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屍たちの夜明け Dawn of the Past



   第一章  血は紅く


 背後からの光源――電気ランプが、闇の中から屍の顔を照らし出した。
 青白く、凶暴に尖った歯を剥き出しにした顔が、僕たちを見つけて歪んだ。
「三川(みかわ)!」
 命令する声に従い、元SAT隊員が散弾銃(ショットガン)を構えて、一歩、踏み出した。
 鍛え上げられた肉体と、洗練された動作。
 闇と光の境目で、轟音が炸裂する。
 屍の身体がくるくると舞い、部屋の壁へと叩きつけられるのを見た。
 通常の散弾を用いた散弾銃。その役割は、敵との間合いを作り出すことだった。
 屍は、壁に叩きつけられると同時に起き上がり、素早く壁を伝って逃げ出そうとした。
 三川の隣で、背の低い、小柄な少女が歩み出た。
 小鳥遊(たかなし)結衣(ゆい)。その手に握られた拳銃――オートマチックの拳銃――九ミリの銀の弾が込められた拳銃――それこそ、屍にとって、本当の脅威だった。
 最初に、頭が射貫かれた。
 続いて胸に二発。
 それらが、一秒未満の間隔で、行われた。
 素早く確実な動作。射撃の名手。
 屍は苦悶の叫びを上げ、本物の死体と化して、床を滑った。
「二」
 残りの屍の数を、別の少女が告げる。背も体型も一般的に見て平均的、こちらの生命線である電気ランプと、探知機を手にして索敵している少女――南(みなみ)梢(こずえ)。
 定期的な電子音が、近くにまだ敵がいることを示している。
 南が、探知機の筒のような先端を、来た道とは反対の扉に向ける。
 電子音が強まる。
 どこかの誰かの比較的裕福な家――その居間を横切り、台所に足を踏み入れる。
 電気ランプの光に怯えた声が、天井から響き、僕たちは一斉に上を見た。
 天井に張り付く屍の姿。
 飛びかかろうと身構えていた屍を、電気ランプの強力な光が足止めする。
 来栖(くるす)泰羅(たいら)が、銀製の槍を、屍、目がけて突き上げた。
 我らが班長――そして僕の同級生である男は、正確に屍の胸を刺した。
 他の仲間と同じく、服装は、一般特殊部隊の突入用装備と同等。普通の装備と異なるのは、ところどころに鉄のメッシュ素材が用いられていることだ。現代風の鎖帷子。
 防弾バイザー付きのヘルメットが、血飛沫から来栖の顔を守った。
「一」
 探知機を確認しながら、南が告げる。
 この縄張りには、突然変異体の屍が一体いるという話だった。
 突然変異体は、銀に対して免疫があり、銃や槍がほとんど効かない。
 簡単に殺す方法は、一つしかなかった。
 南の背後で、唸り声が上がった。
 僕は、南を強すぎないよう押しのけ、居間から襲いかかってくる屍の姿を確認する。
 足を踏ん張り、十字弓(クロスボウ)を構えた。
 屍は、女性の顔をしていた。美人であったのだろう、と思う。
 躊躇うことなく引き金を引いた。
 巨大な矢が放たれ、屍の胸に突き刺さると、見事に銛の役目を果たした。
 矢の後方に接続された鋼のケーブルが、勢い良く矢に追いついて伸びていった。
「引っ張れ!」
 来栖が無線で指示を出した。
 その指示を受け、弛ませた状態で家の玄関から引いてきていたケーブルが、どんどん張っていくのが目に見えて分かった。僕らの後方へと、ケーブルが引っ張られていく。
 巻き揚げ機(ウインチ)が動き始めたのだ。
 ついにケーブルが限界まで張られ、矢を強く引いた。
 矢の刺さった屍は、つんのめるようにして倒れ、引き摺られ始めた。
 屍は、胸を貫かれながらも、暴れ狂いながら悲鳴を上げた。
 近くにあったテーブルを一撃で粉砕し、飛散した木片が僕たちに当たる。
 回収されていくケーブルは勢いを増し、屍を、強く引き摺っていく。
 ケーブルと床の擦れ合う音が、屍の唸りと同調する。
 屍は、その強大な力から逃れようと、爪の伸びた両手を振り回し、尖った歯を剥き出しにして唸り、足をばたつかせながら、着実に、家の中を引っ張られていく。
 玄関をくぐる瞬間、屍は断末魔の悲鳴を上げた。
 真夏の太陽の下にさらし出され、屍の身体は、炎を上げて焼け爛れ始めた。
 皮が剥がれて灰と化し、炎と共に風で千切れる。
 その動きが止まるまで、そう長くはかからなかった。
 肉の焦げる、むせ返るような苦い匂い。
 炎が消えて黒煙に変わり、アスファルトの上で、動かなくなった肉体が泡立っていた。
 それで終いだった。
 仕事を終えて外に出る僕たちと入れ替わりに、清掃担当の処理班が家へと入っていく。
 家の周囲には野次馬の取り巻きができており、現場に入れないよう、警察官たちが封鎖していた。そんな警察官自身も、好奇心に満ちた目で、こちらを見つめていた。
 民放各局が、関係者にぶら下がり取材を行っている。
 僕たちが出た瞬間、どの局のカメラマンも、一斉にこちらにカメラを向けてきた。
 来栖が、血に塗れたヘルメットをかぶったまま、カメラに向かって手を振った。
 そんな風に注目を浴びながら、僕たちは太陽の下で、仕事終わりの開放感を味わう。
 黒焦げになった屍の身体を見つめ、その腐臭に耐えながら、南が溜息を吐いてヘルメットを脱いだ。茶髪のショートカットが、焦げ臭い微かな風に揺れる。
「オールクリア。いつ見ても気持ちの良いもんじゃないわね、やっぱ」
「ナミちゃんってばデリケートだよ」
 そう言いながら、同じくヘルメットを脱いで鋭角的なツインテールを現し、南に近寄ったのは、拳銃をホルスターにしまった射撃の名手、小鳥遊だった。彼女は、南のことをいつもナミちゃんと呼ぶ。だから、南をナミという名前だと誤解している人間は多い。
「焼き過ぎて失敗した魚って思えばいいんだよ」
「そんな脳天気な発想はできないよ、私」
「えへへ。コロンブス的転回、だよ」
「それ言うならコペルニクス的転回。勉強しないとね、小鳥(ことり)」
「あ、隊長、隊長、どうだった、今日のあたし」
 来栖は槍を壁に預け、血塗れのバイザーをタオルで拭っているところだった。ヘルメットでぺちゃんこになっていた髪を、手で掻き上げる。茶色く染めた、アシンメトリーの髪。適度に輪郭の長い、女子受けする整った顔立ち。
「及第点」
「何それー。隊長、暑いからって、八つ当たりの辛口は駄目だよ」
「学生の本分は勉強だぜ。コペルニクス間違えるようじゃ満点はやれねぇよ」
 来栖は、汚染されたタオルを処理班に渡し、家から出てきた。
「そもそも、髪の毛が銀色の奴なんて、女としても落第だね」
「この子の弾と同じ色なんだよ。強そうだし、格好良いでしょ」
 小鳥遊がホルスターの拳銃を軽く叩いて見せる。銀色のツインテールが跳ねる。
「単に奇抜。ある意味、奴らも避けるかもしれねぇけどな」
「ひーどーいー」
「うるせぇ幼児体型」
 そう言って、来栖は僕に目をやる。
「タツ、この後は暇だろ? 学食に行かねぇか」
「よく食欲が出るな、仕事の後に」僕は黒焦げ死体を目で示す。
「あんなの、焼き過ぎて失敗した魚って思ゃあ良いんだ」
「あー、あー、隊長、盗作、盗作! それ、あたしのだよ!」
「うるせぇ。俺のもんは俺のもん、小鳥のもんは俺のもんだ。何せ隊長だかんな」
「職権乱用だよー。竜平(りゅうへい)君からも言ってよ。こんなの発想のレイプだよ」
 小鳥遊にすがられて、僕は苦笑を浮かべるしかない。
 近くには最年長の三川幸三(こうぞう)もいたが、まだあまり皆と打ち解けておらず、寡黙に立っているのみだ。短く刈り上げた頭髪に、厳つい顔。腕を組んでいるため、鍛え抜いた筋肉が隆起している。
「皆さん、お疲れ様でした」
 そう声をかけてきたのは、巻き揚げ機の操作を担当していた尾瀬(おぜ)秀(しゅう)だった。最近、雇ったばかりのアルバイトで、入社したのは金銭的な理由ではなく、憧れによるものらしい。眼鏡をかけた、感じの良い少年で、学年的には一つ下だったように思う。小鳥遊と同じだ。
「今日も、吸血鬼の奴らに一泡吹かせてやりましたね」
「尾瀬君、吸血鬼じゃなくて、吸血症患者」と南が口を挟む。
「それも末期症状のな」と来栖も補足する。
「ああ、すみません……伝説の怪物とはまた違うんでしたね」
「そうだよ、尾瀬君。伝説とは、全然違ってるんだよ」
 ここぞとばかりに小鳥遊が身を乗り出してくる。
「例えば、にんにくも十字架も、よく頼ろうとする人がいるけど、効果はないんだよ。吸血症患者は、招かれないと人の家には入れない、というのも迷信だし」
「正確には、十字架は多少、効果があるけどな。パターン認識の問題で、発症患者は、ああいった図形に心理的不快さを感じるらしい。けど、それだけの話ってことだ」
「隊長、そんなの分かってるよー。それでね、尾瀬君。吸血症患者は、確かに人の血を吸うけれど、別に呪われた怪物に変貌したわけではないんだよ。血液に問題があるんだよ」
「血液、ですか」
「そう。吸血症患者の血は、正常な人間の血に触れないと、活性を保てないんだよ」
「一定間隔で人間の血を吸わないと、飢え死にしてしまう、ということですか」
「いや、そうじゃねぇ」
 来栖が再び口を挟んだ。
「吸血症患者の血は、活性を失うと、別の性質を持つようになる。ウイルスとしての性質が強くなるのさ。感染力が高く、この世から絶えないために、感染を広げることを第一の本能とし始める。その本能は、宿主――つまりは感染者の行動をも操り始める。もはや意志も心も持たず、人を襲って仲間を増やすことだけを考える。それが――末期症状患者だ」

 騒ぎ声が上がった。野次馬の中からだった。
 一目見て、騒いでいるのは、勘違いしている面倒な連中だということが分かった。
 首に十字架をぶら下げ、木製の杭を手にした数人の男女グループが、警察官に向かって騒ぎ立てている。そうして、しきりに救急車の方を指差しているのだ。
「分からないの、こうしてる間にも連中は増え続けているのよ! あの中の死体も、今に起き上がって、人を襲うのよ! そうやって増えるのよ! 知らないの、読んでないの?」
 叫ぶ中年の女が、指で十字を切りながら、分厚い本を掲げてみせる。
「本に書いてあるわ! 殺すには、胸に杭を打ち込むしかない! 何故、分からないの!」
「あの、ですね」
 若い警察官が、困り果てたように、詰め寄る女たちを宥めようとする。
「救急車に乗せているのは、怪我をした人たちです。遺体では――」
「そう見えるだけ、分からないの! すぐに心拍停止して、そうして蘇るのよ! 吸血鬼に血を吸われたら、そうなるの! 私の旦那もそうだったわ! 分からないの!」
「やれやれ」
 来栖が嘆息を漏らした。
「ああいう輩は、どこの現場にもいるもんだな」
「吸血鬼は、血を吸った人間の意志を操れるとも書いてあるわ! あんたたちも操られているのね! 国から乗っ取る気なんだわ! 全員、首を見せなさい! 今すぐに!」
「おや、そいつは新説だ」と来栖。
「やだなぁ、ヒステリーだよ」と小鳥遊。
 問題の男女グループは、救急車の進行方向に立ち塞がっており、なかなか救急車が出発できない。怪我人を乗せているというのに。警察がグループに対して、しっかりとした対応を取れていないところに、世間にはびこる誤解の根強さを見たように思った。
「杭を打ち込むの! 起き上がる前に! さっさと、そこをどきなさい!」
 女の後ろで、杭を持った連中が、賛同の声を上げた。彼らの持つ杭は細く、その目的を達するには役に立ちそうもない。
「さっきの話を聞かせてあげたらどうですか」
「無駄だろうな。連中は自分たちの間違いを認めようとはしねぇ。違う二つの理屈があるなら、間違ってんのは相手の方だ、と思い込む連中だ。何度も何度も説明してきたんだが」
 尾瀬の言葉に、来栖が、諦めたような声で答えた。
「初期症状と末期症状の区別も付いてねぇ。どんなにテレビや新聞で偉い学者や政治家が説明しようと、あいつらは古臭い伝説を信じる。単純明快な吸血鬼をな」
 警察官が数人集まって、男女グループを救急車から遠ざけようとした。
 救急車はようやく動き出したが、そこに、石が投げつけられた。
「悪鬼だ! あいつらは悪鬼だ! 何で分からないの!」
 そろそろ我慢の限界だった。僕は歩み出す。
「タツ」
 来栖の制止する声も無視し、騒ぎながら石を投げる女に向かって歩み寄る。
「悪鬼――何、何よ、あんた」
 僕は、手に持っていた十字弓を、ケーブル未接続の矢が装填された十字弓を、女の胸に向けた。女の顔が青ざめ、それを隠すように、より怒りで歪められる。
「あんた、悪鬼の仲間ね! そうなんでしょ! 何よ、やってみなさい! みんな見てるわ! あんたたちの大好きな夜じゃなく、白昼堂々、殺せるものならやってみなさい!」
 何も答えず、狙いを定めたまま、僕は女の後ろに立つ男の手から杭を奪い取った。
「こんなんじゃ駄目だ」
 十字弓を下ろすと、今度は、その細い杭を、女の胸に突きつけた。
「こんな細い杭じゃ殺せない」
「心臓を突き刺せば――」
「無駄だね。すぐに傷口は塞がる。伝説とは違うんだ。鵜呑みにしてると、こっちが死ぬ」
 杭の先端を、ゆっくりと、胸から首筋へと伝わせる。
「血を吸われるというのも誤りがある。末期症状患者は、血を注入するんだ。吸ってるわけじゃない。そうして、感染者を増やそうとする」
「同じことじゃないの! あいつらは呪われたんだ! 吸血鬼の血で!」
 女は救急車の走り去った方角を指差した。
「あんたたちが逃がしたんだ! また私のような人が増えるんだ! 私の旦那は――」
「さっき聞いたよ」
 僕は首を傾げた。
「旦那さんは? 噛まれただけなら初期症状だったはずだ。今は病院?」
 女は、ここで満足そうな笑みを浮かべた。歪んだ笑み。目をそらしたくなるような、張り倒してやりたくなるような、そんな笑みだった。
「杭を打ち込んだのよ。何本もね。寝ている間に。太い杭も使ったわ」
 私はやり遂げたのよ、と女はせせら笑った。
「あいつらは殺せるの。吸血鬼は、大声で悲鳴を上げて、旦那の声で命乞いしたわ。最後まで、私を騙せると思ってたみたいだけど。あいつらの目的は、私の血だけ」
 そうだ、と背後でグループの男女が声を張り上げたが、一睨みすると、すぐに止んだ。
「殺人だ、それは」
 僕はようやく言った。
「旦那さんを殺したんだよ、あなたは」
 女は笑ったまま、嘲るように首を振る。
「違うわ、吸血鬼よ。みんな、知り合いの顔をしたあいつらに同情して攻撃できず、逆に殺される。でも、私はそうじゃない。いつだって先手を打つのよ」
 どんなに親しい相手であっても、躊躇すれば、自らが犠牲者となる。
 心が冷える。
 もう見知った顔じゃない。悪魔が食ってしまった。だから先手を打たねば。
 気分が悪くなる。猛烈な嘔吐感。紅い記憶が追いかけてくる。
 そんな僕の変化に気付く様子もなく。
 女は、上手い言い草を思いついたというように目を輝かせた。
「それに、こうも考えられない? 私はあの人を、永劫続く苦しみから救ったのよ」
 それで最後だった。これ以上、目の前の女に喋らせるつもりはなかった。
「簡単には死ねないんだ、吸血症患者は」
 手に持った杭に力を込める。女の顔が、微かな痛みに苦しそうな表情を浮かべた。
「それでいて、他の人と同じように痛みを感じる。あなたの旦那は、長い激痛を味わったんだ。何本も杭を打たれ、しかし破損した肉体は再生し、延々と苦しみ続ける」
 今のあなたなら、と僕は続ける。
「ちょっとしたことで死ねる。簡単に死なせてやれる。でも今、それをする必然性はない。もしあなたが吸血症にかかって、末期症状患者になったら、その時は、簡単に死ねると思わない方が良い。太陽に焼かれながら死ぬ患者を見たことがあるか?」
 アスファルトの上――黒焦げの身体を顎で示す。
「間違った知識を持つのは構わない。あなたの勝手だ。その知識を周囲に振りまくのも、とてつもなく迷惑だが、あなたの勝手だ。問題は、いつかその誤った知識が、自分に降りかかる可能性もあるということだ。その時には、逃げず喚かず、筋は通してもらいたいな」
 杭を女の首筋から離すと、元々の持ち主に投げ渡した。
「な、何よ――」
 という女の言葉が聞こえたが、僕は無視して、仲間の元へと戻った。
「ああいうパフォーマンスはやめてもらえねぇか、タツ。俺にも立場ってのがあるんだ」
 来栖は渋い顔をしていた。
「あの女、新聞か何かで見たことあるぜ。仲多(なかた)益美(ますみ)とかいう名前だ。こういう現場で、度々問題を起こしてる奴だよ。タツ、あんな類は放っときゃいいんだ」
「竜平君、短気は損気、だよ」
「あんたは、すぐそうやって目立ちたがるんだから。あんなの、放っとけばいいのよ」
 小鳥遊と南も、それぞれ言い寄ってくる。南は、手で顔を覆う仕草をしてみせた。こちらに向けられたカメラを意識しているらしかった。
 放っとくわけにはいかないんだ。そうじゃないか?
 ああいうのを放置すれば、ばい菌のように連中は増殖する。それが分からないのか?
 軽い苛立ちを覚えながら、ああ分かってる分かってる、と軽くやり過ごす。
「僕、もう少し勉強しておきます。ああなりたくはないですからね」
 尾瀬の言葉に頷く。
 皆が興味を持ち、確かな情報を元に知識を得れば、吸血症患者にまつわる問題は、もっと解消されるはずなのだ。ああいう人間が、どんどん問題をややこしくしている。
 思わず溜息が漏れる。今日は疲れた、色々と。
 明日も朝早くから学校だ、と考えると、憂鬱で仕方がなかった。

       *

 僕は、自分の部屋に帰宅すると、扉を開け、電気をつけて、靴を脱いだ。
 賃貸マンション三階の端に位置する部屋。
 薄暗い明かりの中、軽く室内を眺め回す。ありきたりのリビングダイニングキッチン。奥に二つ扉がある。それぞれ、六畳ほどの小部屋に繋がっている。
 誰の姿も見えない。だが、誰かが先程まで存在した形跡があった。
 手を伸ばす。靴箱の上の、十字弓を手に取る。傘立てから矢を抜いて、装填する。
 息を沈める。
 十二畳のLDKには、身を潜めるような場所はそう多くない。
 十字弓を構えて歩み出す。
 仕事で現場に突入した際と同じように、右、左、右、と室内をチェックしていく。
 キッチンの陰、テーブルの下、カーテンの裏、ソファーとテレビ、
 軽く点検しながら、その奥、右側の扉に近づいて、ノブに触れる。
 この先には、自分の寝室兼勉強部屋がある。
 ノブを回す。ゆっくりと――
 素早く振り向き、十字弓を構える。
 LDK――その中央に位置するソファーの裏から、一つの人影が飛び出してきた。
 その俊敏さに驚きつつも、迅速に狙いを定める。
 求められるものは、素早さと正確さ。
 引き金を絞る。
 躊躇いなど必要ない動作。
 飛び出した矢が、襲いかかってきた人影――
 ――まだ少女に過ぎない身体のその胸に、命中した。
 と同時に、矢は情けない音を立て、跳ね返って床に落下した。
 相手が動きを止める。
 僕も十字弓を構えたまま動かない。
 やがて、襲撃者である長髪の少女は、くすくすと笑い始めた。
 そのままソファーに崩れ落ち、小さな身体を埋もらせながら、可笑しそうに笑い続ける。
 僕も十字弓を下ろし、少女の可愛く笑う様を見つめ、笑みを浮かべた。
「また負けちゃった」
 少女はそう呟いて、撃たれた自分の胸を抑え、また笑う。
 僕は、十字弓から発射された玩具の矢を拾い上げ、十字弓と一緒に棚の上に置いた。
 少女は、笑い過ぎて微かに涙の滲んだ目を上げて、僕を見つめた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「うん、ただいま」
 応えて、少女の隣に腰を下ろす。
 少女の横顔に目をやる。
 成長すれば、目を瞠るような美女に育つであろう、日本人形を思わせる整った顔立ち。
 少女は、まだ十三歳だった。
 普段の行動から、実際の年齢より幼く見えてしまうこともあった。
 ここは、僕と少女が二人暮らしのために借りている部屋。
 LDKの奥、左側の扉は、少女の可愛らしい寝室に繋がっていた。
「未来(みく)、今日は晩御飯作って待ってたよ」
「そっか。ありがとう」
 頭を撫でると、未来は嬉しそうに背筋を伸ばした。
 まだ子供なのだ――子供で在りたいのだ――という思いが胸中に広がる。
 それじゃあ頂こうかな、と僕は席を立ち、テーブルに近づいて胡座をかく。
 白米に豚肉とほうれん草、味噌汁、出汁巻卵が並んでいた。
 頂きます、と手を合わせ、未来はまだいいのかい、と聞いてみる。
「うん。お兄ちゃんが食べてからで良いよ。先にお風呂、入ってくるね」
 小走りに未来が駆けていく。
 僕は、意外と自分が空腹だったことを意識しながら、食べ物を口に運んだ。
 料理をすべて食べ終えた頃、ほかほかと湯気を身に纏った未来が戻ってきた。
「あ、美味しかった? お兄ちゃん」
「うん、最高」
 親指を立ててみせると、未来もにまっと笑って、親指を立てて見せた。
 ソファーに座った未来が、隣をぽんぽんと叩き、お兄ちゃんお兄ちゃん、と呼んだ。
 呼ばれるままに、皿を片付けてから、隣に座ってやる。
 えへへ、と照れ笑いしながら、未来が下を向いて、もじもじとした。
「何だい」
 未来の言いたいことを理解していながら、それでも彼女の口から言わせようとするのは、酷なことだろうか、と一瞬、考えた。きっと、酷なことだろう。
 それでも、彼女には常に意識しておいてもらわないと困る。
 あのね、と未来が呟く。
「未来、お腹が空いちゃったの、お兄ちゃん」
 そっか、と僕は頷いてみせる。
「食べちゃってもいい?」
「いいよ。もう夜になるしね。宿題も終わってるから、特にすることないし」
 じゃあ、と未来は恥じるように微笑んで、そっと顔を近づけてきた。
 八重歯が二本、笑みの中に覗いている。
 未来の手が、優しく僕の背中に添えられ、未来の唇が、軽く僕の首筋に押しつけられた。
 微かな痛み――慣れた感触――やがて来る、官能的なまでの甘い陶酔。
 ほうれん草は貧血予防に効くんだっけ、とぼんやり思う。
 僕の意識は暗転する。

       *

 夢は、不思議な場所だ。
 ありもしない出来事や、いるはずのない人と、度々、遭遇する。
 ピントの合っていない、ぼやけた写真のように、こちらを見つめる誰かが立っている。
 その表情が分からない。
 どんな顔で、どのような目で、僕を見つめているのか。
 笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。
 分からぬまま、その姿は、光へと溶けていく。
 夢は、本当に不思議な場所だ。脈絡なく、次々と流れていく。
 夢が、今日の夢の議題を掲げる。
 例えば。
 この世界は、いつの間に、こんなことになってしまったのか。
 僕は、どうして、こんな風に、なってしまったのか。
 曖昧な画像は分解され、僕は情報の海に投げ出される。
 夢ってのは頭ん中を整理するためのもんだ――来栖が言っていたような気がする。
 情報が、記憶を押しやって、僕を埋め尽くしていく。
 目の前で、本やテレビ、インターネットの画面が瞬いた。夢が見せる映像。
 数多の文字が、僕の目に飛び込んでくる。
 吸血症患者。血を吸う伝説の怪物、吸血鬼。
 血を吸われた人間は、死を迎え、やがて吸血鬼の仲間として蘇る。
「ここに、幾つかの誤解がある」
 突如、夢の中に現れた来栖が、唱えた。
 夢が、来栖の映像を媒介し、情報を発信している。
「確かに、血を吸いすぎて他人を殺しちまう吸血症患者も存在するがな。基本的には、そいつらが生きていくために、というよりも末期症状に陥るのを防ぐためには、そこまで大量の血液を必要としねぇ。だから、殺すほどに血を吸っちまう事例は少ない」
 ただ。
 中には通り魔的な吸血症患者が存在し、手当たり次第に人の血を吸っては、その行為の発覚を恐れ、被害者を殴るなり刺すなりして殺害してしまうということもある。
「そうね」
 映像――今度は、薄暗い夢の中に、南の姿が、ぼぅっと浮かんだ。
「それが、吸血症患者=人の血を吸って殺害してしまう吸血鬼、という誤った図式を成り立たせる要因の一つとなってる。これが一つ目の誤解」
「誤解って言えば、もう一つあるよー」
 映像――小鳥遊が、ふわりと夢に浮く。
「末期症状でない限り、吸血症の人がどれだけ他人の血を吸おうと、その症状が、血を吸われた人間に移ることはないって知ってた? あたし物知りー」
 そう。つまり、吸血症の感染経路は、末期症状の患者からのみであるということだ。
 ただし、末期症状の患者は、もはや血を吸うという行為は行わない。
 彼らは、その血液を伝播させることだけを考え、もしくは考えさせられ、行動するのだ。人を襲い、噛みつく。ここでは、血を吸うのではなく、伝染力を高めた血の注入を行う。
 こういった事実は、かなりの大部分が、世間的には誤解されている。
 映像――聖書を掲げ、十字架を手に、大声を張り上げる者たちの姿。
 初期症状の吸血症患者は、自意識も心も保っている。通常の人間と何ら変わらない。細胞や身体の強硬さ・回復能力が異常に高く、ほぼ不老不死であるということを除けば。
 新陳代謝の活性化によって細胞の分裂速度が異常に速まることで、怪我や病気に対する快復力が著しく向上。また、代謝効率の向上による、運動能力の上昇も見られる。
 唯一、彼らの細胞は、光や銀の成分に弱い。また、太い杭を胸に刺されると死亡するというのも、損傷の修復が、太い杭によって遮られ、間に合わないためと見られる。
 末期症状患者。
 血液に操られ、自我も意識も持たぬ存在。もはや生きているとは言えず、人形のように操られるだけの、動く死体。生きながら死んでいる、肉体。
 末期症状患者の肉体は、もはや人間としての在るべき形を保とうとせず、限界を解除された強靱な肉体と化していく。壁を伝い、跳躍することも可能な肉体に。
 初期症状患者なら、散弾銃で頭を吹き飛ばせば死ぬ。だが末期症状患者は、もはや脳など必要としておらず、肉体は人形と化しているので、それでは死なない。
 だからこそ、僕は末期症状患者を、屍、と呼んでいる。
「それを言うなら、屍人(ゾンビ)じゃない?」
 映像――南の怪訝そうな表情。
 僕は。どうしても、彼らを表現するのに、人、という単語を当てることができない。
 吸血症患者。初期症状と末期症状では、根本的に、存在が異なるのだ。
 問題解決策を、初期症状も含めて吸血症患者を根絶やしにするか、初期症状から末期症状へと移行する段階を潰すか、そのどちらに求めるかで、人々の立ち位置は変わる。
 血を吸われるという行為は、人々の間に生理的嫌悪感を呼び覚ますため、吸血症患者は、世間的に明らかな差別を受けているのが現状だ。一度、末期症状に進んでしまえば、恐ろしい存在になるというのも一因である。
「その差別が原因で、血が手に入らず末期症状に陥ってしまう患者や、それを恐れて、人を殺してでも血を吸おうとする患者が増えていることを考えると、皮肉な話だな」
 映像――来栖が、煙草の火とともに揺らめきながら呟く。
 現在、社会には、そういう吸血症患者を巡る問題の現状を打破、あるいは利用しようとする会社が数多く存在する。中には、人々から献血を募り、集まった血液を、食料として吸血症患者に売り出しているような、画期的な会社も存在する。
 僕が所属する会社は、末期症状の患者を、言わば始末する仕事を請け負っている。
 末期患者だって病人なのだから、簡単に殺すべきではない、という言い分も少ないながら存在するが、今のところ吸血症を治癒する方法は見つかっていないため、法律的には、末期症状患者は、既に死亡したものと同等の扱いを受けることになっている。
 それでも、警察や自衛隊は、積極的に末期症状患者を攻撃するようなことはしない。対処するための装備すら整えていない。民間企業に義務や責任を押しつけているのだ。
「仕方がないさ」
 映像――来栖。その姿にノイズが混じり、少しずつ掻き消されていく。
「未だに吸血症患者は、全国的に見て多数存在するわけではなし。国としても、そう簡単に、国民を殺害せよなんて命令を、国家機関に下せるはずもない」
 妹を、殺害せよ。
 微かに。紅い記憶と。鼻をつく匂いと。誰かの叫びが。
 僕は、逃れるように、情報の海を、先へ先へと泳いでいく。過去から、現在へ。
 夢の中。刻の振り子は大きく揺れる。
 僕は。
 言い聞かせるように。しっかりと繋ぎ止めるように。自分が自分として、現在へと戻れるように。気を確かに持ったまま、夢から覚められるように。
 僕が僕であることを確認する。僕の現在を確認する。過去に迷わないように。
 僕は。
 末期症状患者の動向が発見されれば出動する、そんな人手不足の会社に勤めながらも。
 高校生である僕は。
 もうすぐ始まる夏休み前夜祭に向けての準備を――

 ――。
 どこかから転落してきたかのように。
 僕はベッドの上で身体を強張らせ、目を開いた。
 胸が高鳴っている。激しい動悸。荒く息を吐き、天井を見上げる。
 夢の中身など、とうに覚えていない。が、問題は、そのことではない。
 目を覚ました僕は、絶望的な思いで置き時計に目をやる。
 短針は、無情にも九の数字を指して止まっている。
 学校は既に始まっている。完全に寝過ごしたというわけだ。
 どうするかな、と考え込む。今日は休むか。
 その時、甲高いベルを鳴らして、携帯電話が着信を告げた。開いてみて驚く。南からの着信だ。今は授業中のはずだが。訝しみながら、通話ボタンを押す。
《あんた、どこで何やってんの!》
 不自然なほどの囁き声で、南が怒鳴った。
「南こそ、どこで何やってんだ。授業中だろ」
《だから囁き声なんでしょ、馬鹿》
 そう言えば、南の席は、教室の一番後ろだ。こっそり電話をかけてきたということか。
《あんたね、前に言われたでしょ。学校にちゃんと通えないようなら、仕事の方もクビにするって。そうなったら、お金どうすんの。やってけるわけ?》
「お前は僕の母親か」
 僕は溜息を吐いた。
「そんなの、脅しに過ぎないって。僕たち、正社員じゃなくて契約社員だろ。基本的に、契約期間が終わるまでは、向こうだって勝手にクビにはできないって」
《そんなこと言って――あ、はい》
 電話が切れた。先生に当てられでもしたのだろう。成績優秀、真面目な南だが、たまにこういう、授業中に電話をかけてくるような破天荒なことも、平気でする。
 学校、どうするべきだろうか。今日くらい休んでもいいか、という気もする。
 ふらふらと自らの部屋に向かい、ベッドに座り込む。
 特に理由もなく、ベッドの向かいに位置する本棚に目を留める。
 吸血鬼に関する物語。吸血症に関する書物。
 人は物語で動く。そう思う。
 それは別に、殺人などの小説を読んだ人が殺人鬼になるとかいう意味ではなく。
 人は、自分の人生や現実を、物語の構造に当てはめて考えることがある。
 そこで、当てはめる物語を少しでも間違えば、人は、間違いを犯す。
 現実は複雑だ。
 けれど、全てが因果関係に満ちている物語の文法は、容易く人々に受け入れられる。
 分かり易く、流れがあり、筋が通っている物事を、人は好む。
 勧善懲悪。
 人は物語を扱いきれていない。
 物語るという、地球上の生物で唯一与えられた能力を、持て余している。
 それが、人が人である所以であり、人が人である罪だ――。
「お兄ーちゃん」
 扉の外でノックが聞こえ、僕は思考の流れを遮断した。
 暗い室内に、未来が入ってきた。
 暗く澱む室内。遮光カーテンやダンボールによって、窓からの朝陽は遮られている。電気をつけなければ、朝でも真っ暗だ。その電気も、僕の部屋以外に備えられたものは、柔らかく弱い光を浮かべる電灯で、我ながら自身の健康には悪そうな室内だ。
 すべては未来のためだった。初期症状患者である未来は、強い光に弱い。
 そんな未来への気配りが、この部屋には充実していた。
 例えば食器類も、銀製のものは何一つ無く、すべて木製だ。
 十三歳の未来。この十三という数字は、本来、未来にとって何ら意味を持たないのであるが。そこに意味を見出そうと、あるいは作り出そうと、未来は常に振る舞っている。
 長谷川(はせがわ)。長谷川未来。それが少女の名だ。かつては。
 今は、その名にどれほどの意味があるだろう? 未来にとって。僕にとって。
 未来が未来であるということ以外に。
 親にさえ見捨てられた、未来にとって。
 いや、哀れむのはやめよう。未来は未来だ。僕の、妹だ。
「未来……起きてたんなら、起こしてくれよ」
 少し恨めしげに言ってみると、てへ、と未来は舌を出した。
「だって、寝過ごしちゃえば、お兄ちゃん、ずっと側にいてくれるかと思って」
「でも、未来はそろそろ寝るんだろ?」
「うん。だから、寝てる間、一緒にいて欲しいの」
 そうか、と僕は、壁時計を見上げる。仕方ない。今日は諦めるとしよう。
「未来、今日は何してたんだい?」
「あのね、ネットサーフィンとゲーム、それから漫画を読んでたの」
 深夜にオタクな活動をする吸血鬼というのも斬新だ、と笑う。もちろん吸血鬼ではない、未来は吸血症患者だ。これが理解できない人間の頭の構造を知りたく思う。
「テレビからは、充分、離れろよ。身体に悪いから」
「うん」
 素直に頷く未来。自分の身体のことは、自分でしっかり把握しているだろう。
「あの、ごめんなさい」
 少し身を縮めて、未来が頭を下げた。
「え、何が?」
「未来、昨日、つい食べ過ぎちゃって……」
 ああ、と僕は笑った。それで寝過ごしてしまったのか。そう言えば、少し身体が怠い。
 学級担任の金糸雀(かなりや)は怒っているかもしれない。教師とは思えないような不良面をした、眼鏡の似合う女性で、実を言うと、僕の勤める会社の社長でもある。
 当然のことながら、公務員は、営利を求める私企業を営んだり、その企業で地位を得ることや、報酬が発生するいかなる事務にも従事してはならないと、法律で規定されている。
 そこで金糸雀は、裏の顔で会社を運営している。会社自体は、別に隠された企業ではないため、表に社長が出ねばならないときは、アルバイトの中年男性が影武者を務めている。
 自らが社長であることなどは、社員にすらもあまり告げておらず、知っているのは一部の者だけだ。僕や来栖たちは、勤め始めて少し長いので、全員がそのことを知っている。
 僕たちの学校では、割の良い仕事があるという噂が、いつ頃からか流れている。恐らくは金糸雀が流したのだろう。仕事の内容や会社の電話番号も、噂話の中にはしっかり含まれていて、物好きや金に困った生徒が、よく会社に面接を受けに行っているらしい。
 命の危険がある仕事に学生たちを雇うことに関して心は痛まないのか、という質問を記者から浴びせられた際、金糸雀は影武者に、こう言わせた。
「学生たちは、自ら望んで我が社に来ました。こちらとしても、この仕事に関する能力や素養があるのなら、特に年齢制限は設けておりません。我が社は発足したばかりで、人員が致命的なまでに少ない。ですが、彼らの優秀さは、私が保証します」
 携帯電話が鳴る。表示を見ると、金糸雀からだった。
 頭の中で噂をすれば、と時刻表示を見る。一限が終わった頃だ。
 溜息一つ、通話ボタンを押す。
「――はい」
《うぃーす、金糸雀です》
「先生、」
《どうして人は恋をするの》
「突然、何を――」
《学校に行くためだろーが》
 法律違反の不良教師は、さも当然の答えだというように宣った。
《今日も素敵なあの娘に会って、恋を成就せんがため学校に行く。これが全人類の、全男性自身の、深層心理ってもんだろ。リビドーだろ。この不全やろうが》
 理不尽な罵倒を交えつつ、それなのに、と金糸雀は続ける。
《期末試験も終わり、夏休み前夜祭、プール開放、と楽しい行事が目白押しのこの時期に、どうして学校に来ないなどという選択肢が浮かぶのかね、タツヒラ君》
「すみません、今日は……」
《ああ時にタツヒラ君、ちょい相談だけど、我が社の社名を変更したいと思う今日この頃》
 金糸雀は、話題をさらっと変えてしまう。これには、いつも、ついていけない。
《吸血症末期患者対策事務所、なんて、堅苦しいとは思わない? 思う? どっち!》
「何か代案があるんですか?」
《こんなのはどう。ナイト・オブ・センチュリー》
 通話を切る。これ以上会話して、何かしらの進展があるとは思えなかった。
 携帯電話を放り出して振り向くと、既に未来は、僕のベッドの中でタオルケットにくるまり、小さく寝息を立てていた。隣に転がって、軽く頭を撫でてやる。
 未来は、くすぐったそうに身じろぎした。
 その寝顔を見つめていると、思う。
 守ろう。この子を、守ろう、と。
 今、ここに、こうして、この子が居るという現実を、守り通そう。
 過ぎた過去は、遠い後方に飛び去った。それでもなお、現在は続いていく。
 それなら。僕は、僕という現実を、守り続けよう。
 起きてしまった、過去への誠意として。
 そう自らに言い聞かせつつ。
 僕は、仕事の出勤時間になるまで、生温かい微睡みに身を委ねた。

       *

「明日は前夜祭か」
 ソファーの上に仰け反った体勢で、来栖が呟いた。片手には微炭酸の缶ジュース。
「小鳥んとこは何やるんだ? お前らの学年は校舎使うもんな。メイド喫茶?」
「お化け屋敷だよー」
「ベタだな。絶対、行かねぇ」
「こんにゃく美味しいよー」
「用途違うだろ」
 僕たちがいるのは、大して広くもない真っ白な部屋の中で、植木鉢と自動販売機、数冊の雑誌が置かれたテーブル、そのテーブルを二七〇度囲むように置かれた三つの黒い安物ソファー、地デジ非対応のテレビの他には、特に何もない。
 待機室。特に事件発生の報せがなければ、雑談だけで、その日の勤務は終わる。
 来栖が班長を務める僕たちの班は、基本的に学校のない休日が出勤日で、平日は、放課後の数時間だけ出勤することになっている。
 日が暮れれば暮れるほど危険なため、夜の勤務は大人の者が多かった。
 今は、午後の四時前だ。外は、まだまだ明るい。
「小鳥の憧れの先輩とやらは、来てくれそうなのか」
 来栖が訊ねる。
「確か、俺らよりも一つ上だったよな」
「そんなの分かんないよー。だって、向こうはあたしのこと知らないんだよ」
 名前も知らないし、と小鳥遊が俯く。
「はっ。リサーチ不足だな。まるっきりガキの恋愛じゃねぇか」
 いいか、と来栖が身を乗り出す。
「相手がどういう人間かを見極めねぇと、戦略も戦術も立てられねぇ。まずは傾向を知ることだ、対策はそれからだ。先輩の趣味とか分からねぇのか」
「部活は茶道だよ。それと、よく本を読んでるよ」
「見えてきたぞ。多分、オタクだな。それでいてロマンチストと見た」
「偏見だよー」
「恋ってのは、出逢いが大切だ。良くも悪くも、印象に残してもらうことが最優先。相手の好みや正確に合わせたシチュエーションで出逢う必要がある」
 小鳥遊は、ふむふむと真面目に聞き入っている。
「俺がお勧めするシチュエーションはこうだ。誰か一人、助っ人がいるな。これはタツでもいい。それらしく変装したタツが突然、先輩に襲いかかる。そこを、小鳥が助けるんだ。演劇部から、勇者の剣でも借りてこい。小鳥の一撃で、あっけなくタツは退散しながら、言う。『この力は……!』とか何とか。そんで、小鳥は立ち去り際に振り向き、呟く。『思い出して……自分が何者なのか』目は潤ませろ。千年の恋を匂わせろ。これで、」
「却下」
「南、お前には分からねぇんだよ。青春期とは、すなわち英雄適齢期だ。突如日常に現れた美少女、自らに秘められた超常的な力、それを付け狙う悪者、男の願望じゃねぇか」
「だからって、いくら何でもファンタジーすぎるわよ」
「馬鹿、前夜祭の時にやれば、失敗しても、これは出し物です、で済むんだよ」
「む……ちゃんと考えてあるのね」
「だろ」
 そのとき、頭上から、高いベルの音が降ってきた。皆、顔を上げる。天井近くに設置されたスピーカーから女性の声で、事件発生の旨、事件現場の位置などが告げられた。
「ちぇ、今日は何もねぇと思ったのによ」
 アルバイトの尾瀬も含めた来栖班の六人は、待機室から、扉を抜けて、隣の更衣室へ移動した。それぞれ手慣れた身のこなしで、素早く装備に着替え始める。
 着替えを終えると、そのまま建物の出口へ向かい、外で待機していた輸送車に乗り込む。輸送車とは言っても、バスを改造しただけのものではあるが。
 予算の大半は、武器装備などにかけられるため、こういうところは、かなり貧乏企業だ。銀の弾を装填し使用する拳銃も、一班に一挺ずつしか用意されていない。
 僕は十字弓の状態を点検しながら、ふと、しっくりくる、と感じる。
 自分は、学生であるよりも、この仕事をしているときのほうが自然だという感覚。
 歪んでいる、という思いに囚われる。
 末期症状の患者――それは、初期症状患者の延長であり、どちらも同じ吸血症患者である。それなのに、初期症状患者を養護する言動を取り、末期症状患者を死なせる仕事に身を置く自分――まるで脈絡がなく、筋の通っていないような気持ち悪さ。
 例えば。未来が末期症状に陥ってしまったら? 自分はどうするのか?
 妹は。そんな僕を、どんな表情で見つめるのか。
 知っているはずだ、僕は。末期症状患者に、理性はない。
 表情は、きっと何もない。その瞳は、何も映さない。
 それでも、思ってしまう。
 僕が、何も読み取れなかっただけなのではないかと。
 彼らは、彼女たちは、鉄に貫かれながら、太陽に焼かれながら、簡単には死ねない苦痛を味わいながら。何かを叫んでいたのかもしれない。
 ……確かめたいのだろうか、僕は? 試しているのか?
 末期症状患者が死ぬ間際の表情を、死ぬ間際の声を、ただ観察したいがために、僕はこの仕事をしているのか? そのような歪んだ動機が、僕の内に?
 初期症状患者を養護しながら、末期症状患者を、自らの満足のために殺している?
 吸血症患者のすべてを否定し、嫌悪し、排除しようとする者のほうが、考え方としては自然なのかもしれない。まともなのかもしれない。そう考えると、苛々が絶えない。
 しかし末期症状患者を救う手立てはなく、彼らを野放しにするわけにもいかない。
 やめよう。こんな連想は被害者めいている。僕はあくまで加害者に過ぎない。
 どんな御託を並べても、結局のところ、僕はビジネスをしているだけなのだ。
 そう。もっと言えば、自分が悩む必要など何もない。考えるのは、国や会社の役目だ。僕は、雇われているだけの身に過ぎない。そんな卑怯な思いも巡る。
 現場へと到着し、バスから降りる。
 複数の警官やパトカーによって封鎖された、小さめのスーパーマーケット。
 電線を切られたのか、明かりはすべて消えている。パトカーのカーライトに照らされ、入り口付近は、かろうじて中が垣間見えるようになっている。
 時刻は四時過ぎ。外が暗くなるまで、まだ時間は残っている。
「従業員と客が数名、それから、突入した警官二名が戻ってきてねぇそうだ」
 来栖が、情報を告げる。
「間違って撃たねぇようにしろよ。よく相手を確認しろ」
 バス後方から、巻き揚げ機を下ろす。
 巻き揚げ機から伸ばしてきたケーブルを、僕の手にある十字弓の矢に接続する。
 南が電気ランプの電源を入れ、探知機の状態も確認する。
 来栖と小鳥遊も、それぞれ槍と拳銃を手にし、立つ。
 三川が、音を鳴らして、散弾銃の弾装填を完了した。
 準備が整い、僕らはスーパーマーケットの入り口に立った。
 自動扉を手動で開け、僕たち五人は、暗闇の中へと足を踏み入れた。
 来栖と三川が先頭に立ち、南を挟んで、僕と小鳥遊が続く。
 僕の後ろから続くケーブルが、絡んでしまわないように気をつけながら先へ進む。この仕事を始めた当初は、よく現場で絡ませてしまい、周囲に小声で叱られたものだ。
「七」
 南が告げる。多いな、と来栖が舌打ちする。
 スーパーの内部は、棚が幾つも並んでいるため、死角が多い。油断のできない状態だ。
 倒れている何者かの姿が、電気ランプの明かりと闇の狭間に見えた。
 警官の一人のようだった。
 床に少し血痕が付着しており、来栖が確かめると、警官の首筋には見慣れた傷があった。
「近いよ。十時の方向」と南。
 金切り声が、それとは別の方角から聞こえた。
 一体の屍が、棚の上を飛び移りながら、勢い良くこちらへ向かってきた。
 三川が進み出る。散弾銃の轟音。屍が棚の向こうへ転げ落ちる。
 と同時に、さらに別の方角から、急速で屍が走ってきた。棚の上は走らず、棚の合間を通って、三川に駆け寄ってくる。
 三川はすかさず銃で屍を殴りつけ、屍がよろめいたところに、散弾を浴びせた。
 屍が、棚の缶詰類を払い落としながら、床に倒れ込む。
 来栖が進み出て、その屍に槍でとどめを刺す。
 棚の後ろ側に倒れ込んでいた屍の姿は、既に消えている。
「六」
 告げる南に頷きながら、来栖が、難しい顔をする。
「どうしたんだよ」
 僕の声に来栖は、静かにしろ、と手振りで示しながら、自分も小声で返事をした。
「タツ、今の、どう思う?」
「どうって?」
「いい。とりあえず、疑問は後だ」
 位置は、と南に訊ねる。
「十時に一、一時に二」
「近くの奴から仕留めていこう。あまり入口から離れたくない」
 電気ランプの光とともに、移動を開始する。南が一歩歩むごとに、光の直径も、闇の中を移動していく。前方の闇に光が差し、後方の光が闇に埋もれる。
 両側の棚に酒瓶が置かれたコーナーに差し掛かったときだった。
 ガタン、と音がした。
 何の音だ、と来栖が囁く。
 続いて、再び何らかの衝撃音。さらに間隔を置いて、同じ音が響く。
 音の間隔が、どんどん短くなりながら、こちらへと近づいてきている。
「避けろ!」
 来栖が叫んだ。そこで、ようやく音の正体が分かった。
 棚が、ドミノ倒しの要領で、次々と倒れてきていた。
 三川は、少し移動するのが遅れた。
 そして、自らに倒れかかってくる棚を腕で受けてしまい、呻き声を上げた。
 そのまま、酒瓶が次々と三川の頭に当たり、床に落ちて割れていく。
 三川は棚とともに地面に倒れ、酒瓶で肉を切って、血を流した。散弾銃が地を滑る。
 咆哮が上がった。
 倒れた棚の向こうから、屍が二体現れ、片方は、真っ直ぐ僕たちに向かってきた。
 小鳥遊が、正確に、屍の顔に一発、胸に二発、叩き込む。
 屍は、あっけなくその場に倒れる。
 もう片方の屍は、迷わず三川に向かっていた。
 三川のヘルメットが床に転げ落ちる。
 首まで包んである防護服がめくられ、屍は、三川の首筋に、あっという間にかぶりつく。
 三川が苦痛の叫びを上げた。
 棚に身体を挟まれ、抵抗ができていない。
 小鳥遊が拳銃を向けるが、屍は三川の背後に隠れ、上手く狙えない。
 南が進み出て、明かりで屍を強く照らした。
 三川に隠れながらも強烈な光に耐えきれず、屍は三川を捨てて、奥へ逃げ込もうとした。
 小鳥遊は逃がさない。すかさず、仕留める。
「四」
 来栖は、南の報告を無視して、三川に駆け寄った。
 その首から、微かに血が垂れている。
 ああ――。
 目眩。血の色が、匂いが、そのあまりに禍々しい色彩が、僕を内側から責め立てる。
 ああ、紅い――。
 鮮烈なイメージ――両手いっぱいの血。混じり合い、溶け合う、二色の、血。
「助けを呼ばないと、だよ」
 小鳥遊が言うと、来栖は首を振った。
「駄目だ。それが敵の狙いだ。俺たちの行動を制限しようとしてる。奴らを片付けるまで、助けは呼べねぇし、外にも向かえねぇ。待ち伏せされてる可能性が大だ」
「末期症状患者が、思考してるって言うの? 思考能力は退化してるはずじゃない」
「さっきも見たろ。奴ら、連携して攻撃して来やがった。今までの奴と違う」
「そんなこと言って、もし三川さんが感染してたら、今のうちに急いで消毒とかしないと、吸血症になっちゃうわよ」
「俺は全員の安全を預かってるんだ!」
 来栖が、南の抗議を、囁き声で一喝する。
「三川一人のために、全員を感染の危険にさらすわけにはいかねぇんだよ」
 来栖は、自らを落ち着かせるように、胸に拳を当てる。
「残りの敵は」
「八時に二。一時と四時に一」
「一匹ずつ、確実に仕留めるべきだろう。四時の方角なら入り口も近い」
 来栖は意図してか無意識にか、匹、という数え方をしていた。
「三川さんは置いていくの?」
「仕方がねぇ。奴らは感染した者には手を出さない。安全だと思う」
 非情にも思える決断だが、それしかなかった。
 僕らは移動を開始する。
 だがすぐに、待て、と来栖が呟いた。何か思案する風だった。
「南、敵の位置は」
「相変わらず。一時と四時に一」
「八時の奴らは」
「離れ過ぎちゃったから、探知できてないわよ」
「それが狙いだ」
 くそ、と来栖は呟き、顔を上げた。
「作戦変更だ。一時に向かう」
「どうして?」
「奴らの作戦だよ。入り口に近い、他の奴とは離れたところに、一匹配置しておく。そうすれば、俺たちはのこのこ、一番安全そうなそいつを狙いに行く。すると、八時の二匹は先回りして、四時の奴の援護に向かう。俺たちは、同時に三匹から襲われることになる」
 だが逆に、と来栖は言う。
「読めたぞ。これだけの連携をしてきてる奴らだ。必ず司令塔的な存在――親玉がいるだろう。そして親玉は、自らを一番安全な位置に置いているはずだ。つまり、親玉は――」
「一時の奴」
 僕が言うと、来栖は人差し指を僕に向けた。
「ご名答」
 行くぞ、と来栖が続ける。
「司令塔を片付けてしまおう。そうすれば、連携も崩せるはずだ」

 司令は、すぐに見つかった。
 僕たちは商品を脇に避け、棚越しに司令の姿を確認する。
 周囲には、何人か人が倒れており、司令であるらしい感染者の男は、その中心に、落ち着いた様子で立っていた。
 闇に溶け込む漆黒のスーツ。血に汚れた顔。
 本人が暴れた形跡は微塵もなく、今も一つ一つの動きが極めて冷静だ。
 やっぱりおかしい、と来栖が囁く。
「末期症状患者が、あんなに落ち着いてるはずがねぇ」
 一体、奴らに何が――と言いかけた来栖が、口を噤んだ。
 男は、倒れている者の一人をつかんで持ち上げた。制服からして、スーパーの店員のようだった。暗くてよく見えないが、意識はない様子だ。
「死んでる」来栖が囁く。
「嘘でしょ?」
 南の言葉に、来栖は首を振る。
「間違いねぇ。俺の視力を信用しろ」
 男は、しばらくその身体を、観察するように眺めていた。
 何をするつもりなのかと、僕らは息を潜める。十字弓を握りしめる。
 男は、やがて――
 その死んだ店員の首筋に顔を近づけ、噛みついた。そのまま、時が過ぎる。
「……死んだ人に血を注入してるの? どうして?」
 確かに。死んだ人間は、感染させることなどできない。死んでいるのだから。
 違う、と来栖。
「血を注入してると考えるから、意味分かんなくなんだよ」
 僕と南は、顔を見合わせる。
「あれは、血を吸ってるんだ」
 まだ死んで間もない死体。まだ賞味期限の切れていない血液の詰まった身体。
 そんな、じゃあ――と南が絶句する。来栖は頷く。
「奴は初期症状患者だ」
 初期症状患者が、何故――。
「何で、末期症状患者を率いてるのよ」
「知るかよ。問題はそこじゃねぇ」
「どういうこと」
「俺たちは、奴に手出しができねぇ」
 あ、と僕たちは息を呑んだ。
「俺たちの相手は末期症状患者であって、初期症状患者は、非感染者と同じ扱いだ。つまり、奴はただの異常犯罪者とかいう括りでしかない。奴は警察が逮捕するべき相手だ」
「どうしようもないの?」
「そりゃ捕獲するぐらいのことはできるがな。この状況でそれが可能とは思えねぇ」
「見逃すのか」
「それしかねぇだろ。他の三匹を倒して、後は警察に任せるしかねぇ」
 僕たちは、殺すことで解決してきた集団だから。
 いや。殺人とは違う。相手は屍だ。動く死体だ。そう考えろ。
 その時、助けて、という小さな叫び声が上がった。
 倒れていた男の一人が、初期症状の男につかまれて、足をばたつかせていた。
 突入した警官のもう一人だ。
「頼む、逃してくれ」
「駄目だ」
 司令が口を開いた。
 初期症状患者は、思考も言葉も失っていない。病気にかかってしまった、ただの一般人に過ぎないのだ。自らの哲学も、道徳も、意思も持っている。
 ――あいつらは呪われたんだ! 吸血鬼の血で!
 いつかの女――仲多の叫びが聞こえる。
 違う。非感染者にだって、極悪人は存在する。それだけの話だ。
 いや、そうも言い切れないのかもしれない。
 彼らは、確かに呪われたのだ。
 光に拒絶される呪い、昼に出歩けない呪い、人の血を飲まなければ自らを保てない呪い、他人に避けられるという呪い。
 呪いは、彼らをどこまでも苦しめる。
 そして僕もまた、呪われた人間の一人かもしれない。
 妹の呪いは、そのまま僕へと伝播したのだ。あの瞬間、あの場所で。
「君は人質だ」
 男が笑い、怖いか、と訊ねて、さらに笑った。
「君たちは、ただの病人である我々を駆逐し、排除しようとした。それと逆の行為をして、何が悪い? しかも我々には血が必要不可欠だ。そうでなければ、さっきの連中のようなことになってしまう。何も考えられず。私の言うことにも、素直に従うだけだったろ。楽しい愚かな玩具だよ。私は、ああはならない。されてたまるか。抗ってやるよ」
 すすり泣き始めた警官を鼻で笑い、お前たちも分かるさ、と男は続ける。
「我々と同じになればな。なってみれば分かる。その苦労、悲しみ、怒り、憎しみ、寂しさ、切なさ、嘆き、苦しみ、なってみなきゃ分からない。そうだろ?」
 僕は十字弓を手に、棚による死角から飛び出した。
「自首しろ」
 僕の言葉に、男は顔を上げて僕を見た。おお、と笑う。
「君たちのことは知ってるぞ。吸血鬼(ヴァンパイア)ハンターてヤツだろ」
「そんなのじゃない。もう一度言う、自首するんだ。ここは警察に包囲されている」
「私が怖がると思うか?」
「自分が、自分の居場所を減らしていることが分からないのか? あなたのような人間が、初期症状患者の世間体を危うくしてる。どうして自分の首を絞める真似をするんだ」
「知ったようなこと言うなよ、ガキが」
 男が目を細める。
「居場所なんて無いんだよ。太陽の下で歩くこともできず、誰にも見つからないよう、ひっそりと生きるしかない。私が何もしなくとも、居場所なんて最初から無いさ」
 暗い部屋で、誰にも会わず、誰にも知られず、生き続ける少女。
 未来――。
 妹の顔が、血生臭い記憶と共に、脳裏を渦巻く。
「無いなら作る」
 僕は力を込めて言った。
「そういう世の中にするんだ。そういう社会にするんだよ。どうして、あなたたちには、それができないんだ。争うことしか考えない」
「そういう君は、どうする気なんだ。たった今。私を殺すのか? そいつで」
「その権限はないし、そうするつもりもない。だから言ってる。自首しろ、と」
「拒めば?」
「撃つ」
「矛盾してるって分かってて言ってるのかい、坊や?」
「あなたは簡単に死なないだろ」
 言うや否や、僕は引き金を引いた。
 男の身体を貫いて、そのまま矢は、スーパーの壁に突き刺さった。
 反動で、男の身体が仰け反る。苦痛の叫び。
 吸血症患者は、驚異的な回復能力を持つが、苦痛を感じないわけではない。彼らは痛みを感じる人間なのだから。
 男の身体は、矢によって壁に打ち付けられた。胸からケーブルが伝っている。
 自分の身体を貫く矢を両手でつかみ、顔を歪め、大声を上げる。
「じっとしてろ」
 男に言い放ち、僕は十字弓を下ろす。
 男の手から逃れた警官が、尻餅をついて、僕を見上げている。
 咆哮。残りの三体が、こちらへ向かって来るのだ。
 僕はケーブル無しの次の矢を装填しながら、叫び声の上がった方向に目を向ける。
 無茶しやがる、と言いながら、来栖たちが飛び出してきた。
「下がって」
 南が警官に告げ、電気ランプを掲げる。
 最初の屍の姿が見えた。
 小鳥遊の弾丸が一体目を始末すると、二体目は弾丸を避け、壁を走り近づいてくる。
 悲鳴が上がった。警官が、震える手で拳銃を取り出し、発射した。
 警官の腕に、少なくとも大きな狂いはなかった。
 弾丸は、警官と二体目の屍の間に位置した、南の手元を直撃した。
 命綱である、電気ランプを。
 防弾ガラスに守られた電気ランプは弾を跳ね返し、跳弾が、南の手首を薄く切った。
 南は悲鳴を上げて、電気ランプを床に落とす。
 この世の終わりを思わせる暗い音が響いた。
 悪寒が、背筋を走り抜ける。
 光が、消えていた。

 闇に包まれたスーパーマーケット内で、各々が、すかさず自らの懐中電灯を点灯した。
 四本の光線が、筋となって、闇の中で瞬いた。
 南の持つ探知機からの、一定の電子音が、喉の渇きと恐怖感を煽る。
 臆病な警官への猛烈な怒りと、暗闇への焦りと、潜む敵への恐怖が、結局は自らの臆病さを招き始めていた。
 闇の中、自らの息遣いと、仲間の息遣いと、そして、何者かの息遣いが、すべて一つの暗黒へと混じり、溶けて消えては、耳元で残響が聞こえた。
「南」と来栖が囁く。
「接触不良を起こしたみたい。叩いたら治るかな」
「何でもいい。やってみてくれ。敵の位置は」
「二時に一、十時に一」
「小鳥、十時の奴が襲ってきたら仕留めろ。二時は俺が見張る」
「らじゃ」
 僕らは下手に動けず、その場で身を固め、敵の襲撃を待った。
 電子音が、少しずつ間隔を狭めていく。敵が近づいている証拠だ。
 ガチャ、と音がした。南が、何とか電気ランプを直そうとしているらしい。
 僕の懐中電灯の光が、素早く動く影を捉えた。十時の方向だった。
「小鳥遊!」
 小鳥遊は、クロスさせた両手に懐中電灯と拳銃を構え、闇に紛れ移動する影を目で追う。
 僕は十字弓を掲げると、影の進行方向を見極めた。
 光無き世界で、当てる自信は一つもなかったが、やるしかない。
 一、二、三、と数を数え、ともすれば荒くなってしまいがちな自らの呼吸を抑える。
 屍の動きを先読みして、距離を計算し、秒数を数えてから、矢を発射した。
 宙を裂くような音を発しながら矢は飛び、壁に当たる音と同時に、唸り声が響いた。
 懐中電灯をそちらに向ける。
 矢は、屍の足に命中し、屍を壁に固定していた。
 小鳥遊がとどめを刺す。
 力を失った屍の死体が、壁に足からぶら下がる。
 その時、世界が一瞬、白くなった。そして、すぐに暗くなる。
 繰り返される明滅。
 電気ランプが、点いては消え、点いては消えているのだ。
 連続してストロボを炊かれているような眩しさ。懸命に目を慣らす。
 足下で、蛇のような何かが動いた。
「何だ!」
 音を立てて引き摺られていく何か。とぐろを巻いていたそれは、どんどん張っていき、そして――
「ケーブルだ!」
 壁に貼り付けられていた男が、そこから引き抜かれるのが、明滅する光の中で見えた。男は地面に叩きつけられながら、勢い良く滑った。矢に胸を貫かれたまま、引き摺られるケーブルによって、どんどん引っ張られていく。
「尾瀬――」
 無線に向かって怒鳴ろうとした来栖に向かって、引き摺られ暴れる男の腕がしなり、来栖のこめかみを殴り飛ばした。来栖は地面へと転がり、無線は手元を離れて闇へ消えた。
 男は、暴れ狂いながら、怯えて逃げ出そうとしていた警官に、しがみついた。
 警官は押し倒され、弾が無くなるまで天井に乱射しながら、一緒に引かれていく。
「無線はどこだ!」
 頭を押さえながら、来栖が叫ぶ。
 警官の悲鳴が遠のいていく。
 あのままでは、男の焼け死ぬ炎で、警官も一緒に焼かれてしまう。
 それに、初期症状患者である男を死なせてしまえば、僕たちの責任が問われるだろう。
 一刻も早く尾瀬に指示してケーブルを止めなければ――
 発信器の電子音が、突然、間隔を狭めた。
 棚の上に、最後の屍が姿を現した。
 小鳥遊が銃撃するが、屍は棚の後ろ側へと飛び降りて、さっと横へ移動していく。
 菓子類の袋が弾け、床に散らばる。
 小鳥遊は素早く弾を装填し、再び追撃する。
 だが、やはり明滅する光の中で、小鳥遊の狙いは微妙に外れていく。
「直った!」
 南が叫んだ。
 世界が真白色に染まる。
 一瞬、周囲がまだ明滅しているように見えた。
 だがそれは、自らの瞬きに過ぎなかった。目が、突然の光に驚いたようだ。
 南の悲鳴。すぐ後ろに、屍の姿があった。
 咄嗟に南は、身を伏せると、直ったばかりの電気ランプを頭上へと掲げた。
 屍の甲高い悲鳴。
 進み出た小鳥遊が、身じろぎもせず狙いを定め、その一撃を、確実に屍へと叩き込んだ。
 最後の屍は、倒れて地を滑り、そのまま動かなくなった。
「無線!」
 南が発見したらしく、投げて来栖に寄越す。
「尾瀬!」
 受け取るなり、来栖は叫んだ。
「尾瀬、止めろ! 警官が一緒だ! 焼き殺す気か!」
 ケーブルの引き摺られていく音が止まった。
 怒りの咆哮。
 急いで、ケーブルの引き摺られていった方角へと向かう。
 ケーブルの先端には血塗れの矢、その隣には、首を掻き切られた警官の姿があった。
「奴は――」
 来栖は周囲を見渡すと、窓ガラスが割れているのを発見し、駆け寄る。
「逃がしたか。警察に捕まるような奴とは思えねぇ」
 振り向いて、溜息を漏らす。
「急ごう。早く外に出て、三川の助けを呼ぶんだ」

 救急車に、三川が乗せられていく。その姿を、来栖は、どこか苦い顔で見つめていた。
 スーパーマーケットの中からは、次々と、犠牲者たちが運び出されていた。
 末期症状患者に血を注入されて感染した者、例の親玉に血を吸われ殺された者、そして今さっき、僕たちが殺した、末期症状の患者たち――。
 救急車を見送りながら。ゆっくりと来栖がヘルメットを脱ぐ。
 皆も、自然とそれに倣った。
「すみません。ケーブルが張って動かなくなったんで、引くべきなのかと、勝手に――」
 尾瀬の謝罪に、来栖はゆるゆると首を振った。
「いや、いいんだ」
 そして、力の抜けたように、腰を下ろしてヤンキー座りをした。
「奴を逃がした。また同じことをやるだろう」
 来栖は、箱を振って煙草を取り出し、口に含んで火をつけた。
「もしあんな奴が増えたら、手に負えなくなる。それこそ、警察のような組織が気を入れて対応しねぇと、追いつかなくなるぞ」
「来栖君、煙草」
 南が顔をしかめて注意するが、来栖は聞かずに続けた。
「タツが奴をボウガンで撃ったこと自体、実は際どいんだ。連中は、あくまで非感染者と同じ扱いだからな。俺たちに、傷をつける権利は、どこにもねぇ」
「隊長、難しく考えすぎ、だよ」
「そうでもねぇさ。俺は班長として、奴を撃ったタツの行動を容認できねぇ。だが、俺個人としては、タツの判断に助けられた。複雑な心境だ」
「早まった行動だったと思うわ、私は」
 南が僕に目を向けた。
「前から言ってるじゃない。別に、あんたの取った行動が間違っていたとか、説教するつもりはないの。ただ、その前にあたしや来栖に相談してくれたって……」
「そんな悠長な状況じゃなかったろ」
「ごめん。ぴりぴりしないで。でも、もしあんたのあの行動が咎められた場合、班長である来栖も、責任を問われることになるんだから。それだけは忘れないようにして」
 それは、僕を気遣っているのか? それとも、来栖を?
 少し苛々して、僕は顔を上げ、南を見据えた。
「南。あいつを見逃すわけにはいかなかった。あいつの考えを聞いたろ。歪んでた。ああいう奴を放置しておくと、初期症状の患者の立場が、どんどん悪くなる」
「あんたって、いつでも感染者の味方なのね。どうして?」
 何も言えず、黙り込む。
「あんたに関して、ちょっとした噂が立ってるの、知ってる? 家に誰も招かず、カーテンを閉めきって、顔も出さない。誰だって、何か隠してるんじゃないかって思うわよ。それが、何か、というより、誰か、かもしれないと考える人も――」
「僕は一人暮らしだ」
 やや早口で僕は言った。
「親は二人とも、吸血症の治療薬開発のため、研究所に泊まり込み。僕のことは完全に放置で、仕送りもなし。おかげで生活費が足らず、こうして働いてる。知ってるだろ」
「妹さんは?」
 南の何気ない一言に刺激され、悲しみが、記憶の奔流とともに襲ってきた。
 幼馴染の南は、何年も前、小さい頃に遊んだことがあるから知っているのだ。
 僕に妹がいることを。
 両親は、僕のことを忘れた。妹のことも、忘れようとしているのかもしれない。
 それでも、妹の存在を忘れない人がいる。
 妹のことを――未来のことを、話そうか。話して楽になってしまおうか。
 いや。自らに甘えるな。ねだるな。何も期待するな。
 自身の力で、守れ。
 耐えろ、と歯を食いしばる。
「……親と一緒にいる」
「じゃあ、幼馴染の私すら、家に入れない理由は何?」
「そうやってずかずかと、僕のプライベートに土足で突っ込むのが、幼馴染なのか?」
 瞬間、南は傷ついたような顔をした。ごめん、と呟き、微かに俯く。
 僕は激しく後悔したが、勢い、謝ることはできなかった。
「先輩、」
 尾瀬が何か言おうとし、南を見、しばし逡巡して、僕に視線を戻すと、口を閉ざした。
 気まずい空気の中、来栖の吸う煙草の匂いを嗅ぐ。
「なるほど」
 僕は立ち上がりながら、言った。
「皆で僕を責めるわけだ。僕の行動を非難するんだな」
「かっかすんなよ。そういうわけじゃねぇ。俺は、今後の行動方針を定める必要があると思って、この話題を取り上げたのさ」
「隊長もナミちゃんも、竜平君のこと、大好きなんだよ」
「小鳥遊も?」
 気怠く感じながらも訊ねると、小鳥遊は、照れた風に手を遊ばせてから、胸を張った。
「お、おうよー。あたしも、だよ」
「僕も、先輩のこと、格好良いと思ってますよ。一貫してて」
 尾瀬の言葉に、思わず僕は振り向く。
 鉄錆の匂いが、鼻をついた。
 記憶が生み出す異臭。匂いは、僕の心の奥底からやって来ている。
「本当に?」
「本当ですよ。憧れです」
「いや、そうじゃなく。本当に、一貫してると思うか?」
 尾瀬は、戸惑った様子で口をつぐんだ。
 様々な人間。思い込みや誤解で動く愚かな非感染者、無害な初期症状患者、犯罪者と化した初期症状患者、末期症状患者、様々な者が生きる社会で、筋の通った考え方を貫くことは、どんどん難しくなっている。自分が筋を通せている自信など、どこにもなかった。
 治療薬を共同開発する夫婦の息子が、患者を守り、患者を殺している。
 自分は正しいことをしている、などとは口が裂けても言えない。その不協和音が、僕自身の内部で反響し、行動の歯車を狂わせていないという保証など、どこにも無いのだ。
 来栖は、しばらく考え込むように、煙草の灰を落としていた。やがて口を開く。
「タツ。今日のことは、もっとそれぞれが考えて、自分の中で整理をつけられた頃に、もう一度、話し合おう。ともかく、明日は楽しい前夜祭だ。今は、それでいい」
 皆、異論はないようで、頷き、立ち上がった。
 来栖がアスファルトの地面に押しつけた煙草から、微かに最後の煙が浮いた。
 一瞬、皆に未来のことを打ち明けようか、という思いが胸中を駆け抜けた。
 僕の妹に何が起きたか。僕が妹に何をしたか。
 僕が今、未来とどう生きているか。
 その思いは、仲間に頼りたいという自己満足と、未来を守る、そして己自身を守るという自己満足の間で揺れ動き、結局は、変化を恐れて、小さく消えていった。
 救急車やパトカーのサイレンが、麻痺した空間に鳴り響いている。
 ぱらぱらと小雨が降り出した。パトカーの回転灯の光を受け、地面は赤く濡れていた。
 それでいい。
 自分に言い聞かせるように。僕は、来栖の言葉を、再度、呟いた。



   第二章  闇は昏く


 未来の唇が首筋に当てられ、その冷たい感触に身を委ねる。
 柔らかく、少女の唇が首を伝った。優しく、擦るような接吻。
 いつもの短い痛みと、陶酔と、意識の暗転を待ち構えていたが、いつまで経っても、やってこない。閉じていた目を開ける。
 押し当てられていた未来の唇が、首筋から離れていった。
「未来……どうした?」
 ソファーで隣に座っている未来の背中を撫でてやると、未来は顔を膝の間に埋めて、黙り込んでしまっている。
「未来、酷いことしてる」
 ようやく未来が口を開いた。
「酷いこと?」
「お兄ちゃんに。自分の血を吸われるなんて、お兄ちゃんも嫌だよね?」
 そんなこと、と笑おうとして、未来の真剣な顔が目に入る。
「それに、痛くない? 歯を首筋に立てるなんて。未来、野蛮だよね」
「仕方ない。そういう病気なんだから」
「痛い?」
「いいや。感染者の歯には麻酔効果があるからね。むしろ心地良いよ」
「気持ち良い?」
「そう」
「未来、考えたの。何か、仕事を探そうかなって。吸血症にかかった人でも雇ってくれるような仕事も、きっとあるはずだし。それで、働いて、血液を買うの」
「僕の血じゃ、嫌なのか?」
「違うの。ただ……未来、自立しなきゃいけないんじゃないかって思うの」
「問題は、未来が十三歳だということだね。戸籍上ではどうあれ、会社は、未来を見た目で判断する。今の社会は、吸血症患者に対して厳しい」
「お兄ちゃん――」
「駄目だ」
 自然と口調が厳しくなる。自分でも抑えきれなかった。
 でも、と未来が目を伏せる。
「未来が、邪魔じゃない?」
「邪魔なもんか。未来は、僕のすべてだ」
「あれから……二年になるのかな」
「もうすぐ二年か。早いね」
「どうして、未来を助けてくれるの」
「最初は」
 僕は未来から目を離して、正面の壁を見つめた。
「最初は、苦しかったんだ。それで、未来を利用したのかもしれない」
「今は?」
「今は」
 僕は、後ろから、未来を抱きしめる。
「もちろん大事な家族だ。そう感じてる」
「お兄ちゃん、ロリコン」
「そういう感情じゃないよ。未来は、大事な妹なんだ」
「シスコン」
「それでもいいさ。大事という気持ちに偽りはない」
 だから、と続ける。
「未来に血を分け与えても、それは、嫌なことなんかじゃ、全然ないんだ。分かる?」
「分かる……と思う」
「未来はどうなんだ? どうして、僕と一緒に?」
「だって……お兄ちゃんは、未来を怖がらなかった。普通に接してくれたもの」
「当然のことだよ。未来は、僕と同じ、ただの人間じゃないか」
「そう思ってくれる人は、いなかった。お父さんも、お母さんも――」
「恵まれなかっただけだよ、未来。分かってくれる人は、きっと、たくさんいる」
 言いながらも、自分が本当にそれを信じているとは、思えなかった。
 だからこそ、未来を家から出すこともせず、自分の監視下に置いているのではないか。
 己の両手を見つめる。じっと見つめる。あの時のように。
 まるで、自分のものではない、何か恐ろしい、得体の知れないものであるかのような。
 僕が、やったのだ。
 暴れ狂いそうな自己認識が、後から後から僕を朦朧とさせる。
 何てことを、という女性の声が頭に響く。
 お前は、何ということを――。
 仕方がなかった。あの状況だ。どうしようもなかった。
 どれだけ言い訳しようと、自分自身すら納得させることは不可能だった。
 十三歳の小柄な未来が、ちょこんと僕の膝に座る。
「背が、伸びたね。お兄ちゃん」
 未来が、僕にもたれ、言う。
「お兄ちゃんが、お爺ちゃんになっちゃっても、未来は、このまま」
 何も言えない。言うべき言葉が見つからない。
「一緒に、成長したかったな、お兄ちゃん」
 未来が呟く。
「一緒に歳をとって、背を伸ばして、大人になって」
 そんな夢を見るの、昼の夜中に、と未来は俯く。
「そうじゃないと、同じ時間を生きてる感じがしないの。いつまでも、交わらない世界で、お兄ちゃんを追いかけているような気がするの」
「ここにいるよ」
 髪を撫でてやる。
「ここにいる」
 うん、と未来が顔を上に向け、微笑む。
「ありがとう、お兄ちゃん」

       *

「誠実って何だと思う」
「何言ってやがる」
 僕の問いかけを、来栖は一蹴した。
 二人とも息が荒い。
 学校内の簡易ジムに設置されたランニングマシンで、運動しているためだ。
 前夜祭まで、後数時間。
 準備も終わり、開始時間までやることがなくなったところで、来栖に誘われたのだ。
 僕は、この簡易ジムで運動することを、欠かさず日課としている。
 今の仕事は、身体が資本だ。危険な仕事だし、身体を鍛えるのは当然のことだ。
 そのため、自慢ではないが、運動能力は、そこそこにあると思う。
「だからさ、人に誠実であることについてだよ」
「その問いを分かりやすくまとめてくれ」
「それが難しいんだ。言葉にしようとすると消えてしまう」
「小難しく考え過ぎだ」
 お前の悪い癖だな、と来栖は走りながら続ける。
「誠実とは何か、なんて考えてる時点で、お前は自分のことしか考えてねぇんだよ」
「そんなことはない」
「ほら。すぐに自分を庇うだろ」
「馬鹿にしてるのか?」
 走りながら、ちらっと来栖の方を見る。
「僕は別に、僕がどういう人間かを聞きたいわけじゃない」
「お前がどういう人間か、それが重要だろ。誠実さについて考えるなら」
 来栖が、軽く正面のボタンをタッチして、マシンの速度を上げる。僕もつられて上げた。
 急に上がった速度に遅れないようにしながら、来栖の言葉を待つ。
「自分に誠実になれねぇ人間が、人に誠実にできるか? 無理だね」
「言うじゃないか」
「言うさ。俺は誠実だからな」
「自信家め」
「俺から自信を取って、何が残る?」
 そう言いながらも、来栖の声には迷いがあった。
 三川のことを考えているのだろう。
「俺を頼れ」
「はぁ?」
 つい、間抜けな声を出した。
「どうした。頭でも打ったか」
「俺じゃなくたっていい。南、小鳥、尾瀬、お前の周囲の人間。もっと俺たちを頼れ」
「僕は」
「俺はお前を頼ってる」
 来栖が言う。
「南のことも、小鳥のことも、みんな頼ってる。だから班長なんて仕事やってけんだ」
「頼る、なんて」
「男らしくねぇとでも思ってんのか」
 走り続ける来栖。
「誰にも背中を預けられねぇ、なんてショボい男になりてぇか」
 来栖が、ちらっとこちらに顔を向ける。
「なぁ、タツ。独走はやめとけよ。仕事するなら、この会社を通せ。俺たちを通せよ。いざってとき、俺たちがお前の力になれるように」
「どうしてそんなこと」
「お前が無理して孤独を愛してるように見えるからさ」
「仲間意識を押しつける気か」
「そう捉えるなら、それでもいい。寂しい選択だな」
 苛つき、マシンを止める。来栖の方を向く。
 来栖もマシンを止めた。僕の方へと視線を流す。
「説教はごめんだ」
「泣き言もごめんだってんだ」
 溜息を吐き、ランニングマシンに片手をついて体重を移すと、来栖が髪を掻きむしった。
「尖りに尖ったジャックナイフってとこか」
 来栖は、再び視線をこちらに移すと、軽く笑って見せた。
「確かに俺はお前に何かを押しつける権利なんてねぇ。ただ、ちょっと寂しかっただけさ」
「寂しい?」
「いや、何でもない。今のお前には分からねぇだろうさ」
「いやに含みを持たせるじゃないか」
「ストレートに何かを言われるのは嫌いなんだろ」
 来栖が肩をすくめる。
「それに俺は、攻めるとしたら、ストレートよりもフラッシュ派なんだ」
「何の話してんだ」
「だから俺は、お前にフラッシュに接していくことにする」
「意味が分からないぞ」
 そう言いつつ、軽く僕は笑みを浮かべてしまう。
 したり顔で、来栖も笑む。
 そこへ、尾瀬がやって来た。
「何だよ尾瀬、お前もやんのか」
 すらっと細長い体格の尾瀬。お世辞にも体力がありそうとは言えない。
 尾瀬は照れを隠すように頬を掻きながら、僕と来栖の横に並ぶ。
「筋肉つけてぇのか」
 来栖は、尾瀬が走り出すのを見て、自分も再開しながら、話しかける。
「俺がアドバイスしてやろうか? プロテイン飲めプロテイン」
「おい来栖、適当なこと教えてやるなよ」
「後はイメージトレーニングだな。イメトレってのは、自分に暗示をかけるってことだ」
「はぁ」と尾瀬。
「そこでだ。まずは初歩的なことから始めてみよう。語尾や文中に、何か筋肉に繋がるものをくっつけてくんだ。あくまでさりげなくを意識しつつだ豚肉」
 もう始まってるのか。
「分かりました鉄棒」
 尾瀬、それ、筋肉に直結してるか? と僕は内心思う。
「やるじゃないか尾瀬プロレス。そう言えば昨日のドラマ見たか。あの淡白な蛋白質ヒロイン。あの豚な可愛さはダンベルだよな。思わず牛っちゃったよ」
「本当ですか? それ、まるで世紀末覇者ですね」
 尾瀬。さっきから、お前は何かずれてる。
「だろ? 笑っちゃうよな腹筋痛ぇ。有酸素運動だグリコーゲン」
「超回復ですね!」
「豚カツ!」
 何を言ってるんだ君たちは。
 もう、会話にも何にもなっていない二人の掛け合いに、苦笑する。
 けれど、頭の中をもやもやと漂うノイズのような思考の渦は、いつまで経っても、消えてはくれなかった。

       *

 賑やかな喧騒の中で、僕と来栖は、丸い子供用ビニールプールの前に中腰で座り、行き交う人々を見つめていた。
 ビニールプールには、深さ全体の七割ほどに水が張ってあり、その上を、色とりどりの風船ヨーヨーが漂っている。風船ヨーヨーは中に水が入れられ、縛り口からはゴムが伸びている。縛り口とは反対側のゴムの端は輪となっており、そこに、針金を引っかけて釣る仕組みとなっていた。俗に言う、風船ヨーヨー釣りだ。
 夏休みの前夜祭。
 学校の運動場は、テントやダンボール箱によって作られた、様々な屋台によって、雑然とした祭会場と化していた。それぞれのテント周辺に設置された照明が、夜の闇を柔らかく押しやって、幻想的な祭の空気を漂わせている。
 生徒たちは私服姿で、自分たちのテントを交代で運営しつつ、他のテントを回ったりもする。学年によっては、運動場ではなく校舎を用いていたりもして、回るべきところは数多い。文化祭の夏祭りバージョン、といった感じの催しだ。
 周囲からは、焼鳥やウインナーの芳ばしい香りが、夏の夜風に混じり、匂ってきていた。
 安いよー、おまけするよー、美味しいよー、という呼びかけの声や、とりとめもない雑談を交わす声、遠くから友人の名を叫ぶ声、テンションが上がって夜空に向かって吠える声などが、無秩序に聞こえてくる。今頃学校には、近所から苦情の電話が来ているだろう。
 このイベントは、僕たちの学校の伝統行事であったのだが、近所迷惑など、諸々の大人の事情から、今年で最後の予定とされていた。
 だからこそ、少しくらいの羽目外しは許されるだろう、否、許されねばならない、という考えが、生徒全員を支配していた。
 僕と来栖はと言えば、特に騒ぐこともなく、プールに浮かぶ風船を、ぼんやり見つめていた。時折、客が来れば相手をするが、そこまで積極的に呼び込みは行っていなかった。
 普段の来栖なら、このようなイベントは、率先してテンションを急上昇させ、盛り上げているはずなのだが。事実、先程までの来栖は無駄に元気だった。
 あの電話の後からだ、と僕は内心思う。
 簡易ジムを出ようとしたとき、来栖の電話が鳴り、それに出て一言二言話してから、来栖は静かになった。日常の彼には似つかない、何か深く考え込んでいるような素振り。
「必要悪だよな」
 来栖が、風船の一つを指差していった。風船の中には、異常なまでに水を含んだものもあった。それを釣ろうとした人間は、あまりの重さに失敗し、一つも風船ヨーヨーを入手できずに、金だけ払うこととなる。たかだか百円ではあるが。
 そういった、罠、として用意された風船は、大概、来栖が作ったものだ。
 重い風船が存在しなければ、風船ヨーヨーは意外と簡単に釣られ、あっという間に、風船が足りなくなってしまう。そういう意味では、確かに、必要な存在だ。
「憎まれても憎まれても、あいつは秩序を守ってんだよ」
「何の話をしてる」
 僕は呆れ声を出しつつ、一箇所に集まってしまっている風船を、木の棒で掻き分け、広げる。水に透明な波紋が広がる。ずっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだった。
「三川は吸血症にかかった」
 来栖が言った。自然に切り出したので、理解するのに時間がかかった。
 理解しても、格別、心情に変化は訪れなかった。だが、来栖は違ったようだ。
「もう少し処置が早く施せたなら、吸血症にはならなかった可能性が大きいそうだ」
「自分を責めるな。あの場合は仕方なかった。見事な指揮だったよ」
「三川はそう言わねぇだろう。半永久的な不死を手に入れ、太陽の光を浴びることはできなくなった。そんな人間が、原因を作った俺に何を言う」
「それは違う。原因を作ったのは、僕たちが逃したあの男と、末期症状患者たちだ。それに、三川さんは自ら選んで、この仕事に就いたはずだ。来栖を責めるのはお門違いで、そう判断するくらいの分別は、持っている人だと思うけどな」
「俺は、秤にかけたんだ。あの状況で、仕方なかった。そして、三川の昼を奪った」
「来栖」
「こうやって、個人という価値は、ときに大雑把になる」
「考えすぎるなよ。身を滅ぼすぞ」
 木の棒を持つ腕を伸ばし、風船の一つを突いて、遠くに押しやる。
「今日は楽しい前夜祭なんだろ」
 来栖は、自嘲気味の笑みを浮かべて、風船を見つめていた。
「ああ、そうだな。そのとおりだ」
 光を吸収して反射する水面。風船が揺れながら漂う様は、不気味に美しく、涼しい。
「おー繁盛してるー?」
 頭上から声が降ってきて、僕は顔を上げた。
 最初に、よれよれの白衣が目に入った。続いて、眼鏡。変に癖のついた乱れ髪を掻き上げ、僕を見下ろしている。金糸雀だ。担当教科が理科の彼女は、いつも白衣を着ている。
「客ですか、先生ですか、それとも社長ですか」
 僕が言うと、慌てたように金糸雀は人差し指を唇に当てた。公務員が、他の企業に勤めており、しかも社長として運営しているとなると、これは大問題だ。
「相変わらず空気を読まない若者だね、タツヒラ君」
 金糸雀は、白衣に手を突っ込み、責めるように僕を見る。
「先生は空気を濁す達人ですよね」
「おやや。来栖君、この青年には棘があるぞ」
 やってみますか、と来栖が釣り紐を金糸雀に差し出す。釣り紐は、W型の針金の凸部分に薄い紙を通し、そのまま捻って紐にしたものだ。
 ふむ、と金糸雀が眉を動かす。
「それは挑戦か」
「挑発です」
「残念ながら百円玉を持ち合わせてないのだよ」
「つけときます」
「右手が痛いのだ」
「どうぞ、左手で」
「右手が痛いときは、左手も痛いのだ」
「そういうもんすか」
「残念だ。その気になれば、殲滅も可能なのに」
 大きな口を叩きながら、金糸雀はポケットから手を出そうとはしない。彼女は、人前で何かを失敗するのが、とてつもなく嫌いなのだ。特に、知っている人間の前では。
「それなら、ここに何しに来たんです」
「見廻り」
 金糸雀はようやく右手をポケットから出し、その手に握られた懐中電灯を振り回した。
「こんな行事を、今年も開催した学校の神経が分からないね。とてつもなく危険だ。何度も反対したのに。一教師の意見など、少しも聞いちゃくれない」
「危険?」
「危険だろ。夜に外で、これだけの人間が集まっているんだ。奴らの格好の的だ」
 金糸雀の言わんとすることが分かり、つい、周囲を見回した。
「それで、武器を用意させたんすね」と来栖。
 テントの骨組みの一つには、来栖の槍が、骨格と一緒に縛って隠してある。僕の十字弓も、テント内のケースに、しまってあった。
「そ。どうも嫌な予感がする。昨日のこともあるし、気は抜くなよ」
「やっぱり、空気を濁しますね。お祭り気分もどこへやら、ですよ」
「うるせぇな、刺々しい。いかんよ、タツヒラ君。若者は、もっとフレッシュでないと」
「教師は、もっと厳粛であるべきでは」
「誰が決めたよ、そんなこと。教師っていう人種が、この世に何人いると思ってんだ。ちょっとした変態教師がいて、何が悪い」
「先生、そろそろ見廻りに戻ったらどうですか」
「うわ。厄介払いかよ。戻る気なくなったわ」
 言うなり、金糸雀は腰を落として、居座ってやる空気を過剰に漂わせる。
「先生、寂しいんですか」
「彼氏いねぇもんだから」と来栖。
「あー、あー、分かった。お前ら私が嫌いなんだろ」
「そういうわけではないですが」
「何言うか。話すときには目も合わせず、胸ばっか見やがって」
「自意識過剰ですよ……」
「いいや、見てるね。食い入るように見つめてるね。このイカ野郎が」
「先生程度の胸のサイズは、今時、珍しくもないすよ」と来栖が口を挟む。
「程度と言ったか、この野郎。今ここで脱いだろか」
「いいです。それより、昨日の男ですが、どこの誰だか判明したんですか?」
「何それ。何その真面目な質問。優等生かよ」
「先生」
「まだだ」
 金糸雀は煙草を地面に押しつけ、立ち上がった。
「警察が調べてる。そのうち判明するだろ。とにかく、今日は少し警戒していてくれ」
「分かりましたよ」
「先生、寂しいんだったら、今度、お茶しますか」と来栖。
「余計な世話だ。じゃな。レッツ、エンジョイ」
 言い残して金糸雀が立ち去ると、来栖が首を振った。
「どう思う」
「来栖こそどう思う」
「可愛いとこあんじゃん、金糸雀」
「そうじゃなくて。奴ら、来ると思うか」
「金糸雀のことだ。何人か、社員を警備に回してるだろう。それでも、俺たちに忠告しに来たということは、万全な警備じゃないってことだ」
 どういうわけか、このとき心配したのは、自分の身ではなく、家に置いてきている、たった一人の未来のことだった。今日は僕がおらず、寂しい夜を過ごしているだろう。お腹を空かせているかもしれない。楽しくしてくれていれば良いが。
 過保護な思いを振り切る。
 未来に僕が必要なのか、それとも僕に未来が必要なのか。
 それを見失ってはいけない。
 背後のテント内、アタッシュケースを振り返る。
 何事も起きなければ良いのだが。

「やほー、隊長ー、竜平君ー」
 手を振りながら、やって来たのは小鳥遊だった。血塗れのシャツを着て、頭には三角頭巾を着けている。そう言えば、小鳥遊はお化け屋敷の班だと言っていた。
 隣には、尾瀬の姿もあった。尾瀬は、何やら怪獣の格好をさせられているようだった。頭の部分は脱いでいるため、尾瀬だということが確認できる。
「暑そうだな、尾瀬。小鳥と同じ班か?」
「はい。街を破壊し尽くす怪獣の役です」
「小鳥」
「ほいさ」
「お前んとこのお化け屋敷は、どういう設定なんだ」
「あたしは、尾瀬君怪獣に殺された、女の怨念なんだよー。呪うよー。呪い殺すよー」
「あの、南さんは」
 尾瀬が僕と来栖を交互に見て、聞いた。
「今日は来てねぇんだよ。誰かさんと昨日、喧嘩したせいじゃねぇの」
 皆の目線が、僕に向けられる。
「な、何だよ」
「電話しろ。祭に誘え」
 来栖に言われ、皆からの集中視線を浴びながらも、僕が躊躇っていると、
「誰に電話するの?」
 背後で声が聞こえ、振り向いた。
 浴衣姿の南が、巾着を手に、立っていた。頭には、花の髪飾りも添えてある。
「ごめんね、準備に手間取ったの」
 着物の袖に沈んだ手を肩まで上げて、南が歩み寄ってきた。
「下駄って歩きにくいわね。嫌になっちゃう」
 そんな南に、自然と見惚れていると、
「痛っ!」
 思わず声を上げる。来栖が、南からは見えない位置で、僕の脇腹をつねっていた。同時に小鳥遊が、やはり南から見えない位置で、僕の尻を蹴る。
「何す――」
 感想を言え、と来栖が、声を発さず口だけ動かすのが分かった。
 小鳥遊もしきりに頷いている。
 溜息。
「あー、その、南」
 僕は頭を掻きながら、目を彷徨わせ、南に向けて止める。
「似合ってる。その、つまり、綺麗に見える」
 南は、少しぽかんとしてから、ぷっと吹き出した。
「あんたって、褒めるの苦手なのね。意外な弱点発覚だわ。ありがとう。本当に。嬉しい」
 なら良かった、と僕は相変わらず頭を掻きながら、意を決して続ける。
「南。昨日は言い過ぎた。大事な幼馴染に、酷いことを言ったと思う。謝る」
「ううん、私も悪かった。親しき仲にも礼儀あり。これからも大親友でいましょ」
 南の微笑。その柔らかな笑みに救われるような気持ちになりながらも、どこか後ろめたいものが、自分の中を渦巻いているのは否定できなかった。
 幼馴染の南。彼女になら、良いのではないか。
 僕のことを、未来のことを、話しても良いのではないか。
 そう思うのだが、幼馴染だからこそ、話せないという矛盾した気持ちもあった。
 ――自分が何をしたか分かってるの?
 あの人と、同じような反応を示すのかもしれない。だから、南には話せない。
 僕は怖いのだ。
 幼馴染の南さえ、自分自身さえ、信じられない僕は。
「ナミちゃん、ナミちゃん、」
 小鳥遊が嬉しそうに僕たちに近づいた。
「後でお化け屋敷に来てね」
「うん、分かった」
 南が笑顔で頷く。その笑顔の向こうに、小鳥遊が視線を動かし、ひゃあっと声を上げた。
「どうしたの、小鳥?」
 小鳥遊は、首をふるふる振りながら、南の影に隠れてしまった。覗き見えるツインテールが、ぴこぴこ動く。
 僕たちが南の背後に視線をやると、小鳥遊の憧れの先輩が歩いていくところだった。近くで見るのは初めてだが、すらっとした背格好で、顔も確かに悪くない。頭も良さそうだ。
「声かけてこいよ」
 来栖の提案に、小鳥遊は首を横に振る。にゃー、にゃー、と猫のように縮こまっている。
 そのとき、ごそごそ、という大きな音が聞こえた。続いて、
《あー、あー、マイクテス、マイクテス、》
 という声が響く。
《あ、皆さん、楽しんでます? あはは。放送部の竹橋です。これから、恒例の告白タイムを始めますよ。参加するという勇者の皆さんは、どうぞ屋上まで来て下さい。あ、僕が今いるところです。第一校舎。見えます? ライト設置してるんで明るいでしょ?》
 校舎の屋上を見上げる。確かに光が灯っており、制服姿の男子生徒が一人立っている。
「行ってきたらどうだ、小鳥」
「にゃ、にゃあー」
「人間語を喋りやがれ」
《あんまり騒ぐと怒られるので、必着七名に限りますよ。この機会に、どうしても想いを告げたい人は、お早めに。告白された方は、できれば名乗り出て、御返事をお願いします》
 放送部の男子生徒は、光の中心で、マイクを持たない方の手を上げる。
《それでは、今――っ》
 声が途切れた。
 皆、何事かと屋上を見上げた。
 放送部員の身体が、信じられないことに、宙に浮いていた。
 顔を仰け反らせ、足を痙攣させながら、少し身体を浮かせているのが、下から見ていても分かる。手品か、という声が上がり、拍手が巻き起こった。
 僕は拍手に参加せず、屋上を見据える。
 心臓が高鳴っている。違和感があった。予感があった。確信があった。
 拍手が、少しずつ、消えていった。
 何が起きているのか、理解が伝播し始めたのだ。
 放送部員の後ろには、何者かが立っていた。
 その人物が、哀れな男子生徒の身体を持ち上げ、その首に噛みついているのだ。
 放送部員の影に隠れ、ライトの当たらない位置。
 誰かが叫んだ。悲鳴だった。
 屋上で、放送部員を放した男は、その両腕で、近くに置いてあったライトを叩き壊した。
 屋上が闇に包まれた。男の姿も見えなくなる。
 辺りは一気に騒然となった。
 第一校舎の中から、悲鳴が聞こえ始めていた。一室一室、校舎内の電灯が、消されていく。ほぼ全室から明かりが漏れていたはずの校舎の窓が、今や半分は闇に包まれていた。残りの半分も、どんどん暗転していく。同時に、悲鳴も加速する。
 窓が開き、運動場に向かって飛び降りてくる生徒たちの姿があった。
 窓の奥、闇の底から、低く響く唸り声と甲高い金切り声が、同時に聞こえてくる。
 混乱状態だ。
 アタッシュケースに駆け寄る。鍵を開けて、中から十字弓を取り出す。矢は、十本、持ってきていた。慎重に使わなければならない。一本目を、すかさず装填する。
 来栖も、テントの骨組みを縛っていたビニールテープを解き、自らの槍を解放する。
 屍の群れは、既に運動場にも現れていた。明かりが、一つずつ壊されていく。
 闇が近づいてくる。
 小鳥遊が、シャツの下から拳銃を取り出した。
 南も、テント周辺に設置してあった電気ランプと、その隣の探知機を手に取る。
「尾瀬君は避難して」
「え、でも」
「あんたは戦えないでしょ!」
 渋る尾瀬を押しやり、下駄を脱ぎ捨て、南が光を掲げる。
 テントが次々に倒されていく。闇の中で、唸り声が響き渡った。
 混乱と、恐怖と、苦痛の悲鳴が、夜を切り裂く。
 人々が走り回り、屍を見分けるのも一苦労だった。見つけたとしても、逃げ惑う生徒が射線上にいる。とても撃てない状況であった。
 すぐ近くで屍の唸りが聞こえる。
 十字弓を構える。
 屍は、両腕を振り回し、生徒たちを薙ぎ払いながら突き進んでいく。
 僕は十字弓を構え、それを追い続けるが、引き金を引くチャンスがない。
 何体の屍が侵入してきているのかも分からない。困った状況だ。
 誰かが雄叫びを上げる。
 振り向くと、小鳥遊の憧れの先輩が、フライパンで屍を殴りつけたところだった。
 屍はものともせず、先輩を突き飛ばす。
 地面に倒れ伏した先輩を、怪物は踏みつけ、奇声を発した。
 小鳥遊の拳銃が火を噴いた。
 瞬きをせず、目もそらさず。小鳥遊は、進み出ながら屍に弾丸を叩き込んだ。
 先輩は、両手を地についたまま、口を開け、小鳥遊を見上げている。
 撃たれた屍は、よろめき、もたつきながら、仮面を売っているテントに倒れ込んだ。
 屍が動かなくなると、小鳥遊は一瞬、先輩に目を向け、「に、逃げてー……」と照れまくりの一言を残し、次の敵を探し始めた。先輩は誰にともなく頷くと、駆け出した。
「助けて!」
 振り向く。十字弓を構える。射線上に、駆け寄ってくる女子生徒の姿が見える。そのすぐ後ろに、高速で走ってくる屍の姿があった。
「頭を下げて!」
 叫ぶと、女子生徒は、両手で頭をかばいながら、地に伏した。
 屍を限界まで引きつけ、矢を発射する。
 屍は矢に胸を貫かれ、勢い良く後ろに倒れ込んだ。
 来栖が歩み出て、槍を屍に突き刺す。
 そうしている間にも、少し先のところで、屍が一体、男子生徒の身体を持ち上げているのが見えた。首筋に噛みつき、しばらくすると、生徒を放り投げて、次の獲物を探す。
 周囲の生徒は、大声で混乱を叫びながら、こちらへと逃げてくる。
 十字弓を上に向け、流れに逆らって歩いた。逃げ惑う生徒たちと身体がぶつかる。
「伏せるんだ! 伏せろ!」
 怒鳴りながら、人の波を掻き分け、前へと進む。
「おい、こっちだ!」
 屍の注意を引く。屍の顔がこちらへ向けられる。
 十字弓を構える。慎重に狙いを定める。外したら終わりだ。
 屍が跳躍してくる。
 引き金を引く。
 矢は屍の脳天を貫き、屍は苦悶の叫びを上げながら、地を転がった。
 来栖がとどめを刺している間に、次の矢をセットする。
 一度用いた矢は、屍の身体に根深く刺さっているため、現段階での再利用は不可能だ。
 残る矢は八本。
 そこへ、見知った顔の女性国語教師が、血相を変えて走ってきた。
「君たち、それはいったい――何をしてるんです!」
 来栖が、血塗れの矢を屍から引き抜き、上目遣いに教師を見る。
 僕は矢の装填を終えると、十字弓を構えて言った。
「免許(ライセンス)は持っています。先生は避難してください」
「教員に指図するのはやめなさい! 生徒のあなたたちは――」
「奴らを倒せますか、あなたに」
 索敵しながら、ちらっと女性教師に目をやる。
「僕たちは専門家です。言うことを聞きなさい、先生。今すぐ生徒たちを先導して、避難させるんです。このままじゃ被害は拡大する一方だ。明るいところ――体育館にでも集めて、立て篭もるんです。僕たちがすべて倒し終わるまで。いいですね」
 女性教師は気圧されたように、僕と来栖を見比べてから、何度か頷いた。
「警察には――」
「呼んでも無駄ですよ。未だに地元警察は、銀の弾を常備していない。末期症状患者の前では、非力です。足止めもできないでしょう。いるだけ邪魔です」
「分かりました。き、気をつけて」
 ズボンの中で、振動とともに、携帯電話が鳴った。
 金糸雀という表示を確認すると、来栖と小鳥遊に援護を頼み、通話ボタンを押す。
《タツヒラ君、現状を》
「敵の数は不明。ざっと見て、運動場には残り五匹ほど。生徒に多数、被害が出てます」
《中庭にも数匹、出ている。他の社員に始末してもらっているところだ》
 接近してきた屍に、来栖が槍を突き刺す。視界の隅で、小鳥遊が発砲するのを確認する。
《今まで、こんなことは起きなかった。これほど大勢の人間がいるところを、感染者が襲うなどということは。奴らにも本能で、危機察知能力くらいはあるからな》
「記録に残りますね」
《奴らを操る頭脳が背後にいると見て間違いない。君たちが昨日出会った奴かもな》
「身元は割れたんですか」
《現場に残された指紋等から、警察が突き止めた。後でお前たちに顔を確認してもらう。男の名前は九条(くじょう)和人(かずと)。銀行で働いていたようだが、二年前に、突然やめている》
「攻撃しても良いんですか?」
《駄目だ。正当防衛以外で、我々が手を出すことはできない。会社としては、可能なのはあくまで生け捕りだと言う他ない。頭脳は背後で手綱を握っているだけだからな。こちらから攻撃する正当性が少な過ぎる。ともかくは、運動場の手駒を全滅させろ》
「了解」
 交信を絶つ。十字弓を構え直すと、来栖に今の話を伝える。
「おーけい、片付けるとしよう」
 頷いた来栖の隣で、小鳥遊が発砲した。
 走っていた屍が、つんのめって地に倒れ伏す。
 既にほとんどの生徒は散り散りとなって運動場の外に逃げており、倒れている者を除けば、数は少なくなっていた。屍も同様だ。姿が見えない。
「どうする」
「どうもしないね。俺たちの仕事は運動場の敵を殲滅することだ」
 来栖が周囲を見渡す。
「ここで待機して、敵を待ち受ける」
「現れなかったら」
「現れるさ。そうでなけりゃ、筋が通らねぇ」
 来栖は首を傾けて振り向いた。
「もし昨日の奴が今回の犯人なら、狙いは俺たちだ。あるいは、俺たちへの警告か」
《頭が良いな》
 スピーカー越しの声がして、僕たちは一斉に空を見上げた。
 第一校舎の屋上、放送部の用意したマイクスタンドの前に、人影があった。見覚えのあるシルエットだ。昨日と同じ、闇に浮かぶ影のような、黒いスーツを身につけている。
「九条直樹か?」
《その身元は、もはや意味を持たない。私は、夜を生きる、吸血鬼の一人だ》
「真夏の夜のホラーごっこか? 怪物にしちゃ、あんたはクールすぎる」
 来栖が槍を持って進み出る。
「今日は何の用だ? 俺たちは、祭を楽しんでたんだよ」
《夜は我々の縄張りだ。我々の時間だ。君たちは、》
 九条が、僕たち一人一人を指差していく。
《贅沢だということが分かっていない。我々の孤独も知らず、夜を過ごし、》
「何だ」
 思わず僕は言った。
「あなたは、祭に参加したかったんだ」
 未来を祭に連れて来れば良かった、とぼんやり思う。
 九条が声を上げて笑った。
《違うね。違う。分からせてやりたかったのさ、楽しそうな連中に。そこに倒れてる連中を見ろ。目覚めれば、吸血症患者の苦悩を、身をもって知ることとなる》
「まるで子供だ。何でも言うことを聞いてくれる強力な玩具を手に入れて、面白がっている。大層な意志や野心があるわけでもない。遊んでいるだけなんだ」
《遊んでいるのはどっちだ。ホラーごっこをしているのはどっちだ。吸血鬼退治だと宣って、寝ている人間の胸に杭を突き刺す。連中は何だ。あれが人間か》
「そういう類は犯罪者だ。警察が取り締まる」
《手を抜いているさ。警察も思っているんだ。吸血症患者は恐るべき悪魔だ、死んだ方が良い存在だ、とな。そういう世の中なんだ、今は》
 君たちも同罪だ、と九条。
《末期症状患者を殺す理屈は何だ? 他の人間を襲う? それなら連続殺人犯は? 現行犯で躊躇いもなく殺すか? 病気の人間を、病気であるが故に殺すのか?》
「末期症状患者を救う術は今のところない。被害を最小限に食い止めるためには、彼らを排除する必要が、どうしてもある。他に代案があるか?」
 来栖が屋上の男に向かって言い放った。声が、夜の闇に響く。
《我々は》
 しばしの沈黙の後、九条が口を開いた。
《歳をとらず、成長せず、楽に死ぬこともできない。戸籍の年齢と実際の外見には、やがてずれが生じ始め、人と会うこともなく忘れられていく。そうして、吸血鬼狩りに怯えつつも夜に出かけ、誰かの血を吸う。そうしないと、生きていけないからだ》
 未来を思う。
 安全のためと諭し、家に閉じ込めている未来を思う。
 そう。閉じ込めているようなものだ。一歩も外に出ず、日々を孤独に暮らす未来。
 外は危険だと、僕が考えているから。僕もまた、社会を信用していないから。
 来栖が反論する。
「血液を売っている企業もある」
《どうやって金を手に入れる。家族も友人もいない患者は、どうやって血液を得る》
 九条の声に怒気が混じる。
《どの会社も、表向きには何も言っていないが、実際には、吸血症患者というだけで不採用となる。就職先などどこにもない。我々はな、世間じゃ、つまはじき者なんだ》
 声が暗く響き渡る。
《普通の生活だって、ままならない。血液を買う金など、あるはずもない》
 これは大きな社会問題だ。それなのに、社会は無視をする。
《吸血症患者の人数は、世界の全人口に対して、未だ極端に少ない。だから社会は、真剣に取り組まない。増加する二酸化炭素にも、進行する環境破壊にも、ろくに取り組んでこなかった連中だ。我々に何をしてくれる。何もしてくれやしないさ》
「どうするんだ」
《吸血症患者の数を増やすさ。社会が無視できなくなるまで。増やし続けるんだ》
 他に代案があるか、と九条。黙り込む来栖。
《今は相容れぬさ。分かり合えるようにしてやる》
 九条の言葉とともに、建物の影から、屍が現れた。一体、二体、続々と増える。
《立場が異なれば意見も思考も異なるのが人間なら。立場を統一すればいい》
 九条が、月を背景に手を広げた。
《歓迎するよ、我々の呪われた血に》
「遠慮しとくわ」
 南が進み出た。光を掲げる。浴衣姿が闇に浮き出ている。
 屍の群れがたじろぐ。全部で七体。九条の姿は、既に無い。
「南先輩!」
 誰かの声とともに、眩しい光が闇をつんざいた。
 尾瀬が、大きなスタンドライトを抱えて立っていた。運動場倉庫から引っ張ってきたのだろう、背後には長いケーブルが続いている。
「どうして戻ってきたの!」
 南の叫び。負けじと尾瀬もライトを掲げてみせる。
「僕も何か――」
 言いかけた尾瀬を、背後に忍び寄っていた屍が捉えた。
 尾瀬の悲鳴。揺れる照明。
 別の屍が、尾瀬の後ろに続く貧弱なケーブルを引き千切ると同時に、目眩に似た残像を残して、スタンドライトの明かりが消えた。
 屍が尾瀬の首筋に噛みつくと、尾瀬の喉元から、恐怖の叫びが漏れた。
 僕が十字弓を構えるのを見て、屍は尾瀬の身体を脇へと放り捨て、背後に下がった。
 尾瀬は、意識を失ったのか、地面に叩きつけられても、声一つ上げなかった。
 僕らを取り囲む七体の屍。
 小鳥遊が一体を撃ち倒すと、周囲の屍は半分ずつに分かれ、南の放つ光の周囲を囲んだ。
 一斉に襲いかかってくる。
 素早い動き。時が止まったかのような錯覚。
 十字弓を屍に向ける。反射的に引き金を引いている。
 屍が、光から闇へと弾き飛ぶのが見える。
 端から、別の一体が飛び出して、つかみかかってきた。
 十字弓で防ぐ。屍に押し倒され、地を転がる。
 尻に鈍い痛みが走る。気を引き締める。屍の顔が、すぐ近くにある。
 目の前で、屍の歯が噛み合わされる。
 十字弓を屍の顎に押し当てるようにして、必死で距離を保つ。
 屍の唾液が、飛び散ってくる。歯の噛み合う耳障りな音が、目前で聞こえる。
 屍の歯が、どんどん近づいてくる。
 唸る。下から突き上げるように、膝蹴りを食らわす。
 怯む屍。ここぞとばかりに、十字弓を一端引き、一気に屍の顎を打つ。
 後ろ側に倒れ込む屍。急いで矢を装填する。
 他の仲間を確認している暇がない。
 倒れていた屍が、勢い良く跳ね起きる。
 焦りが、喉元まで迫り上がってくる。叫び出しそうになるのを堪え、狙いを定める。
 矢を放つ。屍の身体が、地へと固定される。
 素早く歩み寄り、腰から抜いた銀のナイフを突き立てる。
 絶叫。屍が痙攣し、やがて動かなくなる。
 振り返る。来栖が、向かってくる屍に槍を突き刺すのが見える。
 小鳥遊が、暗闇に向かって発砲している。
 一瞬、反応が遅れた。
 闇を裂き、屍が突進してくる。真っ直ぐ、僕を目指して。
 身を背後にずらし、間一髪、屍の攻撃を避ける。
 バランスを崩す。
 倒れるな、倒れたら終わりだ、
 足に全力を注ぎ、己のバランス感覚を総動員させる。
 左足を勢い良く引く。靴が地面を削って、躓きそうになる。堪える。
 十字弓を構える。矢を装填していないことを思い出す。舌打ち。
 迫り来る屍の姿が、突如、目前から消え失せる。
 屍は何者かに撃たれたのだ、それで弾け飛んだのだ、と認識する。
 一体誰が、と振り向く。
 闇の中、散弾銃を構えた三川が、後ろに数人を従えて歩いてくる。
「任せろ」
 三川の低い声。
「光は邪魔だ。撤退してくれ」
 三川の言葉に、来栖が頷いた。僕たちに、撤退命令を下す。
 暗闇に向かって、三川が射撃した。屍の悲鳴が響き渡る。
 吸血症患者は、闇の中でも視界が効く。
 順調に屍を殲滅していく三川の団体から離れると、金糸雀が歩いてくる。
「先生、これは一体」
「なかなか妥当な社会的解決策だろ」
 金糸雀は言った。
「初期症状患者を雇って、危険な夜での末期症状患者退治を担当してもらうことにした」
 なるほど、と思う。
 初期症状患者は、既に感染者なのだから、末期症状患者に噛まれたところで問題はないし、暗闇の中での戦いにおいて、不利でもない。
 そして何より、初期症状患者は、職に就くことができる。
「初期症状患者の社員が増えれば、俺たちは失業だな」と来栖。
「でも、あの人たち、同じ感染者を撃つことに抵抗はないのかしら」
 南が問うと、金糸雀は不思議そうな顔を、南に向けた。
「それでは、君も、同じ人間を撃つことに抵抗を感じているのか?」
 目を見開く南。何も答えることができない。
「さあ」
 金糸雀が手を打ち合わせた。
「侵入してきていた末期症状患者は、ほとんど退治した。もう安全だろ。被害に遭った生徒たちを、救急車まで運ぶ。手伝ってくれ」
 言われて、僕は闇に包まれた運動場を見渡す。
 人が、折り重なるようにして倒れている。
「尾瀬君!」
 南が、倒れたまま動かない尾瀬に駆け寄る。
 今夜。大勢の生徒が襲われた。彼らに何の罪もない。
 こんなことが、正しいはずはない。ないのだが。
 どこか満足な笑みを浮かべそうになる自分が、内にいる。
 これでいい。これで世界は変わる。
 もう、未来がこそこそと生きていく必要のない、優しい世界がそこまで来ている。
 罪を犯したのは、僕だけではない。
 九条という男の何かが、僕を安心させる。ぬるま湯に浸かるような、肌寒い温かさ。
 呑まれるな――。
 そう呟いてみても、最早、言葉は説得力を持たない。
 僕は、他人の無事を気遣う余裕もないまま、倒れている生徒たちに駆け寄った。



   第三章  月は蒼く


 僕は、狂っている。
 そんな思いが、常に胸中を駆け巡っている。
 幼い頃、妹が夢中になっていた遊びを思い出す。
 おままごと。
 台所、夫婦の会話、ミニマムに再現された家庭の、ロールプレイング。それは、単純で、愛おしく、無邪気な、家族ごっこ。
 ――何をしたの。何をしたのよ、お前は。
 僕には、もう未来しかいない。
 だから、未来を守るのだ。何よりも大事な、妹を。
 延々と巡る思考を、真っ白な廊下の壁に描くように、思い浮かべる。
 薄暗い病室から、南が出てくる。来栖が、もたれていた壁から身を離す。
「尾瀬の様子は?」
「大丈夫」
 南は微笑み、答える。
「感染は、免れたみたい」
 メンバーの間に、安堵の色が広がった。
 尾瀬の付き添いで、僕と南、来栖、小鳥遊は病院に来ていた。
「警察は九条を指名手配した」
 来栖が腕組みを解いて言った。煙草を探り、病院にいることを思い出して、やめる。
「あいつは、わざわざ俺たちの学校を、最初の大きな目標として定めた」
 溜息。
「厄介な野郎に目を付けられたな、タツ」
「それは嫌味か皮肉か?」
「いや、そういうのじゃねぇ。気に障ったんなら謝る」
「これで終わるとは思えないわ。また、何かしらの行動を起こしてくるわよ」
「奇遇だな南。俺も同じことを考えてたんだ」
「とてつもなく迷惑、だよ」
 奴は、と来栖は笑みを浮かべた。
「性向的には、俺と似たタイプだ。自分から出て行かねぇと気が済まねぇ。だが同時に、馬鹿でもねぇ。次の出方が、気になるところだ」
「出方?」
「奴は、俺たちが知る限り、これまでに二度、末期症状患者を引き連れての襲撃を行った。だが、犠牲者は多く出してしまったものの、俺たちは未だ、やられていない。今後も奴が同じ手を繰り返してくるとは思えねぇ。恐らくは、何か仕掛けてくるぞ」
 会話を続けながらも、病院の白い壁に、まだ思考は渦巻いている。
 幾つも寄せ集められ、ジャンク化された映像が、幾度も幾度も繰り返し再生されている。
 今上映されているのは、先程、銀のナイフを刺した瞬間の、屍の顔だ。
 だが、顔は確かに見えているのに、僕には、その表情が見えない。
 見せてみろ、と心の内で呟く。お前の顔を見せてみろ。
 どんな顔をしている。泣いているのか。怒っているのか。怖いのか、寂しいのか。
 僕を見ろ、僕を見ているのか、何を見ている、何を思っている、どう思う。
 分からない。どうして。
 僕は、屍の顔を見ていたのではなかったか。焦って、怯えて、戦うことに夢中で、屍の死の間際の表情になど、注意を向けていなかったのか。
 いいや、そんなはずはない。僕は確かに見ていた。今でも、屍の顔立ち、輪郭、眼に鼻に口、すべての造形を、思い描くことができる。顔の構成を、完璧に浮かべられる。
 それなのに。どんな顔をしていたのか、それだけが、まったく分からない。
 ――お兄、ちゃん。
 心臓が、どくんと跳ねた。
 軽くよろめき、壁に背をぶつける。
 未来は、妹は僕が守ってみせる。僕にはその責任がある。
 だから。
 だからもう、許してくれ。
 僕が、お前にしたことを許してくれ。
 誰に許しを請うているのだろう。妹にか。それとも僕自身にか。
 過去が、現実へと追いついてくる。
 病室への扉。少しずつ記憶と混じっていく。あの扉。
 開けては、ならない。
 それは禁忌だ。決して破ることの許されない、絶対的な禁止命令。
 それでも僕は、知りたかった。不在の秘密を。何が起こっているのかを。
 そうして。僕は、禁忌を破ったのだ。
 視界を闇が覆った。
 突然の出来事だった。病院全体が停電したらしい。声が上がった。仲間たちの声だ。
「慌てんな、固まってろ」
 真っ先に懐中電灯を灯し、来栖が言った。
 皆、自らの小さな光源を頼りに、傍らに置いてあった武器を手に取る。
「じ、事故だよねー」と小鳥遊。
「このタイミングで、んなわけねぇだろ。九条が仕掛けたんだ」
 来栖の声が、闇にこだまする。
「ここで畳みかけておくつもりなんだろ」
「大勢いるところへの奇襲。同じ手か?」
「そうは思えねぇんだがな」
「外には、金糸雀先生が配置した、初期症状患者の構成部隊もいっぱいいるはずよ」
「それじゃ、簡単に突破はできないよねー」
「九条……そこまでの男か?」と来栖の呟き。
 闇をつんざいて、絶叫が響いた。
 懐中電灯の明かりが、一斉に廊下の奥へと向けられる。
「まさか。侵入されたのか?」
「こんな静かにゃ無理だ」
 来栖の声が、微かに動揺している。
「最初から、病院内にいたのか」
「何だそれは。どこか暗い場所に隠れていたという事か?」
「いや……」
 もう一つ、絶叫が響いた。
「どうする来栖。動くか」
「待て」
 ズボンのポケットが振動した。携帯電話が鳴っている。
 すかさず出る。思った通り、金糸雀だった。隣で来栖も耳を澄ませる。
《やられた。九条め。思った以上にできる男だ》
「何が起こってるんです」
《攻めてきてるのは、末期症状患者じゃない》
「どういうことです。それじゃ、初期症状患者ですか」
《違う》
 再び絶叫。苦悶の叫び。激痛の叫び。恐怖の叫び。哀願の叫び。
《攻めてきているのは、非感染者だ。杭を用意した、一般の人間だよ》
 まさか。
 目眩。吐き気。鼻をつく匂い。
 血塗られた過去が、今、現実に追いついた。
《そいつらは、初めから何人か見舞い客の振りして病院に侵入していた。そして行動を起こし、残りの仲間が、今、病院へ向かっている。こちらからは無闇に手を出せない》
「先生は、これも九条の仕業だと?」
《今この病院に患者が増えているのは、先程の襲撃事件があったからこそだ。吸血鬼神話に取り憑かれた非感染者の連中が、その事件を知ってから暴挙に走ったにしては、手際が良すぎる。連中に情報をリークし、アドバイスした者がいるはずだ》
 九条が非感染者の連中を操作した。そういうことか。
「一つ腑に落ちません。非感染者の人間が、病院全体を停電させる理由です。連中は、これを吸血鬼との対決と捉えている。それなら、闇より光にいた方が、理に適ってる」
「タツ、そうじゃねぇ」
 隣で来栖が言うより早く、電話の向こう、金糸雀が告げた。
《電気を落としたのは、九条とその仲間に違いない。そうすることで、非感染者の連中は、ここが吸血鬼の巣窟であると確信を増し、病院内の患者を皆殺しにし始めるだろう》
 さらに、と金糸雀が続ける。
《演出として、九条は末期症状患者に、何人か非感染者を襲わせたりもするだろう。だが、実際に血を注入したり殺したりはさせない。脅かすだけだ。結果、後に残るものは、非感染者の連中が、何の罪もない初期症状患者を虐殺していった、という事実だけだ》
 よくできた茶番劇だ、と来栖が吐き捨てる。
《すべては学校襲撃の段階から、仕組まれていたんだ。今回、九条の狙いは二つあった。一つは、哀れな初期症状患者の数を増やすこと。しかも同情を引きやすい学生を狙って。もう一つは、いかれた連中に、哀れな初期症状患者を虐殺させること》
 聞きながら、僕の意識は少しずつ、生温かい闇に浸り始めていた。
 九条のしていること。一般人を襲い、初期症状患者を襲う。
 それだけ聞けば、到底許されることではない。
 だが今、九条を理解し始めている自分がいることにも、気がついている。
 九条のやり方は、手段を選ばないものではあるが、一貫している。
 初期症状患者を、救おうとしている。将来のことを念頭に置き、考えている。
 この国が、初期症状患者への理解を示し、下らない差別を捨てるときが来るように。
 僕に、彼を責める資格があるのか? 彼に口出しする資格が?
 僕だって、末期症状患者を殺している。両者に違いなどあるのか。あるとすれば、僕は九条と違い、法律によって養護されているというだけでしかない。国を変えたいと願いながら、国の法律に甘えている。それが、僕、なのか。
 いや。僕は、国を変えたいわけではない。変わってほしいだけなのだ。
 僕が何か行動を起こしたか? 九条のように。国に影響を与えようとするような何かを。
 九条は、影だ。僕の影だ。自己実現を果たそうとする、僕の、影。
《警察を待つのが得策だな。九条の計画通りで癪だが》
「ですが」
《微妙な立場にあるんだよ、この会社は。末期症状患者とはいえ、人を殺して稼いでるんだ。それが非感染者にまで手を出したとなってみろ。一気に潰される》
 何の罪もない、初期症状の患者たち――。
 九条の計画を理解するなら、僕はここで、彼らが殺されていくのを傍観しているべきだ。
 いや、そうじゃない。
 僕は九条に共感しただけだ。決して賛同したわけではない。
 そうだ。僕はここで、戦わなければいけないんじゃないか?
 自らの信念と、九条の信念を懸けて。
 通路の向こうから、甚大な恐怖と苦痛の伴った、甲高い悲鳴が聞こえ始めていた。

 電話を切る。
 手にした十字弓を握りしめ、懐中電灯を通路の奥に向ける。
 闇に向かい歩き始めた僕に、南が何か言いたげな顔をした。
「ここにいろよ、南。動かずじっとしていろ。尾瀬を守るんだ。危険なら、外に出て」
「でも――」
「一人になるな。危険だ。皆で固まっていろ」
「行くなタツ。班長命令だ」
 僕の横に並び、来栖が言った。
「どうして」
「一つ。お前は雇われの身だ。上司である金糸雀の言葉を無視して動く権限はない。二つ。相手の数など、情報がなさすぎる。行っても返り討ちにされるだけかもしれない」
「三つ」
 南が、微かに震える声を出した。
「あんたは、一人になってもいいの……?」
 僕は一人だ。
 暗い気持ちが、腹の底から、這うようにして上り詰めてきた。
 僕は一人だ。ずっと、あの日から。
 南、君たちとは違う。血に塗れた両手を持っているんだ。呪われた両手を。
 僕は一人だ。一人でいい。一人が、いい。
 何も言わず、仲間たちに背を向ける。
 どこからともなく、溜息が漏れた。来栖だった。
「二組に分かれよう。危険だが、状況が状況だ」
「来栖君」と南。「勝手な行動は――」
「尾瀬を守る組と、電力を回復させる組の二つだ」
「え?」
 来栖が僕にウィンクした。
「電力を回復させるだけでも、少しは状況が変わるさ。とにかく俺たちは、末期症状患者を追い出そう。それが俺たちの仕事だし、そのくらいの干渉なら、金糸雀もうるさく言わねぇだろうさ。それでいいな、みんな?」
 皆の顔を一通り見渡してから、来栖は、良し、と頷いた。
「南と小鳥は尾瀬の病室に居ろ。女の子だけ置いてくのは気が引けるがな、戦力的に考えて、それが一番、丁度良い。俺たちが戻るまで、動くなよ。もしも敵が来たら、小鳥、迷わず引き金を引け。躊躇うなよ」
「でも、相手は非感染――」
「構うもんか。正当防衛だよ。会社の人間としてではなく、小鳥個人として、自分の身は自分で守ればいい。そうだろ」
「これ、会社の銃だよ……?」
「細かいこと言うな。モテねぇぞ」
「来栖君」
 南が進み出る。
「来栖君は小鳥とここに残って。私が一緒に見に行ってくるから」
「あ? 何でだ? どさくさデートか?」
「違う! 来栖君より、私の方が配電盤とか機械に強いでしょ。だから」
「ま、問題ねぇだろ。南が一緒なら、光に困ることもねぇだろうし。十分注意しろよ、二人とも。敵は非感染者だけじゃねぇ、末期症状患者も間違いなくここに来ている」
 僕と南は頷くと、廊下の奥へと歩き出した。
「俺と小鳥は、尾瀬のために林檎の皮でも剥いてやりながら、待ってるよ」
 背後で、来栖と小鳥遊が尾瀬の病室に入り、扉を閉める音が聞こえる。
 二人だけの空間。僕が先導に立ち、背後から電気ランプの光を浴びながら、索敵する。
 僕の影が、先の通路へと細長く伸び、闇に溶け込んでいる。
「この病院、配電盤は階段の近くにあったわよ」
「よく見てるな」
 南の持つ電気ランプのお陰で、周囲は数歩先まで確認できる。
 だが今回、懸念すべきことは、敵が非感染者だということだ。彼らに光のバリアは通用しないし、ひょっとすると飛び道具を備えているかもしれない。
 油断は禁物だ。
「私には、分からない」
 ふと南が小声で呟いた。
「何が」
「九条って人の行動も。ここを襲撃している非感染者の人たちの行動も。私には理解できない」
「理解できないから、否定し、拒絶する。攻撃する。それが人間だろ?」
「そんな哀しいこと――」
「歴史を思い返してみなよ。南の得意な学校の授業で習ったことだ。人種、貧富、国籍、宗教、何かが違うだけで、人は相手を理解できなくなる。同じ国に住む人同士ですら、信念や優先順位の違いだけで争いが生まれる。そうだよ。哀しいよ、人は」
「私は、」
 掠れて小さく、南の声が闇に響いた。
「あんたとだけは争いたくない」
「どうしてさ」
「それは、だって、幼馴染だし。あんたのこと、嫌いじゃないし」
「先のことは分からない。僕と南が違う信念を元に動けば。争うこともあるかもしれない」
「私は、私には、自分の信念なんて大層なもの、ない。私は、あんたの側にいたい」
 いつだって、と南の声が消えていく。
「南」
「何?」
 僕の声に、少し怯えたような南の返事。
「これか? 配電盤」
 階段の近く。壁に埋め込まれている、軽く錆びた配電盤ボックス。
 溜息とともに南が進み出て、電気ランプを床に置き、蓋を開ける。
 中のケーブルが切断されていた。
「直せるか?」
「当たり前よ。ケーブルを切断しただけ。おざなりな破壊ね」
 修復に取りかかる南を守るため、その背後に立ち、十字弓を周囲に向ける。
「ねぇ。さっきの話」
 作業をしながら、南が言う。
「あんたは、私と争うことになっても平気?」
「それが仕方ないことなら。僕は引き金を引く」
「諦めるの?」
「諦める?」
 心臓が高鳴って、僕は思わず振り返る。自然と声が大きくなる。
「諦めるって何だよ。どういうことだ」
「それって、一番楽な道を選んだってことでしょ。そうするしかないから、そうする。それって、負けたってことじゃない。他に方法がないから、そうした。それは自分の意志じゃない。自分の信念って言わない。ただ抗えなかっただけ。流れに身を任せただけ」
 南の言葉が、驚くほど、心臓に突き刺さり、脳を渦巻いた。
 ソウスルシカナイカラ、ソウシタ――。
「自分のしたいことは、自分で決めればいい。するべきこととか、しなきゃいけないこととか、そんな風にばかり考えてたら、自分がいなくなっちゃうよ。どこにも、なくなっちゃうよ」
「僕の、したいこと……?」
 それは何だ? 何だそれは?
 僕は、自分のしたいことを考えてもいいのか? そんなことが許される?
 あんなことをした、この僕が?
 頬を、何かが伝う。
 僕は、やりたいことをしてもいいのか?
 過去に縛られたまま、生きなくてもいいのか?
 過去を、乗り越えてもいいのか?
 いいや。
 僕は頬の何かを拭う。
 許されない。南には分かっていない。南には僕が分かっていないんだ。
「それでも、そうするしかないときが来るかもしれない。どうすればいいんだ」
「考えればいいよ」
「何もないんだぞ、どれだけ考えても、他に方法が」
「他のやり方を考えればいいよ」
「……厳しいな。苦しくて、痛い。そんな風に生きろって、お前は言うんだな」
「楽な道を選んだ方が、きっと痛いよ」
 痛い。
 知ってる。そうさ。痛くて、延々と血を吐き続けるような、そんな毎日が来るんだ。
 僕は、楽な道を選んだ。
「竜平、何があったの?」
 だいぶ久しぶりに、南に名を呼ばれたような気がした。
「何がって?」
「あんた、昔とは変わった。何かに耐えるように、生きるようになった」
「南――」
「分かってる。分かってるから」
 南が片手を挙げて、僕の言葉を制した。
「詮索するつもりはないの。ただ、言いたかっただけ。いつか竜平が、もし言いたくなったら、そのときは、私、聞くから。私は竜平の力になりたい。竜平が言いたくなるまで待つから。だから。言いたくなったら、言ってね。私は、竜平側にいるから。いつも」
 一気に言い終える南。
 ありがとう、という言葉が、ついに言えなかった。
 素直な気持ちが、まるで罪悪であるかのように。
 僕は、口に出すことが出来なくなっていた。
 そんな自分に驚き、恐怖する。
 僕は、こんなところまで来ていたのか? いつの間に、こんな僕になったんだ?
 南は、昔からそうだ。僕に、僕を見せる。
 だから、僕は南との会話を避けていたのかもしれない。
「もう直るよ」
 南の口調は、いつもの雰囲気に戻っていた。
 初めて、南が強いということに気付いた。
 南は、強い。
 こんな僕よりも遥かに。僕は、弱くて、そんな自分を甘やかすことに長けていた。
 そんな事実に気付かされる。
 苛立ちが募る。
 僕は哀れだ。哀れでなくちゃいけない。
 そうでなければ。どうやって、あの過去に溺れないよう、生きていけるんだ?
 奇声。
 はっとする。
「南!」
 僕の油断だ。僕のミスだ。
 闇の中に、二つの眼光が見えた。
 僕が十字弓を構えるより先に。
 闇から飛び出してきた屍が、壁を伝い、南に向かって飛びかかった。
 床に置いた電気ランプの光。
 僕と南の影で、屍に届いていない。
 南が悲鳴を上げる。
 僕は咄嗟に、電気ランプを蹴り飛ばした。
 電気ランプは倒れて転がり、僕と南の影の位置も変わった。
 光が屍を貫くと、屍は慌てて後方に飛び、闇へと隠れる。
「南、早く配電盤を――」
 そう言おうとしたとき、微かな声が聞こえた。屍の唸りとは違う、囁くような声。
 これは――聖書の言葉。
「悪魔め!」
 男が飛び出してきた。木の杭を手に、屍が消えたのとは逆方向の暗闇から。
 男は南を捕らえると、その首に木の杭を押しつけた。
「やめろ!」
 十字弓を向ける。が、男は南の背後に隠れてしまう。
「それを捨てろ、悪魔め」
 どっちがだ、と叫びたくなるのを堪える。下手に刺激するのはまずい。
 後ろの闇も気にしながら、僕は男を睨む。
 どうすればいい。どうする。
 このままだと南は殺される。後ろから屍か男の仲間が来れば、僕も危ない。
 どうする。
 南の怯えた顔。その瞳。その奥に、僕は、また何かを探している。
 そんな場合ではない。考えろ。必死に考えろ。
 背後の闇から聞こえてくる唸り。焦りが募る。
 南が、泣きそうな顔で僕を見つめてくる。
 僕のせいだ。全部、僕のせいだ。
 南がここへ来たのも。こうして捕まっているのも。
 すべて、僕のせいだ。
 それなのに。南は、僕を信じている。
「撃って」
 南の言葉が、僕を貫いた。
「いいよ。撃って」
 どうして、どうしてそんなこと言うんだよ、南。
「無理言うなよ」
 泣きそうな声が零れた。
 過去が、あまりにもリアルに、こうして、現実にある。
 君が言ったんじゃないか、南。
 他に方法がないからそうするなら、それは負けだって。
 君が言ったんじゃないか。
「私は、竜平の側にいるよ。だから平気。撃って」
 引き金にかける指に、力を込める。
 撃つしか、ないか。それしかないのか。
「南、僕は」
 震える声で言うと、南は頷いた。
 息を止める。このまま、永久に止まってしまえばいいと思う。
 南の肩を狙う。ちょうど背後に、男の首がある。
 南は死なない。けれど、痛いだろう。死ぬほど痛いだろう。
 絶対に外すな。
 僕は狙いを定め、引き金を――
 引いた。

 呻き声。
 はっとする。
 素早く十字弓を上に向ける。
 発射された矢が、天井に向かって飛び、突き刺さる。
 南の背後にいた男が、倒れていた。そして、別の男が立っていた。
 三川。
 南は、緊張の糸が解けたように、その場に崩れ落ちた。三川が支える。
「金糸雀は君たちの動きを察知していた。だから手伝いに来た」
「三川さん……一人で? 先生がそれを許したんですか」
「俺の意志だ。会社は関係ない」
「僕たちを恨んでいないんですか」
「どうしてそう思う」
「あなたを見捨てた」
「適切な判断だった。来栖は優秀な指揮官となれる」
「会社の命令を無視してまで助けに来てくれたのは、どうしてです」
「そんなことにまで答える義務があるのか疑問だ」
 三川はそう言いつつも、すぐに口を開いた。
「仲間を死なせたくなかったからだ。そうしたいから、そうした。それだけのことだ」
 君が疑問に思うようなことじゃない、と三川は呟いた。
「それに、俺には息子がいる。君たちと同じ学校の生徒だ。おかしな理由だと思うか」
「三川さん……」
 南の声。目を覚ましたようだ。
 目眩がして、僕は壁に手をついた。
 僕は、もう少しで、南を撃つところだった。
 襲い来る嘔吐感。
「しゃんとしろ」
 三川の手が伸びてきて、僕の襟をつかみ、しっかりと立たせた。そして南の方を向く。
「もう大丈夫なら、修理の続きを」
 南は頷き、配電盤に向かった。
「後は電源を入れ直すだけです」
 やはり、南は強い。
 もう少しで僕に撃たれるところだったのに。
「俺は戻る。光には耐えられないだろうから」
 三川はそう告げると、来た道を戻ろうと振り向いた。
 そこで僕は思い出した。三川は初期症状患者なのだ。電気ランプの光ですら辛かったに違いない。そんな中、助けに来てくれたのだ。
 三川の歩き方が、ややぎこちない。目が眩んでいるのだと直感した。
 だから、三川は気づけなかった。
 闇から飛び出してきた女。両手に何かを握りしめている。木の杭。
 三川の反応が遅れる。
 咄嗟に身をよじったが間に合わず、鋭く尖った杭は肩に突き刺さった。
 苦痛の叫びが、三川の口から溢れる。
 悲鳴を、そのまま唸り声に変えて、三川は女性を蹴り飛ばした。通路の奥から、非感染者の者たちが、次々と襲いかかってきた。十人はいる。全員、木の杭を構えている。
「止まれ!」
 十字弓を構えて叫ぶが、もはや正常な判断力を失っているのか、暴徒と化した人々は、少しも止まる様子を見せなかった。
 三川が、ようやく態勢を立て直し、一人ずつ叩きのめしていく。
 吸血症患者は、通常の人間よりも優れた運動能力を持つ。
 だが数に押され、もはや限界は目に見えていた。
「配電盤を直せ!」三川が叫ぶ。
「でも、それじゃあ三川さんが――」と南。
「さっさと直して、さっさと逃げろ!」
 三川は既に、暴徒の群れに埋もれつつあった。
 今の僕と南に、三川を助け出す術などない。
「やれ! ここで終わりたくないなら!」
 三川の叫び。
 また、見捨てるのか。
 十字弓を握る手が、悔しさに震える。
 僕たちを信じ、助けに来てくれたこの人を、今ここで再び見捨てるのか。
 南が僕を見る。強く首を横に振る。
 分かってくれ、南。
 僕は、配電盤に近寄る。
 少しも動けず、ただ棒立ちし、選ぶことに怯え、何もしないのは嫌なんだ。
「僕を、恨めばいい」
 小さく、呟く。
 三川は何も答えない。大きな背中が、僕たちに向けられていた。
 南は、微かに身体を震わせ、俯いた。
 僕の手は、とうの昔に汚れている。
 だから、僕は躊躇わず、配電盤に触れた。
 それで終わりだった。
 一気に、病院中の、電灯が点った。
 すぐ近くにいたらしい数匹の屍が、甲高く叫び声を発して、逃げていくのが見えた。途中で力尽き、全身が焦げて灰と化していく屍も多く見受けられる。
 危なかった。完全に囲まれていたのだ。
 配電盤を直さなければ、やられていた。三川には、それが見えていたのだ。
 三川の悲鳴。光が、三川の肌を焼く。肉の焼ける臭い。音。
 僕が、これをしたのだ。
 どうして、どうして、どうして、
 これは何の罰なんだ。
 僕たちは、どうしてこんなにも、罰を与えられなければならないんだ。
 三川の全身が赤黒く変色していく。
 非感染者たちは、突然の光に照らされ、一瞬、正気を取り戻したかに見えた。
 闇に埋もれることによって、良心も、正常な判断力も、失われていたのだろう。
 だが、焼け焦げていく三川を見た誰かが、吸血鬼だ、と叫んだ。
 その言葉をきっかけに、非感染者の群れが、三川に襲いかかった。
 これが人の姿だ。南、これが人の姿だ。
 再び吐き気がこみ上げてくる。
 誰かの大声が聞こえてきた。三川だ。まだ生きていた。
「これがお前たちの罪だ、見ろ、この血を忘れるな、俺は生きてる、まだ生きてるぞ、さあ殺せ、見えるか、これが俺の肉だ、俺の肉が焼けるのが見えるか、俺だってこうなりたくなかった、お前らに見えるか、俺が死んでいく、見えるか、俺が死んでいく!」
 悲痛な叫び。
 三川の焼け焦げていく両手が、近くにいた男をつかんだ。
 途端、男の肌も焼けていく。男の悲鳴。
「呪いだ!」
 近くにいた女が叫んで後ずさった。だがもう遅かった。
 三川は燃え始めていた。三川を包む炎が、周囲にいた非感染者たちをも包み込んだ。
 あっという間に、三川のいた周囲は火の海と化していた。
 一人だけ、火の海から、辛うじて逃げた女がいた。
 もともと一番後ろにいたため、唯一、逃げられたのだろう。
 女が、燃え上がる炎からある程度離れ、こちらに向き直る。
 いつか見た女――仲多だった。
「やっぱり、やっぱりあんた悪鬼の仲間ね! いいえ、あんたが、指揮してるんだわ!」
 炎の向こうで、仲多が僕を指差す。
「調べるわ! あんたのことを調べる! そして、思い知らせてやる! 見てなさい!」
「行こう、南」
 僕は南の手をつかむと、仲多を無視して、走り出した。
 南が何かを言おうとしているのが分かる。意識して、それを無視する。
 南は僕を軽蔑したろうか?
 もちろん、しただろう。
 もともと、理解してもらえるなどと思っていない。そんな甘い考えは、とうに捨てた。
 尾瀬の病室まで戻り、扉を押し開ける。
 足下に来栖が倒れていた。隣には、小鳥遊の姿も見える。慌てて駆け寄る。
 二人とも、気を失っているだけのようだった。噛まれた形跡もない。
「君は、私と同じ考えだと思っていたが。違ったのかな」
 ベッドから声が聞こえ振り向くと、眠る尾瀬の隣に、九条が腰掛けていた。足を組み、片手で顎を支え、もう片方の手で、文庫本を開いている。
「物語には、学ぶべきところが多い」
 九条が、文庫本からは目を離さないまま、口を開いた。
「これは、ある男の物語だよ」
 脚を組み替え、九条がこちらを向く。
「世界中に吸血鬼が蔓延して、ただ一人、人間として取り残された男の、戦いの記録だ。男は、吸血鬼の徘徊する夜は自宅に立て篭もり、昼は食料を調達したり吸血鬼を退治したりしながら、生きていく。だが、あるときに気付くんだ。吸血鬼たちにとっては、白昼堂々、次々と仲間を殺戮していく男の存在こそが、伝説の怪物なのだと」
 九条は文庫本を閉じて続けた。
「この社会には、色々な価値概念が存在する。善悪もその一つだ。この作品は、主人公が、そして読者が信じていた、善悪の関係性が、結末において、急速に揺らいでいく。それを描いた点で、この物語は、そこら中に散らばっている吸血鬼小説の中で群を抜いている」
「その本なら、読んだことはある。陳腐な話だ」
「陳腐。その言葉こそ陳腐だ。これと同じ装丁のものかな?」
「その表紙だったと思う。訳者が違ったところで、印象はそこまで変わらないだろう」
「そちらのお嬢さんは? 読んだことはあるか?」
 九条が表紙を掲げてみせると、南は小さく首を横に振った。
「それなら一度、読んでおくといい。この本は差し上げよう」
 本をベッド脇の棚の上に置くと、九条はこちらに向き直った。
「何度か映画化もされているが、そのテーマの深遠さ、奥深さにおいて、原作を凌ぐものは未だない」
「僕に、道徳を説くつもりか?」
「とんでもない。道徳などに意味はないと言っているんだよ」
「どういうことだ」
「道徳などというものは、何か価値観を自分の中に用意しなければ、物事に優先順位を付けることの出来ない人間が、勝手に作り出したものだ」
 九条は天井を仰ぎ、続ける。
「価値観には、社会的なものである善悪の他に、個人的な好き嫌いというものもある。だがそれは、善悪で判断される道徳ほど、社会では重要視されない。結局は、すべてシステムに過ぎないということだ。社会が上手く回り、動くための、設計されたシステムだ」
 ということは、と九条が視線を戻す。
「異物として、社会のシステムから排除され、見捨てられた者にとって、道徳など意味を成さないということには、ならないかな」
「結構な弁舌だ。けれど、今は講義を聴きたい気分じゃない」
「だが聴いてもらう。そのために来たんだからな」
 九条が人差し指を立てて見せる。
「私は君たちと話がしたい。それだけだ。もし私と話したいと思ってくれるなら――」
 九条の目線が僕を捉える。落ち着かない気持ちを押し隠そうと、睨み返す。
「まずは、この物語から学べばいい。最後の一頁まで、よく読むべきだ」
「読んださ」
「物語の中で、主人公が大事な相手を失うシーンが三度出てくる。分かるか?」
「妻、犬、旧友か?」
「そうだ」
 満足そうに頷き、九条は、棚の上の本を指でコツコツと叩いた。
「この本は、一種の予言書だと思わないか。今の社会の核心を、見事に突いている」
「物語と現実を混同しているのか、あなたは」
「物語は現実と同等の力を持っている。逆に言えば、現実は、物語と同じ程に陳腐だ」
「そいつは、単なるフィクションだ」
「フィクション、だって?」
 九条が両手を広げてみせる。
「今日、見ただろう。非感染の連中が、哀れな感染者に何をするのか。ここで見ただろう」
「あんたが、そう仕向けたんじゃない」と南。
「きっかけを与えたことは認めよう。だがそのきっかけは、私が与えずとも、その辺に転がっている。いつか、今日と同じようなことが自然に起こる。そうではないかな」
「今日ここで起きたことに関しては、あなたに罪がある」
「もちろん、あるだろう。罪、などという言葉を、今更、私が畏れると思うか。そんなものは、社会が定めたルールに過ぎない。こうしてルールに縛られることをやめれば、人は何でも出来てしまう。今日ここに来た連中が、社会のルールよりも自分たちの信念を優先したように」
 中には、と九条が言う。
「特に信念も信仰心もなく、ただ流されてここに来てしまった連中だっていただろう。自分の意志もないまま、ここまで来て、ついには正常な判断能力を失い、暴走してしまった」
 目を血走らせ、もはや動物のように襲いかかってきた暴徒たちを思い出す。
「それが人間だ。それが人だよ。我々のことを吸血鬼だ、などと、鬼、などと、呼ぶ権利はどこにもない。人が鬼だ。人間が鬼なのだ。今日来た彼ら――彼らの行動こそが鬼だ」
「今日、仲間が死んだ」
 僕は呟いて、十字弓を構えた。
「あなたの理屈でいけば、僕はここであなたに対して、仇を討つ権利がある」
「そうすれば、君ももはや、我々の仲間さ。自らの怒りで動くなら」
「竜平、駄目よ」と南。
「どうして。何故いけない。こいつはここで止めておくべきだ」
 そうでなければ、呑まれる。
 突如、九条の下で、何かが動いた。
 寝ていたはずの尾瀬が突然起き上がり、枕元に置いてあった、リンゴを載せた皿の上の、銀製のフォークを握り締め、九条の腕に突き刺した。
 小さく九条が声を上げ、刺された左腕を持ち上げる。その先の手が、変色していく。
 何かが崩れるような音。
 九条の左手が、ひび割れ、粉と化した。スーツの左腕部分が肘から垂れ下がる形となる。
 尾瀬は荒く息を吐き、九条が少しも動揺していないことに怯えたのか、身を強張らせた。
 素早く尾瀬に向き直る九条。笑みを絶やさぬまま。
「やってくれたな」
 九条は残された右腕で尾瀬をつかむと、窓際へと歩いていく。苦しそうに呻く尾瀬。
「彼を放せ」
 僕は今度こそ、本気で引き金を引く覚悟で、十字弓を向けた。
「まあ、今なら私を撃つ正当性があるよな」
 九条はせせら笑うと、持ち上げていた尾瀬を下ろした。
「分かるか。君の覚悟とは、そんなものだ。社会的な正当性がなければ、私を撃つことなど出来ない。社会に反抗心を抱きながら、社会に縛られている」
 構えた十字弓が、微かにぶれる。
 それを見て取ったように、九条が笑む。
「やはり、君は思ったとおりの人間だ。そちら側にいるのが不思議なくらい」
「黙れ」
「粋がるなよ。気が変わったら、いつでも電話してくれたまえ」
「黙れ!」
 叫んで、僕は十字弓を突き出す形で、九条に狙いを定めた。
「撃たれるつもりはないよ」
 九条はそう言うと、尾瀬の身体を、そのままこちらへと投げた。
 尾瀬の身体が、僕の構える十字弓にセットされた矢の先端へと、真っ直ぐ飛んでくる。
 避ける暇もなかった。
 尾瀬の身体が、僕にぶつかる。矢が、肉を貫く感触。思ったよりも強い衝撃が来た。後頭部に激しい痛みが響き、鼻の奥で血の臭いが広がる。壁にぶつかったらしい。
 揺らぐ視界の中で、九条が、窓の外へと消えていくのが見えた。
 血に染まる僕の手。血の生温い温度。ぬるっとした、その色合い。
 肉を貫く感触。
 南の声。薄れていく。
「竜平!」
 竜平!
 竜平……
 竜平……
 ――竜平、お兄ちゃん……
 ――お兄ちゃん……
 呼んでいる。僕を。
 あの子が呼んでいる。
 まだ小さかった、僕の妹。
 こうなる前の、僕の妹。
 ああ。
 過去に落ちていく。



   第四章  光は淡く


 妹が、ある日を境に、僕の日常から姿を消した。
 いつもなら、朝起きるとすぐに僕の部屋の扉を叩き、朝だよ、と告げてくれていたのに。
 いつもなら、誰よりも早くテーブルに座り、朝の食事を楽しみにしていたのに。
 いつもなら、一緒に外に遊びに行き、僕の後ろを離れずついてきていたのに。
 妹は、突然、いなくなった。
 両親に聞いても、彼らは何も答えてくれなかった。
 ただ一つ。
 妹の部屋に関すること以外は。
 あの部屋に、入ってはいけない。
 それは、妹が消えた日から課せられた、絶対的な禁忌。
 部屋には、どういうわけか、外から鍵がかけられた。その鍵は、常に両親が管理した。
 家の外から、妹の部屋の窓を見上げても、常にカーテンが閉めてあって、中を覗き見ることは出来ない。
 こっそりと扉をノックしても、中からは何の返事もない。
 僕の妹は、どこかへと消えてしまった。
 変化は、それだけではなかった。
 父親は元々医者だったのだが、家に戻ってくることが少なくなった。泊まり込みで、何かの研究を始めたらしかった。
 すべては、二年ほど前の話だ。
 消えた妹、封じられた妹の部屋、研究に打ち込む父、周囲で流行している謎の病気。
 僕は、大人しく黙っているほど子供ではなかった。
 母が、毎日、妹の部屋を出入りしていることは知っていた。
 だから、母の行動を観察し、鍵を隠してある場所を突き止めた。
 そうして、母が出かけた隙に、鍵を見つけて、妹の部屋へと向かった。
 開けては、ならない。
 両親によって定められた、絶対のルール。
 それでも僕は。
 鍵を差し込み、かちりと音がするまで回し、ドアノブに手をかけ。
 禁忌を破った。

 部屋に足を踏み入れると、すぐには中が見えなかった。
 真っ暗だったからだ。
 電灯は取り外され、部屋の窓には板が打ち付けてあった。
 ようやく目が慣れてきて、部屋の内に足を踏み入れると、何か生温かい、気味悪く柔らかいものを踏んでしまい、驚きで心臓が縮んだ。
 魚の刺身か何かだった。
 床には、物が散乱していた。
 とても、可愛らしかった妹の部屋とは思えない有様だった。
 小さな虫が部屋中を飛び回っていて、嫌悪感が喉元に迫り上がってくる。
 既に腐った食品類、引き千切られ紙屑と化した本の山、砕かれた小物類。
 そういったものを乗り越えていった先に、僕が探し求めたものはあった。
 ベッドに寝かされた妹。
 身体を縛り付けられ、ベッドに軟禁された、僕の妹。
 驚きのあまり、しばらく、何も言えなかった。
 変わり果てた様子の妹を、見下ろしていることしかできなかった。
「母さんたちが――やったのか?」
 ようやく口を開く。声は掠れていたと思う。
 足下には、食べこぼしたらしい食料が散らばっている。
 妹は衰弱しきっているのか、何も言わない。
「今、外してやる」
 僕は妹の近く、ベッド脇に近寄ると、強固に結ばれている縄をつかんだ。
 何とか結び目を解こうとするが、すぐに無理だと判断し、近くの勉強机から鋏を取る。
 母が帰って来ないか怯えながらも、太く頑丈な縄と格闘を続けた。
 途中から、妹が暴れ始めたことを、僕はあまり意識していなかった。
 早く助けてくれ、そう言っているように思えたからだ。
 だから、ようやく縄が切れて、妹が跳ね起きたとき、予想以上に元気でいてくれたことを嬉しく思ったほどだ。
「大丈夫か?」
 そう言って伸ばした僕の手を、妹は唸って弾いた。
 伸びた爪が、僕の肉を引き裂く。
 悲鳴を上げる。血が滴る。
 見下ろす。溢れた血で、僕の両手は紅く濡れている。
 妹が奇声を上げて、僕に飛びかかってくる。
 そこで。
 過去の映像が止まる。
 僕の脳が、意識して、僕の記憶をスキップする。
 その処理のお陰で、僕は初めて、これが夢だということに気がつく。
 問題ないと判断した時点から、再度、過去の映像が流れ始める。
 妹が倒れている。
 夢の中。映像は、意識して、妹の顔だけを映し続ける。
 他の部分は決して映さず、妹の顔だけを映す。
 妹がこちらを見つめる。
「お兄ちゃん、私に何をしたの?」
 ――何をしたの。何をしたのよ、お前は。
 僕は何をした。何をした。何て恐ろしいことを。
 違う。これは現実じゃない。過去でもない。
 これは夢だ。
 何故なら、妹は、こんな言葉をかけてはこなかったから。
 何故なら。
 何故なら……。
 僕は、もう一度、妹の顔を見下ろす。
 未来が僕を見つめる。
「お兄ちゃん……」
 僕は血に塗れた両手を顔に押し当てて、絶叫する。

 願えば叶うという言葉が、世にあることは知っていた。
 だから願った。心の底から。
 失くしたものを取り戻したい。
 もう一度だけでいい。
 ただの一度。小さな、小さな願いだ。
 奇跡。魔法。何だっていい。やり直せるのなら、何だっていい。
 願い続ける。
 そのとき、ふと。
 懐かしい温もりを感じた。確かに感じた。
 逃がしたくない一心で、その温もりに手を伸ばす。
 誰かの手に触れたような感覚。
 消えるな。
 そう願いながら、必死に祈りながら、目を開ける。
 眩しい。
 風が、涼しい。
 涙が溢れて、シーツに零れた。
 暖かい朝の日差しの中、僕は一人だった。
 ベッドの上で。
 ただひたすらに、手を握りしめたまま。
 僕は、一人だった。
 夢から覚めても、最後に僕を見つめた未来の表情は、消えてはくれなかった。
 ここはどこだろう。
 頭を現実に切り換えようと、そんな小さな疑問から考えていくことにした。
 僕の家ではないようだ。かといって、病室でもないらしい。
「あ、起きたー?」
 そう言って、僕の顔を覗き込んだのは、意外なことに、小鳥遊だった。
 半分、僕が予想していたのは、ここが南の家だということだった。
「ナミちゃんじゃなくて残念?」
 僕の思考を先読みしたかのように、小鳥遊が言った。
「さっきまでナミちゃんもいたんだよ。けど、ナミちゃんの家はお父さんが厳しいから、もう帰っちゃった。ナミちゃん、お父さんには、今の仕事のこと、何も言ってないんだよ」
「そうなの、か?」
 僕は、南のことを何も知らない。
 南が僕について、すべてを知っているわけではないのと同じように。
 何気なく周囲を見回し、そこで僕は、あることに気がついた。
「ここ、小鳥遊の家か?」
「そだよー」
「お前、一人暮らしだったのか?」
「うん、そだよー」
 八畳ほどであろう部屋。玄関に繋がる短い廊下には狭い台所。
「二人きりだよーむふふ」
 僕はどうやら、小鳥遊のベッドを独占する形で眠っていたらしい。
「ベッド、ありがとう」
「へ? いえいえー。これからは、竜平君の匂いを嗅ぎながら、毎日眠れるよー」
「迷惑かけたみたいだな」
「あたしはそうでもないよー? 隊長が、竜平君をここまで運んだんだよ」
「そうか……」
 その時、突然に、昨日の夜のことを次々と思い出した。
「尾瀬は? どうなった?」
 僕の剣幕に怯んで、小鳥遊が後ずさった。
「尾瀬君は無事だよー。 あのね、肩に矢が刺さっただけで、入院が長引くことにはなるけど、命とかには別状ないよ」
 安心して、息が抜けた。
「ほい」
 小鳥遊が何かを投げてきた。反射的に受け取る。
「何だ?」
「冷たーく冷えた炭酸水だよ」
 礼を言って、缶を開封する。空気の抜ける音とともに、泡が弾け出た。
「あたしと隊長も、軽く当て身を打たれただけで、問題ないよー。ほら、ピンピン」
 飛び跳ねてみせる小鳥遊。確かに大丈夫そうだった。
「けれど、三川は死んだな」
「それは竜平君のせいじゃないよ」
「僕が殺したんだぞ」
「南ちゃんに聞いたよ。そんな状況じゃ、仕方なかった」
「いや、僕のせいだ。そもそも、僕が行くと言わなければ良かったんだ」
「来たのは、三川さんの意志だよ」
「意志か。僕は、本当に人の意志なんて存在するのか、不安になってきたよ」
「うーんと、あたしにも分かるように話してみてくれる?」
「つまりさ」
 僕はベッドに腰掛け、両手を広げて言った。
「すべては偶然の連なりが、動かしてるに過ぎないんじゃないかってこと。人の意志で変えられるものなんてない、すべては、そう、運命ってこと。あるいは必然かな」
「偶然を作るのは、人の意志だよ」
「結局は偶然だ。人の意志で確実に変えられるものなんて、ないんじゃないかな」
「だとしたら、どうするのー? 何もしないの?」
「それも一つの答えだな」
「竜平君が言ってること、分からなくもないよ-―。けど、あたしは嫌いだよ」
「きっと、南もそう言うだろうね」
「あたしじゃ、話の相手として不足かなー」
「いや、ごめん。そういうつもりじゃなかった」
「少しはドキドキしてる?」
「何?」
「女の子の部屋に二人きりなんだよー。しかもベッドの上」
「それは恋とか、そういう話?」
「えー、と」
「僕は、誰かを好きになるとか、そういう浮ついたことはできないんだ」
「どうしてー?」
「呪われたから、かな」
「呪い……?」
 思わず口を閉じる。
 どうしたのだろう。少し、喋りすぎた。
 南といい、小鳥遊といい、どうして皆、僕の心を動かすのだろう。
「色々とありがとう、小鳥遊。そろそろ、おいとまするよ」
 立ち上がろうとした僕の前に、小鳥遊が歩いてきた。
「竜平君、あたしは馬鹿だからよく分かんないけど、でも、竜平君は自分を責めすぎてると思うよ。それと、竜平君は、自分だけで何かを抱えて、周囲に迷惑はかけない、て考えてるみたいだけど、実際問題、周囲に、たくさんの心配をさせてるんだよ」
「心配してほしいなんて思ってない」
「竜平君が思う思わないに関わらず、みんなはそう思ってるんだよ」
 ねえ竜平君、と小鳥遊は続ける。
「周囲のみんなは、竜平君の思うとおりに動く、お人形さんじゃないんだよ」
 頭を殴られたような衝撃が来た。
「みんな、竜平君と同じように、ここで生きて考えてる、個人なんだよ」
「個人……」
「みんなだって、竜平君に対して、色々と思ったり、心配したり、怒ったり、悲しくなったり、恋をしたりしてる。その上で、竜平君と接してるんだよ。どうして分からないの、竜平君? 昔は、そんな竜平君じゃなかったよ。忘れちゃったの? 人との接し方を、忘れちゃったの?」
「僕は――」
「僕、て誰? 竜平君は、今、ちゃんと竜平君?」
 足下がぐらつく。
「……小鳥遊にまで説教されるなんてな」
「嫌だった?」
「いや、そうじゃない。謝る」
 もう、自分で自分が何を喋っているのかも分からなかった。
 自分が今どこに立っているのか――それすら分からなくなりそうだった。
「ごめん、小鳥遊。今日はもう帰るよ。帰らなくちゃ」
 半分、押し退けるようにして、小鳥遊から逃れる。
 急いで靴を履いて、外へ出る。
 僕は走っていた。
 暗い部屋で、未来の待つ、今の僕の小さな世界へ。
 逃げ帰るように、走っていた。

       *

 玄関の扉を開ける。
 薄暗い室内を見渡す。僕の家だ。安心感を覚える。
 生温かい風が、室内から吹き抜けてくる。
 頭の片隅で、軽く違和感を覚えるが、今はそれについて深く考える気分ではない。
 扉を閉めて、背中を預ける。どういうわけか、膝が笑っている。無視して立ち続ける。
 呼吸を一つ。
 ――お人形さんじゃない。
 小鳥遊の言葉が、反響を続ける。
 おままごと。
 それは、無邪気に作られた、偽りの世界。
 僕以外は、すべて人形だ。
 そんな風に考えていたのだろうか、僕は。
 再び、風が吹いてくる。
 鬱陶しく思いながら、風のやってくる方向を見定める。
 薄く開いた、未来の部屋への扉。そこから風は吹いてきている。
 刹那。
 強烈な拳を見舞われたかのように、脳が覚醒した。
 激しい違和感。
 混乱していた頭が、一気に冷める。
 風? 風だって?
 僕は、未来の部屋へと繋がる扉を睨む。
 風に揺れて、扉が微かに軋んでいる。
 風はどこから、吹いてくるのか。
 未来の部屋の窓。
 もちろん、それしか考えられない。
 だが。
 そんなはずはない。有り得ないことだ。
 朝っぱらから、吸血症患者の未来が窓を開けるなどということは。
 靴箱の上の、十字弓を手に取る。
 傘立てから、本物の矢を抜き、装填する。
「未来」
 小さく、囁き声で、名を呼ぶ。
 同時に、十字弓を構えて歩み出す。
 右、左、右、
 室内をチェックしながら、リビングダイニングキッチンへと足を踏み入れる。
「未来」
 キッチンの陰、テーブルの下、カーテンの裏、ソファーとテレビ、
 いつも未来と戯れているときのように、前進しながら、左右交互に点検していく。
「未来」
 少し声を張ってみる。相変わらず返事はない。
 未来の部屋の前まで辿り着く。
 深呼吸一つ。
 十字弓を構えたまま、扉を蹴り開ける。
 風。
 カーテンが揺れている。窓が開いている。
 窓に打ち付けていたはずの板は、割れて室内に散らばっている。
 未来の姿はない。
「未来!」
 今度は自分の部屋の扉を開ける。
 そこにも、未来の姿はない。
 二年前の出来事が、否応もなく思い起こされる。
 今、再び、妹が消えてしまった。
 いったい、どこへ――
 ――やっぱり、やっぱりあんた悪鬼の仲間ね!
 思考を切り裂くようにして、最近に聞いた、誰かの叫びが脳裏を過ぎった。
 同時に、浮かぶイメージ。
 揺らめく炎。炎の向こうで、こちらを指差す女の姿。仲多。
 ――調べるわ! あんたのことを調べる! 思い知らせてやる! 見てなさい!
 まさか。あの女が。
 テレビを点ける。
 チャンネルを回すと、昨日の事件を扱っているニュース番組を見つけ、音量を上げる。
 吸血鬼狩りによって殺された、入院患者の数は、想像を超えていた。
 捕まった容疑者や、焼死した容疑者は、警察の調べによると、どうやらインターネットのホームページで知り合った仲間らしい。そのホームページの運営者は、仲多益美容疑者。
 仲多。あの女だ。
 ニュースでは、仲多益美容疑者の消息は不明、としている。
 携帯電話を取り出す。
 かけると、すぐに相手は出た。
「何だ、タツか。もう大丈夫なのか?」
「来栖。金糸雀から、警察の情報は入っているのか」
「ああ」
「警察は、事件の首謀者は仲多としているのか」
「お前がいつだったか喧嘩を売った女だな。そうだ。目撃情報や調べでそう判断している」
「仲多の行方は分からないのか」
「あのなぁ、それが分かってたら警察だって苦労しねぇだろ。病院から逃げる際、仲間の車を逃亡手段として用いたことは分かってる。だがその車は、少し離れた、人目のない道路に乗り捨てられていた。別の車に乗り換えたんだろう。まあ、指名手配もされていることだし、そのうち捕まるさ」
 そのうちじゃ駄目なんだ!
 焦って叫び出しそうになるのを堪えながら、来栖に礼を言い、電話を切る。
 他にないか。何か、仲多に繋がるもの。
 考えながら部屋を歩き回り、デスクトップ型パソコンに目がいく。
 ホームページ。
 急いでパソコンを起動させると、椅子に座る。
 仲多益美が未来を連れ去ったのなら、まずは仲多を見つけ出す必要がある。
 インターネットで「仲多益美」と検索してみる。
 だが検索結果として出てくるのは、今回の事件のニュースや、同姓同名のものばかり。
 もう一度、携帯電話を手に取る。発信履歴から、そのままかける。
 来栖は、今度もすぐに出た。
「タツ、いったい――」
「度々すまないが、もう一つだけ教えてくれ。仲多の運営していたホームページの名前は」
「御霊会」
「何?」
「ホームページの名前だろ。御霊会だよ」
「連中、キリスト教じゃなかったのか」
「どうも違うようだ。恐らく仲多オリジナルだな。仲多は教祖様ってわけだ」
 念のために検索してみるが、山のように検索結果が表示された。
「アドレスは分かるか」
「待て。確認してみる。一度切るぞ」
 数分後、再び来栖から電話がかかる。
 アドレスを一字ずつ読み上げてもらい、打ち込む。
 真っ黒な背景のホームページが、画面に映し出された。黄色い字で、大きく、御霊と表示されている。この会について、管理人の言葉、会員専用ページ、掲示板、チャットなど、各コンテンツへのリンクが並んでいる。
 来栖との電話を切ると、関係のありそうなコンテンツへのリンクをクリックしていく。
 だが、当然のことながら、仲多本人の個人情報は少しも書かれていない。
 それもそうだろう。
 誰でも見ることのできるホームページに、個人情報を記載するはずがない。
 会員専用ページが気になるが、警察もこのホームページを調べているであろうことを考えれば、恐らくは仲多自身に繋がるものは、何一つ無かったのだろう。
 よく考えてみれば、個人情報を見つけたところで、警察に追われている今の仲多に繋がるものは、何もないのではないか。
 苛立ち。
 未来が今どんな目に遭っているのか想像もつかない。
 群がる暴徒に押さえつけられ、必死に泣き叫ぶ未来の姿が浮かぶ。
 あるいは、胸の肉に木の杭が突き刺さり、血が溢れ出すイメージ。
 あるいは、日の光にまとわりつかれ、異臭を放ちながら焼け焦げていく肉のイメージ。
 未来。
 今この瞬間、未来は、考えたくもないような惨い行為を受けているかもしれない。
 暴力。蹂躙。
 地獄という言葉ですら言い表せない、壮絶な苦しみ。
 それなのに、自分に出来ることは何一つないのだ。
 癇癪を起こしてしまいそうになる頭を押さえ、掲示板を開いてみる。
 適当にスクロールしてみるが、書き込み内容がどうあれ、特に変哲もない雑談掲示板だ。
 もう一度上までスクロールし、諦めてトップページに戻ろうとしたところで、最新の書き込みが目に入った。書き込んだ者の名前は、管理人、となっている。つまり仲多だ。
《Kへ。情報求む》
 それだけの書き込みだった。日付は昨日の深夜。事件の後だ。Kからの返事はないが、恐らくはメールや電話など、別の手段で、何らかのやり取りがあったはずだ。
 K。
 九条、と受け取るのは、考え過ぎだろうか。
 病院に関しての情報をリークしただけではなく、そもそも仲多と九条は、互いに情報交換する関係にあったのか。あるいは、九条が一方的に仲多に情報を提供していたか。
 ここで仲多が求めている情報とは、恐らくは僕についてではないか。
 九条は僕の家を調べ、仲多に教えた。もしかすると、僕が家に戻っていないことまで調べて、伝えたかもしれない。九条には、夜目の利く配下がたくさんいるのだから。
 そして仲多、あるいは仲多の仲間は、ここへ来て、未来を連れ去った。
 九条なら、仲多の居場所を知っているかもしれない。
 だが僕は、九条の居場所さえ、知らない……。
 ――私は君たちと話がしたい。
 昨晩の、九条との会話を思い出す。何かが、引っかかった。
 九条は何故、僕たちの前に現れ、無駄話だけして去っていったのか。
 危険を冒し、姿を見せた理由、目的は何だ?
 ――もし私と話したいと思ってくれるなら。
 今思えば、九条は話しながら、絶えず僕に目配せをしていた。
 あれは、何かを伝えようとしていたのか?
 九条は、その後、何と言っていた? 確か……
 ――まずは、この物語から学べばいい。
 閃きがあった。
 顔を上げ、本棚の前に立つと、九条の持っていた本と同じものを取り出す。
 何度も読み返したため、既に表紙は破れていた。
 この本には、共感できる部分があった。
 主人公が、死人となって墓から戻ってきた愛する妻に、杭を打ち込んだという過去だ。
 逃れられない過去。忘れることなど不可能な亡霊。
 この苦しみに、慣れることなど出来ない。
 だから、僕はこの本を何度も読んだ。切実な痛みとともに読んだ。
 僕と同等の痛みを、孤独に囲まれ、まとわりつかれる苦しみを、描いていたから。
 破れた表紙を見つめる。
 ――これと同じ装丁のものかな?
 何故、九条は装丁にこだわった? 同じ装丁でなければいけない理由は?
 本をめくる。考えを巡らせる。
 九条の言葉を、一つ一つ、必死に思い出し、吟味する。
 ――物語の中で、主人公が大事な相手を失うシーンが三度出てくる。
 まるで謎々のような問い。それに、僕は答えた。
 妻、犬、旧友。
 主人公が直接的な意味で失った三つの相手と問われれば、そう答えるしかない。
 だが、それが何だ? 九条は何が言いたい?
 思い出せ。
 九条の言葉を。他に何を言っていたかを。そこに意味が隠されているかもしれない。
 ――まずは、この物語から学べばいい。
 それはもう思い出した。
 その後、九条は何か言わなかったか?
 普通なら聞き流すような、些細なことを。意味もない付け足し文句を。
 ――最後の、
 これだ。
 必死で記憶を辿り寄せる。集中し、見失わないように、頭の奥を睨み続ける。
 僕は、自らの意識の中、昨晩の病室に立っている。目の前に九条がいる。
 九条が口を開く。
 ――最後の、
 耳を澄ます。聞き逃さないよう、九条の唇の動きを見つめる。
 ――最後の一頁まで、
 記憶が弾ける。
 僕は、自分の部屋に立っている。理解が追いつく。瞬時に悟る。
「頁数か」
 本を開く。軽く話を追いながら、目的の頁を探す。
「妻」
 主人公の妻の心臓が止まる瞬間。その場面の頁数。二桁の数字。
 頁の隅を軽く折ってから、さらに頁をめくる。
「犬」
 主人公が犬と死別する場面。その頁数。三桁の数字。
「旧友」
 死人となって主人公をしつこく追い続けた旧友が殺される場面。その頁数。三桁の数字。
 こうして、三種の数字が揃った。
 これらをどうするのだろう。足すのか?
 いや。
 各場面に意味を探すなら、これらの数字は、計算するのではなく、並べるべきだ。
 出来事の順に並べる。八桁の数字が完成する。本の隅に書き付ける。
 それで?
 僕は数字の羅列を見つめ、自分に問いかける。
 これが何だって言うんだ?
 九条は、僕に何を伝えようとしたんだ?
 ――もし私と話したいと思ってくれるなら。
 九条はそう言った。
 それなら、この数字は、何らかの連絡手段となるはずだ。
 連絡手段に関わる何か。
 名称、住所、郵便番号、日時、電話番号……
 電話……電話か。
 ――気が変わったら、いつでも電話してくれたまえ。
 九条の言葉。ここでも、ぴたりと符合する。
 八桁の数字。
 頭に090を足せば、携帯電話の電話番号になる。
 これが九条からのメッセージか?
 もう一度、書き記された、八桁の数字を見つめる。
 これは、僕の単なる勘違いだろうか。だが仮にそうだとして、それが何だ?
 他に、未来へと繋がる情報は、何もない。
 今はわらにもすがる思いだ。試してみる価値はある。
 携帯電話を取り出し、先程の数字を入力していく。
 耳に押し当てる。長くコール音が鳴り響く。
 出ろ。出ろ。頼む、出てくれ。
 コール音が途切れ、声が聞こえてくる。
 僕の期待は、急速に萎んだ。
 留守番電話の声だ。
 失意のまま、電話を切ろうとする。
《――並町、二丁目、》
 耳から離しかけた携帯電話を、慌てて耳元に戻す。
《――五○四番地、》
 やはり間違いない。どこかの住所を告げている。
 留守番電話のメッセージとして、住所を吹き込んであるのだ。
 素早く書き留める。
 声が住所を二回繰り返し、メッセージは終わった。
 これが九条のメッセージだったのだ。この住所こそが。
 僕は携帯電話をしまい、十字弓と矢を手に取ると、部屋を出た。
 これが、妹を助ける唯一の道筋だ。例え罠だとしても、行くしかない。
 マンションを飛び出す。
 だが、すぐに足を止めた。見覚えのある人影が、二つ、立っていたからだ。
「……来栖、南」
 二人は、丁度、僕の家へと向かっていたらしかった。
 電灯が二人の後ろから光を放っており、表情が見えない。
「タツ、大丈夫か?」
 来栖の声。影が喋っているように見える。
 僕の様子を、結衣に聞いたのか。先程の電話を、不審がられたというのもあるだろう。
 それで、要らぬお節介を焼きにきたわけだ。
 もう、放っておいてくれ!
 叫び出しそうになる。
 お願いだ、放っておいてくれ、もうたくさんだ、苦しいんだ!
 根拠のない苛立ちと行き場のない怒り。
 地に伏して、泣き喚きたくなる。
 ここで時間を費やしているわけにはいかない。未来を早く助けなければ。
 僕は来栖の問いに答えず、歩みを再開する。
「待てよ、どこ行くんだ」
 来栖が僕の肩をつかむ。ようやく、その顔が見えた。
「どいてくれ」
 手を押し退けようとするが、来栖は放さない。
「何を思い詰めた顔してる。何があった」
「頼む、どいてくれ」
 焦り。
 イメージ――肉に食い込む杭。未来の泣き叫ぶ顔。
 来栖の横から、南が歩み出てくる。
「ねえ、竜平……」
「僕に構うな」
 南の表情が変わる。その拳が、握り締められる。
「竜平……」
 南の泣きそうな声。顔。
「遠くに、行っちゃうの……?」
「何?」
「もう、戻ってこない……そんな顔してる」
「遠くに行くわけじゃない」
「ううん、そうじゃなくて。心の問題」
「悪いけど南、今は哲学する気分じゃないんだ」
「私も行く」
 南が僕の前に立ち塞がる。
「竜平がどこへ行こうとしてるのか知らないけど、私も行く! だから、」
「どいてくれ」
 僕は一人だ。一人がいい。一人が楽だ。
 ――一番、楽な道を選ぶの?
 うるさい。
 僕の表情を見た南は、突然、僕の頬を叩いた。
 衝撃。頬と思考に、同時に訪れる。
 隣で、来栖がぽかんと口を開けた。その表情が語る。こいつは、驚いた。
「いい加減、悲劇ぶらないで!」南が叫ぶ。
 苛立ち。
 早く助けに行かなければという焦り。
「そこをどいてくれ、南」
「いいえ、どきません」
「どくんだ」
「嫌」
「どけ!」
 自分の本性が浮き彫りにされていくような感覚だった。
 こんなことをしている場合ではない。
 一刻も早く、ここを通り抜けるための手段を模索する。
 ――仕方ない。
 僕は深呼吸してから、口を開いた。
「……僕の妹が誘拐された」
 打ち明ける。来栖と南の表情が引き締まる。
「竜平の、妹さんが?」
「仲多に……か」
 南と来栖の言葉に、頷く。
「だから助けに行く。一人でいい。当てはある」
 早口で言うと、逃げるように去ろうとする。
「おい、一人じゃ危険――」
「放してくれ!」
 ついに癇癪を起こした。
 後から後から、募りに募った苛立ちが爆発していた。
「未来が誘拐されたんだ! 早く行かなきゃ、連中に何されるかも分からない! だから、放してくれ! 僕は一人で平気だし、下手なことをして未来を死なせたくないんだ! 分かったか? これで満足か? だからもう、このまま行かせてくれ!」
 肩で息をする。
 呆然とする二人に背を向ける。歩み出す。
「……未来?」
 南の声。
 その響きに、自分がとんでもない間違いを犯したことを知った。
 足を止める。
 鳥肌が立った。恐怖に、身が竦む。
 僕の妹。未来。僕の妹。未来。僕の妹。
 頭の中で、ぐわんぐわんと音が鳴っている。
 必死に守ってきた現実が、音を立てて崩れ去っていく。
 僕にとっての現実。それが現実でなければならない、現実。
 その現実を脅かす存在として、僕は南を避けてきた。
 それなのに。
 南が歩んでくる。その顔に、確かな戸惑いがある。
 ……そう。
 南は幼馴染だから。
 知っているのだ、妹のことを。
 目を閉じる。
 南が、僕の前に立ったのが分かる。
 目を開けるのが怖い。
 開けてしまえば、そこには、本当の現実があるから。
 向き合いたくない。向き合えるはずがない。
 僕を包む現実の殻に、歩んでくる南の足下から、少しずつひびが入っていく。
 やめてくれ。南、それ以上はやめてくれ。
 僕の願い空しく。僕の予想通りに。
 南は、問うた。

「未来って……誰?」



   幕間  追憶


「今、外してやる」
 僕は、ベッドに縛りつけられた妹に近寄ると、強固に結ばれている縄をつかんだ。
 何とか結び目を解こうとするが、すぐに無理だと判断し、近くの勉強机から鋏を取る。
 太く頑丈な縄と格闘を続け、ようやく切ることに成功する。
 妹は、絡まった縄を振り解き、不自然な程の勢いで、跳ね起きた。
 声をかけてやりながら、僕は手を伸ばす。
 その手を、妹は唸って弾いた。
 伸びた爪が、僕の肉を引き裂く。
 悲鳴を上げる。血が滴る。
 見下ろす。溢れた血で、僕の両手は紅く濡れている。
 妹が奇声を上げて、僕に飛びかかってくる。
 防衛本能で、僕は両手を前に突き出し、妹を払い除けた。
 妹の身体が床を転がり、勉強机にぶつかる。上に並べてあった本が崩れ、落ちてくる。
 僕は、何が起こったか理解できず、手を突き出したまま、妹の様子を窺う。
 妹は、激しく暴れながら、再び起き上がった。
 こちらを向く。
 奇声を発し、妹が口を大きく開けた。
 長く尖った歯が見えた。
 八重歯と呼ぶには、あまりに醜い。
 咄嗟の思考で、僕は、その歯の用途を理解した。
 あれは、僕を傷つけるためのものだ。
 肉に刺さり、そのまま食い破られるイメージが沸く。
 妹が飛びかかってきた。
 僕は喚きながら、後方に避けた。
 妹の顔が肩にぶつかる。そのまま倒れる。
 目の前に妹の顔が迫る。
 思わず、膝蹴りを食らわせ、怯んだ妹を、床に押し倒した。
 必死に、その両手を押さえつける。
 妹は、歯を鳴らしながら、僕に向かって顔を突き出してくる。
 何て顔だ。
 これは妹ではない。
 妹の姿をした、悪魔だ。
 妹は、悪魔に身体を盗まれてしまったのだ。
 僕の知る妹は、ここにはいない。
 この悪魔が食ってしまった。
 周囲を見渡す。
 勉強机の木製の椅子が砕け、脚部分が折れて、先端の尖った杭のようになっていた。
 思わず、それを手に取る。
 片手で妹を押さえつけたまま、杭を構える。
 吸血症。
 両親が、そう口にしていたのを聞いたことがある。
 吸血鬼がどうだと、クラスメイトが話していたのも聞いていた。
 吸血鬼。
 映画や小説などで、もちろんその言葉は知っていた。
 人を襲って生き血を吸い、吸われた人間は、吸血鬼の仲間となる。
 映画や小説で。多くの登場人物が、目の前に現れた家族、恋人、旧友、かつては親しい相手だった吸血鬼たちに手を下すことが出来ず、反撃や一方的な攻撃を受けた。
 どんなに親しい相手であっても、躊躇すれば、自らが犠牲者となる。
 そう、映画や小説は教えていた。
 当然ながら、常日頃から、そんな考えを抱いていたわけではない。
 吸血鬼。
 そんなものが存在するとも思っていなかった。
 ただの噂話だと。
 あるいは映画か何かが流行っているのだと。
 そんな風に思っていた。
 だから。
 考えたことなど無かったのだ。
 どんなに親しい相手であっても、躊躇すれば、自らが犠牲者となる、などと。
 だから、この考えは悪い病気のようなものだ。
 ふと、理由もなく、ただ、浮かんでしまった考え。
 妹に襲われた、その刹那。
 脳裏に様々な思考が渦巻く中。
 浮かび上がってきた、その場限りの考えに過ぎなかった。
 けれど僕は、その考えにしがみつかなければ、自分が生き残れないと思った。
 杭を持ち上げる。
 その先端は、確実に妹の胸を狙っている。
 未成熟な胸の膨らみの狭間。
 妹は、まだ、十歳だった。
「遙名(はるな)……」
 杭を持ち上げたまま、妹の顔を見る。
 唸る少女の身体を押し留め、何度も呼びかける。
 僕の声は。泣いているのか。笑んでいるのか。それすら分からない。
「遙名……笑ってくれ。いつものように。僕を呼んでくれ。頼む。頼むよ。頼むから」
 震えている。
 僕は震えている。
 妹の温かだった肌を思い出し、震えている。
 妹の仄かに赤味が差した頬を思い、
 柔らかな瞳を思い、
 怖い夢を見て怯え起きた妹の記憶を思い。
 僕は泣いている。  
 優しい子だった。
 苦しめたくない、一瞬で終わらせよう。
 そんなことを考えている自分がいる。
 それと同時に、幼い子供のように、今にも大声で泣き出しそうな自分もいる。
 お願い。
 全身全霊で、祈った。
 お願いだ。僕たちを助けて。
 けれども応える声はなく。
 僕の手には、身に余る重さの杭があった。
 何も出来ない、何もしてやれない自分が。
 情けなくて。悲しくて。
 視界が滲んだ。妹の顔が滲む。何も見えない。
 それでも。
 妹がそこにいることだけは、分かった。
 だから。
 僕は杭を振り上げた。
 すべては一瞬で終わった。
 と思う。
 思いたい。
 そう感じただけで、実際には、長い時間、僕は妹と格闘していたはずだ。
 いつまで続くのかと思えるような、長く辛い一瞬。
 何度、杭を刺しても、何度、妹の身体を貫いても、妹の動きは止まらなかった。
 暴れる妹を押し止め、僕は何度も、何度も、妹を殺し続けた。
 泣いている。いや、叫び、喚いている。
 僕の妹。
 妹の血を浴びながら、僕は、この苦しみが消えることは永遠にないと確信している。
 耳がひりひりしている。
 急に静かになったせいだと、なかなか気づかなかった。
 いつの間にか、妹の声はやんでいた。動きも止まっていた。
 機械的に、ただひたすら刺し続けていた、自らの腕の動きを止める。
 心臓の音が、耳元で聞こえる。
 全身から、感覚という感覚がすべて抜け落ちている。
 レンズを何重にも通して見たような、曖昧な視界。
 僕全体を、半透明の膜が覆っているような、そんな感覚。
 歪んだ世界。
 歪んでいるのは僕自身だと、そのうち、ぼんやりと理解する。
 血塗れの杭から両手を放し、目の前に掲げ見つめる。
 両の手で、自らの血と妹の血が、混じり合っているのを見た。
 僕は呪いを受けた。
 目の前に広がる凄惨な光景。
 僕は、呪いを受けた。
 それから先のことは、あまり記憶にない。
 帰ってきた母親が、部屋に飛び込んできて、半狂乱に陥り叫んでいるのを、どこか遠くから見つめていた。それすらも、曖昧な視界の中で行われた、曖昧な記憶だ。
 ――何をしたの。何をしたのよ、お前は。
 肩をつかみ、僕を揺さぶる母親の顔。真っ赤に充血した目。肩に食い込む、母親の爪。
 ――一体、何をしたのよ、お前は!
 さあ。
 僕は、何をしたのだろう?
 ちらっと、顔を傾ける。母親の後ろを覗き込む。
 広がる血が見える。
 誰の血だろう?
 それは決まっている。分かりきったことだ。
 それじゃあ、どうして血が流れているんだろう?
 いや。それも、分かりきった話だった。
 ということは。
 ああ……そうか。簡単な話じゃないか。

 遙名。
 僕は、お前を殺した。



   第五章  心は碧く


 遙名。
 その名を、口に出して呼んでみた。
 随分と違和感を覚える。
 もう何年も呼んでいない名前であるかのように。
 いつの間にか、こんなにも錆び付いて、軋む、古びたものとなっていた。
 遙名。それが僕の妹だ。南の知る、僕の妹の名だ。
 僕と同じ両親を持ち、同じ名字を持つ、本当の意味での、妹。
 金糸雀が僕をタツヒラと呼ぶのは、何も竜平という名を読み違えているわけではない。
 辰比良(たつひら)竜平。
 それが僕の名前なのだ。
 よって、長谷川未来は僕の妹ではない。
 正確に言えば。
 戸籍上の意味で僕の妹であるのは、辰比良遙名、ただ一人だ。
 未来。
 彼女は、僕と血の繋がりもなければ、幼い頃からの知り合いというわけでもない。
 未来と出会ったのは、僕が妹を殺し、両親に見捨てられた少し後のことだ。
「お願いがあります」
 未来はそう言った、と記憶している。
 夜。雨が降っていた。それも、ただの記憶に過ぎないのだが。
 記憶。記憶とは曖昧だ。
 過去の僕。そいつは、もっと曖昧だ。
 過去の僕と現在の僕。
 その関係性はイコールではない。と思う。
 恐らくそれは相似だ。
 過去∽現在。
 式として書き表すなら、そうなる。
 居心地の悪い不連続感。不安定感。浮遊感。
 そもそも過去とか未来とか、そんなものは結局のところ、現在の僕への現れに過ぎない。
 過去。それは、現在ここに存在する僕の思い出でしかない。
 未来。それは、現在ここに存在する僕の予想や期待でしかない。
「お願いがあります」
 しとしとと、天から降り注ぐ雨。
「私に未来をください」
 雨の中、濡れる少女の懇願。
 僕は何と答えたか。
「僕に、過去を与えてくれ」
 過去を無くした男と、未来を無くした少女の邂逅。
 交わされたのは、互いに、必要な何かの補完を望む、哀しい契約。
 おままごと。単純な家族ゲーム。
 利害は一致していた。
 僕は未来を守る。未来は僕に守られる。
 そんな歪んだ関係性が、僕たちには必要だったのだ。自分自身を保つために。
 南が僕を見ている。彼女はもう、僕を止めなかった。
「僕は、南が思っているような男じゃないんだ」
 南の両目に、大粒の涙が浮かぶのを見た。
 ――他のやり方を考えればいいよ。
 そんなものはないんだ、南。運命だとか、予定調和だとか、呼び名は何だっていい。
 他のやり方なんて、そもそもの初めから、何一つ用意されていないんだ。
 南の横を通り過ぎる。
 一度も振り返らなかった。

 電話に告げられた住所。古びたビルが建っていた。
 鍵が開いていることを確認し、中に入ると、暗闇が僕を迎え入れた。
 窓という窓は全て塞がれている。
 闇の奥、手を叩く音が聞こえてきた。
「よく来た。頭が良いな」
「あなたと同じ。ひねくれているだけだ」
 僕は、闇の中から歩んでくる人物に返答した。
 闇から浮かび上がるようにして目の前に現れた九条は、ふむ、と眉を吊り上げ、僕の後方を、広げた手で示した。もう片方の腕は、当然のことながら失われている。
「どうぞ。掛けたまえ」
 振り返るとソファーがあった。僕はそれを無視する。
「僕の妹はどこだ。お前は知っているはずだ」
「情報は金なり。この世界を動かすもの。それは情報だ。情報が全てを左右する。こんな情報化社会では尚更だ」
 君は、と九条が人差し指を立てる。
「情報の断片を繋ぎ合わせて、ここまで来た。そうではないかな」
「今日は御託を聞きに来たわけじゃない」
 僕は十字弓を構えた。
「妹はどこにいる」
「怖い顔をするな。モテないぞ」
「答えろ!」
 九条は微かに笑みを浮かべた。そのまま、自分の背後にあったソファーに腰掛ける。
「君は何と戦うつもりなのかな」
 残された片手を広げてみせる。
「私とか。君の妹をさらった連中か。それとも世界とか」
 答えない僕に、九条が笑みを浮かべた。
「いい加減に認めろ。君と私は似ている」
「答えろと言っている」
「君はどうも、自分の立ち位置が見えていないようだな」
 九条は、覚えの悪い生徒に教え込むような口調で言った。
 周囲から、獣の息遣いが聞こえてくる。一体、何匹の屍が棲んでいるのか。
「今に限った話じゃない。君は自分の足場というものを知らない」
 九条が哀れむ口調で続ける。
「君は何故、ここに一人で来た?」
「何だって」
「友情、絆、愛情。温かい仲間たちから離れて、どうして君は一人になった?」
 どうしてだろう。本当に、どうして。
「今や、君は孤立無援だ。君は一人だ。君自身がそれを望んだ。何故かな」
 九条は、口調を優しいものに変えた。
「君は、何か頼み事があって、ここまで来たんじゃないかな」
 僕は答えない。
「小さな小さなプライドは捨てたまえ。君の人生が傷つく」
「……妹の居場所を」
「そんなものは知らないな」
「仲多の居場所を訊いている。知っているだろ」
「知らないことはないな。そして、教えてやらないこともない」
 含んだ物言いだ。
「何が望みだ、九条」
「君の血だ」
「何?」
「君の血が欲しい」
「どうして」
「君は特別だからさ。言ったろう。君と私は似ている。君の血の味が知りたい」
「あなたは腐った変態野郎だ」
「君も似たようなものだ」
「僕は」
「取引に応じるか否か。二つに一つだよ」
「もううんざりだ、あなたの世界観は」
「まさか、無傷で帰れるなどと甘えた考えでここへ来たわけでもあるまい。怖いのか?」
「……好きにしろ。僕の身など、どうなっても構わない」
 僕は十字弓を下げた。
 実際のところ、僕の命など、どうでも良かった。
 僕が案じているのは、未来のことだ。
 もしも僕が、ここで殺されるとしたら、未来を、いったい誰が助ける?
「狂った世界、罪の世界に生きてる」
 九条が近づいてくる。
「原罪。人は誰しも罪を持つ。罪に無自覚であり、無意識であり、無関心であることこそ、最も大きな罪となりうる。君は自分の罪を知っている。だから特別な人間だ」
「思い上がり野郎」
「無知の知だよ、辰比良竜平君」
 どこまで知ってる。僕の何を知っているんだ。
 恐怖。
 自分の罪を、他人が知っているかもしれないという恐怖。
 やはり、こいつを殺そう――。
 そんな考えが脳裏を過ぎったときには既に、僕の首元に、九条の歯が近づいていた。
「時に光は、闇を覆い尽くす悪となる」
 耳元で九条の囁き。
 僕は一人だ。
 首元に僅かな痛み。
 一人で敵のど真ん中に来て、親玉に血を吸われている。
 あいつなら、こんな僕の姿を見て、何と言うだろう。
 意識が朦朧とする中で。
 どういうわけか、真っ先に浮かんだ顔は、未来でも、遙名でもなかった。

       *

 軽い貧血。
 耳鳴りが消えていく。
 僕は九条とともに、木々の間、闇に身を潜め、問題の場所を見下ろしていた。
 月が出ている。薄く蒼い光を放つ月。
 禍々しい赤色の月でも出ていれば、雰囲気が出たかもしれないな。
 そんな、投げやりな思考も浮かぶ。
 僕と九条がいる小さな山の下、今は使われていないという空き倉庫。そこが、仲多が身を潜めている場所らしかった。
「末期症状患者を三人、貸そう」
 九条が申し出た。九条の背後から、三体の屍が姿を現す。
「どうして、こいつらはあなたの言うことを聞くんだ」
 僕の問いに、九条が人差し指を唇に当てる。
「それは企業秘密だよ」
 九条の視線が、倉庫へと向けられる。
「連中は傷つけていいのか?」
「僕は妹さえ助けられればいい」
「正しい選択だ」
「血も涙もない。あなたに言われたくない」
「少なくとも君はまだ人間だ」
 九条が僕を見る。
「守りたいものをなくすと、人は人でなくなる」
 はっとした。思わず、視線をそらす。
「それこそ……あなたに言われたくない」
 僕は、十字弓を握り締め、山を下り始めた。背後から、屍もついてくる。
 一度振り向くと、既に九条の姿はなかった。
 ――君は違うんだな。
 僕の血を堪能した後、九条は囁いた。
 そう。僕は違う。
 ――これが君を苦しめる呪いか?
 分かったようなことを言うな。本当の呪いは、もっと重くて苦しい。
 僕は足を進める。
 ふと、その足を止める。
 坂を下りてすぐのところに、杭を持って歩く男の姿が見えた。
 見張り一名か。まあ、目立たぬことを優先したのだろう。
 音も立てず、隣にいた屍が走り出した。
 木を伝い、男の背後に回ると、屍は片手で男の腕をつかみ、もう片方の手で口を封じた。
 男の目に恐怖が宿る。
 屍が噛みつくと、男は必死で暴れたが、その叫びも屍の手の内で消えた。
 静かに、男の体が崩れ落ちる。
 僕は坂を下り終え、倒れている男の傍らを通り過ぎた。
 屍と行動を共にしていると、ますます、自分が見えなくなってくる。
 結果を追い求め、過程を省みないことは、自分自身を失うことなのだろうか。
 屍が分散し、倉庫の壁を登っていく。天井などから侵入する気か。
 僕は、倉庫の窓に近づき、そっと中を覗き込んだ。
 暗い室内。電気は消されている。
 何か、明かりが見える。
 あれは――。
 瞬間、怒りで身の内が沸騰するのを感じた。
 未来が見えた。
 未来は、壁に磔にされていた。両手に杭が打たれている。
 酷いことを。何て酷いことを。
 ぐったりとして顔を伏せている未来。
 そんな彼女に対して。
 仲多を中心とした数人のグループが、松明を近づけた。
 燃え盛る炎。
 突然に光を浴びせられ、未来が顔を上向け、悲鳴を上げた。
 絶叫。
 思わず耳を塞ぎたくなるような。生々しい悲鳴。未来の苦悶の表情。
 畜生、ふざけるな。
 僕は倉庫の扉に駆け寄った。音が立たないように、注意して扉を開ける。
 未来の悲鳴。
「光が怖いのね。おお、可哀想な悪魔。あんたたちは神に見放されたんだ」
 仲多の声。
「楽には死なせてあげないよ。死なせるものか。あんたたちの手で殺された人、全員分の痛みを分けてあげなくちゃならないからね」
 仲多が何か聖書の言葉を叫ぶ。周囲の者がそれを復唱する。
 未来が微かな声を発する。仲多はそれを嘲笑った。
「もうやめて、だって。はん。まだ早いよ」
 未来の絶叫。
 僕は十字弓を持ち上げた。何も躊躇わなかった。
 引き金を引くと、矢が、一番近くにいた男の肩に刺さった。
 男は、苦悶の叫びを上げ、痛みを訴えながら、地に倒れた。
 仲多の顔が、一瞬強張り、こちらを見る。
 次の矢を装填しながら、僕は歩み出る。
「その子から離れろ、仲多益美」
 僕は十字弓を、周囲の者にも、ざっと向けていく。
「あなたたちも」
「現れたわね!」
 仲多が大声で笑い始めた。
「それ以上、近づくんじゃないよ」
 未来の喉元に、仲多が荒々しく杭を突き立てる。血が一筋、流れる。
「血が流れるのねぇ、悪魔にも」
 ぎらぎらとした眼。仲多は、もはや常軌を逸している。異常だ。
 宗徒たちが、ゆっくりと、僕を取り囲む。
「ここで終わらせる。あんたたちの企みも、ここまでだ」
 荒息混じりの仲多の声。
「いいだろう、終わらせよう」
 僕の言葉に怪訝な表情を浮かべた仲多に向かい、突如、上から、何かが襲いかかった。
 屍だ。
 仲多が何かを叫びながら、屍に向かって杭を突き出す。
 屍と仲多は、絡み合うようにして、床を転がった。
 驚き、立ち尽くした宗徒たちに、残る二体の屍が、一斉に襲いかかった。
 一気に、倉庫内は混乱に陥った。
 宗徒たちは散らばり、屍との戦闘を開始する。
「未来!」
 僕は磔にされた未来に駆け寄ろうとする。
 そこへ、突如として、横から宗徒の男が現れた。
 その手には、小さく細い杭。
 腹に、衝撃が走った。
 うっと、自分の口から、低い呻き声が漏れる。
 遅れてやってくる激痛。
 腹に、男の持つ細い杭が、突き刺さっていた。
 男が杭を抜く。
 痛み。
 意識が霞む。
 再び襲いかかってくる、男の姿を視界の隅に捉える。
 倒れるな、持ちこたえろ、今このまま気を失えば、この男に――
 必死で考え続けるが、次第に闇が意識を蝕んでいく。
 そして。
 世界が暗転する。

 夢は、不思議な場所だ。
 ありもしない出来事や、いるはずのない人と、度々、遭遇する。
 ピントの合っていない、ぼやけた写真のように、こちらを見つめる誰かが立っている。
 その表情が分からない。
 どんな顔で、どのような目で、僕を見つめているのか。
 笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。
 分からぬまま、その姿は、光へと溶けていく。
 普段なら、この夢は、ここで終わる。
 けれども、今日は違った。
 光の中から、誰かが僕を呼んでいる。
 遠く、微かな、柔らかい声で。
 ――竜平、お兄ちゃん……
 ――お兄ちゃん……
 遙名。
 名を呼んでみる。
 長いこと、呼んでいなかった名を。
 すると、確かな手応えがあった。
 ――……呼んだ?
 光の向こうから、声が聞こえてくる。
 遙名か?
 問いかけてみる。
 微かな頷きが、光の向こうに見えた気がした。
 これは、ただの夢なんだよな。
 ――真面目だね、お兄ちゃんは。
 光の向こう。くすくすと笑う声。
 ――自覚しちゃったら、目が覚めちゃうよ。
 いつか覚めるさ。そうしたら、お前は、またいなくなる。
 ――元気だった? お兄ちゃん。
 元気だよ。お前は?
 ――元気いっぱい。そういう表現が正しいか分からないけど。
 そうか……良かった。
 ――私は、簡単にへこたれるような妹じゃない。知ってるでしょ?
 僕は。
 僕は、お前に何もしてやれなかった。
 ――してくれたよ。
 何を。何をしてやれたって言うんだ。
 ――私の、お兄ちゃんでいてくれた。
 錆び付いた心を洗い流すような。
 柔らかく優しい声で。
 遙名がそう言うから。
 僕は、ひどく泣きたくなった。
 柔く淡い光。
 清く鋭い光。
 それらが妹を包んでいる。
 妹は、僕とは違うところにいる。
 光と闇。
 近いようで、遠い。
 吸血症であった妹が光の中にいて、僕が闇の中にいる。
 まるで正反対の構図。
 光と闇。妹と兄。
 狭間に薄い膜が張ってある。
 世界の膜ではない。僕の膜だ。
 僕は、自ら殻の内に閉じこもっている。
 今、ようやく、僕は、このことの矛盾に気がついていた。
 妹を思い、僕は、自らを閉じ込めた。
 そう、自分に言い聞かせていた。
 それなのに、妹は、僕の殻の外にいる。
 当たり前だ。妹まで、僕の殻に閉じ込める権利など、僕にはない。
 それでは僕は、いったい、何のために閉じこもっていたのか?
 妹のため?
 いや、違う。
 自分のためだ。自分を守りたかったから。
 遙名。
 僕はいつしか、妹の存在を消してしまっていた。
 ただ一人、血の繋がった僕の妹。
 遙名にとって、僕は兄であり続けることができるだろうか。
 そのとき、ふと、あまりに当たり前のことに気がついた。
 今でも僕は遙名の兄貴なのだ。今でも遙名は僕の妹なのだ。
 今でも。そう、今でも!
 それなら僕は、遙名の兄貴として、恥じることのない生き方をせねばならない。
 僕を覆っていた、薄暗い靄が、するすると消えていくような感覚だった。
 重い楔から解き放たれたような。
 僕の、したいこと。
 南が教えてくれたのに。僕は目を閉じ、耳を塞ぎ、少しも気付かなかった。
 僕が僕らしく生きること、それは、遙名の兄貴が生き続けること、と同義だ。
 僕が自分を捨てるなら、それは、遙名の兄貴が、もうどこにも存在しないということ。
 遙名の兄貴でいたいなら。これからも遙名の兄貴であり続けたいのなら。
 僕の答えは決まっている。僕の心は、とっくの昔から決まっているはずだ。
 僕は僕であり続けよう。僕のために。そして今度こそ、遙名のために!
 ――出て行く勇気は出た?
 遙名。
 何という情けない兄貴だろう。
 妹に、こうして、今でも助けられている。
 ――お兄ちゃんは優しいから。
 遙名の囁き。心地良い響き。
 行くよ。
 僕は、それだけ答えた。
 光が、小さく微笑む。
 走り出す。勢い良く。自分を包む殻に、頭から飛び込む。
 僕の小さく卑屈な世界が、音を立てて砕け散った。
 殻を突破する!
 僕は――

 ――十字弓を握り締めた。
 足をしっかりと地に立て、倒れるのを防ぐ。
「あああああ!」
 何もかもを吹き飛ばすように、大声を張り上げ、踏ん張った。
 体勢を立て直す。
 夢を見ていたのは、ほんの一瞬のことだったらしい。
 目の前には、今にも杭を振り下ろそうとしている男の姿。
 ――お兄ちゃん、あたし、あたしね、
 今も耳元に。
 妹の声が聞こえる。
 ――お兄ちゃんの妹で、良かったよ。
 忘れては、ならない。
 僕は、僕だ!
 十字弓を突き出す。素早く、正確に。何の躊躇いもなく。
 杭を振り上げた男の姿。
 その眼が、驚愕のあまり見開かれる。
 僕は男の肩を撃ち抜いた。
 男が後ろ向きに倒れる。杭が、音を立てて床に転がる。
「悪いな」
 僕は、男に刺された腹に触れる。
 傷一つ無い、腹。
「僕は、普通とは違うんだ」
 あのとき――
 ――両の手で、自らの血と妹の血が、混じり合っている。
 あのとき。
 妹の血は、僕の体内へと取り込まれた。
 呪われた血。
 微量であるが故に、僕は吸血症にはかからなかった。
 けれども、その呪いの一部を受け取った。
 傷口から僕の体内に入り込んだ妹の血は、僕の血の内に溶け込んだ。
 その血は、僕の細胞に変化を促し、そうして。
 僕は、簡単には死なない身体となったのだ。
 もちろん、吸血症患者ほどのものではない。
 他人よりも少しは老けにくいだろうが、不老というわけでもない。
 その代わり、銀も十字架も平気だし、光にも影響を受けない。
 僕は、非感染者でありながら、呪いを受け取った。
 どうして、と論理的に説明することは、僕にはできない。
 それが妹の血だったから。血の繋がった妹の血だったから。
 僕が殺した妹の血だから。
 そういう風にしか、僕には説明できない。
 妹の血は、僕の中で生き続けている。
 さあ、来いよ。
 僕は、何もかもを見据えて呟いた。
 苦痛も、悲劇も、僕の中の身勝手な哀しみも、ここまでだ。
 完膚無きまでに叩きのめしてやる。
 これ以上ないほど打ちのめしてやる。
 宗徒が駆け寄ってくる。
 僕は地を蹴った。
 進化した運動能力。宗徒の顔面を蹴り上げる。
 次の宗徒が杭を突き出してくる。
 コンマ秒差で、僕はその杭を回避する。と同時に、相手の顔面に裏拳を叩き込む。
「悪鬼!」
 もはや聞き飽きた声が聞こえてくる。
 仲多が、仁王立ちしていた。その足下には、杭を胸に突き刺された、動かぬ屍。
「悪鬼め!」
 仲多は、屍から引き抜いた杭を僕に向け、突進してきた。
 仲多益美。
 僕は、微かな哀れみすら覚えた。
 突進してきた仲多の杭を避け、足で、相手の膝を払う。
 仲多が、獣のような声を発しながら、倒れた。その手から、杭が離れる。
 僕は、その杭を空中でキャッチし、くるっと回転させ、尖っていない側を、そのまま仲多の顔面にぶつけた。
 ぐっという呻き声。仲多が倒れ込む。
 僕は杭を投げ捨てた。起き上がれる宗徒は、誰一人、残っていない。
 屍も、無事に残ったのは、どうやら一体だけのようだった。
 その一匹が、未来に走り寄ろうとする僕の前に、立ち塞がる。
「手を貸してくれて、礼を言う」
 僕は屍に言った。まさか、屍に話しかけるときがくるとは、思わなかった。
「戻って、九条に伝えろ。僕は、あなたとは違う、と」
 僕がそう言うと、屍は、僕の後方に目をやった。
 何だ?
 僕は目を細める。
「それが君の答えか?」
 振り向かなくても分かった。九条の声だ。
 がっと、首筋に衝撃があった。殴られたらしい。膝をつく。
 足音。
 背後に立っていたらしい九条が、僕の前へと回り込んできた。
「私を否定するか」
「否定はしない。理解もできる。だが、僕とは違う」
 ふん、と九条が笑い、僕の腹に蹴りを入れた。
 激痛。僕は膝をついたまま前に倒れ、額を床にぶつけた。
「少し教育が必要なようだね、辰比良君」
 喋りながら、ポケットに手を突っ込んだ格好で、僕に蹴りを入れ続ける九条。
「残念だよ、君の血は本当に美味しかったんだが」
 顔面に蹴り。床に倒れる。
「駄目じゃないか、大人の言うことに逆らったりしちゃあ」
 反撃しようとするが、九条はすべて先読みし、攻撃してくる。
 まるで隙がなかった。
「君なら分かってくれると思った。だからこうして力も貸してあげたのに」
「一緒に、するな、」
「おや。何だって?」
「変態……野郎」
「言うじゃないか」
 蹴り。口から血が出た。
「痛いだろ。苦しいだろう。そこから逃れたいと思うだろう」
 僕の周囲をぐるぐると歩き回る九条。
「なんと脆弱な……脆い……」
 九条の言葉が闇にこだまする。
「すべてはね、君を仲間にするために組み立てたんだよ」
 一人は寂しいからね、と九条は笑う。
「それなのに、君は私が思ったような人間ではなかったらしい。残念だ。非常に残念だよ。君には失望した。君は小さな人間だった。ごく普通の、その辺の屑と一緒だった」
「一人、で、狂う、のは、怖かった、んだな」
 僕は必死で言葉を紡ぐ。
「だから、仲間、が、欲しかった、んだ、自分、を、肯定して、くれる、傷を、舐め合うような、仲間、が、自分、が、自分、で、安心、できるよう、に、」
「もういい。喋るな」
 格別重い蹴りがきた。
 図星だな、とぼんやり思う。
 確かに九条、僕とあなたは似ていたんだ。そうも思う。
 けれど、僕はやはり、あなたとは違う。何故なら。
「あなたは、一人だ」
 九条が、動きを止める。
「みんな、狂っている、という、証拠、が、欲しかった、んだろ、自分では、なく、世界が、世界の人間、すべて、が、狂っている、という、証拠が」
 僕は、顔を上げ、笑みを浮かべて見せた。
「あなたは一人だ」
「馬鹿を言うな!」
 九条が声を張り上げる。
「そんなに、お仲間が、欲しい、なら」
 僕は両手に全神経を集中させ、起き上がろうとする。口を動かし続ける。
「周り、を、見て、みろ」
 倒れている宗徒たち。九条が忌み嫌う非感染者。
「仲間が、転がって、る、ぞ」
 それは、強烈な侮辱だったらしかった。
 九条が、勢い良く足を振り上げた。
 動け!
 僕は全力を両手に注ぎ、一気に上半身を持ち上げると、九条の足をつかんだ。
 そのまま、思いきり強く捻る。
 九条が呻き声を上げ、倒れ込む。
 その上に僕はのしかかり、その顔を殴りつけた。
 天井から唸り声。
 拳を止める。頭上を見上げる。
 屍が、少なく見て十数匹、天井を蠢いていた。
 九条が起き上がり、僕を放り投げる。
 僕は、悲鳴を上げながら、壁に叩きつけられた。
 身を起こすと、既に九条の姿はない。逃げられたのだ。
 天井を見上げる。闇に蠢く、無数の影。
 そいつらが、一斉に、僕に向かって、降りかかってくる――
「竜平!」
「タツ!」
 声が響いた。
 突き刺すような強い光が、屍たちに浴びせられた。
 屍の悲鳴。
 光を連れて、南が現れた。
 その後ろから、来栖が飛び出してきて、近くの屍に槍を突き刺した。
 他の屍が奇声を発する。
 と同時に、その屍が、銃弾を食らって弾け飛んだ。
 小鳥遊。その手に握られた拳銃が、屍たちに向けられる。
「もうすぐ、増援も来るから!」
「どうして、ここに」
 身を起こしながら、訊ねる。
「あんたをつけてたのよ、ごめんね!」と南。
「どうして、どうして」
「あんたが心配だったから! 決まってるじゃない!」
「タツ!」
 来栖が槍を引き抜きながら叫んだ。
「俺たちが援護する! 助けろ!」
「え――?」
「その子を助けろ!」
 ああ――。
 僕は、大声で叫び返した。
「ありがとう!」
 未来のもとへと走る。
 磔にされた未来は、見るからにぐったりとしている。
 当たり前だ。相当に辛かったはずだ。可哀想に。
「ごめんな。少し我慢してくれ」
 呟いて、
 ――今、外してやる。
(僕は、ベッドに縛りつけられた妹に近寄ると、強固に結ばれている縄をつかんだ)
 未来の掌を貫通した杭に手をかけ、
(途中から、妹が暴れ始めたことを、僕はあまり意識していなかった)
 一気に引き抜いた。
(早く助けてくれ、そう言っているように思えた)
 もう片方の手も、すぐに引き抜く。
 ――大丈夫か?
「大丈夫か?」
(そう言って伸ばした僕の手を、)
 伸ばした僕の手を、
(妹は唸って弾いた)
 未来の唸り。弾かれる僕の手。
 しばし、世界が静止した。僕は呆然と、目の前の未来を見つめた。
 そこで思い至る。
 未来は、いったい、いつから血を吸っていない?
 夏休み前夜祭の、朝からではないか?
 まさか。まさか、そんな。
 未来が、僕に飛びかかってきた。僕は、そのまま押し倒され、地を滑った。
「未来!」
 叫び、未来の肩をつかみ、必死で僕の首から遠ざける。
「未来! 駄目だ!」
 未来は、眼を血走らせ、唸り声を発しながら、歯を噛み合わせる。
「駄目だ、未来!」
 僕は、心の内で謝りながら、未来の腹を膝で蹴飛ばした。
 未来がぎゃっと叫んで、僕から離れる。
 急いで立ち上がると、僕は十字弓を構えた。ほとんど反射的な動作だった。
 何をする気だ、僕は。未来を撃つつもりか?
 未来が立ち上がる。こちらに顔を向ける。その歯が剥き出しになる。
 どうする。どうすればいい。
 ――他のやり方を、考えればいいよ。
 考えろ。考えるんだ。
 撃てば、それで終わるかもしれない。僕は簡単に助かるかもしれない。
 けど、それじゃ駄目だ。
 僕は、もうそのことを知っている。
 助かるだけじゃ、駄目なんだ。
 未来の目を見つめる。
 まだ、
 僕は必死で考える。
 まだ、間に合うはずだ。
 未来の身体はまだ、末期症状患者のそれまで変化していない。
 まだ間に合う。
 思い出せ。僕がここに到着したとき、未来は意識を保っていたではないか。
 今はまだ、末期症状患者へと移行しようとしている段階に違いない。
 血を与えさえすれば。まだ間に合う。
 こちらの出来事に気がついたのか、来栖が駆け寄ってくる。
「来るな!」
 僕が叫ぶと、来栖は立ち止まった。
「他の連中を頼む。こっちは、僕が何とかする!」
 来栖が、笑みを見せる。嬉しそうな笑み。
「任せろ」
「頼む!」
 僕は十字弓を構える。未来に狙いを定める。
 未来が両手を広げ、口を大きく開けて、唸った。
 やがて地を蹴る。素早く走ってくる。
 撃てば終わる。撃てば、いとも容易く、僕は助かる。
(暴れる妹を押し止め、僕は何度も、何度も、妹を殺し続けた。何度も、何度も……)
「来い!」
 ぐんぐんぐんぐん、未来が迫ってくる。
 僕は十時弓を強く握り締め、
 一歩踏み出し、
 飛びかかってきた未来を、思いきり殴り飛ばした。
 死なせてたまるか、
 腹の底から湧き出る叫びが、一挙に爆発した。
 死なせるものか。
 死なせない、死なせてはならない、何としても!
 僕は十字弓を投げ捨てた。そうして、ナイフを取り出す。
 素早く、正確に。躊躇うことなく。自らの腕を、ナイフで斬りつける。
 倒れ込んだ未来に、僕は駆け寄ると、片手で、その身体を床に押しつけた。
 呪われた血よ。僕に力をくれ。
 その進化した運動能力の全力をもって、暴れる未来を床に押さえつけながら。
 自らの腕を、未来の口に押しつけた。
「未来、飲め!」
 自分の腕から絞り出される血液を、未来の口内へと垂らす。
「飲むんだ!」
 未来の頭が持ち上がり、僕の腕に噛みつこうとする。
「違う、未来!」
 未来の顔から腕を遠ざけ、血液を垂らし続ける。
 未来は、血でいっぱいになった口の中で、ごぼごぼと喉を鳴らした。
 顔を横に向け、血を吐き出す。
「吐くんじゃない、しっかり飲むんだ!」
 僕は少し考え、自らの腕に口をつけた。自分の血を口に含む。
 そして。
 暴れる未来を押さえつけ、その唇に、自らの唇を押しつけた。
 血を、未来に向かって流し込む。空いている手で、未来の頬を押さえつける。
 未来は必死でもがきながら、僕を引き離そうとする。
 その喉が。
 一度、ごくん、と震えた。
 僕は唇を離す。もう一度、自らの血を口に含む。そして未来に与える。
 手応えがあった。
 何度か、未来は、喉を鳴らした。
 ほっと息を吐く。この調子だ、このままいけば――
 単純な油断だった。
 僕の手を振り解き、未来が素早く起き上がる。
 未来は激しく僕の首に噛みついた。
 瞬間的な激痛。
 未来は僕を押し倒すようにして馬乗りになり、僕の首筋に顔を埋めた。
 僕に血を注いでいるのか、それとも僕の血を吸っているのか。
 されるがままになりながら、僕は未来を抱きしめていた。
 未来の肩が震えている。
 泣いているのか? そんなはずもないか。
 遥名――
 僕はお前を救えただろうか。
 お前は、どこにいるんだ。
 元気にやっているんだろうか――。
 意識が薄れていく。
 もういいよな、遥名?
 最後は頑張っただろう?
 これも甘え、かな……僕は自分に甘いから。
 なあ、遙名。
 僕も、そっちにいくのか……今度は、同じ場所に立てるだろうか。
 それから。
 未来。
 僕は、ちゃんと、君の兄貴でいられただろうか。
 未来。
 ごめんな。

 二人の妹のことを思いながら。
 僕の意識は、闇か光かも分からない何かに、覆われていった。



   幕間  夢


 僕は、どこか、薄暗い海岸を歩いていた。
「お兄ちゃん」
 隣で遙名が、僕の腕を引っ張った。
「静かだね」
「そうだな」
 海岸の波打ち際を沿うようにして、二人、歩く。
 左に海、右には森。
 静かな波の音。潮の匂い。時折、風が吹いて、木々を揺らす。微かな葉音。
「大丈夫。心配しないで、お兄ちゃん」
 遙名が優しく言う。
「未来は助かるから」
 言われて僕は、これがただの夢ではないことに気がつく。
 僕は遙名に目をやる。
「幻だと思ってる? お兄ちゃんの見てる、ただの夢だって」
 遙名は、悲しく首を傾けた。
「信じてくれなくてもいいよ」
 けどね、と遙名は続ける。
「私は、今、ここにいるんだ。信じてもらえないかな」
「いいや」
 僕は遙名の頭を撫でる。
「いいや、そんなことはない」
 えへへ、と未来が駆け足で前に進む。
「ね、お兄ちゃん」
「何だい」
「もし生まれ変わっても」
 前を歩いていた遙名が、後ろ手を組んで、くるっと振り返った。
「また、遙名のお兄ちゃんになってくれる?」
 ああ――。
 ああ。ああ。もちろんだよ。
 涙が溢れそうになる。
 けれど、その涙も、遙名の明るい笑みを見つめていると、どこかへ消えてしまった。
「さて、と」
 遙名が、微かに目を伏せる。
「お兄ちゃんは帰らなきゃ。分かってるでしょ?」
「僕は」
「待ってくれている人たちがいるんでしょ。ね?」
「――ああ」
「じゃあ、帰らないとね」
 遙名の笑み。
 そうだ。
 これが、夢なのだとしたら。
 光と影、生者と死者、僕と遙名、そして、朝と夜を繋ぐものなのだとしたら。
 夢は、朝へと繋がるものだから。明日へと繋がるものだから。
 僕は、目覚めなければならない。
 そして、朝へ、明日へと、進まなければならない。
 それが、夢というものだから。
 夢は、過去を懐かしむ場所ではない。過去を未来に繋げる場所だ。
「見て」
 遙名が、細波の向こう、水平線を指差す。
「太陽が、昇るよ」
 細い光の筋。水平線に沿うように、広がっていく。
 それと同時に。
 僕と遙名の背後、地面にひびが入る。
 二人を繋いでいる、この世界が、夢が、崩壊しようとしているのが分かった。
 ひびが広がる。
 音を立てて、周囲の闇が崩れ始める。
「これからどうなる?」
 遙名に問う。
「帰るの。お兄ちゃんはお兄ちゃんのいるべき場所に。私は、私の行くべき場所に」
 遙名が、再び笑みを浮かべる。
 けど、その笑みは、どこか無理をしているように見えた。
「遙名」
 妹の肩を抱く。
 すると、妹は、僕の胸に顔を押し当ててきた。その手が震えている。
 妹は泣いていた。
「嫌だよ」
 声を上げて、妹は泣いていた。
「怖いよ、お兄ちゃん。一人になるのは、怖いよ」
 大声で、まるで赤ん坊のように泣きじゃくりながら、遙名は言葉を紡いだ。
 強がって、兄貴を励ましてみせた妹。
 僕の方が、妹を支えてやらなければいけないのに。
 ごめんな。
 妹は、僕に必死でしがみつき、泣いた。
「ここにいたいよ。いなくなりたくないよ。私、消えたくないよ」
 大粒の涙を零しながら、妹が苦しみを、悲しみを訴える。
 僕は、真摯に耳を傾ける。
「怖いよ。怖かったよ。ずっと、ずっとずっと、怖かったよ」
 僕は、遙名の頭を優しく撫でた。
「大丈夫。いなくなるわけじゃない」
 屈んで、遙名の目を、正面から見つめる。
「遙名は、僕の中に、ずっと残ってる。だから、いなくなるわけじゃない」
「もう、お兄ちゃんと会えないよ」
「夢で、会えるさ。今のように」
「本当?」
「本当だ」
「重荷じゃない?」
「そんなわけないだろ」
 心細げな妹。小さな、僕の妹。僕は、自らの心に決断を下す。
「よし。分かった。僕も、ここに残るよ」
「え?」
「ここに、二人でいよう。そしたら、寂しくないだろう?」
「そんなの……駄目」
「いいんだ」
「駄目だよ、お兄ちゃんは、」
「遙名」
 僕は遙名を抱きしめる。
「ここにいよう。僕はそれでいい。それが僕の望みだ」
 しばしの沈黙の後――。
 遙名は、僕の胸から、少しだけ身を離した。
「お兄ちゃん」
「うん?」
 ありがとう。
 とん、と遙名が僕の胸を押す。
「遙名――?」
 僕は、バランスを崩し、ひび割れた地面へと倒れていく。
 遙名の、悲しそうな、けれども幸せそうな瞳が、こちらを見つめている。
 ここで、
 遙名が囁く。
 ここで、お兄ちゃんと一緒にいたかったよ。
 でも、そう思ってくれるだけで充分なの。
 それだけで、充分なの。
 幸せなんだよ、お兄ちゃん。
 遙名。
 どこまでも落ちていきながら、その名を叫んだ。
 長く、長く。
 ぐんぐん遙名の立つ地が遠ざかっていく。
 遙名が小さくこちらを見下ろしている。
 その瞳から零れ落ちた涙が、すうっと突き抜けてきて、僕の頬に当たった。
 さようなら、お兄ちゃん。
 唇が、そう紡ぐ。
 それが妹の覚悟なのだろう。それならば、僕も、その覚悟を背負って、生きよう。
 僕は自然と微笑みかけていた。
 落ちていく。
 現実へと、落ちていく。
 繋がる明日へと、落ち続けていく。
 さようなら。さようなら、僕の妹。
 僕は、明日へ行くよ。
 お前の夢を渡って。お前の夢を背負って。
 明日へ、行くよ。
 ありがとうな。
 落ち続けていく闇が、一斉に輝き始めた。
 これが夜明け。
 光に呑まれながら、僕は思う。
 明日への、夜明けだ。
 夢は、朝へと繋がるものだから。明日へと繋がるものだから。
 これが夢なのなら。
 妹の夢が、辛く悲しい夢になるのではなく。
 温かく、爽やかに次の日を迎えられるような夢であるように。
 僕は、この夢を、守ろう。
 光が周囲を埋め尽くし、やがて、何も見えなくなる。
 僕を見つめる妹の姿も。
 薄く、光に溶け込んでいった。



   幕開け  夜明けは眩しく


 僕は目を覚ました。
 ここは病室。
 見知った顔が、緊張の面持ちで、僕を見下ろしていた。
 やがて一人ずつ、空気の抜けたような顔になって、笑みを浮かべる。
 尾瀬。
 小鳥遊。
 来栖。
 南。
 大切な、人たち。
 いつも待ってくれている、大切な、かけがえのない人たち。
 もちろん、見送ってくれる人の存在も、決して、忘れてはならない。
  今もこの手に残ってる。
  温もりを忘れるな。
 僕は身を起こす。
 いきなり、南が、しゃっくりした。
 いや、違う。
 ひっく、ひっく、と南が声を上げる。
 南が泣いている。声を出して、涙を流して。
 初めて見る光景だった。
 そのまま南は膝をつき、大声で泣き始めた。
 僕は、慌てて、南、と声を出した。
 すると南は、僕に飛びついてきて、うえええ、うえええ、と泣いた。
 そんなにも。そんなにも、心配してくれていたのか。
 南の涙が、シャツ越しに肌に触れ、温かい。
 ありがとう、南。
 僕は、自分の目にも涙が浮かぶのを感じた。
 そう言えば、久しく泣いていないな。
 そんな思考を最後に。
 僕も、大声で泣き始めていた。
 怯えるな。
 みっともなく感情のままに泣きながら、僕は自らを鼓舞する。
 生きることは恥ずかしくなどない。
 逃げて逃げて、
 妹を、南を、未来を、みんなを悲しませることの方が、遥かに恥ずかしいことだ。
 僕の生に意味など無いと思った。
 けれど、それは違うと教えてくれる人々。ずっと教えてくれていた人々。
 その人たちを、守ることができるなら。
 それだけで、この生にも、意味があるのだ。
 生きよう。
 この生が、ある限り。
 ようやく泣き止んだ頃には、僕も南も、目が真っ赤だった。
 二人して笑う。
「隊長ー、お二人は我々のことが目に入っていないようで、ありますよー」
「うむ、小鳥。俺もそう思ってたとこだ」
「我々も泣きますかでありますか、ですよー、隊長」
「慣れねぇ敬語は使うなよ、小鳥」
 僕はくすくす笑う。
 急に、とてつもなく幸せな気分になってきて、今度は大声で笑った。
「どうしよう、竜平君が情緒不安定でありますよー、隊長」
「やっぱ溜め込んでやがったな、こいつ」
 胸を叩いて落ち着かせようとするが、爆発した感情が収まらない。
 嬉しくて、嬉しくて、もう一度、南に抱きつきたいとまで思った。
 思う存分、笑うと、僕はみんなを見回す。
 ずっと、言わなければ、と思っていた。
「ありがとう、みんな」
 笑顔が、僕を迎える。
「うぃ」来栖。
「おす」小鳥遊。
「うん」南。
「はい」尾瀬。
 それから。どうしても、聞いておかなければならないことがあった。
「未来はどこに? 無事なんだろ」
 無事なことは分かっていた。遙名が教えてくれたから。
「どこに、だって? やれやれ」
 来栖が頭を掻く。
「少しはマシになったかと思えば、相変わらず、周りが見えてねぇな、タツ」
 言われて、初めて僕は、この病室が薄暗いことに気付いた。
 電気は消してあるし、窓も塞がれている。
「駄目だろ、病人の隣で騒いだりしちゃ」
「僕も病人だ」
 来栖のからかいに答えながら、僕はベッドから起き上がり、隣のベッドに近づく。
 カーテンを開ける。
「ああ、未来――」
 未来が眠っていた。落ち着いた呼吸で、安らかな寝息を立てて。
「まだ目は覚めてねぇんだ。だいぶ疲労してたからな」
 けど、と来栖。
「傷はもう完治してるし、末期症状患者への進行もなかった。この子は無事だよ」
 未来の手を取る。温かく、柔らかい手。
「僕が巻き込んだんだ、この子を」
「お前が助けたんだよ、タツ」
 来栖の手が肩に置かれる。
「ずっと、お前が守ってきたんだろ」
「僕の、本当の妹は、末期症状患者だった。だから――僕が、この手で、」
「竜平」
 南が隣に立つ。
「もういいんだよ、竜平」
 優しい声。
「竜平は、あの子の心を守ったんだ」
「よく……話してくれたな」
 来栖が驚愕した顔で呟く。
「そんな過去に苛まされたら……俺には耐えられそうもねぇ」
「一人じゃ耐えられなかった」
 僕は未来を見下ろした。
 微かな笑みを浮かべたまま、眠る未来。
 どんな夢を見ているのだろう。
 きっと、目覚めへと繋がる、温かい夢だろうと思う。
 未来の手を、軽く握り締める。
 守るよ、未来。僕は、君を守る。
 一生、日の光に当たれない身体になったというのなら。
 せめて、僕が光でいよう。未来のいる場所が、決して陰らないように。
 生きよう。
 この生が、ある限り。
 生きよう。
 遙名の分まで。三川の分まで。
 罪を背負い、闇に覆われ。それでも、生きていこう。
 それが、僕に課せられた、本当の呪いだ。
 そして同時に。
  それが願いだ。僕の願いだ。
  変わることのない、僕の思いだ。
「一緒に生きような、未来」
 皆が見守る、柔らかな空気に包まれたベッドの上。
 微かに、未来が頷いたように見えた。

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