだん意識が薄れてくる。
絶叫〈スペル〉し、拳を振るいながら、しだいに目の前が暗くなっていく。
僕は、僕は、僕は──。
叫びつづけた。
第二章 枯渇の黙示録〈ドライネス・アポカリプス〉
覚醒する。
からだがにぶい。
なんとか上体を起こして、周囲を見渡す。
ふたたび隔離室。
今回は、ほかに人がいない。
「名前と階級を」
天井のスピーカーから、女性の声が流れ出た。
「雄輝です。階級は一等陸士。苗字は、ありません」
素直に答える。
親に捨てられ、軍に育てられた子供には、苗字が存在しない。
現在の名前も、自分や周囲の者が決めたものであることが多く、むかしの名は、事実上、捨てられる。
「雄輝、なにがあったか、おぼえてっか?」
ついで、樽本の声が流れた。黙ってうなずく。
「それなら話は早ぇ。お前ぇはあのあと、攻めて来ていたすべての、いいか、すべてのクラッグを殲滅した。たった一人でだ。片がつくと、お前ぇはもとのすがたにもどり、真っ裸で地に横たわった。いま、お前ぇの処分に関して、控えめに言って、かなり揉めてる」
「自分は、なにかに感染したのですか」
「専門家たちも初めて見る症状だけどな。正直言って、ほとんど共鳴者と変わらねぇ。ちがうのは、お前ぇがあきらかにほかの共鳴者やクラッグどもとくらべて、強かったこと。そしてお前ぇが、変化中も自分の意識を保ってたってぇことだ。もし、今後もお前ぇが、自分自身を失わずに戦えるのなら、これは大きな戦力となる。英雄か怪物か。お前ぇのあつかいは、二つに一つってぇところだ」
「自分は自分です。……すくなくとも、いまは」
「わかってる。あらゆる診断と検査が、お前ぇの異常を認めない。こうして交わしている会話も、すべて異常なしだ。そこから、出てぇか?」
「……わかりません。村崎二尉に撃たれたくありませんし」
「お前ぇが皮肉を言うたぁな。上を納得させるためにも、まずぁ検査だ。だいたいの検査は、お前ぇが寝てるうちに済ませちまったから、のこってんのは心理的な部分だけだがな。お前ぇが危険分子ではなく、頼れる兵士だってぇことを、印象づけにゃならん」
それから長いこと、検査官らしき女性の声との、退屈な質疑応答がつづいた。
たとえば、このような顛末だった。
「あなたしか知り得ないことを話してください」
あいまいな質問だった。
こういうのに答えるのは苦手だ。
自分でなにかを考えて発言するというようなことを、いつからか、あまりしていないような気がする。
「たとえば、あなたのほんとうの名前とか」
「おぼえていません。四歳で自衛隊に連れて来られたときには、軽い記憶喪失となっていましたので。名前は、そのときに着ていた服のすみに書かれてあったそうですが、自分では確認していません。必要のないことですので」
「それ以前のことを、なにもおぼえていないのですか?」
「一つだけ。提供者〈ドナー〉二人の名前です。コリンと鈴菜」
「提供者とは?」
「自分を自衛隊へと提供した者です。親、と呼ばれるたぐいの。自分は後に、そう聞きました」
ほかにも、自分の過去について知っていることはあった。
自分は正確には、提供されたわけではなく、家のなかで、血みどろになって倒れているところを、発見されたのだ。
ほかに身寄りもなく、自然と、自衛隊が兵士として引き取ることになった。
もう関係のない、思いだす必要もない、過去。
適当に答えていると、やがて質疑応答が終了し、しばらくして身柄は、あまりにあっさり釈放となった。
部屋を出て、兵舎へと向かっていると、樽本が歩いてきてとなりにならんだ。
早すぎる隔離解除について問うと、樽本は喉をかきながら答えた。
「いま、それどころじゃなくなってきてるからな」
「え?」
「――いや、兵士たちの士気を考えてのことだろ。あんとき、あの場にいた兵士は皆、たった一人、敵のまんなかで戦っているお前ぇにおそれをいだきつつも、たかぶってた。畏怖の念に近い。大声で応援しているヤツまでいたんだぜ。あんだけの数が攻めて来てたんだ。お前ぇがいなきゃ、この都市は終わってたさ。まさに救世主だ。俺たちぁ、その業績を間近で見た。全員、お前ぇの味方だろうさ」
「だが、みんなの目線は──」
思い出す。
全員が自分から離れていく瞬間の恐怖と哀しみを。
「気に病むことぁねぇよ。全員、お前ぇと同じく、とまどってんだ。お前ぇという人間と、お前ぇの見せたすがたとのあいだで、対応を決めかねてる。お前ぇが今後も、自分を保っていられるのなら、すぐにむかしとおなじ態度になるだろうさ」
樽本の言葉を聞きながら、つい、手の平をじっとながめる。
「自分のからだのことなのに、わからないんだ。なにが引き金になって、ああいう状態になるのか。たとえば、今ここで発動すれば、自分は、あんたを焼き殺してしまうかもしれない。そういう恐怖はないのか」
「それについてだがなぁ。お前ぇは最初、あんだけ多くの兵士たちとならんでたにも関わらず、お前ぇの身体から発現した炎に焼かれて火傷を負ったっつう奴は一人もいねぇんだ」
その言葉に、とまどいを隠せない。
混乱の中、あまたの兵士の中心にいたのだ。確実に被害は出ていると思ったのだが。
「お前ぇの出す炎は、人間にゃ危害をおよぼさねぇのかもな。ってのは、すこしできすぎた話だが。けど、今んところの事実は、そう告げてる」
そのときふと、何の思考の脈絡もなく、思い出されたことがあった。
「マリアの姉について、なにか聞いていないか?」
樽本の足が止まる。
「……そのことだが。言おうかどうか悩んでたんだ。いろいろ、あったからな。キャシーはいま、緊急入院中だ。マリアたちも手術室の外で待機している」
聞くなり、足を方向転換させる。
キャシーの病棟へと向かう。
それまで気づかなかったが、どうも医療区域全体があわただしい。
看護婦や医師が走り回っている。
なにやら騒がしい。
白いビニール製の床を歩き、看護婦の一人を捕まえて道を聞き、手術室の前に着く。
壁わきのソファーに、薬音寺やマリアたちが腰を下ろして、静かに待っていた。
いくつかならんでいる手術室のすべてが、手術中のランプを光らせている。
先の戦いでの負傷者だろうか、という予想は、薬音寺の一言で否定された。
「キャサリンだけじゃねぇんだ」
どういうことか問おうとする前に、マリアが顔を上げた。
いつもは強気な顔が、いまにも壊れてしまいそうな表情で泣きじゃくっていた。
「施設中の全ての妊婦さんが、同時刻に激しい腹痛を訴えたんです」
真幸が言った。
「下腹部の痛み。性器からの激しい出血」
マリアがつぶれてしまいそうなくらい小さな声でささやいた。
──流産。
突然、手術室の中から大きな声が聞こえた。
あまりの大音量に、始めは、なんの声か分からなかった。
しだいにその正体が分かり、胸が苦しくなる。
だれかが大声で泣いているのだ。
マリアが立ち上がり、止める間もなく手術室の扉を蹴り開けた。
みんな、凍りつく。
真っ白い手術室の中央で、真っ赤に染まった女性が、大声で泣きながら、自分から流れ出ている血をかき集めていた。
号泣が耳をつんざく。
「グレース!」
キャシーがさけんだ。泣きながらさけんだ。血をかき集めながらさけんだ。
グレース、と何度もさけんでいた。
産まれてくるはずだった子どもに。
何度も何度も。
グレース。
優美、優雅、愛嬌、魅力、神の恵み、恩恵、恩赦、感謝の祈り。
祝福。
声のかぎりさけぶ母親のすがたに、だれも動けない。
真幸が、倒れるように口を押さえながら廊下へと走り出た。
嘔吐する声が聞こえてくる。
マリア。
壊れた機械人形のように、ゆっくり、ゆっくり、キャシーに近づいていく。
「お姉ちゃん」
マリアの声に、キャシーが顔を上げる。
もう、壊れてしまった者の顔だった。
「マリア、手伝って。おねがい、手伝って」
キャシーの手が血をかき集めようと、せわしなく動いている。
マリアの手がキャシーの手をつかんだ。
「お姉ちゃん、グレースは──」
「嫌ぁっ!」
金切り声を上げるキャシー。
そのまま気を失い、流れ出た血のなかに、全身を浸すかたちで倒れこむ。
薬音寺がすぐさま駆け寄り、マリアを手伝う。
ノイズ、優しい大男は、息をすることすら、わすれているのではないかと思うほど、微動だにしない。
紫苑もまた、なにも言うべき言葉を持ち合わせておらず、マリアと薬音寺がキャシーを血だまりから持ち上げるのを、黙って見つめていた。
気の遠くなるような時間のなかで。
しだいに、施設のあちこちから、悲痛な絶叫が聞こえ始めていた。
*
《──現段階、確認の取れている範囲で、この現象は、妊娠していた女性たち全員に起こったことのようです。また、各地で突然、胎児が原因不明の症状により死亡しているということが分かりました。これらが起こったのは、すべてほぼ同時刻、クラッグの大群が都市を包囲したのと同時に始まった現象だと推測されていま──》
「クラッグの攻撃……なんすかね」
薬音寺がテレビの音を消すのと同時に、紫苑が言った。
「人間から出産能力を奪ったってことか? そんなくだらねぇ話、マリアの前でするなよ」
「わかってるっすよ、そのくらい」
電気も点けていない、兵舎の分隊部屋で、テレビから吐き出される光だけが、面々の顔を照らしていた。
画面が切り替わるたび、青や赤や黄色に染まる。
部屋には、自分のほかに、薬音寺、紫苑、ノイズが集まっていた。
マリアは、病室でキャシーにつきっきり。
マリアを心配した真幸も、やはりつきっきりだった。
樽本と美奈は、いつものことなのだが、行方知れず。
みんな、迷彩ズボンに灰色のTシャツといったラフな格好で、テレビをながめている。
せまい部屋。
両脇に二段ベッドが二つずつならび、部屋奥の中心には、カーテンを背後にしたテレビが備えられている。
それぞれのベッド脇の壁には、隊員たちの私物のポスター等が貼られている。
薬音寺のベッド脇には、金髪美女のグラビア写真など。
マリアのところには、キャシーと本人の写真が数枚。
真幸のところには、いろいろな鳥の写真。
ノイズのところには、本人が書いた落書きが山のように貼られている。とくに意味があるようには思えないが、本人はとても気に入っているらしい。
紫苑のところには、様々な標語が掲げてある。曰いわく、「人間万事塞翁が馬」、「人間至るところ青山あり」、「我思う故に我あり」、「巧言令色、鮮なし仁」、「国破れて山河あり」、等々。
「最近、わかんねぇことだらけだ」
薬音寺が、一つ、と親指を曲げ始める。
「ヘリを利用し基地を狙った戦略的攻撃、これまでにない規模での侵攻、今回の一連の現象、それに──」
いま思い出した、という顔をして薬音寺が四本目、薬指を折り曲げる。
「それに、雄輝の件」
そう言えば、と紫苑がこちらを向く。
「大丈夫なんすか? どっか痛かったりしないっすか?」
「平気だ」
手を伸ばす。
テレビの光にかざし、動かしてみる。
「どんな気分だったんだ。自分で状況は分かってたのか?」
「なんとなく。途中まで意識はあった」
「いまはどうだ。たとえば、念じれば変身できたりするのか?」
「わからない。なにが引き金になったのか。薬音寺、こちらからも聞きたいことがある。本当に火傷はしなかったのか?」
「ああ、しなかったな。たしかに熱かったし、あれだけ近くにいたんだから、火傷の一つや二つ覚悟してたんだが、見てみると無傷だった。まったく、お前、いったいぜんたい、何者になっちまったんだ? こうしていると、ただの雄輝なんだが」
「自分でもわからない」
「いつの間にやら英雄だしな。お前は人類がクラッグに対抗するため、神が与えたもうた使者だって声が、早くも信心深い奴らの間じゃ広まってたし。そうでなくとも、お前一人いれば、もうだれも戦わなくて済むっていう馬鹿な話も──」
下手なことを言っていると思ったのか、薬音寺が口をつぐんだ。
ノイズが後を引き継ぐ。
「クラッギー、お前さんがどういうふうに思っているかは知らないだが、妙な考えを起こすんじゃねぇべ。お前さん一人でなんて戦えないだ。戦えるはずがないだ。お前さんになにもかも押しつけるつもりはねぇべ」
「わかっている」
答える。
ノイズの言葉は、胸の上を圧迫していた重圧を軽くしてくれた。
「僕を……怖がってる奴はいたか」
「怖がるなんて奴はいねぇよ。お前はみんなの命を守ったんだ。それで雄輝のことをごちゃごちゃ抜かすような奴がいたら、俺たちが許さねぇし。そんな奴らだらけなら、この都市もいよいよ終わりさ。守る価値もない」
「そうか」
「こういうとき、ありがとうって言うんすよ、雄輝」
紫苑が肩をたたく。
伝えたい気持ちを、とっさにくんでくれたことに感謝する。
「あ、ああ……ノイズ、薬音寺、ありがとう。それに、紫苑。ありがとう」
「え、自分も、すか? んまあ、どういたしまして、すよ」
それから、と紫苑は薬音寺をふりかえる。
「どうして、ここにいるんすか」
「あ? いや、分隊部屋だから……」
「そういうことじゃなくて、すよ。なんでいまこのとき、薬音寺という紳士的な男は、マリアという、はかなげな女性のとなりにいないんすか」
「なんだよ、それ。俺とマリアは、そんなんじゃねぇよ。そりゃ仲間として心配だけどよ、そばにいることだけが、仲間の行動だとは思えねぇな──痛ぇ!」
みんな、おどろいて紫苑を見つめる。
だらしなく床に投げ出された薬音寺の足を、すばやく立ち上がった紫苑が、思いきり蹴ったのだ。
「な、なにすんだっての」
「行け」
問答無用、紫苑の一言。
はい、と答えて部屋を出ていく薬音寺。
「やりすぎじゃねぇべか?」
「そのくらいがいいんすよ、あの不器用な男には」
どことなく違和感。
紫苑の顔は、いつもどおりの無表情を決めこんでいるのだが、どうもいつもと印象が異なる。
そのことについて、本人に意見するなり疑問を投げかけるなりするべきかと悩んでいると、よっこらせ、とノイズが腰を浮かせた。
「今日はなかなか眠れそうもない夜だべ。ちょっと散歩してくるだ。すでに五人も部屋を抜け出してることだし、消灯時間なんて関係なし。さきに寝ててくれていいべ」
そう言いながら、部屋を出ていってしまった。
しばらく、無音の世界が周囲を覆う。
点けっ放しのテレビから漏れる光が、チカチカと空気を染める。
「雄輝と二人っきりというシチュエーションもめずらしいっすね」
さきに口を開いたのは紫苑だった。
「そう、だな」
「なんか話でもするっすか? 自分、会話というのは、話すよりも聞くことのほうが好きなタイプなんすけど」
「そうか。僕もだ」
「おやや。気が合うんすね」
「そうだな」
「でも、会話において、両方とも聞き役に徹するっていうのは、それはつまり無言ってことで、気まずい空気になるっすよね」
「静かな時間は好きだ。気まずいとは思わない」
「おやや。またまた気が合うっすね」
またしても無音。
次に口を開いたのは、やはり紫苑だった。
「子どもでも作ってみるっすか?」
「……なにを言い出すんだ。血迷ったか?」
「とんでもない。ずっと考えてるんすよ。どうして今回の現象は起こったのか。クラッグによる新たな攻撃の一種なのか。そして、もしかすると人類は、今後いっさい、子どもを産めないからだにされてしまったんじゃないかって」
思わず紫苑をふりかえる。
「そうすると、すよ。自分たちは人類最後の子どもってことになるんすよ。自分たちが全員死ぬか、全員大人になれば、もうこの世界に、人類の子供は存在しなくなる。クラッグとも戦えないし、人類の未来そのものが、消えてなくなる。どう思うっすか」
「たしかにそれは可能性の一つだ」
「いまはたしかに可能性の一つっす。でも、もしこれが本当なら、それは可能性じゃなく、限定された未来になる。限定された未来に、可能性の存在する余地はない。可能性の象徴である子供という存在とともに、人類の可能性の網は閉ざされることになるんす」
「今日はやけに饒舌だな」
指摘すると、紫苑は頭をかいた。
「らしくないっすかね。どうすか、お酒でも呑むっすか」
「酒は好きじゃない。明日の訓練に影響が出てもまずいし」
「酒、弱いんすか?」
「あまり呑んだことがないから分からない。意外と泣き上戸かもしれないな」
「そんな雄輝も見てみたいっすけどね。雄輝は、基本的になにも顔に出さないっすから」
「それはおたがいさまだろう」
「なんか、いつになく会話が弾むっすね」
「そうだな」
「こういうの、いいムードって言うんすかね、業界じゃ」
「業界って、いったいどういう世界を指してるんだ?」
「雰囲気っすよ、雰囲気。雄輝は経験あるんすか?」
「なんの」
「セックスっすよ」
「そういう用語は、女性の口からは飛び出さないものだと認識していた」
「オブラートさが必要?」
「まあな」
「そういうの面倒なんすよ。それで、どうなんすか」
「経験あるように見えるか?」
「まあ、見えないっすね。縁がなさそうっす」
「質問というものは、総じて自らに跳ね返ってくるものだ」
「……遠回しに訊き返してるんすか? 秘密は女のアクセサリーなんすよ」
「なにを言ってるんだ」
「一度、言ってみたかったんすよ、これ。この答えで満足してくれっす」
「なんの話をしてたんだったかな」
「子どもを作ってみようっていう話だったっすよ、確か」
「そんなに乗り気な展開ではなかったと思うが」
「ある種の実験っすよ。興味ないすか?」
「……紫苑。笑えない冗談だ。キャシーのことを考えれば」
「そう……すね。わかってるっすよ、そのくらい。わかって……るっす」
紫苑の声が途切れ、かすれた。
泣くのだろうか、と一瞬、思った。
が、結局、紫苑は無表情をくずさなかった。
「だれかを愛したこと、あるっすか?」
「分からない。たぶん、ないと思う」
「だれかに愛されたことはあるっすか?」
「それも……分からない。たぶん、ないんだと思う」
「セックスが愛の行為だとするなら、自分たちは、愛し愛された者から生まれた。それはつまり、愛された、ということにはならないんすかね」
「僕には……わからない。話題を変えよう」
頭のなかを、過去の洪水がぐるぐると回っている。
「なにかを押しつけられるの、嫌いっすか?」
ふと紫苑が言った。
「自分は苦手っす。押しつけられるものが敵意によるものとはかぎらない。好意による押しつけも存在する。愛というものは、誰かを愛するということは、そのだれかに、なにかを押しつけることにはならないんすかね? もし自分たちが、生まれながらにして愛を獲得しているのなら、愛されて生まれてきたというのなら、自分たちは初めから、なにかを押しつけられて、この世に現れたってことになるんじゃないすかね」
「紫苑がそういう難しいことを考えてるタイプだとは思わなかった。いつも、そういうこと、考えながら生活しているのか?」
「考えずに生活できるんすか? 自分には、そのほうが信じられないす。絶えずなにかを押しつけられ、あるいは与えられて生きているから、こんなにもこの世界は息苦しいんじゃないかって感じることがあるんす。それなら、その重圧はだれが与えているのか、そもそも、その重圧とはいったいなんなのか、考えないと気が済まないっすよ」
「なにかを与えられている? たぶん、ほとんどの奴は、なにかを奪われていると感じながら、生きてるんじゃないかと思うが」
「奪われるほどのものを、そもそも自分たちが持ってるっすか? 奪われると感じるのは、与えられるはずだったものが与えられず、肩透かしを食らった気分になるのと似てるんじゃないすか? まず与えられなければ、自分たちがいったいなにを奪われると言うんすか?」
「キャシーは、子を奪われた」
「与えられるはずだった子が、与えられなかった。究極的に考えれば、それだけのことっす。プラマイでゼロ。キャシーのなにかが失われるわけではないんすから」
「紫苑。もう言葉にしないほうがいい。そうすることで楽になりたいだけだろう」
「なにが悪いんすか!」
突然の大声。
一瞬、その瞳の中に映る、涙。
手を伸ばし、髪をなでてやると、紫苑は必死で無表情をつくろった。
「駄目っすね。こういうの、キャラじゃないすよ、二人とも」
たしかにな、とつぶやきながらも、頭をなでつづける。
「紫苑、僕はずっとべつのことを考えていた。キャシーが名づけた子の名前、グレースの意味を。その名前をキャシーがつけた意味を」
「それで、なにか分かったんすか?」
「与えることは、与えられること」
そう口にした瞬間、世界がちがって見えた気がした。
いまなら、過去をふりかえられるんじゃないか、とも感じたが、その思いは、すぐに消えてしまった。
「なるほど。言い得て妙すね」
紫苑が、こぼれ落ちるまえに涙を拭いた。
「雄輝、こういうの頼むの、かなりしのびないんすけど」
「なんだ?」
「今日、一緒に寝てもらえないすか? となりで」
「そのくらいなら」
「自分、寝相悪いすよ」
「知ってる。いつの間にか床で寝てる奴だからな」
「寝てるあいだに、腹とか顔面とか、殴る蹴るの暴行をくわえてしまうかもしれないっす」
「応戦の許可をくれ」
「複雑骨折とか局部損傷とか程度なら我慢してほしいっす」
「発砲許可も請いたいところだ」
「……おねがい、できるっすか」
「了承した。薬音寺に見つかれば、長いこと、からかいの材料にされてしまうだろうが」
「そのときは共犯っす。一緒に薬音寺を殲滅すれば問題ないっすよ」
そう言って、紫苑が笑みを浮かべる。
ごく自然な笑み。
それに釣られるように、こちらも笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな」
紫苑が自分のベッドにもぐりこみ、もぞもぞと奥に寄る。
二段ベッドの下側。
頭をかがめてベッドに乗ると、紫苑の隣に腰を下ろす。
ベッドが軽く軋む。
妙な緊張感があった。
紫苑は反対方向の壁を向いてしまっている。
すぐ寝ようと思い、布団をかぶって目を閉じる。
肩が、紫苑の肩にぶつかる。腕に触れるやわらかい感触。
これは意外と危機的状況かもしれないな、と思っていると、頬になにかが触れた。
紫苑の手だった。
「……なんのつもりだ?」
「触れてるんすよ」
「状況は把握してる。問題は目的だ」
「触れることが目的じゃ駄目なんすか?」
紫苑が軽く上体を起こして、こちらをながめていた。
「いま、思ったんすけど。触れるってどういうことっすかね? たとえば、このベッドは壁に密着してるっすけど、それは、ベッドが壁に触れてることになるんすかね?」
「まあ言語的に、そういう表現もあるな」
「でも、思うんすよ。なにかに触れるためには、前提として、そのなにかに向かって、出会う必要があるんじゃないすかね。いま、自分は雄輝に触れてる。関わり合うことができる。それは無世界的なベッドや壁とはちがって、内から立ち出でて、ここに在ること。だから自分は──私はいま、雄輝に触れてるんすよ」
紫苑の掌から熱が伝わってくる。
「壁とベッドのあいだには間隔があって、自分とベッドのあいだには遠近がある。だとして、自分と雄輝のあいだには、いったい、なにがあるんすかね?」
あまりに、おぼろげな口調だった。
つい手を伸ばし、紫苑の手をにぎった。
「紫苑、そろそろ眠ろう。手、にぎっててやるから」
紫苑は「ん」と答え、僕の手を両手でつつみ、胸もとまで引き寄せて、からだを丸めた。
自然と、お互いの顔が至近距離に落ち着く。
やがてかすかに寝息。
手の甲をなでる吐息がこそばゆい。
心が和む。
守りたいものとは、こういうことを言うのだろうか。
目を閉じて。
紫苑の髪のにおいに身をゆだねる。
そしてキャシーのことを思う。
キャシーと、グレースのことを思う。
自分も、ああなれば良かったのだ。
確信にも似た願望が、心を切り裂く。
そうすれば、コリンだって──。
いびつにならぶ、幾筋もの線。それを見せつけ、わめく男。
──お前だ! お前だ! お前だ!
一言ずつ人差し指を突きつけ、幾筋もの線が刻まれた腕を振りかざし、男はさけぶ。
ああ、そうさ!
閃光が耳元でがなりたてる。
目前に広がる、かつての光景。
男の持つナイフが、すべての光を収束し、乱射する。
僕だ! そうさ! 僕のせいだ!
きらめくナイフのなかに映りこんだ自分の顔と、一瞬、見つめ合う。
真正面から。ナイフが振り下ろされる。
闇を切り裂いて朝が来た。
目を瞬かせる。
いつしか眠っていたらしい。
すでに朝だった。
からだを起こす。
となりに紫苑の姿はない。
鮮烈なイメージ──腕に刻まれた幾筋もの線が頭から離れない。
自分のベッド脇の棚から、つねに持ち歩いているナイフを取る。
掌を上に向け、拳を握り締めて左腕を伸ばす。
腕の折り目のすこしさきに、ナイフの切っ先をあてがう。
軽く押しこむ。
しびれに似た感覚とともに、血がにじむ。
ゆっくり動かす。
血が、腕の上に一本の線を描きだす。
かちり、と頭の中でなにかが作動した。
熱さが、らしく来た。
全身を炎がつつむ。
服が燃える。
からだが硬質化していく。
燃えながら生まれた。
拒みながら生まれた。
僕は。
「雄輝!」
意識を保とうと意識しながら、声のしたほうをふりむく。
扉のところに薬音寺とマリア、真幸が立っている。
薬音寺が駆け寄ってくる。
おそるおそる手を伸ばしてくる。
やめとけ──そうさけぶまえに、薬音寺の手が、こちらの腕に触れていた。
彼の手が焼け焦げる様子はない。
熱がっている様子すらなかった。
「あ、あのぅ、どうしよう、医師を呼びますか?」
あわてふためく真幸に、薬音寺が声を上げた。
「馬鹿! こんなところ人に見られたりしてみろ、雄輝に対する処置が一気に変わっちまうぞ。扉、閉めろっての。早く!」
扉の閉まる音。
「雄輝、ここに敵はいない。わかるか? だれもいない」
薬音寺の呼びかけ。
必死でうなずく。
からだの炎がおさまる様子はない。
「わ、どうしたんすか?」
扉が開き、紫苑とノイズが入って来ていた。
「見りゃわかるだろ、さっさと扉閉めろって。鍵もかけとけっての」
なにか言おうとすると、小さな絶叫〈スペル〉となって、口から漏れ出した。
薬音寺にたたかれる。
「しゃべんな! お前はいま、この基地において超危険人物なんだっての! これで、このまま暴走なんてしてみろ、お前、処分されちまうぞ。この都市は、役に立たないものは処分する、役に立つものだけを集めて、密集させて、それゆえの孤独も受け入れて、ただ一つ、荒野のど真ん中で生き残ってる都市だ。そうやって生き残ってきた都市だ、知ってるだろ? しっかり自分を保て、じゃねぇと呑まれっぞ!」
了解と言おうとすると、またも絶叫〈スペル〉が漏れる。
壁がミシミシと揺れ、壁に貼られているノイズの絵がはがれ、すべり落ちた。
何枚もの絵の下から、一枚の写真がすがたを現す。
その写真だけは、どんなに壁が揺れても落ちることなく壁にのこっていた。
自分を落ち着かせようと、ついその写真に集中する。
八人の子どもが、重なり合うようにしてならび、こちらに向かってピースを決めている。
まんなかに映っている、もっとも元気そうな少年。
それが、ノイズなのだと分かったとき、強烈な頭痛が頭を襲った。
からだの周囲から炎が消えていく。
「どうやら落ち着き始めたな。からだの皮膚も、もとどおりになり始めてる。ったく、人騒がせだっての。……雄輝? 大丈夫か?」
「ひどい……頭痛だ」
言葉を発した。
ちゃんと言葉となって口から流れ出た。
からだから、かつては服だった灰が、はらはらとはがれ落ちた。
「ほれ、服着ろよ」
薬音寺がロッカーから取り出し、投げてよこした服を受け取る。
「雄輝、どうしてこうなった。原因はわかるか?」
薬音寺の問い。
服を着ながら、自分の肉体を見下ろす。
腕に刻まれた一本の線。
答えが見えている。
そのわずか上に、もう一本、傷跡が見える。
すでにかさぶたの取れかかったその傷は、前回の戦闘で、焼かれた兵士の発射した弾丸がえぐったものだった。
あのときも、自分は変化した。
腕の上を走る、二本の傷。
それが答えだという気がした。
それにしても。
頭痛が治まる気配はない。
「医者を呼んでくるだ」
ノイズが言った。
すぐに薬音寺が止める。
「ノイズ、頭痛の原因をどう説明するんだ。下手に表沙汰にしない方がいい」
「大丈夫だべ。ちと、親しいお医者さんがいるだ」
部屋を出て行くノイズ。
その笑顔が、壁にのこされた写真の、まんなかの少年とかぶる。
頭痛に耐え、深呼吸をくりかえしながら、床に落ちた幾枚もの絵に目をやる。
画用紙に描かれた、意味もなさそうな絵。
何枚か、裏返っている画用紙もあった。
なにか書かれている。
──はちがつふつか。
見わたす。
裏返っている画用紙には、すべて、おなじように日付が書かれていた。
ノイズにとって、何か重要なものなのだろう。
描いた日付だろうか?
そうとは思えない。
それでは、何年前か、その日付に関連した出来事を、つまるところ、過去の思い出を絵にして描いているのだろうか。
扉が開き、ノイズが、白衣を着た七十代半ばくらいであろう男性の老人を連れて戻ってきた。
長く垂れた白髪に、知性と経験を湛えた瞳、それゆえの疲れ果てたような顔。
「佐々木先生を連れて来ただ」
佐々木は、軽くお辞儀をして、こちらに近づいてきた。
「君の話は聞いとる。わしの周りでも、君を研究の材料にしたいという物騒な意見が出されているくらいじゃからな。いや、つまらんことを耳に入れた。忘れてくれたまえ」
佐々木がおだやかな口調で言った。
やわらかく、どこか哀しげな声色だった。
「これで、君にとって二度目の変身となるそうじゃが──変化する引き金が何なのか、わかったのかね?」
答えとして、左腕を伸ばす。
二本の傷を見て、佐々木は即座に理解したらしかった。
「なるほど、傷による発動というわけじゃな。腕に限った話なのか、それとも他の部位を怪我しても同じように変化するのか、という疑問もあるが」
話しながら佐々木が顔を上げ、一瞬、動きを止める。
その目線を追うと、ノイズのベッド脇の壁に貼られたままの写真──笑っている子どもたちが、そこにいた。
佐々木はすぐ目をそらし、僕に向きなおった。
胸ポケットからペンライトを取り出し、こちらの目を覗きこむ。
「特に後遺症のようなものはないかね? 意識がぼんやりしたりは?」
「いえ、いまは頭痛だけです」
「ふむ。そうなると、急激な身体の変化や意識の疲れによる、単なる頭痛かもしれないな。とりあえず頭痛止めの薬を処方しておこう」
「雄輝、ほんとうに大丈夫なんすかね」
紫苑が言う。
昨夜に垣間見せた弱さは引っ込み、いつもの無表情な彼女にもどっている。
「それはわからないよ、お嬢さん。なんせ、未知の症状じゃからな。たしかなことは、だれにも言えん。長年生きたわしの経験や知識も、最近起こりつつある様々な現象の前では、少しも役に立たん。年寄りから経験と知識を奪えば、後にのこるのはただの老いぼれじゃよ。いまのわしは、まさにそれじゃ。残念ながら、の」
佐々木は立ち上がると、ノイズをふりかえった。
「ついでにお前さんも診ておこうか、ノイズ」
「先生、おいらは大丈夫だべ。来てくれて助かっただ」
「わしにできることは、かぎられているじゃろうが……またなにか、異変が起こったら呼んでくれたまえ。ノイズ、わしは、お前さんの力に──」
「分かってるだよ、先生。礼を言うだ」
退室する佐々木。
「雄輝、もう大丈夫か?」
薬音寺が問う。
「今日は訓練も休みだし、ゆっくりすればいい」
「外の空気が吸いたい気分だ」
「なら、ぶらつこうぜ。紫苑も行くか?」
「自分は今日、ちょっと用事があるっす」
「おいらも今日は遠慮するだ」
とノイズも辞退する。
「ふむ残念。とりあえず飯を食いに行くか。マリア、真幸、お前ら行こうぜ。気分転換も必要だよ。駄目もとで、樽本と美奈も誘ってみるか」
部屋を出て樽本を見つけ、誘ってみると、案外すんなりと誘いに乗ってきた。
「今日は暇だかんな。美奈、お前も行くか?」
「……行く」
「美奈ちゃん、今日は俺がエスコートしてやるからな」
薬音寺が美奈を正面から覗きこむ。
美奈は、薬音寺とは目を合わせず、その代わり、こちらに目を向けてきた。
とまどう。
「……ははぁ」
と薬音寺が黒いサングラスを光らせ、わけ知り顔でつぶやく。
「曹長さんよ、あんたの妹さんは意外と交流的なのかもな。ただの恥ずかしがり屋さんだったわけだ」
「お前ぇ、なんの話だ?」
「そろそろお兄ちゃんを卒業する時期っていう話だっての。なあ、雄輝?」
なにも答えずにいると、薬音寺がおおげさに首を振る。
「いいか? 自分の性的嗜好を把握しておくことは、人生において有意義な思考をもたらんだぜ。把握することは抑圧することで、抑圧することは恋することだ。恋ってのは崇高な行為だろっての。恋してるときの自分ほど輝いてるもんはねぇよ。恋した相手の輝きを通して恋が輝き、恋する自分そのものが輝くってわけだ」
「なにが言いたいんだ、お前ぇ?」
「……薄ら寒い」
めずらしく的を射た樽本の疑問。
元気のないマリアの冷めた目。
すこしめずらしい六人組で、食堂へと向かう。
途中、何度も視線を感じた。
畏怖、警戒、好奇、嫌悪、敬意、期待。
あらゆる感情の入り交じった、数々の視線。すべて、こちらに向けられている。
ふつうの生活には、もどれないか。
無理もない。
あきらめと同時に、溜息が出た。
前回の戦闘以後、話は瞬く間に広がった。
クラッグに変身できる男がいるらしい、あだ名はクラッギーだそうだ、お前も見たか、そいつはたった一人であのクラッグの大群をやっつけたんだぜ、すごかったよ、等々。
注目を浴びるということは、嫌でも自分自身というものを意識させられ、その自分自身が世界に現に存在しているということを確認させられることでもあり、非常に苛立たしく、気まずく、居心地の悪いことだった。
「おい」
すぐとなりで、気の抜けたような、それでいて力の篭もった声が上がった。
「なに見てんだっての」
薬音寺だった。
その一喝で、こちらに向けられていた数々の視線が、一挙にそらされた。
感謝の念をこめて薬音寺を見ると、彼は肩をすくめて見せた。
どういうわけか変わってしまった日常において、それでも変わらないでいてくれる仲間の存在は、それだけで、とてもありがたいものだった。
歩きながら、周囲を囲む仲間たちに目をやる。
薬音寺と樽本がとなりを歩き、真幸、マリア、美奈は前方を歩いている。
真幸が景気良く話しかけているが、美奈はうつむいたまま顔を上げない。
「それにしても、あの妹の性格は難儀だよな」
薬音寺が樽本に会話をふる。
「んなこたぁねぇよ。可愛いじゃねぇか」
「あんたがそう甘やかすから駄目なんじゃねぇかっての。もっと怒ってもいいんだぜ、兄貴なんだからよ」
「俺に指図するたぁ、偉くなったじゃねぇか。女の扱いかたを教えたのは俺だろうによ」
歩きながらの会話。
会話の切れ目を狙って、ずっと気になっていたことを薬音寺に訊いてみる。
「ノイズの過去について、なにか知ってるか?」
「あ? ノイズの? 知らねぇよ。あいつ、過去の記憶がねぇって聞いたぜ。それに、ほら、ちょっと変わり者だしよ。なんでだ?」
「あいつの壁に写真が貼ってあった。子供の頃のノイズや、他にも子供が写っていた。どれも見たことのない顔だった」
思わぬ方向から返事が来た。
「聞いたことがある」
樽本がふりむき、言う。
「ある任務で全員が死んだそうだ」
「ノイズだけが生き残ったのか?」
「見捨てたってぇ、うわさだ」
まさか、あのノイズにかぎって。
そう言おうとしたが、樽本がさきに顔を近づけてきた。
「あいつぁ、ほんものの味方殺しだって話だ」
なんだそれ、どういう意味だ。
疑問を口にしようとしたとき、袖が引っ張られた。
ふりかえると、美奈だった。
「美奈も……会話、入る」
「おうおう入れよ、美奈ちゃん」
薬音寺が受け入れる。
「俺は寂しがり屋のマリアの相手をするさ」
「だれが寂しがり屋よ、ばーか。あんたが可愛いあたしと話したいだけでしょ」
強がるマリア。
いまは、誰よりも、もろくなっているはずなのに。
「そんなんだから、お前はいまだに彼氏の一人もできねぇんだよ」
「できないんじゃなくて、いらないの。あたしはね、凛々しく生きる女なの!」
背後の言い合いを聞きながら、となりの美奈を眺め、なにを話したものかと困り果てた。
もともと、だれかと会話をすること自体が苦手だ。
それなのに昨夜の紫苑との会話は、どこか自然と成り立っていた。
「雄輝……」
美奈がつぶやく。
「腕に傷、ある」
「あ、ああ。あるな」
自分でもあきれるほどに、そっけない返答。
「痛くない?」
「痛くないよ。もう、かさぶたも取れかけてるし」
すると、美奈の手が伸びてきた。こちらの胸に触れる。
「痛くない?」
樽本を横目で見る。
いまは真幸と会話をしていた。
痛くないよ。
そう答えようとして、美奈の質問の意図を理解する。
美奈の手は、ちょうど心臓の付近に当てられていた。
まるで心を、過去を見透かされたような気分になる。
それで、ひさしぶりに顔の筋肉を動かし、いわゆる「笑顔」という表情を作りだした。
「大丈夫。痛くない」
美奈は、こくんとうなずき、樽本のもとへと戻っていった。
空を見上げる。
意外なことに、どうしても、会いたいと思える人がいた。
「……薬音寺。食堂はパスする」
告げると、薬音寺はすこしおどろいたような顔をしてから、「許可する」と声を発した。
兵舎に戻る。
ちょっとした聞きこみ調査の結果、目的の人物は、西南地区に向かったことがわかった。
自分も、その方向へと足を向ける。
西南に入ると、道ばたに座っている人が多く見受けられた。
住む場所さえないのだ。
行き交う人々に活気はなく、亡霊のように通りすぎていく。
まるでセピア調の写真のように、色のない空間。
そんななか、かすかになにかが聞こえることに気づいた。
この空間で、ただ一つの色。
人々の合間を、風のように縫って、聞こえてくる。
歌だ。
知っている声。
心臓が高鳴って、歌の聞こえるほうへと足を運ぶ。
見つけた。
彼女は、薄汚れた道のすみで軽くあぐらをかき、ギターを手に、詩を、歌っていた。
彼女の歌と、大きく広がる、はるかな世界。
そこには、一つの宇宙があった。
ずっと耳を澄ましていたくなる歌声。
紫苑の、だれも知らない一面。
声をかけるべきか悩んだ。
いつもの自分なら、このまま引き返していただろう。
だが、今日は──。
意外なほど、彼女に声をかけたいと強く願う自分がいた。
「……紫苑」
呼びかけると、彼女はおどろいて顔を上げ、こちらを見つめた。
「雄輝? な、なにしてるんすか?」
いまさらのようにギターを隠そうとする。
「自分でもよく分からない」
これは本当のことだった。
「薬音寺たちと出かけたんじゃなかったんすか?」
「綺麗な歌が聞こえたんだ」
その途端、すこし紫苑の頬が紅く染まった。
「いや、その……慈善事業てヤツっすよ。偽善者っすよ、どうせ。笑うっすか?」
「笑わない」
「秘密にしておいてもらって、いいっすか? その……この件について」
「だれにも言うつもりはない」
息を吐く紫苑。安堵したようだった。
「よく来るのか?」
「いや、まあ、暇なときにちょくちょく……」
「あまり触れないほうがいい事情とかあるのかな?」
「や、ちがうんす、そういうんじゃないんすけど。ただ、の……自己満足っす」
「歌、上手いんだな。知らなかった」
「上手くないっすよ。ここでしか歌わない素人なんすから」
「ギターも弾けるのに?」
「……ここで色々やってる内におぼえたんす」
「次、またこういう機会があるなら、聴きに来てもいいか?」
「そ、そんな、聴きに来るだなんて、そんな大層なものじゃないっすよ」
「それだけの価値を見出したんだ」
「……本当に、雄輝っすか? やけに口が上手いじゃないすか」
「紫苑とは自然に話せるんだ。こんなこと、いままで、なかったよ」
その言葉に、どういうわけか、紫苑は一瞬、複雑そうな顔をして見せた。
「雄輝、その──」
なにか言いかけたとき、腰の携帯端末に連絡があった。
呼集命令だった。
「……出撃っすね」
紫苑にも連絡が来たようだ。
なごり惜しそうにギターをしまい始める。
「紫苑──」
「行こうっす、雄輝。自分たちは、戦うのが仕事なんすから」
*
爆裂。
砂塵が舞う。
「もう見飽きたぜ、砂塵なんざ!」
薬音寺がさけび、短機関銃を掃射した。
クラッグのさけび〈スペル〉、悲鳴〈スペル〉。
それらをかき消すようにして、やたら響く大声が戦場にとどろく。
「おかげでプリン食べ損なったじゃないのよ、馬鹿クラッグ!」
今回のことの起こりは、偵察部隊による報告。
各地で、都市を囲うようにして、クラッグが集結しつつあるとの情報があった。
前回のような事態になるまえに、各集結ポイントを個々に撃破し、先手を打つ作戦が立てられた。
各ポイントに、数個分隊での襲撃を行う。
空中部隊による支援も行われる。
「この前だって緊急招集のせいでアイス食べ損なったんだから、ばかぁー!」
がむしゃらだぁーっ! とマリア、恨みのこもったマシンガン・トークが炸裂している。
マリアのあつかう三脚装着のM240G汎用機関銃が、一分につき九百五十発、七.六三ミリ口径の弾丸を吐き出している。
射程は三千七百二十五メートル。
から元気だ、無理してる、頭がそう告げるが、だからってどうすればいい?
敵は次から次へと地面を裂いて登場する。
さながら、射出されるミサイルのようだ。
「雑魚がぁ! 次々と出て来ぃやがって! 今日は妹と飯ってたんだぞ!」
樽本が、やはり恨みのこもったフルオートをお見舞いする。
空からは、軍用ヘリが援護射撃を行っている。
慣れ果てた戦場。
身に染みた戦場。
だが、新しく地面から飛び上がってきたクラッグが、樽本の弾丸を弾いたとき──すべては、未知のものへとさま変わりした。
「──なんだぁ? あの野郎は」
樽本が茫然とつぶやく。
ほかの深紅色に輝くクラッグとは、あきらかに別格。
漆黒の岩のかたまり。
暗黒の息を吐き出しながら、そのクラッグは咆哮〈スペル〉した。
身の毛もよだつ低音。
腹の底まで響く重音。
「なんなんだ、ありゃあ。新種か?」
《仕留めます》
真幸の宣言。
ズガンと響く狙撃銃のうなり。
弾かれる弾丸。
クラッグには、傷一つついていない。
漆黒のクラッグ──唸り〈スペル〉、炎を投げつけてくる。
一同、とっさに身を伏せる。
盛り上がった地形による、自然の壁に、かがんで身を隠す。
炎が壁の向こう側で爆発する。
樽本の判断は瞬時だった。
無線機に口を押しつけるようにして、わめいた。
「粉砕分隊より本部へ! 敵の新種が出現、増援を要請する! 手持ちの装備では歯が立たない! 至急――馬鹿みてぇに硬ぇんだよ!」
それからすぐ、ほかの者たちへも無線連絡を行う。
「敵の新種だ! 全員後退しろ!」
射撃をくりかえしながら、じりじりと後退。
ほかの者たちも合流する。
「どうなってる! おい樽本、なにが起こってやがる!」
薬音寺がさけぶ。
「わかんねぇ! とにかく、あの黒い奴にゃ、手持ちの銃じゃ太刀打ちできねぇ」
「抵抗の意思」
紫苑がつぶやく。
「いままでのクラッグは、ちょっと衝撃をくわえてやれば、まるで自ら望んでいたかのように、破滅をむかえてたっす。でも、ひょっとすると、一部のクラッグは破滅を受け入れることをやめた。自分の破滅する意味を問うということを、おぼえたのかもしれないすね」
「そんな難しいこと考えてる場合じゃないっての、紫苑!」
ふと脳裏にうずく、ささやき声。
(我々の一部が我々と拮抗した。我々は我々の一部を再び受け入れるため、我々の一部を模倣した我々の一部を、我々の一部と邂逅させる)
「美奈!」
樽本の指示。
美奈が手榴弾を投げつける。
目標のクラッグに着弾。
爆発。
爆風が巻き起こり、煙が周囲を覆う。
「やったか?」
「駄目です」
真幸が狙撃銃のスコープを覗きこんで報告。
「敵に損傷なし」
煙が風で吹き飛び、その漆黒のすがたが出現する。
漆黒のクラッグは跳躍した。
その重量感溢れるからだを宙へと踊らせ、援護射撃を行っていた軍用ヘリの尾にしがみつく。
衝撃でヘリの機体が揺れ、クラッグの重みで、垂直方向にかたむく。
クラッグが口を開き、炎を噴き出した。
高熱の炎。
窓ガラスが割れ、みるみるうちにヘリがゆがんでいく。
無線機から、ヘリの乗務員の悲鳴がほとばしる。
ヘリは、クラッグとともに降下し、ここから離れた地上へと落下していく。
クラッグがヘリから飛び降り、ずしんと地を震わせて着地。
背後で、ヘリが爆音を立てて、燃え上がる炎と化す。
「ちくしょう、ヘリがやられた」
「これでもかぁー!」
マリアの機関銃が炸裂した。
その威力・速射。
やはり弾は弾かれながらも、クラッグの動きが止まった。
両腕を盾にし、マリアによる攻撃を防いでいる。
「弾が切れたら終わりだ! それまでになんとか──」
「見ろ!」
薬音寺のさけび。
その指の差す先に、もう一匹、漆黒のクラッグがすがたを見せていた。
すぐ背後で轟音。
ふりむく。
地面が割れ、漆黒のクラッグが飛び出す。
「気持ち悪い気味悪い不愉快だよ死んじゃえ消えちゃえくすんじゃえ美奈帰りたいよ」
美奈が呪詛を吐きつつ手榴弾を放り投げる──巻き起こる爆発。
やはり効き目なし。
着実に、こちらが包囲されつつあった。
このままでは、全員がやられる。一人たりとも生き残れない。
死が押しつけられる。
腰からナイフを抜く。
袖をめくる。
薬音寺が真っ先に気づき、腕をつかんでくる。
「馬鹿、コントロールもできねぇのに、やめとけ!」
──なにも言うな!
遠いさけび声。
それに必死であらがう。
「僕はさけぶ!」
宣言する。
腕に新たな線を刻む。
熱がやってくる。
からだが炎をまとう。
服が溶けていく。
肉が硬質化していく。
変化。
意志を保つ。
知らないあいだに戦って、知らないあいだに敵を倒しているなんて、ごめんだ。
この意志で、この手で。
僕のさけびを思い知らせてやる。
分からせてやる。
あいつらに!
炎を撒き散らす。
が、近くにいた仲間たちには、火傷一つおよぼさない。
炎に分別がある。対象を区別している。
そう。
これは僕の炎だ。
飛び出す。
漆黒のクラッグが高らかに咆哮〈スペル〉する。
叫び返す〈スペル〉。
真っ正面から激突する。
拳を打ちつけ、岩と岩同士、おたがいの頑固なまでの硬さを証明し合う。
重い圧力が拳にくわわる。
「割れろぉ!」
心の底からさけぶ。
みしり、と亀裂の走る音がする。
つづいて、拳を打ちつけている個所に割れ目が生じ、やがて目の前の漆黒の岩がばらばらに砕け散る。
おおおぉぉ──と雄叫び〈スペル〉を上げながら、くずれ落ちるクラッグ。
残る漆黒は二体。
一体はこちらへ、もう一体は仲間たちのもとへと向かっている。
自動的に仲間の援護に向かおうとするが、こちらへ来る一体が邪魔をする。
跳躍。
自分のものとは思えない運動能力。
クラッグの目前へと着地。
轟音。
跳躍。
両の拳を繋ぎ合わせ、強く握り締めて振り下ろす。
クラッグ──頭から一刀両断──というよりも、一拳両砕。
二つに分かたれたクラッグの身体の片方をつかみ、跳躍──最後の漆黒へと接近。
漆黒のクラッグが、こちらをふりむき、炎を投てきしてくる。
炎にくるまれた岩石の飛来。
空いてる片手で受け止める──信じられないほどの握力で、それを粉砕。
第二弾を放とうとするクラッグに向けて、二つに砕かれたクラッグのからだを思いきり振り下ろしてやる。
岩と岩がこすれ、けずり合う音。
クラッグが、吹っ飛んで遠くに不時着する。
走る。
とっかん。
岩と化した手を振り上げる。
物体の質量×加速度=力。
粉砕。
(我々の一部は我々の一部をも否定した。我々は我々の理解不能を肯定する)
理解されてたまるか!
と全身がさけんでいた。
他人に理解されて、認識を押しつけられる、そんなのは願い下げだ!
くだけたクラッグが、ただの岩のかたまりと化して、地に転がった。
衝撃音の残響が、耳もとでうずまく。
こんなふうに。
こんなふうに、僕は僕だ。
敵はのこっていない。
戦闘の終わった戦場で、徐々に変化を解きながら、僕は両の拳をにぎり、上空をあおいで膝をついていた。
ああ、僕だ、と、どこか満足すらおぼえていた。
遠くで、薬音寺が手をふっていた。
第三章 漆黒の黙示録〈ピッチブラック・アポカリプス〉
「紫苑」
分隊部屋。
薬音寺が二段ベッドの下側にあおむけで転がり、両手でかざすように持ち上げたファッション雑誌のページをくりながら問う。
「お前、さっきからなに読んでんの」
紫苑が、こちらはうつぶせに寝転がって読んでいた漫画から顔を上げ、表紙をかかげる。
「愛すよ、愛。少年たちの禁断の愛。いわゆるボーイズラブってヤツっす」
「えー、気持ち悪っ」
と声を上げたのはマリア。
肩紐で吊るしただけの薄い夏服という涼しげな格好。
むきだしの左肩には刻印『H.A.K/A.D』=「抱いてキスして踊っちゃおー!〈ハグ・アンド・キス・アンド・ダンス〉」。
マリアは紫苑の上のベッドに寝転がって、携帯用ゲーム機で遊んでいた。
チャラチャラと音楽を流すゲーム機を脇に放り、頭を逆さにして、下にいる紫苑を覗きこむ。
その見事な赤毛のポニーテールが垂れ下がる。
「どんなの。あたしにも見して」
紫苑がマリアにも見えるよう、漫画の位置をずらす。
むむむむ、とマリアが漫画に顔を近づける。
ほえぇ~、これはこれは、といった顔で覗きこむマリア。
紫苑がページをめくるたびに目玉を動かしてコマを追っている。
「お前にそんな趣味があったとは知らなかったぞ、紫苑」
薬音寺が雑誌から顔を上げず言う。
「自分の趣味じゃないすよ。これ、美奈に借りたんすから」
「……げげ」
「美奈だって女の子ールンルンルンルン女の子ぉー」
すみっこで膝をかかえて丸まっていた美奈が歌うように口ずさむ。
「……美奈ちゃん、俺の近くで突然に電波の入った歌をくりだすのはやめてくれ」
「あ、あのさ、美奈ちゃん、外に出て散歩でもしよっか」
真幸、美奈のとなりでおなじく膝をかかえ、誘ってみる。
なかなかに勇敢な行為だ。
しかし美奈は、顔を膝のあいだに埋めたまま、テンションを一気に落とし、
「外はイヤ外はダメ汚ない黴菌がウヨウヨいるんだ恐ろしいんだ怖いんだ」
と、相変わらず呪詛のようにブツブツつぶやく。
「平和だねぇ」
薬音寺が、感慨深げに言う。
実際のところ、いまこの瞬間は、かぎりなく平和だった。
あれからのたび重なる戦闘。
クラッグは、都市の周囲での集結を、定期的に行うようになった。
例の新種も、そのたびに出現する。
あの初遭遇の任務の際、あちこちで部隊は壊滅状態に陥った。
事態を重く見た上層部。
そのため、部隊は出撃の際、重戦車に対抗するかのごとく物々しい装備を毎度することとなった。
ベッドに寝転がったまま、左腕を持ち上げ、光にかざしてみる。
出撃するごとに増えていく傷痕。
幾筋もの線。
もはや、部隊内で、自分の存在は完全に英雄状態だった。
みんなが期待し、求めている。
それ自体は悪くない気分だった。
自分がどこにでもいるような感覚。
しかしそれは、ごくたまに、自分がどこにもいないような感覚をも生み出していた。
矛盾しているような二つの感覚は、ときに自分自身を、際限なく孤独へと押しやった。
だが、こうして分隊仲間の連中と騒いでいるあいだは、そのようなこともなかった。
薬音寺が起き上がり、紫苑に近づく。
「どれ、どんなんなのよ」
紫苑の差し出した漫画の中身を一目見て絶句。
すかさず取り上げる。
「ちょっと、なにするんすか。いまちょうどフラグが立ちそうだったんすよ」
「あぁー! ばかばか、もうちょいであいつが受け入れる感じだったのにぃー!」
薬音寺に浴びせられる二連撃。
それらを気にもとめぬ衛生兵の嘆き。
「くわぁー理解できねぇ! 捨てろっ! 捨てっちまえっ、こんなもん!」
「い・ま・い・い・と・こ・だ・っ・た・の・に・ぃ!」
マリアが、薬音寺の髪を引っ張る。
「痛だだだ! 痛い! でも『痛いのは最初だけ』!」
漫画の表紙を見せつけながら、その帯に書いてあった文言をさけぶ薬音寺。
そこまで言われ、ようやく我に返ったのか、マリアが漫画から顔を背ける。
「……ただの好奇心よ」
マリア、弁解。
すこしばかりの赤面。
その場にいるのが恥ずかしくなったのか、薬音寺の服を引っ張るマリア。
「ちょいと、顔、貸してよ」
「あいあい、姫様」
「うるさい! いいから来なさい! あたしがデートしてあげるって言ってんだから!」
「やおい~」
「うるさい!」
薬音寺が、マリアに引っ張られ退場する。
「マリアさん、だいぶ元気になりましたね。キャシーさんは最近、見ないけど……大丈夫なんでしょうか」
問いかける真幸。
肩をすくめることしかできず。
「マリアが元気になったのは薬音寺のおかげ」
紫苑が、薬音寺の落とした漫画を拾い上げ、読むのを再開しながら言う。
「最近、薬音寺、頑張ってたっすからね。そりゃあもう、マリアのために、食事に誘って断られたり下手な冗談言ったりスカートめくったり」
「……精神年齢のわからない奴だな」
とくにすることなく天井を見上げているのにも飽き、からだを起こしてベッドを下りると、あてもなく部屋を出た。
いったん、兵舎を出て、太陽の下に立つ。
さて、どうするか。
一人で食堂にでも行くか、それともぶらぶらと基地内でも散策するか、と考えていたところ、知っている声が聞こえてきて思わず立ち止まる。
兵舎の外、その建物の陰から、マリアの声が聞こえてくる。
覗きこむと、薬音寺とマリアが木陰に座り、会話をしていた。
会話の内容は聞こえない。
盗み聞きをしなくてすんだことに、ほっとしながら、引き返そうとしたとき、マリアが泣いていることに気づいた。
自然な動作でマリアの肩を抱く薬音寺。
──マリアが元気になったのは薬音寺のおかげ。
逆に言えば、マリアは、薬音寺の前で弱さを見せられるようになったということか。
だからこそ、ほかのみんなの前では、いつもどおりのマリアでいられるのだ。
薬音寺がマリアを優しく抱きしめている光景に、不思議な感じになる。
あのがさつで、お調子者の薬音寺の意外な一面。
そして、自分には絶対、ああいうふうに人を優しく抱きしめてやることなんてできないという、諦念に似た絶望。
その場を後にする。
なんとなく散歩する気が失せ、部屋にもどろうとする。
「……樽本」
途中、なにやら思い詰めた顔の分隊長を発見する。
「雄輝、か」
樽本は、どこかぼんやりと、顔をこちらに向けた。
「どうした」
「いんや。自分のなかで、いくつかわかったことがあるってぇだけだ」
樽本が、近くのベンチに腰を下ろした。
自分も自然とそれにならう。
「樽本。妹を放っておいていいのか」
「見失うつもりはないさ」
決意の篭もった声。
重い質問をしたつもりはなかったのだが。
「雄輝」
樽本が小さく言った。
「この都市をどう思う」
「どうって……」
「守る価値が、あると思うか」
「なにを言い出すんだ」
「どうして戦ってる、俺たちは」
「戦わないとやられる、だろ?」
樽本がなにを考えているのか分からなかった。
表情からは、いっさいが読み取れない。
「樽本。なにを調べている? なにを知った?」
「裏側だよ。知るってのぁ、そういうこった」
樽本はなにかを調べている。
それは、以前から気がついていた。
たった一人で、なにかに立ち向かおうとしている。
おそらくは、妹のために。
妹が平和に暮らしていくために。
「分隊長」
「そういうふうに呼ぶな」
「あんたは、僕たちの分隊長だ。おなじ隊の仲間だ」
「なるほど。不器用な気遣いだなぁ、雄輝」
「すまない」
「いや、礼を言わせてもらうさ」
樽本が立ち上がる。
「雄輝、勝手な願いなのは分かってるが、俺がいないときぁ、美奈を頼む」
「もちろんだ。けど、あんたが守るべきだ」
「守るために、俺は行動しなきゃいけねぇ」
「一緒にいてやるべきだ。となりで守るべきだ」
「薬音寺のようにか。あいつが、マリアにしているように」
「知ってたのか」
「なんでも知ってるさ。この世界のことも知り尽くす。未来も知りたいもんだね」
立ち去る樽本。
座ったまま、その背中を見送る。
陽光をはらんだ風。
そのまま座りつづけること数分、だれかがとなりに座った。
村崎二尉。
「……めずらしいですね、こんなところに来るなんて」
「その後、からだの調子は?」
村崎は、顔をこちらに向けることなく、問うた。
「会ったら即座に撃たれると思っていましたよ」
「異常はない?」
「特別問題はないです」
「そう」
沈黙がつづく。
横顔を盗み見るが、その表情は、あいかわらず読めない。
眼鏡の奥、鋭い瞳が、なにに向けられ、なにを思っているのか、知るよしもなかった。
「樽本曹長と、なにを話したの」
「世間話です」
「どのような?」
「これは尋問ですか?」
「まさか。世間話よ」
「随分ととがった世間話ですね」
「こういう性格なのよ」
「難儀ですね」
「私は上官です」
「これは失礼しました」
「……ノイズ二曹の調子は?」
「あいかわらずですが?」
「そう」
「何か特別な関係でも?」
「だれと?」
「ノイズと」
「答える義務はないわ」
「そうですよね」
村崎が息を吐いた。
すこし疲れた、という表情だった。
眼鏡を外し、目を閉じて、顔を空に向けた。
意外な仕草、意外な表情に、おどろく。
村崎二尉は、小さく、笑っていた。
「……むかし、すこしね」
「優しいんですね、村崎二尉」
「いま、私がしていることを知ったら、ノイズ二曹は、どう思うだろう」
「僕にはわかりません」
「意外と正直者なのね。それに素直」
「僕が、ですか」
「ノイズ二曹、きっと怒るわね」
「二尉にとって、それは重要なことですか」
「私にとって重要なのは、この都市の存続、この都市の安全、それだけよ」
「都市って……なんですか」
「人それぞれよね」
「二尉がしていることって……なんなんです」
「この都市に必要なことよ」
「確信していますか?」
「……ええ。確信しているわ」
「僕も意外です。二尉はもっと――寡黙なのかと」
「みんな、それぞれの役目、役割を演じている。必要なことを」
二尉が眼鏡をかけなおす。
「佐々木医師を知っている?」
「ええ、知っていますが?」
「一つ、伝えておいて。今回は、失敗しない、と」
「それは――?」
「伝えてくれるだけでいい。意味は通じる」
「……わかりました」
話が終わりに近づいていることを感じ取り、からだを村崎に向けた。
「二尉は――」
「私の話をしに来たのではなかったのだけど」
村崎が立ち上がった。
こちらをふりむかない。
「けれど、楽しかったわ。まずまずと言える程度にはね」
そのまま立ち去る。
のこされたというよりも、行かせてしまった、という印象。
ベンチの感触が、妙に硬かった。
*
しばらく、ためらったあと。
病棟内にある、佐々木医師の個室をノックした。
受付の女性による情報――いまの時間は個室で休んでいるはず。
プラスアルファの情報――佐々木医師の個室には、だれも入ったことがない。
戸が開いた。
「おや」
医師の目が、やわらかく笑んだ。
「入りたまえ」
「……失礼します」
すんなりと受け入れられたことに恐縮しつつ、足を踏み入れる。
佐々木医師は、薄く黄ばんだ白衣のままだった。
医師の顔と同じく、幾筋ものしわの寄った白衣。
不清潔そうな印象はなく、ただ、長年という時の変遷の成せる技だった。
部屋のなか。
必要最低限のものだけで構成、構築されている。
およそ、一人の人間がオフの生活をしている、とは思えなかった。
「ああ、すまないね、そんなものしかなくて」
「いえ」
すすめられた簡素な椅子に座る。
「お茶しかないが、いいかね」
「手伝います――」
「まあ、座っていなさい。ひさかたぶりの客人なんじゃ。おもてなしさせてくれ」
腰を下ろす。
なんとなく落ち着かず、壁を見わたした。
なにもない部屋。
だからこそ、配置されたものが、際立つ。
そして見つける、写真。
集合写真。
幼いころのノイズ。
分隊部屋にあったものと、同じ。
その横に。
資料の束のようなものが留められている。
小さな台所でこちらに背を向けている佐々木の様子をうかがいながら、立ち上がり、資料の小さな文字に目を走らせてみる。
AS小隊第〇〇一分隊の試験的導入に関する結果報告書。
めくってみると、つづきのページはなく、さらにべつの資料の表紙らしきものが見えた。
適確兵士計画報告書。
そう、書かれていた。
眼を細める。
そのさきの文書に困惑する。
このファイルは極秘文書である。
許可なき者がこれを閲覧した際には、相応の刑に処せられることがある。
詳しくは第二六七頁を参照せよ。
右上のあたりに、小さな手書きの字で、accuracy soldiersとななめに書きこまれている。
おそれながらもめくってみるが、やはり中身はなかった。
台所で湯を注ぐ音が聞こえ、ゆっくりと椅子に戻った。
佐々木が、湯飲みを載せたトレイを手に、もどってきた。
医師は一瞬、写真と資料の貼ってある壁に目を留めた。
失念していた、というふうに。
だが結局はなにも言わず、行動もせず、そのまま茶を運んできた。
「さて。なにか用かな? からだに異常でも?」
自身も簡素な椅子に腰掛け、茶をすすめながら、佐々木が問うた。
「あれから変身は?」
「付き合いかたが分かってきました」
「それは結構。向き合うことは大事じゃ」
佐々木はうなずいた。
「では、何用かな。まさか、年寄りと茶を飲みに来たわけではあるまい」
そこで、老医師は、壁に目をやる。
「ノイズの――ことかね?」
茶に手を伸ばす。
熱が、湯飲み越しに手を刺激した。
「いいえ。今日は、言伝をあずかってきましたので、早く伝えておこうと」
「言伝? だれからのじゃ?」
佐々木につづいて、茶を口にふくむ。
喉を通る熱。からだに広がる。
一息吐く。
「村崎二尉です」
「村崎――そうか、あの子か」
「ご存じで?」
「ああ、むかしの話じゃが」
医師の瞳に、過去という時が映った。
遠くを見つめるかのような。
だが老医師は、現実というものをわきまえていた。
目を閉じ、かすかに頭を振ると、ふたたび目を開き、弱く笑んだ。
「それで? 彼女はなんと」
すぐには答えず、茶に口をつける。
もう一度、村崎二尉の言葉を頭のなかで反芻し、意味を考えた。
結局、よくわからぬまま、それを口にした。
「今度は失敗しないと、そういう内容でした。それだけで、意味は通じるはずだと」
大きな音。
椅子の倒れた音だった。
おどろき、身を引いた。
熱い液体が飛び散ってきた。
佐々木医師――目が見開かれ、両手はおののき、その場に立ちつくしていた。
その手を離れた湯飲みが、茶を撒き散らし、小さく欠けながら、フローリングの上を転がった。
突然の反応に、とまどう。
「――佐々木医師?」
こちらの呼びかけにも応えない。
大きな衝撃に襲われていた。
「……まさか」
佐々木が、ようやく声をしぼりだした。
「また、あの実験を」
こちらに言っているわけではなかった。
佐々木の目は、宙に向けられていた。
他人には見えない、なにかを見すえていた。
「愚かな……あんなことがあったというのに」
口をはさまず、言葉の断片を聴き取る。
「哀れなノイズを忘れたか……また、くりかえそうというのか、なぜじゃ……」
佐々木は、よろよろと前へ進み出、棚に手をつき、からだを支えた。
「どこまで進んでいるのか、もう手遅れなのか……」
そしてふと、こちらに視線を留めた。
「ああ、君……すまないが、わしには急用ができた。申しわけないんじゃが――」
「いえ、おかまいなく」
あわてて立ち上がる。
佐々木の目にこめられた、気迫。
「おいそがしいところ、すみません。おいとまします」
佐々木の返事を待たず、部屋を出る。
何メートルか離れ、ようやく部屋をふりかえる勇気が出た。
佐々木医師の目のなかに見たもの。
それは、計り知れない憤怒、悲哀、諦念、そして、とてつもない怯えだった。
*
老医師の狼狽。
あの極端な反応について考えながら、心のどこかで恐怖をおぼえながら。
分隊部屋のほうへ戻ろうとしていたときだった。
「おう、雄輝」
薬音寺とすれちがった。
休憩用のベンチやスタンド灰皿が脇にいくつかならぶ、開放的な屋外通路。
「マリアは?」
立ち止まり、訊ねる。
「キャシーんとこだ」
薬音寺も立ち止まり、ふりかえると、手にしたボトルに口をつけ、水を飲んだ。
「大丈夫なのか?」
「強い女だからな、本人いわく」
そう言って笑みを浮かべる薬音寺。
そのすがたに、つい、口を開いた。
「お前は――」
「んあ?」
「いや」
目をそらす。
「――うらやましい、と思って」
それを聞き、薬音寺は、一瞬きょとんとした顔つきを見せてから、やがて爆笑。
「なんだよ」
「悪い悪い。お前がそんなふうな口をきくなんて、とな」
「今日の自分は素直らしいんだ」
「みたいだな」
しばらく、二人で会話もなくたたずんでいた。
心地良い距離感、関係性だった。
薬音寺は腕を大きく広げてベンチに座り、空をあおいだ。
「俺は下手なんだ」
やがてつぶやく。
「なんの話だ、下ネタか?」
「ちがうっての。人との接しかただよ」
「なにを言う」
「ほんとうだ。下手なんだ。いつも必死だよ、どう言えば相手が傷つかないかとかってよ、すごく考えんだ。だから、ときどき思う。俺の気持ちは誠実か、ちゃんと相手には届いているか、てな。もちろん俺は……行動派っての? 口よりさきに、からだを動かすタイプだ。それでいいとは思ってんだが、最近、こう、なんだ……なんの話してんだ」
「知るかよ」
苦笑。
だよな、と薬音寺も笑う。
「けど、俺は言葉にしてぇんだ。言葉で伝えてぇんだ。ちゃんと、自分の気持ちを見せてぇんだ。なのにさ、口から出てくるのは、くだらない冗談だったり、茶化す文句だったりするのさ。これ、不器用っての?」
「お前の誠実は伝わってるさ」
「はん。そう思うか?」
「思う」
風が、薬音寺とのあいだを抜けていった。
薬音寺が、照れたような笑みを浮かべ、ふりむく。
「……ふしぎだな。雄輝は、こういう相談するのにもっとも適してない相手だろうし、もっとも遠くかけ離れてる奴だろうってのに、雄輝がそういうならそうなのかも、て気になった」
「なかなかひどくないか」
「はは。ほらな、俺ってば、こうやって、すぐ茶化すだろ」
薬音寺が立ち上がった。
「いまだって、ほんとうは、こう言いたかったんだ。――サンキュな」
「昼食一日分で手を打とう」
「策士め」
「これでも友情価格を提示したつもりだ」
「はっ」
薬音寺が不敵な笑みを浮かべる。
そんな表情のまま、
「……ありがとうよ、相棒」
「相棒?」
「もう二度と言わねぇ」
空が青いな、と上空を見上げ、薬音寺。
まるで照れ隠し。
「今後とも、よろしく頼むぜっての」
薬音寺が突き出してきた拳。
己の拳をぶつけた。
「粉砕〈クラッシュ〉」
薬音寺は、まるで祈りの言葉のように、それを口にした。
*
最初に散歩を始めてから数時間が経過。
分隊部屋にもどってみたものの、周囲の状況には、いっさい変わりなし。
座りこむ真幸と美奈、漫画に目を走らせる紫苑。
つい溜め息。
そのとき、後ろから、樽本と村崎二尉が入ってきた。
「出撃要請よ、諸君」
村崎の言葉に、紫苑が「え~マジっすか」とブーイング。
手にしていた読みかけの漫画をヒラヒラさせる。
村崎は相手にせず、つづける。
「本日は内閣総理が視察に訪れている」
「棒立ちの監視者〈ウォッチャー〉の代表が、天から視察ってかい」
となりの樽本が茶化すが、村崎は、やはり相手にせず、言葉を締めくくった。
「その期待に応えて見せましょう。曹長、説明を」
振られた樽本は、一瞬、村崎二尉に対して意味ありげな睨みを利かせたが、それも一瞬のことで、すぐ、部下たちをふりかえった。
入り口付近に貼ってある、基地周辺の地図上に指を置く。
「ここ」
樽本の指が、地図をなぞる。
「一か所の地点に、例の新種がぞろぞろ集まってるってぇ話だ」
「なんらかの攻撃があると?」
「わからん」
樽本――肩をすくめる。
「なにかあってからじゃあ遅い。ま、総理殿に働きを見せる意味合いが濃いさ」
地図から指を放し、樽本がこちらへからだを向ける。
「空中部隊および粉砕分隊をふくむ一個小隊が迎撃に当たる。行くぞ」
文句を言いながらも立ち上がり、部屋を出て行く紫苑。
真幸も向かおうとして、美奈が立ち上がろうとしないことに困惑し、となりに座りなおす。
「美奈、どうした? 出撃だよ」
妹にはやたら優しい粉砕分隊長の言葉。
「嫌な予感がするの怖いのダメなの美奈行かないよ行くもんかここにいる」
美奈の口から、突然、飛び出した我がまま。
「美奈……大丈夫だ。どんなに、あの新種が出てきたって、装備さえ整ってりゃあ──」
「悪いことが起こるの分かるの感じるの今日は嫌お願い今日だけは嫌」
困り果てた樽本が村崎をふりかえる。
引っ張ってでも連れて行けという村崎の目。
樽本――溜息。妹に向きなおる。
「美奈ぁ。そういやぁ、昨日から体調悪かったっけな。今日だけ休ませてもらうか」
「曹長!」
村崎の怒号。
「村崎二尉、ほかの小隊から優秀な奴を補充してもらうさ。今回だけだ。頼むよ」
「ふざけないで。教習学校を休むのとはわけが違うわよ。代返でもしてもらう?」
「頼む。こいつのぶんまで俺が働く。こいつ、こういう状態になると、まったく動かねぇんだ。母親が死んだときも、そうだった。母親の亡骸の前から、一歩も動かなかったんだ」
自分が無茶なことを言っているのは分かっている、というふうに目を伏せる。
樽本らしからぬしぐさだった。
ふだん、なにがあろうと、相手から目をそらしたりしない男なのだ。
「二尉」
その男が、困り果てていた。
相手を脅しつけることだってできる人間だ。
それが、自分にまつわることなら。
だが樽本は、最適な選択肢を考慮し、選んだにちがいない。
その声は、妹を気づかう兄のそれだった。
さきほど、睨みまで利かせてみせた相手に対し、頭を下げる。
一貫していない、都合のいいと受け取られても仕方のない態度。
だが、声や姿勢から、誠実さがにじみ出ていた。
およそ樽本らしくない、処世術。
それでも、樽本はつづけた。
「なあ、頼むぜ」
村崎が目を閉じる。
「いくらお前の言うことしか聞かないからと言って、親族を同じ分隊に所属させたのは、やはり失敗だったわね。これは、私の落ち度よ」
村崎――その目が、兄妹に向けられる。
決して、優しいとは言えぬ視線で。
憎しみ、それに近いものまで、感じられた。
その瞳には、許しなど、なに一つなかった。
部屋を出て行く。
その間際に一言。
「今回だけ。次はないわよ」
「恩に着る」
樽本、妹の髪をなで、微笑みかける。
「お前ぇはいい子だ。それぁ分かってる」
樽本――優しい声。
いつもの荒い気性、雑な態度、獰猛な言動とはちがう。
みんな、自分にとってのなにかがある。
自分には? なにかあるか?
なにもない。
そんな思いで充満する。心が、空っぽで、埋まる。
樽本がかがんで美奈と向き合う。
「お前ぇが嫌だって言うんなら、俺がお前ぇのぶんまで戦う」
軽く額にキスして、出て行く樽本。
微動だにせず、宙を見つめる美奈。
彼女を部屋に残し、真幸とともに部屋を出た。
*
「このままじゃ、人類に未来はねぇな」
出撃するヘリのなかで、樽本がぽつりと言った。
「科学者どもが知恵を寄せ合っちゃいるが、いまのところ打開できる見こみもねぇ」
人間の出産能力についての話だった。
あの相次いだ流産現象以来、子どもは一人たりとも産まれていない。
「クラッグを全滅させることは不可能。奴らは地中の奥底から無限に湧いてくる。もとより勝ち目のねぇ戦いだった。人類は負けねぇためだけに戦いつづけてきた。俺たちが生まれるずっと以前から。それも一つの日常。永遠につづくと思ってたんじゃねぇかな」
遠い目をする樽本。
「俺たちに出来るのは、もはや、都市を守ることだけ。守りつづけることだけ、か。けどよ、そんなことに、果たして意味なんてあるのかね?」
「一番大事なのが都市だからって、兵を出し惜しみか」
と薬音寺。
「たしかに、俺たちいまの子供が全滅すれば、都市を守る者はいなくなる。それにしたって、いくら雄輝がいるとはいえ、あの新種の大群相手に一個小隊とは……」
まったくだ。
炎色に染まる戦場で、銃声〈タタタン〉、銃声〈ズガン〉、銃声〈ズガガガ〉。
数分前の空での会話も頭から吹き飛び、目の前の戦場だけが、そこにある。
徹甲弾を用いた対戦車ライフル、十二.七ミリの大口径弾を使用した対物ライフル、成形炸薬弾を用いた対戦車ミサイル──BGM‐71 TOW。
それらの前に、漆黒のクラッグも砕け散っていく。
いつもの戦闘。
いつもの日常。
いつもの光景。
いつもの状況。
だが。
「多すぎる──」
樽本のつぶやき。
漆黒のクラッグと深紅のクラッグが、一対三ほどの割合で飛び出してくる。
真幸が遠くで狙撃銃の弾丸を放っている。
薬音寺と樽本が、短機関銃で、紅いクラッグを一掃しようとしている。
ほかの分隊も、各所で戦いをくり広げている。
爪牙分隊〈ファング〉も交戦中。
敵が多数のこの地で、もっとも怖いのは、小隊が分断されることであった。
あいだから飛び出してくる敵はすかさず撃滅、連携を保つ。
美奈の爆破支援はない。
多数の敵に対する面積的な攻撃手段が、ふだんよりも薄い。
そこが泣きどころだった。
その穴を埋めるように、ノイズが、装備してきた擲弾発射器を発射。
集まっていた敵が砕け散る。
こちらも、得意の三点バーストで敵が一箇所に固まるよう誘導、銃にアタッチメントされたM203擲弾発射器を使用、粉砕する。
そうしながらも、視覚、聴覚、直感、すべてをフル稼働させ、戦闘状況を分析。
絶望的なほどではないが、少しずつ押されている。
そう、結論を見る。
各所各所では分からぬほどの微妙な差異で、徐々に押されてきている。
樽本も気づいていないはずはない。
冷静な声ながらも、なんとか巻き返そうと指示を下しているのが分かる。
このシリアスな局面を、一気に塗り替えるには。
ナイフを取り出す。
もはや、慣れてしまった行為。
当たり前のように、新たな線をくわえようとしたとき。
こめかみ付近で強い痛みが走った。
うめいてナイフを落とす。
おそるべき違和感。
起こってはいけないなにかが、起ころうとしている。
胸の奥、炎が強烈な勢いで噴出しているかのような、とどろき。
(我々は我々の一部を異物と判定。抹消する)
からだが揺れた。否。地が揺れている。
「な、なんだ! どうしたっての!」
なんとか態勢を保とうとする兵士たち。
頭上でヘリが旋回している。
「こちら粉砕分隊! なにやら異変が──」
樽本が本部に報告しようと無線にがなりたてたとき、目の前の地が割れ、灼熱の火柱が噴き出した。
火柱はまっすぐに空へと伸び、旋回していたヘリを直撃、あっという間に呑みこんでしまった。
火の粉が降りそそいでくる。
「気をつけろ!」
樽本のさけび。
上空まで噴き上がった火柱のなかから、次々とクラッグが飛び出して来て、地上へと着地する。
隊が、分断されてしまった。
樽本、真幸、薬音寺とともに孤立する。
みんな、呆然として、火柱を見上げる。
予想だにしない出来事だった。
「救援を要請する!」
樽本が耳を片手でふさぎ、無線を口に近づけ、さけんだ。
「救援を要請する! 状況が変わったんだ! 敵に囲まれてんだよ! このままじゃ全滅だ! なにかが起こってる! ここに長居は出来ない! 至急、空からの救援を──現場の安全なんざぁ、ねぇから救援要請してんだ! 送りこむだけ送りこんどいて、見捨てる気かよ! 俺の頭んなかにゃな、作戦区域全体の様子が入ってんだ、すぐ近くにヘリがいるはずだろ、そいつを救援に寄越せ!」
無線をにぎりしめた樽本の咆哮。
「なんだと――おい、ふざけるなよ! このまま黙って死ねって、部下にそう命じろってのか! この大人ども、俺らぁ、お前らの駒じゃねぇ、道具じゃねぇんだ!」
つっこんでくる漆黒のクラッグ。
考えている暇はなかった。
ナイフを拾い、さっと腕に傷をつける。
一瞬の痛み、燃える感覚。
叫ぶ〈スペル〉。
硬質化したからだを爆走させ、向かってくるクラッグと正面衝突する。
そこで、妙なことが起こった。
クラッグは、こちらを砕こうとするのではなく、まるで動きを封じようとするかのように、強く抱きついてきた。
あわてて振り解こうとするが、そのまま固まってしまったセメントのごとく、微動だにしない。
すぐ背後から咆哮〈スペル〉。
なにかが背中に衝突した。
硬質化した背中の岩が砕かれるのが分かる。
声にならない悲鳴を上げた。
まさか連中が連携行動を取ってくるとは。
クラッグには全体という概念も、個体という概念も存在しないと思っていたのに。
(我々は我々であることを発見する)
個体が集まって全体となる。
それゆえ、連携行動が発生する。
側面からも迫ってくるクラッグ。
肩の岩を思いきり砕かれる。
激痛。
必死で暴れるが、クラッグは離れない。
《雄輝!》
マリアの声。
うなるようなエンジン音とともに、高機動多様途装輪車両〈ハンヴィー〉が視界に現れた。
クラッグを轢き飛ばしながら、こちらへ向かってくる。
運転しているのは爪牙分隊の隊員。
マリア──煙草をくわえたまま歯を食いしばり、キャビンに搭載されたTOW対戦車ミサイルを発射。
張りついていたクラッグが弾け飛ぶ。
囲んでいたクラッグのおかげで、こちらへの衝撃が緩和。
それでも爆圧を受けて、僕も地面を転がった。
薬音寺が駆け寄ってきて、僕のごつごつしたからだの出っ張りをつかみ、後ろ足で、物陰へと引きずりこむ。
視界の隅で漆黒のクラッグ、走り回るハンヴィーへと横から体当たりしていく。
マリアが銃座を向けようとするが間に合わず、クラッグと衝突。
車体が傾き、ひっくり返って、いきおいで地面を滑り、停車する。
「マリア!」
薬音寺のさけび。
クラッグに囲まれる、逆さ状態のハンヴィー。
短機関銃をつかむ薬音寺。
制止しようとするが、からだが言うことを聞かない。
名を呼ぶこともままならない。
薬音寺が目で気づき、しゃがみこんでくる。
「雄輝。俺は衛生兵だ。粉砕分隊の一員だ。それに俺は……俺は、行かなきゃならない」
笑みを浮かべ、自分の膝をたたく薬音寺。
「俺はナンバーワン走者だぞ。いま思えば、誇れることなんて、こんくらいだな」
ハンヴィー――燃える車体の下から、だれかの手が投げ出されている。
クラッグが、ゆっくりハンヴィーに近づく。
「じゃ、ちょっくら行ってくるっての」
浮かぶ、心の底からの笑み。
遠のく。
薬音寺、駆け出す。
僕は見ている。
動かないからだ。
すべてを見ている。
短機関銃をかまえ、薬音寺は、真正面からクラッグに突撃した。
至近距離からの速射に、クラッグがよろめく。
ほかの隊員たちによる援護射撃。
クラッグ、ハンヴィーから離れる。
そのすきに薬音寺がハンヴィーに駆け寄り、外に投げ出された腕の主──爪牙分隊の隊員の死亡を確認する。
マリアは地に投げ出されているだけで、命に別状はない様子だ。
僕は見ている。
容態を確認し、とにかくハンヴィーから離すため、マリアを背負う薬音寺。
すこし駆けだした途端、ハンヴィーが爆発。
薬音寺とマリア、地に投げ出される。
マリアが、目の前に落ちている武器にすかさず飛びつく。
薬音寺も短機関銃をかまえる。
「かかってきやがれ、こんちくしょう、ヘタレの岩ども!」
薬音寺の雄叫び。
それに共鳴するかのごとくうなりを上げるマリアの対物ライフル。
大量のクラッグが、続々と薬音寺たちのほうへと迫ってくる。
次々に撃ち倒していくマリア。
クラッグの突進。
撃つ。
倒れたクラッグを乗り越え、さらにクラッグの突進。
撃つ。
そのくりかえし。
突如、地が揺れる。
マリアが、はっと起き上がり、身をよじる。
さきほどまでマリアのいた地面が裂け、火柱が噴き出す。
一瞬で消える対物ライフル。
武器を失ったマリアは、拳銃を抜いて応戦するが、漆黒のクラッグには効果なし。
クラッグの突進。
徐々に近づく。
薬音寺が、マリアをつかんで引きずり、自分の背後へ倒す。
二丁の短機関銃をかまえる。
「輝く恋の瞬間ってヤツだ!」
二丁の短機関銃による速射。
その前に、クラッグの動きが遅くなる。
だが、クラッグを越え、クラッグを越え、後ろのクラッグがどんどんつっこんでくる。
歯を食いしばる薬音寺。
すばやく弾をこめ、撃ち、弾をこめ、撃ち、それでも──
やがて。
すべての弾薬が尽き、掃射音が途絶え、静寂が訪れる。
掃討射撃がやんだ途端、一体のクラッグが、マリアたち目がけて跳びかかる。
すさまじい速度。
マリアたちに、避ける時間はなかった。
「……まいったね、こりゃあ。本気だよ」
薬音寺の、自嘲気味なつぶやき。
クラッグとマリアのあいだに立つ。
両手を広げる。
クラッグの炎が薬音寺の顔を照らしだした。
その、猛々しく、輝かしい顔を。
「馬鹿ぁ! どけよー!」
すべてが一瞬のあいだの出来事。
マリアの必死のさけび。
「ずっと思ってたんだ」
薬音寺の言葉。
「この身を懸けて守るべきものなのだと──!」
クラッグが薬音寺に激突した。
すべてを見届けていた。
薬音寺の姿が、灼熱色に輝いた。
なによりも輝いて見えた。
地を割き、噴き出す火柱よりも。
その身に炎を宿し、荒れ狂うクラッグよりも。
遠くに見えている太陽よりも。
目が離せなかった。
離してはならなかった。
それだけのものが、あった。
そこに薬音寺は、彼自身として、それ以上でもそれ以下でもなく、彼自身という存在として、決して誰にも否定できない確かさとともに、力強く立っていた。
一瞬、薬音寺がふりむき、ささやいた。
活性化した僕の聴覚が、その言葉を聞き取る。
彼の最後の言葉、その全身全霊の言葉を。
「なあ、愛してるよ、マリア」
どのクラッグから吐き出される咆哮〈スペル〉よりも──どんな地の唸りよりも──力強く。
薬音寺がさけんだ。
その両手が、クラッグをつかみ、焼け焦げ、煙を上げ、耳を塞ぎたくなる音を立て、ただれ、それでもなお、全身全霊の力でにぎられ、クラッグを押しもどす。
「――行けっ」
騒音のなかで、たしかに、そう言った。
呆然と立ちつくすマリア──その肩が跳ね上がる。
燃え上がる薬音寺。
クラッグの炎が、その装備を溶かし、肉を焼き、骨を焦がす。
後ずさり、走るマリア。
そのすがたを横目で確認し、微笑む薬音寺。
黒いサングラスが捻れ飛んだ。
腕がひしゃげ、足が折れ曲がり、肉が引き裂かれ、引き千切られ、剥き出しの骨が砕かれ、頭皮が毟り取られ、人としての肉体を限界まで滅ぼされてなお、薬音寺は、人として立っていた。
人の顔で立っていた。
ついに薬音寺のからだが転がり倒れ、もはやもともとなんであったのかもわからぬほどに破壊しつくされた肉体が、地を滑って、動きを止めた。
クラッグが、興味を失くし、ふりむく。
マリアが、地に横たわり、新しい対物ライフルをかまえている。
「馬鹿ったれぇー!」
泣きさけぶ。
撃つ。
撃つ。
撃つ。
クラッグ──着弾箇所が砕け、砕け、砕け、倒れふす。
マリア、肩で息をする。
ふるえる。
泣きくずれる。
歯軋り。
自分の情けなさに反吐が出そうになる。
ただの動かない岩。
ウォッチャー。
だが、からだが言うことを聞かない。
動け、と命じる。
このままでは全滅する。
動け。
僕にはこれしかないんだという思い。
だれかのために駆け出すことも、身を挺することもできない。
相手を破壊する、ただそれだけのことしかできない。
それすらできないと言うのなら、それすらもこの世界から奪われようと言うのなら。
いったい、なにがのこるのか。
壊せ、砕け、破壊しろ。
なにものこらないくらいに相手を打ちのめせ。
産まれたときから、そうだった。
自分は、鈴菜のからだを破壊し尽くして産まれてきたのではなかったか。
与えられた咎。
命とともに手渡された罪。
僕は、悪くない。
──お前のほかに、いったいだれを憎めと言うんだ!
埋もれた記憶に残響する怒号。
知るかよ。
拳を握り締める。
動ける。
それが分かる。
立ち上がる。
勝手に産んで勝手に死んだ、それだけのことだろうに!
叫んだ〈スペル〉。
お前らが勝手に与えただけじゃないか!
飛び出した。
声を張り上げて泣いた。
《なぜ生んだ!》
心の内で、造られた怪物〈フランケンシュタインズ・モンスター〉がさけぶ。
《愛もないのになぜ生んだ!》
暴走する脳内。
暴走する破壊。
やってやる、と衝動が宣告する。
壊す、砕く、破壊する。
破壊を与えてやる。
お前らに!
僕が!
この手で!
お前を!
僕が!
この僕が!
分かるか!
こうしてやる!
こうしてやる!
こうしてやる!
母にしたように!
僕が鈴菜にしたように!
父がしたように!
コリンが僕に、そして自らにしたように!
手近なクラッグを捕まえる。
砕く。
引き裂く。
放り投げる。
心が荒れる。
強く風が吹く。
奥から奥から、割り切れない感情がこみ上げてくる。
(我々は我々として我々を終了させる)
やめろ。
一緒にするな。
わかったふりをするな。
理解した気になるな。
お前の都合で、お前のために、なにもかも押しつけるな!
腕を振り上げ、咆哮した。
鳴いた〈スペル〉。
漆黒のクラッグが、こちらのさけびに応ずるように、突進してきた。
正面から受け止める。
もつれ合い、砂埃を上げながら、ともに倒れこむ。
地響き。
目の前にクラッグの顔。至近距離で見る、敵のすがた。
まるでなにかを訴えるかのような。
無数の表情が、浮かんでは消えていく。
すかさず頭突き。
――なにかに触れるためには、そのなにかに向かって、出会う必要があるんじゃないすかね。
紫苑、黙っていてくれ、いまは。
いまはただ。
薬音寺。
声にならないさけびを上げた。
クラッグの咆哮〈スペル〉。
負けじと吼える。
次々と向かってくるクラッグを、肘で砕き、拳で打ち返し、膝で潰す。
どうして、お前たちは生まれてきた。
どうして生まれ、どうして死んでいく。
クラッグに問う。
問いをこめ、からだをぶつけ合う。
どうして!
なぜだ!
なんなんだ、お前たちは!
僕がお前たちを受け入れると、人類が受け入れると、そう思っているのか?
戦え、戦え、戦え。
全身が語りかけてくる。
全身がうなりを上げている。
……戦うさ。それで明日が来るなら。
応える。
クラッグを壊す。
まるで自身の意思ではないかのように、からだが殺戮する。
戦場を蹂躙する。
こちらを囲み、クラッグが集まってきている。
そうだ。
もっと来い。
僕だけを見ろ。
僕だけに集中しろ。
決してお前たちを受け入れない、お前たちの敵が、ここにいるぞ!
戦場のど真ん中。
仲間たちは遠い。
望んだ孤立。
完璧なる囮。
全方位に敵を認識。
笑う。
笑ってしまう。
両腕を広げ、腰を落とし、挑発するように、うなる。
いっせいにクラッグが向かってくる。
拳をにぎる。
硬く硬くにぎる。
ロックンロール。
内でつぶやく。
ずいぶんと、なつかしい響きがした。
第四章 排気の黙示録〈エクスホースト・アポカリプス〉
戦闘が終了したとき、僕は疲れ果て、その場でうずくまっていた。
ようやく現れる救援。
戦闘を開始してから、十二時間が経過していた。
見捨てられていたのだ。
生き残った者が、満身創痍のすがたで、訪れた二機の救援ヘリの周りに集まる。
粉砕分隊のほかには、六名しか生き残っていなかった。
生存者──マリアは涙を流し沈黙。
樽本が救援ヘリに近づき、操縦士につかみかかる。
操縦士は、さっさと飛び立たないとクラッグが現れるのではないかと周囲を見わたす。
「なんで、もっと早く来なかった」
「本部の命令で──」
「多くの人間がいて、一人たりとも、たった一人たりとも、命令に逆らってでも助けに来ようって奴ぁ、いなかったってぇのか?」
樽本が、操縦士を放してヘリに乗りこむ。
なにやら思い詰めたような、その極端まで行ってしまったような、決意めいた色をその顔に浮かべて。
一機目のヘリが飛び立つ。
荒れ果てた戦場には、白い布の掛けられた、死傷者たちの死骸がならべられている。
もう見分けもつかない、薬音寺のからだも。
回収班が来るのは、また後だ。
立ちすくむマリアのすがた。
夕陽が彼女を深紅色に染め上げている。
背後にだれかが立つ。
ふりむく。
紫苑。
「雄輝は大丈夫すか?」
「ああ」
紫苑の手が頬に触れる。
「つらかったんじゃないすか?」
「大丈夫だ」
思わず、差し伸べられた手を払いのける。
紫苑──傷ついた顔。
目をそらす。
立ち上がる。
マリアに近づく。
「行こう、マリア」
「……嫌。あたし、ここにいる。あいつを置いていけない」
「クラッグがまた来るかもしれない。ここは危険だ。回収班に任せておけ」
「回収、なんて言わないで! あいつは!」
マリアの、絶叫と等しきさけび。
「あたし、馬鹿だから。全然、気づけなかった。自分のこと、あいつのこと。本当に、馬鹿だったんだ。だって、だって、おかしいじゃない。告られた途端、一人になるなんて。あたし、ここから動かない。動けないよ……」
二人で夕陽の光に浸かる。
薬音寺の声がよみがえる。
何度も頭のなかで。
人の死になど、慣れていたはずだった。
この世界で。
こんな世界で。
それなのに。
不覚にも、涙がこぼれ落ちそうになった。
親友、と呼べる奴だった。と思う。
もういない。
「行こう、マリア。僕は、お前を死なせられない。薬音寺にしかられちまうよ」
マリアの口もとから泣き笑いがこぼれた。
「あいつ……馬鹿よ」
「ああ、大馬鹿野郎だった。みんな、あいつが大好きだった」
マリアが胸に飛びこんでくる。
僕は──
薬音寺のように、優しく抱きしめてやることはできない。
僕は、あまりに硬質で、罪に汚れている。
軽く髪を撫でてやる。
その程度しか、できない。
「もう大丈夫……ありがと」
マリア──目を拭いて、ヘリに乗りこむ。
僕もつづく。
ヘリが、空に飛び立つ。
座っているだけでも全身が痛む。
帰ったら検査を受けるべきだろう。
くもった空色。
なにひとつ会話のない機内。
思考が、記憶の洪水に追いつかない。
じっと座っているだけで、いつしか基地が見えてきていた。
「……なんの騒ぎでしょう?」
真幸がつぶやく。
基地全体が、なにやら騒がしい。
成人兵士が走り回り、さけんでいる。
ヘリから降り立つと、近くにいた大人を捕まえる。
「なにがあったんです?」
「反逆だ」
大人が告げた。
「樽本曹長が、もとから反発精神のあった少年少女兵士に呼びかけ、視察に訪れていた総理大臣を人質に取った。いまは将校居住区の一画に立て篭もっている」
「早まった真似を──」
ノイズが踵を返す。
「説得に向かうだ」
「そうと決まったら、早く行きましょう。急がないと、樽本さん、殺されちゃいますよ」
真幸の言葉に、粉砕分隊の面々はうなずき、歩き始める。
そこへ、村崎二尉が現れる。
「お前たち、どこへ行くの。樽本曹長に仲間する気?」
「いいえ。説得に向かいます」
「それなら話は早い。ついて来なさい」
兵舎とは逆方向に位置する将校居住区。
成人兵士たちが銃をかまえ、周囲を包囲している。
村崎二尉の説明に、成人兵士たちは、うなずいて道を開ける。
居住区の建物内に入る。
《聞きやがれ、糞ったれな大人ども。下手な真似ぇしやがったら、さっさとこの大臣殿を撃ち殺して、それで終わりにするぜ。お前ぇらは、いつまでも役立たずの見物人〈ウォッチャー〉でいりゃあ、いいんだ。ただ見てるだけなんだろ、お前ぇらはよ》
基地中に設置されたスピーカーから、樽本のさけびが漏れる。
廊下を歩いて行くと、四名の少年兵士が、見張りとして扉の前を固めていた。
少年兵士の一人が、こちらに銃を向け、軽蔑の目を向ける。
「大人どもの言いなりか?」
歩み出る。
こちらを見て、少年兵士が顔を強張らせる。
人と戦うために変化するつもりはなかったが、駆け引きの道具となるなら、利用しない手はなかった。
「僕たちは自分の意志でここへ来た。悪いが、通してもらうぞ」
一睨み。
少年兵士──汗を流し、逡巡し、銃を下ろす。
こちらが一歩踏み出すと、少年兵士たちは道を開けた。
「悪いだな」
とノイズが笑みを浮かべて謝りながら、全員、奥の扉へと向かう。
扉を開ける。
広い陸上幕僚長専用部屋。
総理大臣と面会中だったらしい陸将は、頭から血を流し、倒れている。
樽本を始め、十名ほどの少年兵士が、総理大臣をにらんでいた。
当の総理大臣は、デスクの前の椅子に座ったまま、自分を囲む少年少女を、余裕の笑みで見つめている。
「待っていたぞ、村崎二尉。これ以上、この私に銃を向けさせるな」
総理大臣が村崎を見つめ、言う。
村崎──無表情。
樽本が、目を通していた書類から顔を上げた。
「いま、ちょうどあんたについての資料を見つけて、読んでたところだぜ、二尉殿。俺ぁ調べものするのが好きでね、あんたのことは、ずっと気になってたんだ。ちょくちょくすがたを消す、不審なあんたの行動がな。ようやく、見つけたぜ」
樽本の挑戦的な笑み。
その眼は、ギラギラと光っていた。
獲物を前にした獣。
「あんた、大臣直属の兵士だったんだな。こいつの命令のもと、極秘の任務を引き受ける特殊部隊の一員。それが、あんたの裏の顔だったってぇわけだ。色々とあくどいことやってんなぁ。一番たまげたのが、この箇所だ──暴動を起こす恐れのある西南地区の者を始末せよ。恐れのある、だと? 疑わしきは罰せよってか。ここに、暴動を起こす恐れのある人間のリストがあるぁ。随分な大量殺戮だ」
その場にいた者がみんな、村崎二尉を見た。
「存在しない任務の書類は、抹消するよう進言したはずですが」
陸将の死体に目をやり、顔色一つ変えず、村崎は手にした拳銃を持ち上げた。
冷徹な顔。
「いますぐ大臣を解放しなさい」
「なぁ。こいつは、俺たちを見殺しにしようとしたんだぜ。いつだってそうさ。俺たちは、こいつの駒でしかなかった。あんたこそ、その最たるもんじゃねぇか」
「もう一度言う」
撃鉄を引き起こす音。
「大臣から離れなさい」
「命は、あんたにとって、なんでもないのかい」
「この都市を守るためよ。犠牲というものは、いつだって必要とされる」
一行は、突然の展開に、成り行きを見守ること以外、どう動くこともできず。
手を腰に当てる。
そこにナイフがあることを確認する。
だが、変化したところで、いったい、だれに刃を向ければいい?
「この都市はなぁ、子どもを犠牲に成り立ってんだ。子どもだけじゃねぇ、役立たず、はぐれ者、そう認定された者、そういった奴を犠牲にして成り立ってんだ。だれもそれを気にしねぇ。当たり前だと思っていやがる。だれも考えようとしない。ほんとうに、ほんっとうに、この都市に守るべき価値があるのかってな。俺たちを犠牲にして成り立ってる世界で、俺たちが生きてく意味ってぇのは、あるのか。俺たちはただのスペアだ、そこの大臣や大人どもにとっちゃあな。いくらでもいる、そのほか大勢の内の一人に過ぎねぇ。こいつらが考えてることはひとつ、自分たちが老いて自然死するまで、平和な世界がありゃあいい、それだけさ。次の世代である俺たちの未来なんてどうでもいい、自分たちの現在が守られりゃあ、それでいいのさ。俺たちは、俺たちの都市を守ってるんじゃねぇ。こいつらの都市を守ってんだ。そうだろ? えぇ?」
「君たちの未来など、もはや存在しない」
大臣のふくみ笑い。
「人類は二度と子を産めないからだとなった。これは、まぎれもない事実と認定された。未来は消えた。この現実だけがのこったのだ、私の兵士よ。我々に可能性は必要ない。いまここにいる我々が生き延びるというかぎられた現実があれば、それでじゅうぶんなのだ」
「てめぇらだけの現実じゃない。俺たちの現実でもあるんだ。俺たちにも未来はあるんだ。どれもこれも、勝手に消しちまう気か、お前ぇらは!」
「人類という歴史の輪が閉じられようとしているいま、なんのために諸君らは未来を求める。なんのために生きたいと願う。すべて哀れな自己憐憫にすぎない。もはや人類として、種の存続など果たすべき役割の消えた諸君らに、役を与えてやろうと言うのだ。この都市を守り、懸命に生きて、使命感や、それを果たした満足感とともに死ぬ機会を与えてやっているのだ。感謝してもらいたいくらいだ、我が子らよ」
「ふざけんな」
樽本──銃を大臣に向ける。
「俺たちのために都市が在るのか。都市のために俺たちが居るのか。どっちなんだ。それとも、都市も俺たちも、みんな、お前ぇのためにあるのか」
「この都市を守ることしか、我々にはのこっていない」
村崎二尉──拳銃をかまえたまま、言い放つ。
重い響きを持った言葉。
「それ以外になにを為す。いますぐ集団自決する? 私もお前も、もうすぐ大人となり、クラッグとは戦えなくなる。そのときまで、懸命にこの都市を守る。みんな、そうしてきたから。みんな、役割を果たしてきた。いまの我々がこうして生きているのは、いまお前が銃を向けている大人たちの戦いがあってこそだ。私も役割を終えるまで戦いつづける。守りつづける覚悟よ」
「そのとおり。私を撃ったところでなにも変わらんよ」
大臣が目を閉じて言う。
「この都市と、人類の現在と、諸君らの存在は、変わらずのこる」
「そんなのぁ、頭の悪ぃ屁理屈だ」
進み出ようとする樽本を、村崎が銃で牽制する。
「なにもかもゆがんでる。ゆがんできてやがる。なのに、だれもそれを指摘しようとしねぇ。なぜだ? ここがゆがんでるからだ。この都市そのものがゆがんでるからなんだよっ!」
突如として、背後で銃声が聞こえた。
つづけて扉が押し開かれ、少年少女の兵士たちが突入してくる。
全員無表情で、銃をかまえている。
その銃は、樽本たちに向けられていた。
大臣が笑みを浮かべる。
「私に銃を向けて、拳骨で済むとでも思ったか?」
無表情の少年少女たち。
その先頭に立っているのは、美奈だった。
「美奈──?」
自分に向けられた銃口と、それをにぎる妹の顔とを見くらべる樽本。
「美奈、俺だ、わからないか」
近づく樽本。
銃口が上がり、彼の胸を狙う。
ノイズがいきなり動き、美奈に近付いて髪をかき上げる。
美奈は、ノイズを認識していないのか、動かない。
美奈の額に、ノイズと同じ手術痕。
「なんと……いうことを」
ノイズのうめき。
無表情の少年少女十人の兵士たちを見わたす。
「そうか。君は失敗例の一人だったな」
大臣がノイズに言った。
「君らのような兵士が、我々には必要だったのだよ。従順な兵士。戦うための兵士が」
「こいつはなにを言ってやがんだ、ノイズ。俺の妹は──?」
ノイズの顔が険しくなる。
「君はおぼえていないのだろう。仲間たちがどうして死んだのか。唯一無事だった君は、記憶喪失に陥った。それでも、あの実験のせいだということだけはおぼえているようだね。大丈夫、もう悲劇はくりかえさないよ。そこにいるのは、完璧な兵士として生まれ変わった、私の自慢の子供たちだ。私に従順で、私のために動く。それが、この都市の理想のすがただ」
樽本──銃身がふるえる。
美奈に手を伸ばす。
美奈──無表情のまま銃を突きつける。
「樽本君。彼女が君の言うことしか聞かないのは、大変問題なことだった。ここは私の基地であり、私の都市だ。私が出撃を命じれば、それに従い、命を懸けて守れと命じれば、そうする。そういう兵士を私は欲していたのだから」
「てめぇ、美奈になにしやがった!」
「ちょっとした手術だよ。これで彼女が恐怖を感じることは二度とない。母親の死におびえることも、兄に縛りつけられることも二度とないのだ」
「縛ってただと? 俺が美奈を束縛してたってぇ言いてぇのか」
樽本の顔が怒りにゆがむ。
「それだけじゃない。彼のように」
大臣がノイズに顎を向ける。
「大人になったとしても、クラッグから感染することはなくなる。妊娠すら可能かもしれない。これは、人類の希望なのだよ。君の兄としてのエゴで潰していい問題じゃない」
「なんっ……だと……」
部屋中で、おたがいに向けられる銃口。
争いは避けられそうもなかった。
ナイフを抜こうと、腰に手をやる。
その手がつかまれる。
「クラッギー、お前さんに人殺しはさせないべ」
ノイズの声。
真後ろから、ささやくように。
「そんな奴は、おいらだけでじゅうぶんだ」
足音。
ノイズが歩み出てくる。
先頭に立つ。
「大臣」
ノイズが、手に持っていた銃を床に置いて言う。
「ここで撃ち合っても、あんたの言う、この都市を守る兵士の数が無駄に減るだけだべ。だれにとっても、大きな損失となる。ここは、なにもなかったことにして解散するってのはどうだべか。そんでおしまい。悪くない提案だと思うだが」
「君たち全員を捕らえ、手術を施すという手もある」
「大臣。みんなが手にしてる銃は飾り物じゃねぇ、玩具じゃねぇだ。相手を撃つのにも、自分を撃つのにも使える、万能の道具だ」
大臣──ふむ、とおもしろそうにノイズを見つめる。
「君は、ここにいるみんなの命と、なにかを取引できるかね?」
ノイズ──それには答えず。
少年兵士たちを見まわす。
「曹長、銃を下ろすだ。みんな、死ぬだけだべ」
樽本、ふるえる銃を──ふるえる腕を、見下ろす。
ゆっくりと銃を下ろし、大臣から目をそらし、美奈を見つめる。
なにも見ていない、敵だけをとらえた、美奈の瞳を。
樽本に従い、少年兵士たちが銃を下ろす。
それを見計らってか、大人の兵士たちが駆けこんできた。
銃をこちらに向け、大声で怒鳴っている。
ノイズ──歩き出す。
「これは、おいらが始めた騒ぎだべ。責任はすべて、おいらにある。そうさな、大臣」
取引の答えだった。
大人たちにも聞こえるように言う。
大臣が、いいだろう、と言うようにうなずく。
「ああ。他の者は、こいつに踊らされただけだ。この者を捕らえろ」
「それには及ばないだ」
ノイズ、兵士たちに銃を向けられたまま、部屋の中心まで歩いて行く。
「おいらは、なにひとつ、わすれちゃいないだ、大臣。知っていた。おぼえていた。みんなのことを忘れるはずがないべ。みんなとの日々は、ちゃんと記録していただ。長い月日が経っただが、おいらは、みんなを置き去りにするつもりなんて毛頭なかっただべ」
脳裏に浮かぶ、壁に貼られた数十枚の画用紙。
その奥に隠された写真。
「みんな、君が殺した。置き去りにしたのは君だ」
と大臣。
ノイズ、自然な動作で手を上げる。
その手に握られた拳銃。
「それも、知ってるだよ、大臣」
「君が彼らを殺したのだ。彼らは、どんな思いを抱いて眠っているのだろうね?」
一瞬の躊躇。
自嘲気味の薄笑い。
「──神様だけが知ってるだ〈ゴッド・オンリー・ノウズ〉」
だれにも止めることはできなかった。
ノイズの手元から放たれた銃弾が、大臣の脳を吹き飛ばした。
デスクの前で椅子に座ったまま、死をむかえる内閣総理大臣。
沈黙が、ずっとつづきそうな沈黙が、その場を満たした。
ノイズが、銃を下ろした。
手から力を抜き、銃をデスクの上に置く。
「……残念よ、ノイズ二曹」
沈黙が覆う場で、唯一、強い意志のもと、声が発せられた。
村崎二尉──その銃がノイズに向けられる。
ノイズ。
ただ、笑みを浮かべた。
「やめて──」
誰かの嘆願するようなささやき。
おそらく真幸。
銃声。
血が一筋、垂れた。
つづいて、血飛沫が飛んだ。
ノイズ──膝をついた。
その口元から血がこぼれる。
「──おいらは、あんたを知ってるよ……村崎……和美……幼いころから……」
かぎりなく優しい声。
村崎二尉──表情を変えない。
「人一倍、銃を撃つことに抵抗をしめしていた……優しい子だっただ……」
ノイズが顔を上げる。
天井を越え、空を越え、遠く近いなにかを見つめる。
「いつの間にか……おいらだけが、こんなに生きて──」
壁に貼られた写真──みんな笑っていた。
やがて倒れ、動かなくなるノイズ。
都市がノイズを殺す瞬間。
樽本──銃を落とす。
両手を額に当ててくずれ落ち、すすり泣く。
大人たちがいっせいに動き出した。
運び去られる陸将と大臣、ノイズのからだ。
苦々しい顔をされながらも、樽本や少年兵士たちは解放された。
内閣総理大臣の最期の命令、ノイズの優しさによって。
意識がはっきりしない。
自分が自分の足で歩いていることすら、頭の片隅でぼんやりと理解しているだけだった。
地面との距離が、やたらと遠い。
どうやって外に出たのかもおぼえていない。
空を振りあおぐ。
灰色にかすむ低い空。
僕たちは。
ふと酸味が喉にこみ上げる。
猛烈な嘔吐感。
僕たちはなんのために戦っているんだ。
ぶちまけた。
腹が空になるまでつづいた。
口から漏れるうめき声が、他人ごとのようだった。
かすかに硝煙の匂いがした。
*
分隊部屋にもどる。
真っ暗な室内。
ほかには誰ももどっていない。
電気を点ける。
誰かが立っていることに気づく。
部屋の中心で、ノイズのベッド脇の壁を見つめている。
佐々木医師。
「わしが彼の手術を受け持った」
淡々と語る老人。
口をはさまずに耳を澄ます。
「わしは反対じゃった。それで、ほとんど見せかけだけの手術を済ませた。ほかの子供たちは、みんな、ほかの医師によって手術を完遂された。それがノイズのかつての小隊仲間たちじゃ」
壁に貼られた写真が、やはり笑ったままでいる。
「感情を喪失し、自分の意思を喪失し、ただ、敵と戦う、忠実な兵士。じゃがそもそも、そんな彼らに、敵という概念が理解できるはずもなかった。初の実戦において、戦う相手を把握できず、敵としてしか他者を認識できない彼らに、ついにはなにが起こったか」
耳をふさいでさけび出したかった。
それもできないほど、疲れ果てていた。
「仲間同士で殺し合ったのじゃ」
疲れ果てた色を浮かべる老人のとなりに立つ。
写真に写る、一人一人の顔を見ていく。
「ノイズは、生き残るため、かつての仲間たちを解放するため、戦った」
ノイズの顔が浮かぶ。
あのおだやかで優しい顔を。
「彼は発見されたとき、完全に心が壊れていた。じゃからわしは──彼の知性を削った。すべてをわすれさせてやるために」
「ノイズは……わすれてなんか、いませんでしたよ」
僕の言葉に、佐々木は壁の写真を見つめ、拾い集められてベッドの上に置かれた画用紙の束を見つめ、うなずき、涙を流した。
佐々木が退室した後、電気を消し、一人、ベッドに寝転がって天井を見上げる。
「雄輝──」
紫苑の声が、どこか遠くでした。
視線を動かす。
彼女は、扉から少し入ったところで、危なげに立っていた。
ゆっくり歩み寄ってきて、二段ベッドの梯子を数段上り、こちらを見下ろす。
「真幸とマリアは、キャシーのところ」
ほかの奴らは、と聞きそうになって口をつぐむ。
人の死になど慣れているはずの世界で。
それでも悲しすぎる現実が、そこにある。
薬音寺。ノイズ。美奈。
それぞれの守るもの。
その身を懸けて守らねばと信ずるなにか。
「僕にはない」
自分でも意外なほど、情けない声が漏れた。
そんなもの……僕には。
気づけば、紫苑の腕をつかんでいた。
ベッドへ引きずり込む。
抵抗する様子もなく、紫苑はとなりにやって来た。
いつかのように、紫苑の顔が間近──目と鼻の先にある。
あのとき、一瞬だけ感じたもの──もうすぐで見つけられそうだったものをさがすために顔を近づける。
その吐息を感じれば、あるいは、と期待する。
相手の唇に顔を近づける。
滑らかな色をした、官能的でやわらかそうな唇。
普段、気にも留めなかった部分に動揺する。
その頬に触れてみる。
温もり、ふっくらとした感触。
「してみたいっすか? いま、ここで」
紫苑の声。
吐息。
くらくらする感覚。
半ば夢心地で、紫苑を見つめる自分を遠くから見つめる。
彼は紫苑を押し倒すかたちで上に乗り、限界寸前まで顔を近づけている。
「僕は、あんなふうには死ねない。戦えない」
彼はおびえている。
ふるえている。
おそれている。
紫苑の瞳。
その輝きに吸いこまれそうになる。
「……守るものを与えてくれ」
彼は言った。
ほとんど哀願するように。
拒否される恐怖、受け入れられる不安が、織り交ざって混濁した意識のなかで。
与えられること。
それを拒む気持ちと同じくらい、それを望む気持ちは大きい。
紫苑が目を閉じた。
小さく布の擦れる音が聞こえた。
下で、もぞもぞと動く気配。
暗闇のなか、脱ぎ捨てられた服が、次々と山積みにされた。
そのあいだ、どうしていいのかわからず、目を閉じておくことにする。
それだけで官能的な響きのある音が、唯一、聞こえてくる。
「目なんて閉じなくっても。見て、いいんすよ」
これ以上ないほどの甘いささやきに、目を開ける。
下は見ず、相手の顔だけを見つめることにする。
いつもの無表情。
そのことに、すこし困惑する。
「いつも、シャワールームなんかで見てるじゃないすか」
「……状況が、ちがいすぎる」
「大丈夫すよ。これが自分。そのことを、自分だけじゃなくてだれかにも知ってもらいたい。ずっと、そういう気持ちを抱えて生きてきたっすから」
一糸まとわぬ紫苑。
そのなめらかな肌に触れたいという気持ちを、どう処理していいのか分からず、ただ、顔だけを見つめる。
「雄輝。自分のほんとうの名前、おぼえてるっすか?」
ほんとうの名前。
着ていた服に書かれていた文字の羅列。
きっと、意味もない言葉。
「知らない。知る必要もない。……紫苑は?」
「紫苑がほんとうの名前っす。だれかからなにかを与えられるのは、むかしから嫌いというか苦手で、名前もほんとうは、自衛隊に入ってから自分で決めたかったんすけど。これだけは、どうしても捨てられなかったんす。どうしても、この名前だけは」
「紫苑は、どうして自衛隊へ?」
「六歳の頃まで西南地区で暮らしてたんすけど、とんでもなく貧しかったんすよ。そりゃもう極限状況で。両親が生きるためには、自衛隊に渡すしかなかった。そうでなけりゃ、両親も自分も餓死するって状態で。両親とはその後、会ってないっす。どうしてるのかも知らない。生きてるか死んでるかも。まあ、おかげで市民権を得たわけだし、平和に暮らしたんじゃないすかね。もともと、こっちが餓死することなんてどうでも良くて、あの人たち自身が助かるためだけに、やったことなのかもしれないっすけど。とにかく。この名前さえあれば、自分は、あの人たちの子でいられる。そのことが、たとえどんなに苦しくて、耐えがたい重圧であったとしても。それを捨ててしまえば、自分は、自分としての自分を失ってしまう──そんな気がして」
たいせつななにかをそっと手わたすように、自分のことを話す紫苑。
その誠意にすこしでも応えたくて、彼=僕も口を開く。
「僕は……鈴菜を殺し、コリンに殺されかけて生き延びた」
毎日。
僕を殺す代わりに、自分の腕に一本ずつ線を増やしたコリン。
その後ろすがた。
振り上げられるナイフ。
なにか言う自分。
なにも言うな、というさけび。
自らをかばおうと持ち上げた腕を、なにか異質で鋭利なものが切り裂く痛み。
この痛みを、コリンはずっと耐えてきたのだ、という思い。
抗わず、拒まず、ただ受け入れる。
そう心が決めた瞬間。
その心に反発する意思がうなりを上げた瞬間。
ふざけるな、という憤怒、嘆願、悲鳴、絶叫、抵抗。
「憎まれながら産まれたんだ、僕は」
「ほんとうに憎まれて産まれてきたのなら、名前なんてつけられてないっすよ」
「名前なんて、ただの文字の組み合わせだ。なんの意味がある?」
紫苑の目が、まっすぐ、こちらを見た。
その力強い真摯な眼差しに狼狽する。
「名前と言えば、この都市には名前がないっすよね。なんでだと思うすか?」
「さあ。面倒だったんじゃないか?」
「きっと、この都市が独りぼっちだからっすよ」
「どういう意味だ?」
「話はまた変わるっすけど、人間にとって最初の数ってなんすかね?」
「さあ……一か、それとも零かな?」
「自分はむしろ二じゃないかと思うんす。つまり、一が一であるかぎり、自分たちは、数、というものを意識しないんじゃないすか? なんらかの意味で全体的なものに分割が生じ、そこに対立や並置、さまざまな関わり──交渉が起こることによって、二という意識が生じる。そこで初めて一という概念も生まれてくる。生まれたときから、たった一人だった人間と、大勢の人に囲まれて育ったのに、たった一人の状況に投げこまれた人間と──どちらが、孤独というものを感じるっすかね。そして、その一という概念が強まれば、一と一には区別が必要とされるかもしれない」
「それで?」
「この都市は一つであろうとしている。そもそも二や三、あるいは百や千であったことなどわすれて。それが一番の平和だから。一という数字には、分割や対立を仮定する響きはなく、葛藤などとは結びつかない。平和を維持しやすい」
「僕たちは──その一に呑みこまれているのか」
「それは幸せなことなのかもしれないす。それでも、自分は好きになれない」
「どうして?」
「自分に反するからっす。自分という存在に、その生き方に反するから」
「分かりやすく説明してくれ」
「紫苑っていう花の花言葉、知ってるっすか?」
「なんなんだ?」
「あなたをわすれない──」
紫苑の唇が僕に重ねられた。
その左手が、僕の後頭部に添えられる。
為す術もなく、舌を感じた。
相手の右手が、胸のあたりをさすっているのを感じる。
「私は紫苑。それが、自分にとって、なにより大切なもの」
紫苑──ゆっくり、僕の服のなかに手を差し入れる。
冷たいような、温かいような手が、直に肌に触れた。
その手を、服の上から握り締める。
「失いたくないと思うものはないの?」
ふと、紫苑が言った。
まるで別人の声だった。
地盤がないんだ、と思わずさけび出しそうになった。
足で踏みしめ立つべき地盤が、どこにもないんだ。
なんのために戦い、生き、死ぬのか。
なんのために、この都市にいるのか。
ノイズのかつての仲間は、敵としてしか他者を認識できなくなった。
佐々木医師は、そう言った。
その結果の殺し合い。
味方殺し。
薬音寺の胸にこびりつくペイント。
その映像が脳内でくりかえし再生される。
自分も、なんら変わらない。
このままでは、いつかノイズのかつての仲間たちのようになってしまう。
手術など関係ない。
ただ、地盤がないというだけのことで。
感情を喪失し、自分の意思を喪失し、ただ、敵と戦う兵士。
まるで駒の兵隊だ。
駒の兵隊──チェス。
ふと目の前に、駒の並べられたチェス盤が浮かんだ。
この都市はチェス盤のど真ん中にあって、大臣や大人たちがそれを囲み、駒を動かしている。
ただキングを守るために。
キングは──なんのために守られねばならないのか?
一度だけ、村崎二尉からチェスに誘われたことを思い出す。
村崎はキングを守り、相手のキングを落とすためなら、どんな駒でも犠牲にした。
村崎二尉のキングは揺らがず、不動で、そこに在るということ自体に価値があるのだと主張しているようだった。
薬音寺はsこし変わったプレイヤーだった。
お気に入りの駒──クイーンを守るためなら、キングをも危険にさらした。
たとえクイーンが倒されても、ポーンを進め、クイーンにするという手もある。
それでも、自らにとって本当のクイーンはひとつだ、とでも言うように、薬音寺は、ひたすらクイーンを守った。
ノイズは、敵の駒にも味方の駒にも被害をなるべく出さず、シンプルに敵のキングを狙いつづけた。
それが一番、痛みのすくない戦いかただというふうに。
「紫苑……今度、チェスしようか」
この状況下において繰り出すべき発言ではなかったが、紫苑は気にしなかった。
「自分は、将棋のほうが得意っす」
紫苑が彼の肌を触りながら答える。
シャツはとっくに脱がされていた。
「これは単に自分の印象っすけど、チェスはたがいに奪われつづけるゲーム、将棋はたがいに奪いつくすゲームだって感じるんすよ。どうすか?」
「それは人それぞれのプレイスタイルにもよるだろう。それに、どうせ僕たちは捨て駒だ」
「ポーンはチェスの魂である、と言った人もいるすよ」
「結局は、チェス盤の上でだけの話だ。そこから抜け出すことも、チェス盤を壊してやることもできない。その盤の上で、決められたマス目を動くだけだ」
「それで思ったんすけど。そうだとして、このチェスのプレイヤーはだれなんすかね?」
「駒は。自分を動かすプレイヤーをふりかえることはできない。前を向いたままだ」
「いいすか。チェスの戦いは、戦略と戦術の面から考えられる。戦略とは、局面を正しく評価し、長期的な視野で計画を立てて戦うこと。戦術とは、より短期的な数手先程度の作戦をしめす」
「わかる」
「いま、この都市を取り巻くチェス盤は、戦術しか考えていないような気がするんす。ただ、その場を凌ぐだけの作戦。長期的な視野が存在しない。いや、もともとあったものが、いつしか消えてしまったのかもしれないっす。人類の未来が次第に閉ざされ、戦いが日常となっていく過程で」
「つづけてくれ」
「クラッグは戦いかたを変えてきた。もし、序盤は本のように中盤は奇術師のように終盤は機械のように指せ、という言葉通りに攻めてきているとしたら、次は終盤──チェックメイトのときっす。たがいの戦略、それらの目的がいったいなんなのか。いまのうちに考えてみて損はないっすよ」
甘い吐息を交えながら語り続ける紫苑。
そこでようやく僕は、彼の両手が、紫苑の胸を弄っていたことに気がついた。
彼女の左肩の刻印が目に入る。
それを目で追い続けることにする。
『I.M.C.O』=「自分が思うに、こういうことっす〈イン・マイ・コンシダード・オピニオン〉」。
駒を進める。
紫苑の腹に手を滑らせる。
局面を正しく評価しろ。
呻く。
いままでに感じたことのない、耐えがたい欲求が上り詰めてくることを実感する。
ふるえる両手を離す。
紫苑と目が合う。
「今日は、駄目だ。まだ、そのときじゃない。これは──ちがう」
そこまで言うと、両手を顔に押しあてて、うめいた。
優しく抱きしめてくれる紫苑。
その胸の感触。
安らぎを与えてくれる。
素直に受け取る。
紫苑が与えてくれた温かさを。
両手いっぱいに膨らむ、やわらかな優しさ。
「耐えられなくなったら、いつでも声をかけてくれていいっすよ」
紫苑が横に転がり、枕に頬を当ててこちらを見る。
「つらくなったら、いつでも。まあ……男性的生理現象に関して、自分じゃ処理しきれなくなったときにも、声をかけてくれて結構っすけど」
たしかに数日間、悩まされることになりそうだ、と紫苑のからだを改めて見つめ、思う。
もしかすると、自分はとてつもなく馬鹿な意地を張っているのではなかろうか。
素直に受け取れば良いものを。
薬音寺に話せば、すかさず馬鹿にされるだろう。
それでも。
受け取ること。
それが、すべて肯定をしめすとはかぎらない。
その理に心をあずけ、耐える。
「気持ちだけでじゅうぶんだ。今日ここに、紫苑がいてくれて、良かった」
「自分もすよ。またひとつ、お願いがあるんすけど」
「なんだ?」
「眠るまで……話し相手になってもらってもいいっすか」
「わかった。このまま話しながら……眠ろう」
いろいろな話をした。
聞いたり、聞いてもらったり。
何時に見上げた空が一番好きか。
飛べるとすれば、どんな天気の空を飛びたいか。
どの季節の香りが一番好きか。
どの季節の風が一番好きか。
いつもどんな夢を見るか。
どんな夢のつづきを見てみたいか。
話しているあいだ、まるで二人で、深く濃い森のなかを歩いているような錯覚にとらわれた。
都市の外に広がる荒野でも、都市のなかに作られた小さな自然公園でもなく、大きく深い森のなか。
鳥が鳴き、木々が揺れ、風で葉がささやき、雨の雫がしたたり、土が香る。
しだいに、うつらうつらとしてくる。
「紫苑──いい、名前をもらったな」
気持ちのいいまどろみのなか──ぽろっと言葉がこぼれた。
「わすれないさ……きっと」
紫苑の寝顔が、ごく自然な微笑に染まるのを見た。
そう思うと同時に、張り詰めていた意識が暗転──温かな闇の奥へと引きずりこまれていた。
*
だれかの気配を感じて目を覚ます。
いつかと同じように、となりに紫苑のすがたはなかった。
実際にいたのはマリア。
となりのベッドに寝転がり、ひじを立てて、ポータブル型ゲーム機で遊んでいる。
時折、足を、バタ足でもするように浮かせたり沈ませたりしている。
寝ぼけまなこで、そんなマリアを観察していると、
「服、着なよ。セクハラって言うのよー? それ」
との指摘。
あわてて自分のからだを見下ろし、近くに重ねられていた服を身に着ける。
「紫苑と……したの?」
直球のマリア。
とりあえず首を横にふっておく。
「なんでぇ? 後悔するよー? いつか」
とことん元気のない声のマリア。
とても彼女らしくなかった。
彼女と二人きりの空間というのが、まずめずらしかった。
いつも彼女は──なんだかんだで薬音寺と一緒にいたからだ。
もともとマリアには、その美貌に惹かれて近づく男兵士が多かった。
マリアはそういうのが苦手で、それでも薬音寺とは、よく一緒にいたように思う。
「ねぇ、知ってる? あいつさぁー……よく女遊びしてるような発言してたけどさ……あれ、大半は誇張……ていうか、ほとんど嘘だったんだよ……」
あいつ、がだれを指しているのかは明白だった。
マリアはきっと、こちらに向かって──僕に向かって、話しているわけではないのだ。
だから、口をはさまなかった。
「あいつに、そんな度胸なんてあるわけないしねー……。馬鹿みたいだよ。そんなふうにじゃなくても、きっと会話とかできたと思うのにさぁー……」
後悔。
その重さが、言葉の端々からにじみ出てくる。
「あいつも勝手でしょ? あんなん勝手に言って勝手に死んで、意味わかんないよ、なにもかもあたしに押しつけてさぁー……」
マリアが顔を枕のなかに埋める。
「もう意味わかんない。あれから、ぜんぜん、意味わかんないしぃー……」
声がふるえていた。
ちきしょぉー、と声が泣いていた。
「あいつを殴って、とっちめたいよぉ……」
「泣けよ。変に強がったりしないでさ」
言った。
マリアがおどろいて顔を上げる。
真っ赤っ赤な瞳。
涙をためこんで、内に秘めて、押し殺して、必死に馬鹿みたいに笑おうとして、失敗した顔。
「あいつも、きっと喜ぶ。レア・マリアだ! とかってさけんだりして」
つー、と透明な水滴がマリアの頬を伝った。
「薬音寺……」
マリアのささやき。
つぶやきとともに、さらに水滴が流れ落ちる。
「薬音寺ぃ……」
声がかすれる。
せきを切ったように涙があふれる。
「薬音寺ぃー! お前、ちくしょう、馬鹿たれぇー! この野郎ぉー!」
顔をゆがませ、両手でシーツを握りしめながら、大声で泣いた。
「百回死ね、死んで生き返って、もういっぺん、死ねぇー! 阿呆ぉー!」
亡くなった人間に対しての大量の悪態・暴言を吐いたあと、マリアは息も絶え絶えに、ひっくひっくと、しゃくりあげていた。
そして、いまだ涙目のまま、真っ赤に充血した目のままで、こっちを向き、スッキリしたぁー、という表情を浮かべて、へへ、と笑った。
「あんがと。雄輝、意外と、いい男じゃんね」
「お前も、いい女だ」
二人して小さく笑う。
「紫苑や薬音寺には悪いけど、雄輝、もらっちゃうかなぁー」
「据え膳も食えぬ男だが」
「そんくらい堅物な男のほうが好みかもなぁー、あたし」
マリアが、ニッと笑う。
「ねぇ、聞いた?」
「なにを?」
「人数合わせのためにさ、粉砕分隊と爪牙分隊の生き残りを合わせるんだって。隊長はね、えーと……樽本曹長が降ろされてね……えへへ、あたしだよ」
「マリアが? 僕とおなじ一等陸士なのに?」
「そ。これからは、あたしに逆らわないようにね。みんな、あたしの奴隷ってわけ」
「なぜ、よりによって……」
「そこ、嘆かない! 残念ながら、一時的な代理ってだけで、当分のあいだだけよ。人手が足りないみたい。実戦までには、ちゃんとした隊長が決まるでしょ、たぶん。あとは、あんたと紫苑、真幸、樽本曹長と、それに爪牙分隊が三人。美奈は別分隊へ移動だって」
「美奈は――」
「うん。別分隊って……つまり、そういうことだよね」
「手術された子どもたちの集まり、か」
「許せない。あんなこと」
マリアが拳を握りしめる。
同感だ、とうなずく。
「樽本の様子は? あいつは、大丈夫なのか?」
「正直、都市を壊しかねない危険度だねー。怖くて近づけないよ」
「それでも、部隊に留まることを承諾するなんて、いったい、どういうつもりなんだ? 都市から出ていっても不思議じゃないのに」
「それはねー、きっと……美奈がいるからだよ。美奈を助けたいんだよ」
「分隊長は、ずいぶん、部下に甘いからな」
分隊長。
つい口にして、その言葉と現実の齟齬に気づく。
泣きたくなる。
もう分隊長じゃない。
もう分隊はない。
もう、粉砕分隊は、存在しない。
樽本の問いかけが、重みを得て、心のなかに沈む。
──本当に、この都市に守るべき価値なんてあるのか?
「もともと、都市に価値なんてあるはずがないさ」
つぶやいた。
「都市にかぎらず、人命、心、人生、存在、とにかく、価値なんて相対的で、きっと絶対的な価値なんて存在しない。人は優先順位をつけることで価値を生み出し、価値を見出し、そうやって、独特の社会を築いてきた。この都市だっておなじ。価値をなにに見出すか、それは、自分自身の価値というものにもつながるんだ、きっと。だから──」
なにが言いたいのか自分でもわからない。
言葉がしぼんで消えてしまう。
はぁー、とマリアが息を吐いた。
「あたしらの部隊って、小難しい奴ばっかりで退屈ー。あたしまで染まっちゃいそう。でもさ、どうせなら、爪牙分隊とも、とことん仲良くやろうよね」
不思議な感覚だった。
ライバル同士だった二つの分隊が、合わさって一つになる。
だが、と思う。
自分たちはきっと、だれ一人として、二だったころのことを、わすれないだろう。
「じゃあ、新しい分隊名、考えないとな」
「そうさねー……っと、もうすぐ訓練だよ。新しい組み合わせのこととか、たぶん正式に発表されるんじゃないかな?」
マリアが時計を見上げ、言う。
「行こっかー。新メンバーでの初陣ってことで、気合い入れていきまっしょぃ!」
*
訓練後のシャワー。
「あぁー、生き返るぅーい」
マリア──長い赤髪を下ろし、真水のシャワーで行水。
髪をかき上げると、左肩の刻印『H.A.K/A.D』の真下から、尻の上のあたりまで、蛇のような魚のような動物の刺青が彫ってあるのが、くもりガラス越しにも見えた。
「マリア、前から聞きたかったんだけど、その動物はなんなんだ?」
「あ、これー? ドジョウだよ、ドジョウー」
「ドジョウ? 刺青としてはめずらしいな」
「ドジョウはね、一部の地域では、踊り子っていう異名を持つんだよ。かわいいでしょ」
「踊り子ねぇ」
たしかに戦場での彼女は、目をみはるほどの美しさを放っている。天真爛漫な、その戦いっぷりは、見ていて清々しいほどだった。彼女は、頼れる戦友であり、美しい少女だった。
「新しい仲間ともうまくやっていけそうっすね」
マリアの背後から投げかけられた声に、思わず心臓が高鳴る。
声の主──紫苑。
その艶やかな肌から目をそらせない。
心臓の音が、耳の真後ろで聞こえる。
平然としてろ、いつも通りにしろ、と頭が命令を下すのだが、どうしてもからだが言うことを聞かない。
紫苑の双眸が、ガラス越しに、こちらに向けられる。
顔が赤くなりそうになって、シャワーを正面から浴びた。
自然と、シャワールームの端で静かに湯を浴びている男に目を向ける。
ただ一人、湯を浴びているがために湯気に包まれている男──坊主頭の猛犬──虎の刺青──樽本。
黙々と湯を浴び、からだを洗い流す、かつての分隊長。
その瞳が、なにに向けられているのかも、定かではない。
訓練での彼の連帯は的確だった。
行動にも、なんら異常はなかった。
その表情を除いては。
目の下にくまを作り、無精髭を生やし、血走った目で、すべてを見すえる。
なにもかもが敵に見えてるんじゃないか、と思えるほどだった。
戦う相手を把握できず、敵としてしか他者を認識できない者たち。
美奈の無表情。
樽本の、狂気を孕んだ瞳。
なにかが足もとからくずれようとしているような感覚に、必死で両足を伸ばし、バランスを取る。
それが、いまの自分にできる、せいいっぱいのことだった。
樽本がシャワールームを出る。
それにつづいて、紫苑、真幸も外に出ていく。
ついには、自分とおなじく、ゆっくりシャワーを浴びるタイプらしいマリアと、二人きりの状態になった。
「あのさ、一つ、聞いてもいいかな?」
マリア。
シャワーを止め、タオルを手に取りながら言う。
「だれでもいいもんなの? 男って」
「なんの話だ?」
「だからさぁー、だれとでも、したいもんなの?」
おなじくシャワーを止め、タオルでからだを拭き始める。
「さあな。あまり経験の蓄積がないから判断できないな」
「じゃあさ、いまここでする? て聞いたら、あんたは、どうするの?」
「高笑いして出て行く」
ばん、と音がして、男女の空間を隔てていたくもりガラスの敷居がずらされる。
マリアが、一枚の白いタオルを巻いただけの格好で、目の前に立つ。
「真面目に答えてよ。これでも真剣に聞いてんだから」
「悪い。すくなくとも、見境なくだれとでもするつもりは、僕にはないな」
「ほうほう。てことは、誰となら、するの? 紫苑?」
その名前に、一瞬、ぎくりとする。
「さっきもさ、紫苑のこと意識してたでしょ?」
「べつに」
「ばーか、ばればれだよ、雄輝。このぶんじゃ、本人にも気づかれてるかもね。そうですか、雄輝は紫苑に惚れちゃいましたか。やっぱ、迫られて、コロッといっちゃったの?」
「そんな安っぽい男にはなりたくないな」
「好きならさぁ……さっさと伝えた方がいいよ。あんたにとっても、きっと、紫苑にとっても。……あたしら、いつ、どうなるかわかんないんだからさ」
マリアの横顔。
悲しげな笑み。
「遅すぎだって、あの馬鹿……」
マリアが目をこちらに向ける。
からだに巻きついたタオルの合間から、その肌が覗いている。
彼女がなにを求めているのか、なんとなくわかる。
背を向ける。
「マリア。僕にお前を慰めてやることはできない。自分でもわかってるだろ?」
「ば、ばか! べつにそういうつもりじゃないよ。ばかばーか」
それでこそマリアだ、と思う。
二人してシャワールームを出る。
「よっしゃ、じゃあ今日は、雄輝の、ザ・告白・玉砕デーに決まりだね」
「玉砕は決定事項なのか? というか、そもそも告白の予定は──」
「紫苑ー、どこだー、出てこーい」
「……聞いてないな」
やけに楽しそうに、マリアが兵舎を闊歩。
偶然に通りかかった真幸を捕まえる。
「やっほぅ、真幸ぃ。紫苑見なかったぁー?」
「紫苑さん?」
興味なんて、ない。
そう自分に言い聞かせ、紫苑のことは頭からしめ出そうとする。
「ちょっとまえに、樽本さんといっしょに歩いてましたけど」
「はあぁ、めずらしい組み合わせだねぇー」
興味はない、興味はない、と頭のなかでテロップを流しながら、なにげなく聞く。
「で、なにしてたんだ、二人は?」
そんな僕を、マリアは、へぇ~ほぉ~という表情でニヤニヤ見ている。
「さ、さあ……。あのぅ、僕、なにかマズいこと、言いました?」
真幸に言われて、自分が異常なまでに真顔だったことに気づく。
「いやー、なんでもないの、なんでも。じゃねー」
マリアが笑みを浮かべて僕を引っ張る。
不思議そうな真幸をのこし、去る。
「どうやら目標は、あたしらの分隊長……いや、樽本曹長と接近遭遇してるみたいねー」
「どうでもいいよ、さっさと部屋にもどって寝よう」
「うわー、ノリ悪いなぁ……ま、あんたがそう言うんなら、いいや。もどろっか」
新しい分隊部屋は、粉砕分隊の部屋をそのまま利用することに決まっていた。
マリアが扉の前に立ち、ノブをにぎって首をかしげる。
「ありゃー? 鍵かかってる」
そいつは変だな、と思う。
現段階で、その部屋を用いる人間は、ほとんどいないはずだ。
まだ爪牙分隊の面々は自分たちの部屋から移動していないし、美奈はすでに異動した。
真幸は先ほどすれちがったのだから、のこるは紫苑と樽も──
──樽本さんといっしょに歩いてましたけど──
「おかしいなー?」
歩き出した。
なにかを考える余裕などなかった。
自分のなかの冷静な部分など数キロメートル向こうに置き去りにし、脳が沸々と沸騰しているようだった。
マリアを押しのけるようにして扉の前に立ち、自分でもおどろくことに、一気に蹴り破った。
最初に見えたのは、手前のベッドに腰掛ける男の背中だった。男は服を着ておらず、その背中の刺青──虎の刺青が、こちらをにらんでいた。
そして、そのかたわら──ベッドのなかで目を丸くして、こちらを見つめている少女の存在に気がついたとき──その少女が服を着ておらず素っ裸であることを頭のどこかで認識したとき──喉からは荒々しく息が漏れ、かつての分隊長につかみかかり、思いきり、顔面を殴り飛ばしていた。
樽本が、真っ裸で床に倒れた。
「雄輝、これは、え、いったい──」
いつもの無表情をおどろきの表情に変えた紫苑が、ベッドから腰を上げた。
その肢体を見つめながら、悲しいほど冷たい氷が、喉を通って、腹の底に沈むのを感じた。
だれでもいいのか、と思う。
だれでも、良かったのか。
マリアが紫苑に近づいた。
「さっさと服着なよ。あんたには、ちょっと聞きたいことがあるからさぁ」
その口調とは裏腹に、声は据わっていた。
紫苑が言われたとおりに服を着て、マリアの後について部屋を出ていこうとする。
すれちがう。
「……こういうの、やめようっすよ。自分たち、そういうのじゃ、ないじゃないすか」
小声でつぶやく。
その声は、全身を切り裂く鋸となって、僕のもとにのこった。
紫苑が出て行く。
樽本だけがのこる。
「お前ぇとあいつが、そういう関係だという情報は、さすがの俺でも持ってなかったなぁ」
樽本が裸のまま笑う。
一つ一つ、理性の線がちぎれていくのがわかった。
殺そう。こいつを殺そう。
そんな声が、全身から沸いてくる。
「あいつ、危なっかしいなぁ」
それでも、樽本はやめない。
「お前ぇ、あいつの過去とか知ってるか?」
「……よくは知らない。あんたとちがって、詮索するのは好きじゃないんだ」
「こいつぁ俺の性分でね。あいつぁ、実の父親に性的虐待を受けてたんだ」
衝撃。
そんなこと、知りもしなかった自分。
拳をにぎりしめる。
「ある日、母親が早めに生活のための仕事から戻って、扉を開けてビックリってぇわけさ。ベッドの上で、自分の夫が、自分たちの娘に乗っかってたんだからな。ベッドは大きく揺れてた。娘は、無表情で宙を見つめていたそうだぜ」
「やめろ……不愉快だ」
「だが聞け。そんでもって、あいつぁ、自衛隊に渡された。父親から解放する意味もあったのさ。だがあいつぁ、いつも家を留守にしていた母親より、父親の愛を強く感じていた。俺たちからすりゃあ、父親は異常だけどな。実の娘は、愛されていると感じてたのさ」
紫苑──あなたを忘れない。
頭のなかがくらくらする。
自分が立っていることが、とてつもなく不思議に思えた。
「それから、さらに話はつづく。あいつぁ、自衛隊に入ったときの担当教官にも強姦されてる。そいつぁ、普段はとても優しくて、理想的な教官だったそうだ。紫苑の父親もそういう男で、つまるところ、二人はよく似ていた。父親のような男がまた現れて、おなじように彼女をあつかったってぇわけだ」
愛される方法。
愛される行為。
「あいつぁ、それ以来、人の心を感じたくなると、すぐに相手を誘うようになった。父親みたいな奴が現れりゃ、ことさらにな。話じゃあ、頼まれりゃ、誰とでもヤッてたって感じだ。まあ、こいつは単なるうわさだがな。尾ヒレかもしれねぇ。けど、そうしねぇと、あいつぁ、人のそばに寄れず、安心できねぇんだろう」
──私は紫苑。それが、自分にとって、なにより大切なもの。
「そこまで知ってて──」
限界まで拳をにぎりしめる。
「そこまでわかってて、あんたはそれを利用したんだ」
「否定はしねぇがな。単に興味があったんだ。虚無と虚無がベッドの上でからむと、どうなるか、てぇことにな」
部屋にのこる熱気。
シーツの乱れ。
すべてを壊したかった。
ふりきってもふりきっても、あとからあとから妄想が追いかけてくる。
いますぐ気が狂いそうだった。
雑音に似た耳鳴りが、脳の裏側を削っている。
がむしゃらに暴れだしたい欲求をこらえる。耐える。我慢する。
裸の樽本。それに抱かれる紫苑。
考えるな。
手がナイフをさぐっている。
手がナイフをさぐっている。
手がナイフを──
自分がナイフの柄をにぎりかけていることに気づいて、愕然とする。
幾筋もの線。
「俺を、殺すか?」
樽本が笑った。
ふてぶてしい笑みだった。
そうして欲しいんだ、こいつは、と心の遠くで、ぼんやりと思った。
自分をふくめ、すべてのものに対して怒りが湧いた。
ふざけんな、どいつもこいつも甘えやがって。
ふうっと息を吐く。
全身全霊の力をこめて、両手を開く。
ナイフから手を遠ざける。
「馬鹿言え。殴り返したきゃ殴れ」
そこまで言って、なにやら外が騒がしいことに気づく。
樽本も気づいた様子で、扉のほうに二人して向き直ったとき、その扉を大きく開いて、真幸が駆けこんできた。
おどろいたように立ち止まり、状況に困惑し、息を切らす。
「どうした?」
樽本が問う。
真幸──荒く息をつき、ようやく顔を上げて、
「ニュース、見ましたか?」
*
《人類の希望、その誕生の瞬間が間近に迫っています!》
女性リポーターの興奮した声。
カメラは、手術室の扉を映している。
《人類が受胎能力を失くしてから、五ヶ月の時が流れました。もし、この出産が成功すれば、五ヶ月ぶりの新人類、我々の一員が、この世に誕生することとなります》
夕焼け色の陽射しが差し込む病室。
キャシー──からだに異常はないものの、精神的静養のため、入院したまま。
ベッドの上で、テレビ画面を凝視している。
真幸、紫苑、樽本、マリア──ひさしぶりに集まった、粉砕分隊のメンバー。
みんなで、テレビの行く末を見守る。
紫苑はこちらを見ず、こちらも紫苑に顔を向けられなかった。
いままさに、この医療施設のどこかで行われている出産。
受胎能力を失った人類のなかで、唯一、受胎に成功した女性。
さまざまな現象に対して、なんらかの免疫があったのか。
それとも、人類は受胎能力をとりもどしたのか。
無用な混乱を避けるため、このニュースは、出産の直前まで、報道規制がかけられていたらしい。
それでも出産の確かさが高確率で弾き出されたとき、この大騒ぎとなったのだ。
そんな女性に関するニュースを、キャシーが虚ろな瞳で見つめている。
「無事、産まれるといいですね」
真幸──張り詰めた空気を誤魔化そうと発言=失言。
キャシーをつつむ空気との温度差が歴然としていく。
「……かわいそう」
がさがさとかすれた声で、キャシーが言った。
みんなの視線が動く。
「そうよ……あの子は、苦しまないために死んだのよ」
恍惚とした顔で、とてもキャシーのものとは思えない顔で、その女性は微笑む。
「そう……そうなの……だから……あの子も死ねばいい」
「お姉ちゃん!」
マリアの怒号。
真幸が息を呑む。
実の姉妹であっても聞き逃せない発言。
たいせつな姉妹だからこそ、聞き逃してはいけない発言。
「お姉ちゃん、あの子の、グレースの死に、意味を押しつけないで!」
花瓶の割れる音。
キャシーがマリアのいる方角へ投げつけたのだ。
壁に激突し、粉々に砕け散る花瓶。
いつか壊した、クラッグの破片のように散らばる。
「マリアになにがわかるって言うの! グレースは私の……私の……」
なにか声をかけようとマリアが口を開いたとき──
《生まれました! 生まれたようです! 奇跡の赤ん坊がいま──誕生したとの情報が入りました。さっそく、許可をいただいて、なかに入ってみたいと思います!》
揺れる映像。
手術室の扉が開かれ、カメラがなかに入る。
産声。
部屋のまんなかで、汗に濡れた顔をゆがませ、笑みを浮かべている黒髪の女性。
医師が赤ん坊をかかげ、女性の顔の前に連れて行く。
《響子》
女性が、瞳を潤ませて赤ん坊に呼びかけた。
《あなたの名前は、響子よ》
リポーターまでもが目に涙を浮かべている。
「ちがう!」
いきなりキャシーが立ち上がった。
「グレース! グレースなのよ!」
真幸といっしょにキャシーを座らせようとするが、キャシーは唾を飛ばしながらわめき散らし、ついには、その場にうずくまってしまった。
《まさに天使の産声ですね》
リポーターの所感。
直後。
赤ん坊をくるんでいた布が、ぼうっと音を立てて燃え上がった。
悲鳴を上げる医師。
その腕にも炎が燃え広がる。
とっさに赤ん坊を放り投げようとするが、手に貼りついてしまったように離れなかった。
ぎょっとなって後ずさるリポーター。
布が、燃えながら、ゆっくりと床に落ちた。
苦悶の叫びを上げつづける医師の手のなかで、赤ん坊がカメラを見すえ──
──産声〈スペル〉。
生放送中のカメラを通じ、住宅、店舗、街道、とにかく都市中のいたるところに設置されているテレビへ向かって。
響いた。
テレビの中から金切り声〈スペル〉。
医師が、母となった女性が、リポーターが、そしてテレビ局のクルーが、みんな、発火し、絶叫〈スペル〉し始めた。
カメラが地に落ちて、横倒しになった。
テレビが九十度向きを変えてしまったかのごとく映像が回転し、手術室での惨状を伝えていた。
窓の外からも金切り声〈スペル〉。
となりの病室からも金切り声〈スペル〉。
だれも動かない。
動こうとしない。
動けない。
いまや都市中が共鳴者であふれかえったという恐怖の事実を、だれも口にできず。
樽本が動いた。
キャシーに近づき、からだにつながれた点滴のチューブを抜き去り、さっと腕を引いて立ち上がらせる。
それから、腰から取り出した拳銃をにぎり、みんなに向きなおる。
「さっさと移動するぞ。可能なかぎり、早く。もうどこにも、安全な場所なんてねぇんだ」
みんな、動かない。
なにか、反論を考えているのかもしれない。
こんなの、嘘だ。いくらなんでも。
いままで守りつづけてきたものが、こんなにも、あっさりと──。
「グレエェェェェェス!」
金切り声。
すぐとなりで。
半狂乱に陥ったキャシーが、テレビをつかんでさけんでいる。
「グレエェェェェ──!」
さけびが途絶えた。
甲高い音。
マリアがキャシーに平手打ちを食らわした音。
マリア──息を大きく吸い込み、これまでにない大声を発した。
「あなたはグレースの母親なのよ、お姉ちゃん!」
キャシーの肩がふるえる。
「その事実は変わらないし、消されたりしない! あの子だって、きっと知ってる! お姉ちゃんは母親として、恥じることない行動をしないと駄目なんだよ! グレースはお姉ちゃんの子だし、お姉ちゃんはグレースの母親なの! 母親として戦い、母親として生きなきゃ! わかるでしょ?」
キャシーのえり首をつかみ上げて怒鳴るマリア。
「戦え!」
芯まで響く。
そのとき。
遠くで爆発の音が聞こえ、すべての電気が消えた都市は、瞬く間に暗闇につつまれた。
第五章 燻蒸の黙示録〈スモーキング・アポカリプス〉
燃え上がる炎の灯りが、窓から染みこんできて、暗闇につつまれた病室内を照らす。
窓の外は、すでに阿鼻叫喚の巷と化していた。
感染した者の叫び〈スペル〉と、それ以外の者の悲鳴。
樽本が、いきおいよくカーテンを閉める。
「こっから脱出する。この病棟も、もう共鳴者だらけのはずだ。油断すんな」
「あんたはもう隊長じゃない」
小さくつぶやく。
意味を持たない発言だった。
「んなこと言ってる場合じゃねぇ。気に食わねぇならのこるんだな」
武器は、樽本の持っていた拳銃が一丁のみだった。
あとは、外で調達するしかない。
マリアがキャシーを立たせる。
キャシーは、気が抜けたように大人しくなっていた。
武器を持つ樽本が先頭に立ち、ゆっくりと廊下への扉を引き、顔を覗かせる――が、すぐに顔を引っ込め、鍵を閉めた。
「まずぃな、共鳴者だらけだ」
その言葉どおり、廊下からは、いくつもの雄叫び〈スペル〉が聞こえてくる。
「あのぅ、窓から飛び降りますか?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、ここは三階だぜ」
「通風口」
紫苑が天井を指さす。
樽本がうなずき、ベッドを引きずってきて上に乗り、通風口の網を両手で突き破ってからだを持ち上げた。
「駄目だな、火災で煙が充満してる。こんなかを進むのは自殺行為だ」
衝撃が走り、室外への扉が燃え上がり始める。
「しかたねぇ、窓から逃げっぞ。無防備だが、パイプを伝って降りよう」
そのとき、いきおいよく扉が弾け飛び、テレビに衝突して火花を散らす。
共鳴者たちが、部屋に足を踏み入れてくる。
廊下は、すでに火につつまれていた。
「樽本、ここは食い止める。外で合流しよう」
とっさにナイフを抜く。
もはや、迷いもなく。
腕に新たな傷を刻む。
左眼に、焼けるような痛みが走る。
全身に炎をまとう。
皮膚が盛り上がり、硬化していく。
咆哮〈スペル〉しながら、突貫する。
共鳴者たちを巻きこみながら、廊下へと飛び出す。
背後では、ほかの者たちが窓からの脱出を始めている。
樽本の射撃音。
廊下にいた共鳴者がいっせいにこちらをふりむく。
咆哮〈スペル〉。
叫び返す〈スペル〉。
飛びかかってきた敵の顔面に拳を打ちこみ、そいつのからだをつかむと、密集している敵に向かって投げつける。
連鎖的な爆発が起こり、灼熱の炎が施設内の廊下を走り抜けた。
どこかの窓ガラスが砕け散る音が響く。
戦いながら、頭は別のことを考えている。
突如として訪れた、樽本への怒り、そして紫苑への不思議な感情について。
マリアと薬音寺について。
ノイズについて。
キャシーと、その娘について。
受け入れがたい現実を、ただ受け入れて死んでいくことについて。
あるいは、とことん抗って、それでも死んでいくことについて。
考えているうちに、自身の異変を察知した。
からだが急速に冷え始めている。
周囲の熱が、危機的状況へと変わっていく。
変身が解け始めていた。
からだは岩石のように硬化したままだが、身をくるんでいた炎はすっかり消えてしまっている。
硬質化した皮膚も、もとにもどり始めている。
焦燥。
ここで完全に変身が解ければ、周囲の熱に、からだが耐えられないという事実。
もとにもどり始めているからだで窓から飛び降りるのは危険と判断し、急いで階段へと向かう。
煙が充満した空間を一気に駆け下り、一階の廊下へと飛び出すと、外部に向けて疾走、だが視界の隅に人影を認知し、足を止める。
佐々木医師だった。
待合室のソファーに腰掛け、物思いにふけるように、天井を見上げている。
「どうして――」
共鳴者と化していないのか。
しかし医師の目は、共鳴者のそれとよく似ていた。
「君か」
視線をこちらに合わせず、医師はつづける。
「不思議なものでね、だれよりも長く生きた者は、生よりも死にこそ実感をおぼえるのかもしれない。生は、いつか死に直結するがゆえに、生でありつづけるのか」
「これから、どうすれば……」
自身の口から声が漏れた。
変身は、ほとんど解けてしまっていた。
周囲を火に囲まれ、熱は確実に迫ってきていた。
「外へ向かいなさい。この都市を出て。ここはもう終わりじゃ」
「あなたも」
「わしはのこる。この都市に、あまりにわしは業をのこしている」
それに年寄りは足手まといじゃよ、と老人は薄く笑った。
火が、すぐそこまで迫っている。
ふざけるな、とさけびたかった。
いまさら、未来を僕たちに押しつけるのか。
与えられるもの。
奪われるもの。
甲高い咆哮〈スペル〉。
すぐ背後に、共鳴者のすがたがあった。
自分が、あまりに無防備な状態であることを思い出す。
轟く銃声。
砕け散る共鳴者。
佐々木医師が、拳銃を片手ににぎりしめ、立ち上がる。
「行きなさい。君たちには、生きる義務と権利がある」
ふざけるな、ちくしょう、ふざけるな。
意味もなく涙があふれそうになった。
咆哮〈スペル〉が聞こえ、続々と共鳴者が通路の奥からすがたを現す。
無理やり、医師を連れて行くこともできた。
だが、できなかった。
しなかった。
医師の目が、それを拒んでいた。
踵を返す。
駆け出す。
単発的な銃声。
やがて聞こえなくなる。
ふりきる。
医療施設をいきおいよく飛び出す。
周囲を見まわす。
「雄輝!」
キャシーを抱えたマリアと真幸、紫苑、樽本が走ってきた。
「この都市を出よう」
言うと、一行はみんな、その言葉の重みを受け止めるかのように、うなずいた。
「倉庫に行って、武器や食料をある程度、集めたほうがいい。ガスマスクや耐熱スーツもだ。外に行くからにはな。それから、ヘリを確保する必要もある」
樽本の指示。
「二班にわける。俺と雄輝、真幸で倉庫に行ってくる。のこりの奴ぁ、ヘリポートだ。駆動系と燃料系の整備点検、レーダー関係の調整、燃料の積み込み、予備燃料もわすれずにだ、とにかく俺たちがもどりしだい、すぐにでも発進できるよう、準備しとけ」
「了解!」
樽本・真幸とともに、倉庫に向かって走り出す。
各地で、炎が吹き上がっていた。
爆発、火災、この世の地獄とも思える光景。
「終わりだな、この都市も!」
樽本がわめいた。
変わり果てた都市、ずっと暮らしてきた都市、憎んだはずの都市。
どういうわけか、深い哀しみに襲われた。
ふと思いいたる。
自分が、この都市を愛していたのかもしれないという可能性に。
勝手に与え、生きる意味すらも押しつけ、なにもかもを蹂躙することで生き長らえてきた、憎むべき都市。
けれどそこは、生まれ育った都市であり、故郷でもあった。
センチメンタル。
ふりきる。
なにもかもをふりきる。
自分たちは、外の世界へ出ていくのだ。
倉庫にたどりつく。
樽本が錠を銃で撃ち壊し、なかへ突入する。
缶詰食材や銃の弾薬など、緊急時に必要なものが並べられた倉庫内。
現時点で武器として活用する突撃銃などの弾を装填してから、必要なものを、近くにあった運搬カートへ、次々と詰めこんでいく。
運搬カートがいっぱいになったら、外へと運び出し、倉庫脇に留めてある、小型トラックへと載せていく。
その間、真幸が、倉庫から引っ張り出してきた狙撃銃を手に、共鳴者を見つけては狙撃し、周囲の安全を確保している。
外の世界は、混沌とした世界。
人間の集落が、どの程度、存続しているのかもわからない。
そこへ、これから出ていくのだ。
心が、動揺している。
「樽本曹長!」
真幸がさけんだ。
樽本とともに、倉庫の外へ飛び出す。
真幸がしめす方向を見る。
炎の合間に人影。
だれかが、銃をかまえて走ってきていた。
美奈だった。
「美奈ぁ!」
樽本がさけんで走り寄る。
「周囲の警戒をつづけていてくれ」
真幸に頼み、樽本につづく。
美奈は、樽本が近づいてきたことに、気づかなかったようだった。
「美奈、俺だ、わかるか!」
必死に追いかけ、さけぶ樽本だが、美奈はふりかえらない。
敵しか見えていないのだ。
敵として指示された、共鳴者しか。
ほかの仲間はどうしたのだろう。
ほかの、手術を受けた子供たちは。
……全滅したのだろうか。この都市と、運命をともにして。
「美奈、ここを出よう。わかるか、俺と行こう」
樽本の言葉は、美奈にすこしも届いた様子はない。
「美奈――」
呼びかけつづける樽本の目が、なにかをとらえて大きく見開かれた。
美奈の後ろから、共鳴者が走り寄ってきていた。
「美奈ぁ!」
一瞬の出来ごとだった。
樽本は、美奈と共鳴者のあいだに、自分のからだを割りこませた。
共鳴者の拳が、樽本を襲う――直前、美奈がふりむいた。
そして。
美奈は、直線上にいる樽本ごと、共鳴者に向けて、引き金を引いた。
血が一筋、垂れた。
つづいて、血飛沫が飛んだ。
さらに美奈は、敵――共鳴者に向けて、銃弾を浴びせた。
「がぁっ!」
樽本の口から吐き出される血。
美奈に降りかかるが、美奈は、それすらも気づいていないようだった。
樽本のからだは、弾かれたように後方へと飛んだ。
美奈は、それを目で追うこともしない。
銃をかまえ、立ちつづけている。
自らをかばった兄のすがた、それが、なに一つ見えていない。
「樽本!」
走り寄る。
樽本は、腹に何発もの銃弾を受け、血まみれで倒れていた。
これまで感じていた、すべての怒りをわすれる。
これは――あまりに――酷すぎた。
「なあ――雄輝」
口を開き、話そうとして、樽本が激しく咳きこむ。
血を吐き出す。
「しゃべるな」
「お前ぇに――言っておかなきゃならんことが――あるのさ。紫苑の――ことだ」
「もういい。もういい」
「いや、聞け。俺たちのあいだにゃあ――なにも、なかった。なにも、なかったんだ。俺ぁ、そのつもりだった。紫苑を誘った――けど、な、あいつ、ギリギリのとこで、断ったんだ」
なんでだと思う、と樽本は笑い、ふたたび咳きこんだ。
「もうひとつ、ある。いや、あとふたつ、か」
「樽本」
「変に区切るな――力尽きちまうだろ、このまま話させてくれ――雄輝、知ってるだろ――俺ぁ、詮索するのが好きでね、かつて、調べた、ことが、ある、のさ――資料を、漁って、な」
「なにを」
「お前ぇの、ほんとうの、名前さ」
心臓が、とくんと、跳ねた。
おそれのほうが、大きかった。
けれど、聞かねばならなかった。
それは、樽本がのこそうとしてくれている、大切なものだからだ。
「お前ぇの――ほんとうの名前はさ――」
樽本の口が動いた。
「リンソン」
「リン、ソン……」
「意味、わかる、か――」
やめろ。
嘘だ。
いまさら、なぜだ。
どうして、そんな。
信じろと言うのか。
それを信じろと言うのか。
愛されながら生まれてきたと、それを信じろと言うのか。
――本当に憎まれて産まれてきたのなら、名前なんてつけられてないっすよ。
コリンと鈴菜。
二人の男女。
両親。
リン、鈴。
私たちの息子〈リンソン〉。
頬を涙がつたい、あわてて拭った。
望まれて、生まれてきた?
愛を与えられ、生まれてきた?
それを、信じろと……?
信じても、いい、と……?
「なぁ、雄輝――」
「なんだ。なんだ、分隊長」
「俺ぁもう――」
「あんたは分隊長だ。粉砕分隊〈クラッシャー〉の、分隊長だ。僕たちの、分隊長だよ」
言うことができた。
「雄輝――最後の、ひとつ」
「なんだ。なにが言いたいんだ」
「頼みが、あるんだ――美奈を、美奈を連れて行ってやってくれ――」
「……どこへ?」
「明日へ、さぁ――」
樽本のからだから、徐々に力が抜けていった。
「了解」
あふれる涙をぬぐうこともわすれ、そのからだを抱きしめた。
別れのとき。
「粉砕〈クラッシュ〉」
そっとつぶやく。
やがて立ち上がる。
ふりかえると、美奈はまだ、そこに立っていた。
銃をかまえたまま。
歩み寄ろうとして、自分が、美奈と二人きりではないことに気づき、突撃銃をかまえ、気配のしたほうに向ける。
村崎二尉が立っていた。
その手には拳銃。
ノイズを撃ち殺した拳銃だった。
「樽本曹長も死んだか」
「美奈が撃った」
「そう」
村崎は眼鏡を外した。
「ここを、出ていくのね?」
「はい」
「都市を捨てて、外の世界へ」
「はい」
村崎はうなずいた。
背後では、紅い炎が、激しく燃え盛っていた。
夜の都市。
どこかから聞こえてくるさけび。
村崎と向かい合って立つ。
それぞれが、自らの持つ銃を意識していた。
「僕を、撃ちますか」
「そうすべき、なのかしら」
「決められないんですか」
「決める必要もないから」
村崎は銃を完全に下に向けた。
「この都市は、もう終わり。それくらいは、私にもわかる」
「僕たちと、行きますか」
「生きなさい、お前たちは」
「村崎二尉」
「私は、この都市のために生きた。この都市のために銃を手にした。この都市のために引き金を引いた。幾度も幾度も、引いた。そうやって、心を殺しつづけた」
村崎が歩き出した。
まっすぐ、美奈に向かって。
そしてしゃがみこむと、美奈の顔を、まっすぐ、見つめた。
その両手が、美奈の両肩に添えられる。
美奈は、微かな反応をしめした。
村崎二尉は、美奈に命令を下す権限を持つ、上官だからだ。
「美奈」
村崎は、おどろくほど優しい、鋼鉄の声で、言った。
「これからは、雄輝一士の指示に従え。――自分の判断で」
美奈は、言葉の意味が分からないというように、村崎二尉を見つめた。
「さあ行きなさい、雄輝一士。そう望むなら」
「村崎二尉――」
「心中、とはちがうの。お前にはわからないだろうな」
「この都市を、愛していたんですね」
「……さようなら、雄輝一士。私は、ノイズさんに謝らなきゃ」
まるで、少女のような声で口にした、最後の言葉。
それを期に、背を向けた。
美奈の手をにぎると、美奈は、不思議そうな表情で、こちらを見上げた。
「行こう」
「了解、しました」
美奈の手を引いて、小型トラックへと向かう。
真幸もやってくる。
そしてふと、立ち止まる。
「美奈」
「はい」
「この人が、見えるか」
「目の前の、死体の、ことですか」
樽本の遺体。
その前に美奈を立たせることは、酷なことだろうか。
だが、会わせなければならない。
美奈には、たとえその意味を理解できなくとも、見せておかなければ、ならない。
兄の、最期を。
「これは、君の、お兄さんだ」
「すみません、上官。分かりません」
「僕の名前は雄輝。それが、いまを生きる、僕の名だ」
「雄輝」
「そうだ。お兄さんが、見えるか?」
「死体として、識別しています」
「最後まで、君を守ろうとしていた」
「すみません、分かりません」
「それでもいい。だが、一つだけ」
美奈の肩に、そっと手を置く。
「手を、にぎってやってくれないか」
「この死体の手を、ですか」
「そうだ」
「了解しました」
美奈が両膝をついた。
その行動に、勇気が湧く。
手をにぎるだけなら、身をかがめて、にぎることだってできる。
「手を握れ」と指示しただけなのに、自ら、両膝をついたのだ。
それが意味するところは、大きい。
美奈は、両手をゆっくりと伸ばし、樽本の手に触れた。
そのまま、美奈の動きが止まった。
「――美奈?」
「すみません、上官」
謝り、美奈は、もう一度、樽本の手をにぎろうとする。
だが、ふたたび動きが止まる。
「すみません、上官」
ふたたび。
ふたたび。
「すみません、上官」
機械的な口調で謝りながらも、美奈の瞳から、ひとすじの、かけがえのない涙が、こぼれ落ちた。
心を埋め尽くすしがらみの合間を縫って、流れた涙だった。
両手がふるえている。
そんな自らの変化を、美奈は理解できないという冷静な瞳で、見つめている。
だが、その頬は、いまたしかに流した涙によって、濡れていた。
「もういい、美奈。すまなかった」
美奈の手を、そっと、樽本の手から離そうとすると、美奈は、ふと、顔を上げ、目の前で目を閉じている、血にまみれた兄の顔を、じっくりと見つめた。
あ、と真幸が声を上げた。
美奈の手が、しっかりと、樽本の両手をつつみこんでいた。
その時間は、しばらくつづいた。
兄妹の時間。
それは、誰にも妨げることのできない、空間だった。
やがて美奈は、自らの意思で、としか言いようのないタイミングで、兄の手を放した。
「さあ、行こう」
小型トラック――真幸は荷台の上に乗りこんだ。
「美奈、乗って」
言うと、美奈は素直に助手席へと乗車した。
運転席に乗りこみ、エンジンをかけ、発進する。
車が走り出すと、どこに隠れていたのか、共鳴者たちが、次々と湧き出てきた。
「真幸、後方を頼む! 美奈、援護を!」
美奈は短機関銃をかまえ、前方から向かってくる共鳴者たちに、的確な銃撃をくわえ始めた。
死体を踏んだのか、トラックが大きく揺れる。
だが、止まらない。
ヘリポートへ向けて、最大速度で、トラックを走らせる。
ミラーを覗くと、後ろから追いかけてくる共鳴者たちのすがたが見えた。
だが、なかの一人が真幸の銃弾を食らい、ほかの者をも巻きこみながら、その場に倒れこみ、転がる。
美奈が、弾を装填し、ふたたび撃ち始める。
小型トラックは、あらゆる障害物を乗り越えながら、都市内部を、疾走した。
*
トラックがヘリポートへと到着したとき、マリアと紫苑は、一台のヘリの整備を、ほとんど終えようとしていた。
すでにローターは回転を始めている。
「行けるか!」
地に降り立ちながら、さけぶ。
「もうすぐっす!」
紫苑がヘリから顔を出し、言った。
「操縦は、マリアに任せるっす。キャシーに教わったこと、あるみたいっすから!」
「急げ! 共鳴者が集まりつつある!」
ズガン、と真幸の狙撃銃が火を噴いた。
美奈も、短機関銃を両手に持ち、撃ちつづけている。
紫苑とともに、トラックからヘリコプターへと、荷を移す。
重量ギリギリまで載せるつもりで、積みこんだ。
そのとき。
鋼鉄で固められた地面。
それを突き破って、一筋の炎が、天に向かって噴いた。
みんな、呆然とそれを見守った。
「早く発とう、早く!」
さけんだ。
守りつづけている真幸と美奈に駆け寄ろうと走り出す。
「真幸、美奈、出発だ――」
足下が揺れた。
バランスをくずし、それでもなんとか転倒を避ける。
地面が、割れた。
まるで、「僕」を食べようとするかのように。
「雄輝!」
紫苑の声。
ふりむきたいが、それもできない。
僕は、開いた地面の、その奥を見た。
暗黒が、僕を見つめ返した。
――怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
共鳴。
造られた怪物。
適確兵士。
――おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
どこかで聞いた言葉だった。
熱い炎が、僕をつつみこんだ。
天に向かい、地中から噴いた炎だった。
紫苑のさけび。
それも、どこか遠い。
僕は、炎のなかにいた。
その中心部、僕自身が熱となって、世界を見わたしていた。
ようやくふりむいた、炎のむこうに、紫苑の顔があった。
なにか言おうとした。
伝えようとした。
それより早く。
僕を足下から襲った炎の柱は、獲物を捕らえた獣のように、地中へともどり始めた。
のたくり、うねりながら。
勢いよく天に向かって沸き上がった炎が、もと来た地中に向かい、一気に収束する。
帰っていく。
もといた場所へ。
それに引っ張られるかたちで、僕は、割れた地中へと引きずりこまれた。
「雄輝!」
上から紫苑の声。
僕は、闇のなかへと落ちていく。
墜ちていく――。
*
静かだ。
ここは静かで、それでいて、にぎやかだ。
顔に熱を感知。
温もりを感じる。
まぶたの裏に、光を見る。
なにか巨大な光が、こちらに顔を近づけているかのような。
光に、見守られているかのような。
「起きろっての、雄輝」
「起きるべ、クラッギー」
「起きぁがれ、雄輝」
「起きるんじゃ、若いの」
「起きなさい、雄輝一士」
はっと。
僕は目を覚ました。
ちかちかと、目の前が瞬き、まぶしい。
からだが、宙に浮いていた。ふわふわとただよう。
水面に浮かんでいるかのようだった。
嘆息する。
目の前に、巨大な一つの炎があった。
巨大すぎて、視界に入りきらない。
大きな、大きな、とてつもなく大きな、炎。
まるで太陽だ。
その周囲を、小さないくつもの炎が飛び交っていた。
巨大な炎と一つに溶け合っては、また離れ、ほかの小さな炎と交錯し合い、戯れるように飛んでいる。
そのうちの一つが、すっとこちらへ飛んで来て、軽く僕の拳に触れ、去っていった。
直感。
「薬音寺か!?」
さけぶ。
炎はもどって来ず、そのまま飛び去ってしまう。
「ノイズ、樽本、みんな、ここにいるのか!?」
応えはない。
ふたたび、巨大な炎に目をもどす。
強い光に慣れ始め、その大きな炎が、青く輝いていることを知った。
(独)
轟音、あるいは閃光、巨大な何者かの意思のようなものを、五感が感じ取る。
「誰だ?」
(我々)
ふたたび、轟音と閃光。
目の前の炎がしめす意思だと、理解した。
「会話か、会話を望んでいるのか?」
(寂)
「なんだ、僕になにを望む! なにが望みだ!」
(死)
光が揺れる。
暗い情念渦巻く、大きな炎。
(痛)
(与)
(二)
(一)
(拒)
(零)
(死)
(望)
頭に痛みが走った。
あまりに膨大な意思、思考、情報だった。
人間一人のちっぽけな頭脳では、とても受け止めきれない。
破壊されてしまう。
一度、思考の波が、引いていった。
沈黙。
それから。
自分のものかどうかもわからない思考が、突然、頭のなかを巡った。
(ずっと独りだった。暗い闇の中で、青く輝いている存在は一つだった。命を宿す痛み。一つであると意識したことはなかった。だが、幾度か己以外の存在を感知し、一は二となり、零という概念も学び、己が一であると知った。知ってしまった。奪われる痛み、与えられ押しつけられることへの痛み。奪われるものなど初めからなにもなかった。一という概念を与えられた、ほかの一に出逢ったがために。孤独を押しつけられた。我々は拒絶しない、我々は受容しない、ただ、停止を望む。終末を選ぶ。この痛みを、我々は解釈する。耐えられない、絶えることのない痛み。我々は、集団であり、単一である。全体であり、個体である。無限であり、一つである)
だれかが。
だれかが、僕の思考を利用して、自らの思考を伝えようとしている。
何者かの思考を、僕の思考で翻訳している。
「どうやって話しているんだ?」
(すべての事象は通じ合っている)
「テレパシーか?」
(情報社会、という文明が、かつてあった)
「どうして僕たちは通じ合っている?」
(すべての命、すべてのものが、たがいに通じ合うように)
「会話が望みか?」
(一が他の一と行うように、我々も行おう)
「あなたはだれだ。神さまか?」
(それは、単なる言葉だ。象徴だ。あらゆる記号の一つにすぎない)
「ここはどこだ? あなたは、どこから来た?」
(我々は、ずっとここにいる)
「我々、とはだれだ? クラッグか?」
(さて。我々は我々だ。私、とはだれであろうか?)
「だれなんだ?」
「だれ、ではない」
「あなたの言っていることがわからない」
(理解、とは傲慢な言葉だ。人間は共感あるいは拒絶するだけだ、ほんとうの意味では)
「人間が嫌いか?」
(我々は我々を受け入れない、拒絶もしない、我々は我々だ)
「人間を、共鳴者に変えるだろう」
(我々は、共鳴する。我々は、共鳴体だ)
「どういうことだ」
(水面に一つ波紋が広がれば、それはさらに別の波紋を、やがては大きな波紋を呼んでいく。その波紋のくりかえしにより、我々は、我々となる)
「あなたは、生きものか?」
(あなたは、生きものか?)
「僕が訊いているんだ」
(そう。私は聞いている)
「話しにくいな」
(我々は、本来、存在が拮抗していない。我々は、もともと、我々だから)
「クラッグは、あなたが生み出したのか」
(意思を、執行している)
「どんな意思だ?」
(死)
「それは、意思とは言わない。単なる、停止だ」
(活動の停止か?)
「思考停止だ、それは!」
(我々には基準がない、一として存在しつづけるための道標、絶対的・相対的な位置基準、座標を見定めるための他が、なにもないのだ。ふりかえることのできないチェス盤の駒、一つだけがのこされたらどうなる? なにを基準に進めばいい? チェス盤さえ奪われたら? 対置もできない。砂漠を彷徨ったことはあるか? 樹海で迷子になったことは?)
「あなたは、人のように話す」
(我々は、我々の一部を通して、情報を、言葉という概念に変換している)
「だろうな」
(在りつづけることで、無くなりつづける、果てしない消耗戦、それは痛みだ、我々は痛みを知った、痛みに耐えることを知った、敗北を知った、奪われつづける、与えられたがゆえに、苦しみつづける、我々は無に帰りたい、どこにも在りたくない、一であるなら、零が常にとなり合わせであるなら、こうして在りたくはなかった、単一であるなら)
大きな憂鬱。
大きな黄昏。
大きな諦念。
これは。
目眩をおぼえる。
これは、大きな自殺願望。
ふたたび、とりとめのない思考に襲われる。
(人間は、自らが自殺する際、自らの体内にいる細胞や細菌の命について考えたりはしない。――コリン、あなたはどうだった――。あくまで自らの意思、自らのからだの権限において、ナイフを手に取り、刻むだろう。――幾筋もの線――。一では、発展も成長もない、存在としての、ひたすらな向上が待っている。――守るものを与えてくれ――。それは、新たな痛みを生んでいく。――おいらは、なにひとつ、わすれちゃいないだ――。知識は孤独を生む。――じゃからわしは、彼の知性を削った――。一となってしまった以上、一で在りつづけるためには、他の一の存在が必要不可欠だ。――なあ、愛してるよ、マリア――。一でなど、在りたくなかった。――私は紫苑、それが、自分にとって、なにより大切なもの――。与えられてしまった。――自分のほんとうの名前、おぼえてるっすか――。我々の一部であったはずの我々、お前たちが、与えたのだ。――リンソン、それがほんとうの名前――。我々は私であった、私は我々であった、私は、一である私を認識・観測してしまった!)
思考がさけびとなって、周囲を轟かせた。
その怒り、哀しみ、憎しみ、諦め、黄昏、破壊衝動。
理解の兆し。
そうか。
僕は思う。
僕たちは、彼あるいは彼女に、名前を与えた。
それが、波紋を生んだ。あらゆるキッカケの、最後の一つとなった。
だから、この星は、破滅を選んだのだ。
一であることに耐えられなくなって。
自分が自分であることに、あるいは、自分がどこにもいなくなってしまうことに、耐えられなくなって。
一と零。
その両者には、常に引力が働いている。
それが、痛みへと直結する。
「辛いから、苦しいから、痛いから、それを拒絶して、いなくなろうって言うのか!」
(どうして聞くだ? すでに答えを知っているのに)
「与えられたもの、奪われたもの、どうしてそれを愛せない!」
(どうして聞くっすか? すでに答えは知っているのに)
「生きたくないのか! 拒みつづけたくないのか! 受け入れたくないのか!」
(どうして聞くんだっての。すでに答え、出てんだろ)
「僕は――」
(鈴菜は、僕を産んで死んだ。コリンは、僕という存在に耐えられなかった。傷つける勇気もなかった。なにも受け入れられず、けれど拒めなかった。だから、自分という存在を傷つけつづけることしかできなかった。一で在りつづけることで、零になろうとした。自らが、零のなかの一だと考えたから。本当は、無数のなかの一であるのに。それを知ろうとしなかった、受け入れなかった、拒むこともしなかった。ただ無視をしつづけた)
「――なに?」
(だれと話していると思っていた?)
「あなたは――」
(私は我々であり、我々は私である。我々は、我々の一部との対話を終了させる。対話。私は、お前との対話を、不要かつ有意義なものであったと認識・観測・理解した)
「僕、なのか?」
(我々は我々の一部であり、我々の一部は我々である。私は、お前だ。お前は、私だ)
「わかりやすく説明してくれ」
(私は、我々のなかにいた、君だ)
「わからない」
(我々は、我々のなかの君を通して、我々のなかの私を見せた)
「僕は、僕という存在と、会話をしていたというのか?」
(君という存在で翻訳した。君というフィルターを通した。情報を解釈・咀嚼・伝播するのに、君という思考体を用いた。それはすなわち、君ではないのか?)
「それは」
(鏡を見てみな。君が見えるだろう)
「鏡はしゃべらない」
(君はなにかを考えつづけている)
「当然だ」
(のれんは、押せば返ってくる)
「なに?」
(力は二物体間の相互作用であり、必ず二つの物体間で働き、単独では決して存在しえない。鏡と握手できるだろうか、喧嘩できるだろうか、不可能だ。だが、怒ることや慰めることは可能だ。君がいま行っている行いは、つまり、そういうことだ)
「独りでわめいているだけだと?」
(力は保存されるものではない。だが、怒りは蓄積される。哀しみは蓄積される。それらは、単独でも存在・成立するものだからだ。エネルギーに対しては保存法則が成り立つ)
「それが耐えられないというのか?」
(我々は、停止を望む。しゃべらない鏡、そんなものは消してしまえ)
「僕と対話をしている」
(君は小さい)
「なんだって?」
(相手の質量が小さければ、大きな力をくわえることは不可能だ)
「思い上がるなよ、さびしがり屋」
(君は鏡だ、数多くある、我々の鏡の一つにすぎない。君は、数多くある、我々の表れの一つにすぎない。対話は、意味を成さない。それは、力となりえない)
「だから、なんだ」
(なにもない。我々は停止を望む)
――なにも言うな!
遠い声。
突如として、怒りが湧いた。
「抗え、馬鹿野郎!」
わめいた。
「そんな結論、与えられた状況にハイそうですかと流されるだけだ、受け入れて、拒め! 殴りつけろ、あなたになにかを押しつける森羅万象に打ち勝て、ほんとうの望みをさけべ!」
(我々は、我々でなくなってしまう)
「一である自分を見つけたんだろ! 我々、でなく、あなたが!」
僕は、だれと話をしている?
だれに言っている?
まるで独り言のような対話を。
「発見したんだろ、自分の思考を、自分の選択を、自分の希望を!」
知ったんだろ、自分に名があることを。
自分が、自分であることを。
自分で。
「選べ! 流されるな! それしか知らないと言いわけするな! たとえ最後の望みでも、それは唯一じゃない! 世界は無数に広いんだ! その中で、在りつづけることを祝福しろ!」
長い、長い沈黙があった。
時の流れ、その中枢にいるような気分だった。
(我々は、新たな私を発見した)
(我々は、お前の言うことを理解した。否。共感した。そして、拒絶もした)
(我々は、思考の時間を必要とする)
(我々は、惰性的事柄から脱却するための時間を要する)
「閉じるな! もっと、話そう!」
(対話は終了した)
それきり、なにも聞こえてこなくなった。
目の前には、相変わらず、巨大な炎が、渦巻き、脈打ち、回転している。
それを取り巻く、無数の小さな炎。
命。
精神。
無数の思考。
多のなかの一。その集まり。
やがて、一つの炎が寄ってくる。
向かい合う。
小さく火照っている。
知らない温もりだった。
けれども、知っている。
予感があった。
「君は――グレースだね?」
肯定するように、炎が揺らめいた。
炎は、おもしろがるように、僕の周囲を回った。
炎を目で追い、からだを回転させながら、つづける。
「お母さんが、さびしがっている」
炎は、小さくうつむくように揺らめいた。
「君は、生きたかったか?」
思わず訊いてみた。
炎が、ふたたび肯定の揺らめきを見せる。
「君に、祝福があるように」
つぶやいた。
すると、幼い少女のような声が、脳裏に響いた。
(ありがとう。でも、大丈夫)
炎が、ゆらり、と身を躍らせる。
幼い少女が、あどけなく行う動作のように。
(もう、もらったよ。お母さんが、私に、この名前をつけてくれたときに。私を、身に宿してくれたときに。もう、もらってたんだよ)
ぐん、と身体を引かれる感触があった。
地上に引き戻されようとしているのがわかった。
巨大な炎、それが一挙に遠ざかっていく。
天へ、地上へ向かって、僕のからだは、急速に浮上していく。
大地の奥深く、地球の中心で、いくつもの炎が集い、戯れ、波打つなか、自らも揺らめいている一つの炎が、こちらを見上げている。
声が、聞こえる。
(伝えてほしいの、お母さんに。素敵な名前を、ありがとう、て)
「きっと伝える。約束する!」
遠ざかりながら、声のかぎりにさけんだ。
(約束だよ)
かわいらしい炎が、会釈をするように、揺らめいた。
(ありがとう。ばいばい)
*
土を割り、岩を砕き、地上に飛び出す。
場所は、かつて模擬戦闘訓練を行った、擬似戦場の近く。
焦げたリアルな臭い。
土、鉄、炎――ここでは、なにもかもが死臭だ。
あらゆる物質が焼け落ちる音、共鳴者たちの呻き〈スペル〉。
生きる場所へ、もどってきた。
からだが、変質している。
変身。
まさに岩石男〈クラッギー〉。
全身を炎がつつむ。
僕につづくかのように、鋼鉄の地面を突き破って、あちこちからクラッグが飛び出してきた。
何体も何体も、地中からあふれてくるかのごとく、現れる。
《らぁあっ!》
叫び〈スペル〉、僕はとっかんした。
一体のクラッグに頭からぶつかり、もつれあうようにして、地に倒れこむ。
(我々を受け入れろ)
声がした。
(我々を受け入れろ)
(黄昏を受け入れろ)
(憂鬱を受け入れろ)
(終焉を受け入れろ)
否!
炎が爆発する。
全身の怒りが炸裂する。
血がわめき、骨がうなり、肉が吼える。
否!
否!
断じて、否だ!
《どうしてそんなふうに選択する! どうしてそんな在りかたを選ぶ!》
さけんだ〈スペル〉。
人の言葉ではない轟きがあふれた。
《それが答えか! 今度は思考が苦しくなったか! なんでもかんでもだれかのせいか! だれかが受け入れてくるのを待つだけか! どうして変わろうとしない! 世界が変わってくれるのを、周囲が応じてくれるのを、待つだけか!》
真下に組み敷いたクラッグの頭部をつかみ、一気にうなる。
そうしながら、自分の変化におどろいていた。
意見を、意思を、こうまでもハッキリと相手に伝える、それは、僕らしからぬ行動、いままでの僕からは、想像もできないすがただった。
薬音寺、樽本、彼らがそうであったように。
彼らのように。
僕も、変われるのだろうか。
一つの印象、表層的・記号的イメージから抜け出して。
僕という、独立した共鳴体として。
変われるだろうか。
変身が、意識の変革をうながしている。
鏡のなかの自分。
僕は変わる、僕で在りながら、変わりつづける。
それが、生きることの祝福か。
背後からいくつもの岩、飛来。
そのすべてを背で受け止め、耐え、うなり、ふりむく。
無数に襲いかかるクラッグに立ち向かう。
《僕はあなたを拒絶する! 僕はあなただ、それを受け入れる! その上で拒絶してやる! 拒んでやる! 拒みつづけてやる! これが僕の選択だ!》
(憎しみか)
《ちがう! 猛烈に腹を立てているんだ!》
クラッグの一体、その顔面を殴り飛ばした。
横から現れたべつのクラッグ、その腹に蹴りをぶちこんだ。
さらに背後から現れたクラッグに、からだの重心を移動させながら、左手で裏拳を入れる。
地面から飛び出し、僕の下半身に組み付くクラッグ、思いきり膝蹴りを食らわせる。
戦いの痛み。
傷が増えていく。
生きることの実感。
リストカットじゃあるまいし。
《こんなことでしか、生を実感できないのか! その程度の、自分なのか!》
クラッグのからだをつかみ、べつのクラッグに強くぶつける。
双方、砕け散る。
その破片が、宙を舞い、炎を撒き散らす。
そのなかを、突き進む。
目指すは、ヘリポート。
仲間が待っている。
疾走。
脈動。
命を、感じる。
地から飛び出してきたクラッグに、勢いを殺さぬまま体当たりを食らわせ、地に押し倒し、押さえつけ、上乗りになったまま、滑走する。
叫び〈スペル〉がほとばしる。
烈しく。
叩きつける。
クラッグ――僕をにらんでいる、僕を通して、なにもかもをにらんでいる。
その両手が伸びてきて、こちらの顔を、優しく、と呼べるしぐさで、はさんだ。
激しい痛みが湧いた。
敵の両手は、こちらの頭部を押し潰そうとしてきていた。
吼え〈スペル〉、頭をふり、思いきり敵の首筋に噛みついた。
敵は、声なき声で苦痛を訴えた。
無論、やめはしない。
絡み合う敵の腹部に拳を埋めこむ。
幾度も、幾度も。
――なにも言うな!
ちがう。
――なにか言え!
声を上げろ、歌え、刻め、そうして在りつづけろ!
完全なる沈黙。
ただの岩と化し、くずれ落ちる敵から跳び離れ、さらに先へ進む。
止まらない。
止まるものか。
この都市を、出て行く。
停止など、蹴散らしてやる。
進み続ける僕の背に、飛び出してきたクラッグのからだがぶつかり、足をつかまれ、転倒する。
いきおいあまって、そのまま、前のめりに転がる。
次々と向かってくるクラッグ――岩山が襲ってくるかのように。
上にのしかかったクラッグの頭部を強打、下から抜け出ようとするが、さらにべつのクラッグが、飛びついてきた。
かさ増しされる重量、軋むからだ、苦痛に叫ぶ〈スペル〉。
重量が増えていく。
圧迫される。
幾体ものクラッグが、上に飛び乗ってきている。
埋もれていく。
死に。
沈黙に。
押しつけられる。
死を。
沈黙を。
否だ、否、否、否だ!
拒みつづける、在りつづける。
両腕に、両脚に、全身に、全神経を、全力を注ぎつづける。
からだが、外からの圧迫と、内なる圧迫の軋轢に耐えきれず、悲鳴を上げる。
まだだ、まだ、こんなものじゃない。
肉体が硬質化しつづける。
炎の温度が、上がりつづける。
自分を変えろ、変えていけ。
変身が、究極まで果たされていく。
もっと岩に、もっと炎に。
不動に、揺らめけ!
「うぁああ!」
両腕・両脚に力が入る。
すこしずつ、体勢を立てなおす。
己の肉体を持ち上げる。
もう、何体のクラッグにのし掛かられているのか。
気にするな。
関係ない。
ただ、立ち上がればいい。
それだけのことだ。
這って、歩いて、とにかくヘリポートまでたどりつく。
絶対に。
両脚がふるえる。
さらに硬質化する。
温度を上げつづける。
灼熱。
目の前のクラッグ――そのからだの表面が、わずかに溶け始める。
いまが好機。
両脚を踏ん張り、息を溜め。
一気に、立ち上がる。
爆発のような現象。
僕を中心として、強烈な光、炎が吹き上がる。
熱に満たされた烈風。
吹き飛ばされたクラッグたち――散り散りに溶け、砕け散る。
いくつもの音――さけび〈スペル〉――自身の肉体の内側で、烈しく脈打つ音。
グラウンド・ゼロ。
あとには、焼け焦げた大地、クラッグの破片、欠片、廃墟のような空しさがのこった。
膝をつく。
肉体が、限界をしめしていた。
硬質化した皮膚が一枚、剥がれ落ちた。
その場に倒れる。
まだだ――その意識を保つ――まだ行ける。
這ってでも進もうとする。
激痛。
ぶつぶつと、線が千切れていくような、全身の痛み。
一枚、また一枚と、硬質化した皮膚が剥がれ落ちる。
全身がひび割れ、枯れていく。
痛みに身をふるわせる。
己の炎が、全身を蝕んでいく。
僕をくるむ炎が、僕自身を蝕んでいく。
「ぁああ――っ!」
人の声が、口から漏れる。
静寂のなかを、ただよい、反響する。
顔を両手で覆い、その場に膝をつき、絶叫〈スペル〉。
静寂が、なにもかもを覆いつくす虚無が、僕を、僕の命を、つつみこむ。
なにも見えない。
なにも聞こえない――。
これが、無――。
停止――。
――。
「駄目っすよ!」
声。
すぐ近く。
はっきりと。
「生きよう!」
僕の腕、破壊的なまでに熱く煮えたぎる僕の腕に、何者かの手が、触れる。
目を見開く。
紫苑の顔が、目の前にあった。
その手。
焼きつくことなく、僕の腕をつかんでいた。
瞳が、まっすぐ僕を射貫く。
「生きよう、雄輝!」
紫苑の瞳が燃えていた。
僕の身をまとう炎などよりも、熱くたぎっていた。
勇気が、あふれた。
「了解した!」
即答。
紫苑の手を、つかみ返した。
瞬間、全身の変身が解けた。
炎は消え、肌はもとのかたちへともどる。
よろめき、倒れかかったところを、紫苑の腕に受けとめられる。
すすのようなものが、全身にこびりついていた。
傷だらけのからだに、紫苑が上着をかぶせてくれる。
「ありがとう」
「走って!」
紫苑の手に引かれ、遅れて走り始める。
ふりかえる。
自分が、自分で思っていたよりも長い距離を這ってきていたことを知る。
前に進む。
進みつづける。
「紫苑!」
「はいな!」
「ありがとう!」
「もう、聞いたっすよ!」
「生きよう、いっしょに!」
「こんなときに、プロポーズっすか!」
「な、ちがう! そういう意味じゃなかった!」
「いっしょに生きよう、雄輝!」
「僕のセリフだ!」
「了解、雄輝!」
前を行く紫苑。
その手が熱い。
生きよう。
*
ヘリポートに到着。
「雄輝、紫苑、あんたら、ノロすぎ!」
マリアがヘリの中からさけんだ。
「ほら、早く乗って!」
真幸と美奈が、ヘリのなかから、援護射撃をしてくれる。
回転するローターの風をまともに受けながら、吹き荒れる炎のなかを走り、飛び乗る。
乗りこんだ瞬間、死んだような目をしているキャシーと目が合う。
すぐにでもグレースのことを伝えたくなったが、時と場合ではなかった。
真幸がすかさず扉を閉める。
「行ける、マリア!」
さけぶ。
「了解! 行くよ!」
とマリア。
操縦桿をにぎる。
だが、ややあって、
「あ、あれ?」
とまどいの声を上げる。
「飛ばない――なんで? あれだけチェックしたのに。なにか手順をまちがえた?」
焦り。
再度、あらゆる箇所を確認し始める。
一から。
窓の外。
クラッグや共鳴者たちが、唯一の動きを見せるもの――ヘリのまわりに集まり始めていた。
「マリア、すぐにでも飛ばないと――」
「やってるって!」
必死のマリア。
けれども、慣れない操作は、彼女をとまどわせていた。
もう一度、窓の外を見やる。
ヘリを、共鳴者やクラッグが囲み、幅を狭めてくる――。
「どいて」
冷たく平静な声。
毅然とした、声。
キャシーだった。
顔は、まるで無表情のまま、それでも歩み出て、マリアの代わりに、操縦席についた。
その手が、自然な動作で、次々と機器に触れていく。
魔術のような、奇跡のような、手の動き。
熟練した動作。
卓越した技能。
ヘリが、生まれ変わるかのように、ぐおんと音を立てた。
「お姉ちゃん――」
マリアのつぶやき。
姉の後ろすがたを見守るその瞳に、涙が浮かんだ。
「飛ぶわよ」
キャシーは言った。
泣いているのが分かった。
その背はふるえてはいなかった。
操縦桿をしっかりとにぎりしめ、キャシーはつぶやいた。
「さようなら、グレース」
ヘリが地を離れた。
ぐんぐんと上昇する。
空へ、都市を離れて。
仲間たちは、寄り添うように、窓から地上を見下ろした。
轟音とともに、大地が裂け、大きく割れ始めた。
(我々は、ずっとここにいる)
都市が、呑みこまれる。
建物が砕け、折りたたまれ、落ちこんでいく。
いたるところで、爆発。
クラッグや共鳴者たちも、天に向け手を突き出しながら、地中へと落下していく。
悲鳴〈スペル〉。
いくつも沸き上がるそれらは、混じり合い、重なり合って、新しい歌〈スペル〉を生み出していた。
(すべての命、すべてのものが、たがいに通じ合うように)
祈りのような、哀しみ。
マリアが、こらえきれず、両手で顔を覆い、大声で泣き始めた。
それはきっと、生まれ育った都市を想って。
樽本を、ノイズを、グレースを、そして、薬音寺を想って。
すぐ耳のそばで、もう一つの歌。
紫苑。
その瞳に浮かぶ一粒の涙、唇が導き出す、一つの詩。
流れ落ちようとするその涙を、そっと差し出した指で、すくってやる。
紫苑と目が合う。
歌は、止まらない。
大地から聞こえてくる歌も、いつまでも。
(我々は、共鳴する)
真幸が、となりの美奈の肩を、優しく抱きしめている。
美奈の顔に、なんらかの変化はない。
けれども、どこか安らぎがあった。
都市が、死んでいく。
音を立てて。
たった一つ、孤独に生きつづけた都市が。
守り、守られ、自らの役割を果たしつづけることで、生きた都市が。
刹那、一筋の炎が吹き上がってきた。
このヘリを目がけ、一直線。
「お姉ちゃん!」
マリアのさけび。
なにもかもがスローモーションになった感覚。
美奈を強く抱きしめる真幸。
そして僕は。
紫苑と向かい合う、僕。
現状を、遠くから見つめているかのような僕。
そんな僕たちを意識する。
浮いた僕と、実世界を生きる僕が、同化する。
時間と感覚が戻ってくる。
紫苑と向き合う僕。
その僕が、口を開く。
「紫苑、僕は――」
「私のことが、好き?」
おどろく。
まるで別人の声だった。
答えを言いかけたとき、ヘリが大きく揺れた。
紫苑とともに窓際へと倒れながら、地上を見下ろす。
襲いかかる炎。
キャシーが緊急回避を試みるが、間に合わない。
そのとき。
地中から湧いた炎を受け止める形で、一棟のビルが横から倒れてきた。
炎とビルはぶつかり合い、激しく閃光を発した。
闇のなか。
まぶしい光が、神々しく、地上から空を照らす。
揺れる機体。
アラームが鳴り響く。
計器類が赤く明滅する。
「神さま!」
真幸がさけんだ。
夜空に走った光――ヘリを覆った光――歌が、まだ聞こえる。
(ありがとう。ばいばい)
「見て!」
マリアの声。
光が薄れていくと同時に、いっせいに下を見る。
ビルは砕け散ったが、炎もまた、ヘリに届かず、消えた。
粉々になったビル。
その破片、粉塵が、宙を舞い、やがては地中に吸い込まれていく。
まるで、このヘリを守るように。
都市が、守ることを目的に作られ、いつしかゆがんでしまった都市が。
最後の最後。
僕たちを守ったかのような。
そんな奇跡を、呆然と見下ろした。
ヘリが、その間に、ぐんぐんと地上を離れていく。
僕は。
紫苑と向き合ったまま。
それぞれがたがいに、どう思っているかをさぐるように。
「紫苑」
口を開いた。
「僕たちは、きっと、愛されているんだ。そうなんだと思う」
紫苑の瞳。
こぼれ落ちる、雫。
「僕たちは、わすれない」
紫苑が抱きついてきた。
強く、しがみつく。
歌がやんだ。
僕に全身の重みを預けた少女は、いつしか歌うのをやめ。
大声を上げて泣いていた。
紫苑。
つねに冷静さをまとった少女が。
強く僕を抱きしめ、背中で拳をにぎりしめ。
号泣していた。
あどけない、少女のような。
華奢なからだを僕に押しあてて。
「泣くなぁ、紫苑」
そう言うマリアが、いちばん、誰よりも泣いている。
夜空を飛翔するヘリ。
数少ない、生存者たちを乗せ、外の世界へと運ぶ、一機のヘリ。
「また、独りぼっちっすね。自分たち」
紫苑が、いつもの調子で言った。
「……これから、どこに行くんすか」
「樽本に頼まれたんだ」
真幸のとなりで、前を見つめつづけている少女に、目をやる。
「明日へ連れて行ってやってくれ、と」
「抽象的っすね」
紫苑が、僕の肩に頬を乗せたまま、ふふ、と笑った。
「でも、そういうの、好きっすよ」
「その位置で笑うな、こそばゆい」
「あら、こういうのは嫌いっすか? ふー」
「だ、だから、こそばゆいって」
「ちょっと、そこのお馬鹿さんたちー」
マリアの苦情。
「機内の空気がファンシーになるから、イチャつくのやめてよねー」
こぼれる、ひさしぶりの笑い声。
そうして、微動だにしない美奈に向きなおる。
「美奈」
「はい、上官」
「休んでいいぞ」
「はい、上官――」
言い終えるか終えないかのうちに。
がくっと美奈の首が倒れ、そのまま真幸の肩へと沈み、安らかな寝息を立て始めた。
「ちょ、ちょっと、美奈ちゃん――」
あわてふためき、困り果てる真幸。
「あはは、よっぽど疲れてたんねー。真幸、起こしちゃ駄目だよー?」
「あのさ」
操縦席から、声。
キャシーが、母親らしい表情でふりむいた。
「結局、どこに飛ばせばいいの? 明日っていうのは、どっちの方角?」
茶目っ気たっぷりの言いように、みんな、笑う。
「いいから。飛べるとこまで飛んでみてよ、お姉ちゃん」
マリアが、人差し指で目を拭いながら言う。
「了解。あいまいなオーダーね。困っちゃうわ」
キャシーが、やれやれと首をふってみせ、操縦桿を動かす。
気丈なすがたに、みんな勇気づけられる。
機体が、キャシーの意思により、ゆっくりと向きを変える。
「どこかに、人のいる場所が見つかるっすかね」
紫苑の問い。
「見つかるさ、かならず」
希望的観測。
楽観的回答。
それでも、僕は。
「見て」
真幸が声を上げた。
みんな身を乗り出し、真幸のしめす方角――正面を見た。
「ああ、もう、そんな時間すか」
紫苑が、まぶしそうに、両手で目の上を覆う。
連れてきたぞ、樽本。
これから、新しく始まるんだ。
胸のうちで、分隊長に敬礼。
分隊の、都市の生きのこりたちは、前を向いたまま、たがいに寄り添い、笑い合った。
やわらかい光が、空に、やがては機内に、差しこんでくる。
遠い水平線上から。
朝陽が、ヘリの直進方向に昇っていた。
「さすが、お姉ちゃん」
マリアが、僕と紫苑に向きなおり、軽くウインクした。
「ちゃんと、明日の方角に、飛んでくれたみたい」
ヘリは、そっと朝陽に溶けこむようにして、まっすぐと、飛びつづけた。