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黄昏の異世界でiNOIDは群青の夢をみる。



   Prologue


 俺は竜になっている。
 雷鳴に似た強風がとどろき、雲を押し流す。ぶ厚い雲のすきまから差しこむ一瞬の朝陽が、敵のすがたを鮮明に描きだす。
 空を覆う二つの影――二匹のドラゴン。それが、俺と敵だ。漆黒の俺と、真紅の敵。
 喰い殺せ!
 俺は全身に命令を送る。敵めがけて加速する。雲の合間を滑空する。水滴が、からだを打つ。真紅のドラゴンの、濁った目が、俺をとらえた。俺を、待ちかまえていた。
 両者は、はげしくぶつかった。
 牙と牙が激突し、爪と肌がすれ、翼同士が打ちあった。
 俺の意識は、漆黒のドラゴンの全身へとめぐり、端々までゆき渡る。機械を動かすガソリンにでもなった気分だ。
 戦え! 戦え! 戦え!
 俺は、泣きそうな思いで、その命令を発しつづけた。
 戦え、彼女のために!
 漆黒のドラゴンは、風にも負けない声をあげ、真紅のドラゴンにかぶりついた。
(ユウ兄(にい)!)
 どこからか、声が聞こえる。名だ。俺の名だ。
 地表からはるか遠い上空にいて、これだけの風にさらされながら。その声は、耳もとで呼ぶように、すぐそこにあった。
(ユウ兄!)
 吹きつける風にあらがい、空を見上げる少女のすがたが、ありありと脳裏に浮かぶ。
 彼女を、守らねばならない。
 強い義務感が、俺を突き動かす。漆黒のドラゴンを動かす。
 自由に空を飛ぶための翼すら、武器にして。二匹のドラゴンは、からみ、もつれあい、踊るようにして、空を墜ちていく。
 俺は、ふたつの走馬燈を見た。ひとつは、とあるバースデイ。そして、もうひとつは。
 この世界に、はじめてきたときの、ことだった。



   Act 1


 目を覚ましてすぐ、彼女のすがたをさがすため、俺は立ち上がった。
「美衣(ミイ)!」
 名をさけぶ。そうしてから、ここはどこだろう、と考えた。
 目をこらす。
 見慣れない景色。しばし眺めてから、日ごろ目にする光景との最たる差異を認識する。
 草だ。草の緑がすごいんだ。群生が、圧倒的物量で迫ってくる。
 俺は、だだっ広い草原にいた。
 空には一面、パノラマの青が広がっている。流れる雲の影が、群れて草原を横切っていく。景色の奥には、深緑の森や、雄大な山々が見える。
 前後の記憶があいまいだった。いや、直前の記憶はある。問題は、その記憶のなかでさっきまでいた場所と、現在いる場所が、まったくつながらないということだ。自覚がないだけで、重大な欠落が、メモリーの欠損が生じたのではないかと不安になる。
 俺は自分の右手を面前まで持ち上げ、握り開きをくりかえした。五本の指を、なにも欠けていないことを、たしかめる。いつものクセ。
「ミイ!」
 もう一度、さけんだ。
 おどろいた。ここは地球ではない。
 空を見上げ、その事実にいたる。そこに浮かんでいる光源は知っている太陽とちがうし、見知らぬ巨大な天体まで見えている。こんな空は、地球上のどの国から見える空でも、ありえない(地球そのものが太陽系外へと移動した、あるいは宇宙全体が変化した、と考えることも可能だが、いくつかの細部や確率論から除外した)。
 まあ、そのあたりはひとまず、ささいな問題だ。
 最重要案件は、ミイがどこにいるのか、ということだ。彼女もこの見知らぬ土地にいるのか? すぐ近くに? あるいは遠く? それとも俺は、彼女をひとり、地球に残してきてしまったのか?
「ミイ! いないのか!」
 俺ひとりしかいないような広大な地で、おのれの全存在を懸け、声を張り上げた。
「ばあっ」
「うぁっ!」
 ミイのボサボサ頭が突然、草のあいだから飛び出してきた。草が宙に跳ねる。
「あはははっ、いまのユウ兄の顔ったら」
「……なあ」
「うぁっ! だって。ひー、おかしい。ん? ん? なになに?」
「スカートめくれてる」
「うぁっ! わっ! コラ見るな!」
 あわててミイは、服の乱れを整えた。むーっと威嚇するように、上目遣いで俺を見る。
「見えなかったね? なにも見えなかったですね?」
「ちょっとしか見えてない」
「見えてんじゃんっ!」
 くわっと顔を上げたかと思うと、拳を固め両手を空にかざした。
「もーっ! いいんだ、見えたって! パンツがなんだ! 減るもんじゃなし!」
「うわ、開き直った」
「そら開くわ! そうでもしなきゃ、やってらんねー! てか、なにヒョウヒョウとしてんの!? え、ウソでしょ? 女の子のパンツ見ちゃったんだよ? それって変態さんだよ? もっとこう、それらしくオドオド動揺したりしないの!?」
「長いこと家族やってるしなあ、俺たち」
「これだから腐れ縁ってヤツはー!」
 草原に響き渡る。
「割に合わねー! 見られ損! ドキドキイベントにもなりやしないー!」
 さけぶ彼女の左耳に、両耳タイプ・イヤホンの片方が突っこまれていた。ケーブルは、彼女の服の下へとつづいている。
「それ、スマホか?」
 ミイは、ぶすっとしたまま、突き上げていた両腕を下ろし、俺を見た。
「……音楽アプリで『悪魔を憐れむ歌』聴いてた」
「ドアーズ?」
「ローリング・ストーンズだよ、まったく」
「そうだったかな」
 習慣で、すぐさま検索をかけようとするが、ダメだ。周囲一帯、完全オフラインになっている。
「電話やSNSは試したか? マップは?」
「それがさー、使えないんだよね」
「電波?」
「ん、圏外」
「WiFiだけじゃなく、GPSや携帯キャリア各社の基地局もダメか……やっぱりな。ほかには、なにを持ってる?」
「アメちゃんとか」
 言いつつ、チョコバーの包みを差し出してきた。
「食べる?」
「いちおう食料だ。節約するように」
「ねえ」
 ミイは、空をあおいだ。
「ここ、どこ?」
 俺は、しばしの逡巡のすえ、簡潔に答えることにした。
「ここは、地球外だ」
「なんですと」
 俺は、いま一度、空を見上げた。視力には自信がある。昼間、星はまったく見えないわけではない。金星や超新星など、見ることのできる星はある。目をこらし、成層圏の奥にかろうじて見える星の配置を、地球のそれと比較した。
「俺にも、わからないんだ」
「マジか」
「大マジだ」
 ミイは、ケーブルを引っぱって、耳からイヤホンを抜いた。そして、まじまじと俺の顔を見つめなおす。
「地球じゃないですと? どこそれ。異世界? モンスターとかエルフとかいる? 流行りの、ぼっちな俺が異世界に召喚されました、的なヤツ? あたしたち、トラックにでもひかれたっけ?」
「いや。すくなくとも、俺たちは、ぼっちじゃない」
「……だね」
「だいじょうぶだよ、なにも心配いらない」
 俺は、わずかな動作で手を伸ばし、彼女の背中に置いた。
「だいじょうぶ、ミイは強い」
 この段階になってようやく、俺は自分がリュックサックを背負っていることに思いいたった。背から下ろし、なかをあさる。非常用に入れてあった緑茶と軟水のペットボトルが一本ずつあった。水のほうを取り出し、フタを開ける。
「飲みなよ」
「あ……どもども」
 ミイは、俺の手からそれを受け取り、三口ほど飲んだ。ゴクッゴクッと喉を鳴らすたび、彼女が落ち着きを取り戻していくのがわかった。
 聞いたことのない鳴き声をあげ、知らない鳥が編隊を組み、空をまたいだ。地面に視線を落とすと、俺のわずかな動きにおどろいて、虫がいっせいに逃げていく。
 生きものたちの群れを、しばし見つめる。
「ん? あれは――」
 俺たちの現在地からわずかに坂を下ったところに、見覚えのある青色が転がっていた。
「青空号だ」
 拾った自転車を修理し、ペンキで冴えた青に塗りたくった、俺の愛車だ。
 俺は青空号から目を離し、さらに視野を広げる。
 GPSは死んでいたが、コンパスは健在だった。東に見える山々のむこうに、空にむかって伸びる、高い塔らしきものが見える。西には、広大な森と、その奥に、天まで届いているかのような巨大な樹がそびえ立っている。東と西、その両側に、一本の柱のような人工物と自然物がある。魅力的で、幻想的で、壮大で、不思議な光景だった。
「……よし、元気出てきた! 万事おっけぃ!」
 ペットボトルから口を離し、ミイは両手の指で、唇の両端をつり上げた。両腕を伸ばし、ひじを曲げて。自然、にっと笑うかたちとなる。それが、彼女の決めポーズだった。こうすれば元気が出ると、おまじないのように彼女は言った。
 彼女は両手を下ろすと、動揺のない落ち着いた声でつづけた。
「ねえ。あたしたち、学園にいたよね」
「俺の記憶が壊れてないなら、そうだな」
 ミイの服装は学園指定の制服のままだし、まずまちがいない。対する俺は私服で、リュックサックは、彼女を迎えにいくとき、いつも持ち歩いているものだ。そうだ、俺は青空号に乗って、ミイを迎えに学園まで行ったところだった。
「とにかく、まずは――」
 これからのことを口にしかけた、そのとき。俺の耳が、なにかの物音を感知した。
 いきおいよく立ち上がる。
「だれか、いるのか」
 草が揺れている。風で。だが、俺が見つめるそこは、不自然な揺れかたをしている。その揺れが、次第に俺たちのほうへと近づいてくる。
「警告する。すぐにすがたをあらわせ」
 つづけて、英語や中国語を始め、いくつかの言語で、まったくおなじ文章を発する。
「ユウ兄?」
 ミイが不安そうに俺の名を呼ぶ。
 近くの草が、大きく揺れる。身がまえ、ミイを自分の背中で隠す。
 俺は足首の裾裏から、拳銃を取り出した。予備弾倉はベルトにクリップで留めてある。もちろん日本では非合法な代物だが、俺には必要なものだ。
 ミイが背後で息を呑む。
「ユウ兄、それって、銃……?」
「静かに」
 草の揺れが、目前まで迫ってきて――。
 幼い少女が、這って出てきた。衣服をいっさい身に着けていない。真っ白な肌に傷こそ見あたらないが、まるで負傷しているようなしぐさで動く。
「ナナグ、ウ。オルガ、スイタ、ア、タ」
 言葉を発した。
「ニイ、ニイナ。ルスク、エンドゥ、ナサナ。コン、エターク」
 聞いたこともない言葉だった。それを抜きにしても、少女の様子は異常だった。
 少女が、ゆっくりと、立ち上がった。しばらく、俺たちを観察するかのように、小首をかしげたまま動かない。青白く、やつれきった少女。やがて両手を伸ばし、ふらりと、一歩踏み出す。
 俺は発砲した。少女の足もと――地面がはじける。
「動くな」
 言葉が通じないもどかしさ。俺は頭のなかで、言語解析プログラムを起動させている。だが、まだ情報が足りない。足りなすぎる。彼女がしゃべればしゃべるほど、語彙のサンプルが増え、解析は進捗する。
 危険だ。
 俺の直感が、そう告げている。目の前の少女は、危険だ。
「だ、ダメだよ、ユウ兄、人だ、人を傷つけないで」
 ミイの言葉は、おどろくほど俺を動揺させたが、警戒を解くわけにはいかない。
「くそ」
 俺は、ある事実に気がついて、舌打ちした。
「どうしたのさ、ねえ」
「この子……生命反応がない」
「――え?」
「心臓が動いてないんだよ!」
 俺は、拳銃をかまえなおし、少女の青白い顔に向けた。
 空には蒼穹、足もとには広がる草原。
 少女が口を大きく開き、音を放った。端正な顔が、みにくく、ゆがむ。頬が圧力で揺れ、青白い全身の血管が、文様のごとく黒く浮き出る。
 俺は思わずよろめいた。それだけの圧がきた。
 ふるふると、小刻みに痙攣する少女の肉体。眼球が俺をとらえる――跳躍し、こちらめがけ、襲いかかってきた。
 俺は、引き金にかける指に力をこめ――。
 突如、横の草むらから新たな気配が生じ、俺はミイの肩を抱いて後方に跳んだ。
 四本足の獣が飛び出してきて、俺に飛びかかろうとした少女のからだを吹き飛ばした。少女と獣はもつれて地面を転がり、茂みのなか、どちらも獰猛な動きで互いに噛みつき、爪を立てた。まるで、獲物を取り合おうとしているかのようだった。すべては瞬間的なできごとで、獣の外見はほとんどわからなかった。
 俺は、小刻みに震えるミイのからだを右腕で支えてやりながら、腰をかがめて草に隠れ、移動を開始した。
 なんなんだ、ここは。牧歌的な見た目の割に、やたらカオスだ。
 甲高い叫び声が聞こえて、振り向く。あの少女が勝利したようだった。血に塗れた顔で、俺を見る。俺を見た。見つかっている。
 少女は両手を地面につき、四本足でこちらに走ってきた。速い。
「ミイ、逃げろ!」
 俺はその肩を離し、拳銃をかまえた。
「俺が食い止めるから、そのうちに――」
「ヤダ!」
「あのなあ」
「ヤダヤダヤダ!」
「駄々っ子か! 言うこと聞けって」
 俺はふりむかず、強い口調で言った。
「いいから、さきに逃げとけ」
「だって、どうして、あたしだけ! ユウ兄がiNOID(アイノイド)だから!?」
「俺が男だからだよ。カッコくらい、つけさせろ」
「ただのお世話型のくせに、ムチャすんな!」
「心配いらない」
 俺は敵との距離を、その動きを、データをすばやく解析しようとする。
「――ちっ」
 いま、この地でのネット接続は、完全にオフラインな状態だ。いかなる情報支援も得ることができない。演算処理を自分だけで完結させねばならず、命中精度に支障が出る。
 当たらないと判断した俺は、拳銃を捨てた。
 武器を利用するのはいい。だが、頼るのはよくない。依存してはダメだ。
 それは、俺の能力にも当てはまる。
 彼女の前では、やりたくない。彼女に知られたくない。彼女に、過去にまつわるヒントを与えたくない。だが状況は、そんな甘っちょろい思考を許さない。
 ……やりすぎないようにしなければ。
【起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)】
 左腕をかざすと、変化はすぐ始まった。
 肌から、その毛穴ひとつひとつから、大量のそれが、群れながらあふれ、左腕を覆うように、まとわりついていく。俺の左腕を中心にして、黒いいくつもの点が、まるでコイルのように、線となってうずを巻く。肌に密着し、一体と化していく、群れ。
【類型(タイプ):楯(シールド)】
 あっという間に、左腕は、黒く硬質でメタリックな楯(シールド)の形へと変化を遂げていた。ひじから先に、張りつくように楯が形成されている。
「ふう」
 自分がヒトでなくなる、いや、そもそもヒトではないという不安感から、俺は言わずにはいられない。
「I(アイ) got(ガット) control(コントロール)」
 ただの武器になど、歩く兵器になど、俺はなりたくない。
「腕! 腕!」
 世界一、俺を動揺させる声。
「なななななん、なんだ、それ! 説明要求!」
 テンパったミイの声が聞こえてくる。
「あとだ、あと」
「よよよよ妖術か!?」
「ちがう!」
 俺はひじを曲げ、楯となった左腕を前にかまえて、さけんだ。
「さあ、来やがれ! この――」
 少女は、まったくの予備動作なしに飛びかかってきた。
 俺は楯となった左手をわずかに押し出し、少女の手が触れたところで、はじいた。いきおいあまった少女が、草むらに倒れこむ。とてつもない力だった。ななめにそらしていなかったら、吹き飛ばされていただろう。後ろ向きに倒れそうになるが、草を束でつかみ、土に足をめりこませ、なんとか持ちこたえた。
【類型(タイプ):刃(ブレード)】
 すばやく左手を、楯から、今度は剣のような刃(ブレード)へと変化させる。黒い粒子が腕の周囲を移動して、剣の形となる。
 俺は、倒れたままでいる少女の背中に飛びつく。そして。
 ――ミイを守るためなら。
 ためらうことなく少女を斬った。
 悲鳴は、なかった。ろくに血も出なかった。
 彼女は停止しなかった。
「くそ――くそっ」
 俺はわずかに逡巡する。少女の肉体のディテールが、その感触、その人間らしさが、俺を、次なる行動を躊躇させた。だが、試すよりほかない。脅威を排除するために。優先順位はあきらかなのだから。
 少女の首筋に刃を当てる。目を閉じる。切り落とした。
 血は出ず、悲鳴もなく、ただ動きが止まった。やはり、彼女はすでに、終わっていたのだ。肉体がその生命活動を停止して、しばらく経っている。軽く調べてみても、少女のからだを動かしていた動力の正体はつかめなかった。
 顔を上げると、不安げなミイと目が合った。
「殺した……?」
「ちがう。終わらせた。停止させたと言ってもいい」
 息をととのえつつ、立ち上がった。
「最初から、死んでいたんだ。それなのに動作していた」
「それって……ゾンビ?」
「ダメだ、見るな」
俺はミイを制した。すでに少女ではなかったモノから離れる。
「ユウ兄、その、左手は?」
「これ、は――」
 さあ、きたぞ。なんて説明する?
 さきほど捨てた拳銃を右手で拾って足首に戻しつつ、考えをめぐらせる。
「ミイのお父さんが、ボディガードとしても役に立つようにって……」
 ああ、くそ。もっとマシな案がなかったのか。よりによって、お父さんが、だと?
 俺は、ちらっとミイを見た。いまの話を疑った様子もない。いや、疑っているにしても、その疑心を表に出していない。
「ははん、なるほどね……そういうことですかー。パパ、心配性だもんね」
「ああ……」
「どういう仕組みになってるわけ?」
 ミイが近づいてきて、俺の左腕に触ろうとした。
「あっ、待った、危ないよ。指が切れるぞ」
 あわてて俺は、筋肉の緊張をほどくように、刃の部分をくずした。うなずいてみせると、ミイはおそるおそる、俺の腕に触れた。そっと、両手で包みこんでくる。
「体内のナノマシンの一部を、腕に回したんだよ。余分なのを回したつもりだけど、突進食らったときにいくつかはツブれちまったし、ちょっとダルいな」
「それ、だいじょうぶなの?」
「大量に削られるとさすがにマズいけどな。体内の栄養分を利用して、自己増殖をくりかえしてるから、ちょっとやそっとじゃ致命的にはならないよ」
 俺は、自分が人間ではない証を、変化した左腕を見て、ため息をついた。

       *

 俺は、iNOID――有機アンドロイドだ。
 人工知能の容れものとして、人間のからだを模した生身に近い肉体を持っている。疑似血液内など、いたるところで自己増殖型のナノマシンが活動しており、細胞はナノマシンと融合して金属粒子となっている。からだは器にすぎず、俺の本体は、どちらかと言えば、そのナノマシンひとつひとつだ。たがいに干渉し通信し共有し合うことによる、集合知能。自己増殖型とはいっても、プログラムで制限はかけられているし、聞こえほど万能ではない。
 人間だって、多数の細胞で成り立っているし、頭脳ひとつで物事を考えているわけではない。あらゆる器官で、反応や処理や行動制御を行っているのだ。それらが重なり合って、自己となっている。
 俺は、研究者であるミイの父親による、試作品である――ということになっている。一般家庭用型を社会的に実用化することも視野に、社外秘の試験という名目で、ミイの世話役として導入されている、と。一般家庭用にしては少々高性能すぎると自負してはいるものの、いまじゃ立派に世話型としての役目を果たしている――と思う。
 ミイは、興味津々で変化した手をさわっている。
「こんなになっちゃって……なんともない? 痛かったりとか」
「いや。自分の意志で動かせるし。筋肉動かして手をグーパーするのと変わらないよ」
「どうして、内緒にしてたのさ」
「それは……」
 発言に含ませる、真実とそうでないことの比率に悩む。
「だって、気持ち悪いだろ、こんなの」
 結局、一番の理由ではないが、真実を吐いた。
「ふつうに引くだろ?」
「どうして? カッコいいじゃん、変身ヒーローみたいで」
「……本気で言ってる?」
「もちろん」
 きょとんと、彼女は首をかしげる。そこに、嫌悪の色はない。
「ミイ、俺――」
 言いかけて、動きを止めた。いまいる位置より坂を上ったあたりを見る。
「あれ、は」
 ミイもふりかえって、俺の指差す方角を見る。そして、息を呑んだ。
 野犬の群れのように見えた。地球のそれと形状が似ている。数は、五、六、まだ後ろに何匹か見える。こちらを見下ろし、様子をうかがっている。
「どうなってるんだ、ここは」
 まるで秩序がない。ありのままの自然界。
「友好的なあいさつは期待しないほうがいいな……」
 俺は右手でミイの腕を引き、わずかに後ずさりする。群れから目をそらさない。
 中心にいた犬が、空をあおいで吠えた。
「走れ!」
 俺はさけんで、ミイの手を引いた。
 ふりかえると、犬たちがいっせいに走り出し、坂を下りてくるのが見えた。
「くそ、冗談じゃない――!」
 あれだけの数、あれだけの速度だ。そして、この開けた場所。ミイを守りながら戦うのはきびしい。できなくはないが、試すのは危険だ。
 俺はタイムロスを承知で、わずかに引き返した。
「ユウ兄!?」
 倒れていた自転車に駆け寄り、起こす。
「ミイ、乗れ! 早く!」
 青空号の荷台にミイが座ったのを確認し、ペダルを踏んだ。走りだす。
「しがみついてろ!」
 彼女の両腕が背中から伸びてきて、俺を抱きしめた。
 不安定な道を、器用に自転車で疾走する。
「あぐぐ、揺れうううう」
 ガゴンガゴンとタイヤが跳ねる。ミイが、さらに強く抱きついてくる。
 獣が二匹追いついてきて、自転車の横にならんだ。体当たりしようと、うなり、距離をつめてくる。
 俺はタイミングを見はからって、右足をペダルから離し、獣の頭部を思いきり蹴りつけた。獣が悲鳴を上げ、地面に転がるのが見えた。
「ユウ兄、左!」
 もう一匹が、いまにも頭突きをしようとしていた。
 俺は、さらに速度を上げようとし――。
 チェーンが、外れた。
「え」
 バランスをくずす。前のめりになる。安物で中古(悪く言えば盗難車両。でもゴミ捨て場に放置してあったんだし……)の自転車と、メンテナンスを怠っていた自分を呪う。なんとか持ちこたえようとしたが、青空号のタイヤが大きめの岩に乗り上げ、俺たちは宙に投げ出された。草がクッションとなり、思ったほどの衝撃はなかった。すぐにからだのバランスと方向感覚を取り戻し、立ち上がる。
「ミイ!」
 駆け寄る。
「立てるか?」
「うん、平気平気っつんっ――」
 ミイが苦しげな声を上げた。
「どうした?」
 診てみると、軽く足をひねったらしい。しばらくすれば治るだろうが、いますぐ全力疾走するのは、きびしいかもしれない。計算――俺だけならともかく、ミイの移動速度を考慮すると、追いつかれるのは時間の問題だ。
「ミイ、暴れるなよ!?」
「へっ?」
 俺はミイの肩に右手を置き、その両脚の下に左手をすべりこませ、持ち上げた。一連の動作のあいだ、いっさい足は止めない。ひざで草をかき分け、逃げる。
「ひゃあっ、な、なにを――!」
「苦情はあとで受けつける!」
「うおおおお、お姫さま抱っこだ!」
 むかし、したことがあるのだが、彼女は忘れているのだろう。
「しゃべんな、舌噛むぞ」
 俺は後方を気にした。追いついてきている。
「いまは、とにかく逃げる」
 あの群れをやり過ごしたら、どこか隠れ場所を見つけなければならない。じゃないとジリ貧だ。この短いあいだに、これだけの脅威と接触したのだ。太陽が沈むまえに、どこかすこしでも安全な場所にたどり着く必要がある。
 獣の息づかいが、すぐ近くで聞こえる。追いつかれるまで、あと七秒ほど、か。この呼吸音……すぐ後ろまで迫っているのは、どうやら一匹だ。ほかの個体までは差がある。
 俺は横向きに跳び、時間を浪費せずミイのからだを降ろした。そして上体を起こしながら、左手を振った。
 俺の背中に飛びつこうとした一匹が、口元から真っ二つになり、倒れた。
 ふたたびミイを抱き上げ、全力走行状態に移行する。
「て、手際がいいですね……」
「なんで敬語なんだよ!」
「いや、ちょっとあたくしテンパってまして」
「俺もです! スピード上げるぞ!」
「こ、これより上がるの!?」
 論より証拠、百聞は一見にしかず。俺はさらにスピードを上げた。
「ゆ、ゆゆゆユウ兄、ユウ兄!」
「なんだ、落ちそうか!?」
「だれかいる!」
「え?」
「あそこ! だれかいる!」
 あそこ、というのが、どの方角を指すのかがわからなかった。
「いったい――」
「ルドゥア、コア!」
 声が聞こえた。その主をさがし、太陽に目がくらむ。動く人影が見え、目をこらす。
 細身の少女が、金色の長髪を風になびかせ、坂を駆け下りてきた。皮や布でできた、簡素だが丈夫そうな服装をしている。すばやい身のこなしで、背負っていた弓をかまえる。その顔立ちには、知性を感じさせる美しさがあった。とがった耳が特徴的だ。
 彼女が放った矢が、俺たちの横にならんできた野犬の頭を、横から射貫いた。
「え、え、エルフだ!」
 俺の腕の上で、ミイが言った。
「ユウ兄、見て見て、エルフだよ!」
「じっとしてろって!」
 エルフ(ミイいわく)娘は、すでに矢筒から新たな矢を取り出し、弦にかけている。まるで銃を用いているような速度で、次々と矢が放たれ、野犬を襲った。
 残された三匹の野犬は、襲撃対象を彼女に変更した。
 俺はミイを降ろすと、一番近い一匹に飛びかかり、その後ろ脚をとっさに右手でつかんだ。そのまま地面に叩きつけ、左手の刃でとどめを刺す。
 顔を上げると、残る二匹が、走りだしたところを真正面から矢に射貫かれ、地に転がったところだった。
「オラア、リイ!」
 エルフ娘がなにごとかさけぶ。彼女は弦を引いたまま、走り寄ってくる。その矢は、こちらに向けられている。
「あ、あたしたち怪しいものじゃないですー!」
 正座でホールドアップするミイだが、言葉が通じている様子はない。
 俺は早急に言語読解を試みようと、解析プログラムに、処理能力やメモリー容量の多くを明け渡した。
 少女の見た目は、たしかにエルフだった。エルフと言えば、高貴なイメージが俺のなかにはあった。彼女の生まれ持った顔立ちからは、たしかな気品が感じられる。だが、その服装は質素で野性味があり、あまりに機能的だ。サバイバルを重視している感じがある。
 エルフ娘は、目の前までやってくると、俺たち二人の目を、ぐっと覗きこんだ。
 ミイだけでなく、俺までごくっと喉を鳴らし、固まってしまう。
 やがて。
 どこか安心したように息を吐くと、エルフ娘は弓矢を下ろした。それから、言葉が通じてないと理解したのか、身ぶり手ぶりで俺たちになにかを伝えようとする。坂の上を指さして、切迫した様子を見せる。
「アルガ、デルタ、ララア!」
 危険……、脅威。
 言葉の解析進捗率は二十パーセント未満だが……。
 まだ、なにかが迫っているというのか。
 エルフ娘はどうやら、ついてくるよう俺たちに告げているらしい。話しながら、先に見える森を指さしている。
 信用できるか?
「エルフ……いたねー」
 ミイが顔を寄せ、ヒソヒソと話しかけてきた。
「ああ、いたな」
「モンスターも……おったね」
「ああ。おったな」
「これから、どうする?」
「ついてこいって言ってるみたいだけど」
「ユウ兄は、どう思う?」
 圧倒的現実、圧倒的ファンタジーに、たたきのめされる。ノックアウト寸前だ。だって、そうだろ。見知らぬ土地、モンスター、そしてエルフだ。
「――行ってみよう」
 俺は決断する。
「ここにいたって、らちがあかない。なにも進展しない。会話が可能な人物との遭遇ってだけで、これからの展開において、かなりのアドバンテージだ」
「そう、だよね。会話は、クエスト進行における重要なイベントだもんね」
「いや、ゲームの話じゃなくてだな」
「あたしは、ユウ兄の判断を信じるよ。いやあもう、ホントわけわからないことばっかでさ。あたしひとりじゃ、なにも決められないって」
「ダメ人間」
「うっさいなあ」
 エルフ娘が、せかすように手を動かす。危険が迫っている気配はないが、この世界に住む人間の経験や勘を信頼するべきだ。急いだほうがいいというなら、その言葉を尊重しなければならない。学ぶべきことはたくさんある。
 俺たちは、エルフ娘の後について、歩きだした。

       *

 エルフ娘に案内されてたどりついた先は、森に入ってすぐの木造建築だった。
 様子を見るに、彼女の勝手知ったる我が家、というわけではないらしい。まあさすがに、素性のわからぬ、知り合ってすぐの人間を、自分の家に案内したりはしないだろう。どうやら、ここなら安全だという意味のことをしゃべっているようだ。身を落ち着ける場所に連れてきてもらえたことに、感謝せねばならない。
 いちおう、なんらかの罠であることも考慮したが、建物内部にこれといった生命反応はないし、奇妙な仕掛けの気配もない。
 宿屋、だろうか。おそらくはそうだろう。外観から判断できる構造がそれっぽいし、立地も旅人がふらりと立ち入りそうな場所にある。
 俺たちは、荒れ果てた木造の建物に足を踏み入れた。
 入ってすぐの空間はわりと広く、想像どおり、ロビーというか、小さなホールらしき様相だ。割れた酒瓶や傷んだ書物などが、乱雑に床に散らばっている。
「ここは、かつて宿屋だったみたいだな」
 俺はミイに言った。
「奥んところがカウンターになってて、あそこ、帳簿がある。けど、どこかしこもホコリまみれだ。人が訪れなくなって、だいぶ経つな」
 かつては、にぎやかな話し声や活気に包まれていたであろうこの場所を、いまでは沈黙が支配している。
「うえー、ここで一晩明かすの?」
「しょうがないよ、いまのところは」
「うう、ボロアパートに帰りたい……けど……万事おっけぃ……」
 俺たちがもといた世界で住んでいる部屋は、八.七畳の、せまっくるしい1Kだ。床にひいたガムテープと積み上げたダンボールが、おたがいのスペースの境界線だった。奇跡的に風呂・トイレは別で、その利用も、明確に時間で区切ってあった。
「パパ、もうすこし仕送りくれてもいいのになー。一人娘をほっぽりだして、海外生活を謳歌してるわけなんだから」
 彼女はよく、そうぼやいた。
 ミイは、渋い顔でホコリをはらいつつ、テーブル席に腰かけた。その横に、となりの席から焦げ茶色のイスをひとつ引いてきて、俺はそれに座った。年代がかった木の丸テーブルにひじを置く。
 エルフ娘は、手をかざしただけで、暖炉の火をおこした。
「魔法かな」
「魔法だな」
 俺とミイはささやきあった。
 エルフ娘は、布製の背負い袋からカップを取り出すと、指につまんだ粉末を入れた。水袋からカップに水をそそぎ、暖炉の火にくべた焼け石を投入して沸騰させた。それから、クルトンのようなものを浸し、かんたんなスープとして、俺たちに振る舞ってくれた。
 蒸気と、カップから伝わる熱に、ほうっと息をつく。
 エルフ娘は、しばらく建物の内部空間を見渡していたが、やがて俺たちの前まで歩いてきて、テーブルをはさんでむかいの席に座った。
「あとで、掃除しましょう」
 まともに翻訳できた、彼女の最初の言葉が、それだった。
「ええと、わたしの言っていること、わからないですよね。ここ、掃除してあげます。すこしでも過ごしやすいように」
「ありがとう」
 俺は、彼女の使う言葉で言った。
「さっきのこと。それから、このスープ」
 エルフ娘の目が、大きく見開かれる。となりにいるミイの目まで丸くなった。
「言葉、わかるんですか?」
 エルフ娘が、身を乗り出して問うた。
「わかる」
 俺は、もう一度礼を述べてから、油分の浮いたスープの表面に口をつけた。まだ熱い。とろみのある、甘いポタージュ・スープの味がした。ミイもあわてて口をつけ、感激したようにスープをのぞきこんだ。俺はつづける。
「いま、わかるようになった。専用の翻訳ソフト作成に時間がかかった」
「翻訳――なんです?」
「ああ、いや、いまようやく学習が一段落したってコト」
「この短いあいだに……知らない言語をマスターしたんですか? 失礼ながら、魔法が使えるようには見えませんが」
「魔法じゃないよ。科学文明の力だ」
 俺は答えつつも、ベタな受け答えだと思った。
「ユウ兄どしたの、急にわけのわからない言葉ペラペラと……」
 俺とエルフ娘のやりとりがまったく理解できないミイが、頬をふくらませる。
「ああ、すまん。彼女の言葉、ようやくわかるようになったよ」
「え、ほんと! じゃあ、名前訊いてよ、名前! あ、そのまえに、いきなり尋ねるの失礼だから、あたしの名前、さきに伝えて」
「名前?」
「そ。自己紹介しなきゃ! 助けてもらったんだし」
 それもそうだ。いつまでも、エルフ娘、と呼びつづけるわけにもいかない。
「俺はユウ」
 姿勢を正し、名乗る。
「こっちはミイ。さっきは助かった。ありがとう」
「はじめまして。わたしはエルフ、名をカチュターシャといいます」
「どうして、俺たちを信用してくれたんだ?」
「信用?」
「最初、弓を向けたろ」
「その……たいへんな失礼をいたしました」
「いや、それはいいんだ。ここの事情は知らない。けど、とにかく最初は脅威かもしれないと警戒したんだろ? なのに、弓を下ろした」
「……目を見れば、危ない人かどうかは、わかります」
「そんな、ものかな?」
「ええ」
 カチュターシャはうなずき、俺たちを交互に見た。
「あなたがたは、どこからきたんですか? 見たところヒューマンのようですが、この大陸のかたではないですよね。正直、おどろきました。この近辺で、見知らぬ人と出逢えるなんて」
「ということは、だれかと知り合うのは、めずらしい?」
「ええ、もちろんです」
「いま使ってる言葉はエルフのもの?」
「いえ、これは大陸共通言語です」
「じゃあ、これさえマスターしていれば、だれにでも通じるってことか」
「ええ、そうなりますね。……あまり、使う機会はないかもしれませんが」
「カチュターシャ」
 俺は身を乗り出した。
「これから俺が言うことを、よく聞いてくれ。信じて、そして考えてくれ。俺と、ミイには、なにがなんだかわからない。だから、助けてほしい」
 カチュターシャは、わずかに首をかしげ、困惑したような表情を浮かべたが、すぐにうなずいてくれた。
 それから俺は、ここにいたるまでの経緯をざっくりと話した。カチュターシャは、俺の言葉の意味するところひとつひとつにおどろいていたが、口をはさんで話を中断させることはしなかった。
 俺が話し終えると、カチュターシャはしばし考えをまとめるように黙した。やがて、顔を上げる。
「まず第一に、わたしはあなたの疑問のほとんどに、いえ、重要度の高い問いに関して、満足に答えることができません。あなたのお話は、わたしにとっても奇妙で不思議なものです」
「そうか」
 失望しなかったと言えばウソになる。だが彼女の誠実な物言いは、この世界に対する安心度をいくばくか向上させてくれた。
「もちろん、わたしの知る範囲のことなら、なんでもお教えします」
 カチュターシャは、元気づけるようにつづけた。
「ここは、トワ・イラトと呼ばれる大陸です。あなたがたのいたチキュウとは、おそらく本質的に異なる世界でしょう。どうして、あなたがたがこの世界へとくることになったのか、残念ながら、わたしは答えを持っていません」
「この世界が、退廃的な理由は?」
「気づかれましたか?」
「人がいない、ということを強調していたからね」
 カチュターシャは簡潔に、淡々と、その理由を話し始めた。
「戦争があったそうだ」
 俺は、ミイに通訳する。
「戦争があって、魔法とかどんどん使って、大地はめちゃくちゃになってしまったんだと。汚染された。人が住めるような場所じゃなくなって、人はどんどん追いやられて、数がどんどん減っていった。都市とかそういうのも滅んで、朽ちて、捨てられた。捨てるしかなかった」
 俺は、世界の住人の、当事者の言葉を、他人ごとの言葉に変換していく。それは史実というより、物語のあらすじのようだった。「戦争」、「汚染」、「滅亡」、それらは単に、翻訳された言葉に過ぎない。発するカチュターシャと受け取る俺のあいだには、実感のレベルで、あたりまえに大きなちがいがある。
「いまは、あちこちで自然治癒が働いて、土や水も浄化されて、世界が再生してきていて、けど野生化した動物や自然の多くは、人族に牙をむいているらしい」
 無秩序の世界。それはもう、じゅうぶんすぎるほど目撃した。
「それから、汚染域には近づくなと。そこでは、なにが起きるかわからないそうだ。戦争で使われた膨大な魔法エネルギーが集積して、さまざまな現象を引き起こすって。足を踏み入れたら、そこはもう、ありとあらゆる常識や物理法則が通用しない空間らしい」
 ミイは、神妙な顔をして聞いていた。目の前に、この世界を生きるカチュターシャがいるためだろう。だが俺は不安だ。俺たちもまた、この世界で生きることになるかもしれない。最悪の想定では、この先、一生、生きていかなければならないかもしれないのだ。この世界の物語は、今後、俺たちの物語と深く関わっていくことになる。経験者・先輩の言葉は、すべてが重要な情報であり、生き抜くヒントだ。
 俺は思いだした。ファンタジー小説なんかじゃ、エルフは長寿だ。
「女性に失礼な質問と自覚はしてるけど」
 俺が言うと、カチュターシャはほほえんだ。
「年齢ですか? わたしは若いですよ。エルフにしては、ですが。百六十五年前、世界自然復興のさなかに、わたしは生まれました」
 百六十五。どんなに上に見ても、二十歳を越えているようには見えない。
「だから、戦争の始まり、中身、終わりについては、ほとんど知りません。資料は焼け砕け、過去を知る人は死に絶え、語るべき歴史は途切れてしまいました」
 愁いを帯びた表情に、俺は継ぐ言葉を失う。
 扉の開く音で、俺は我に返った。
 ミイを抱き寄せ、机を蹴って倒し、バリケードにする。
「カチュターシャー、ただいまー」
 だが、聞こえてきたのは、そんなのんきな声だった。
「今日の宿の目印は、見つけるのに苦労したぞー、って……あん? そいつらだれ?」
 入ってきたのは、猫耳と尻尾の生えた少女だった。ふさふさした毛皮でできているわりに、かなり露出度の高い格好。そんな服装や小柄な体格に対し、両手にはめられた籠手が大きく重たく見える。
「おかえりなさい、クゥ」
 カチュターシャは座ったまま彼女を出迎え、俺とミイを紹介してくれた。
「彼女はクゥ・リ・オ。ワービースト族です」
「あい、よろしく」
 ネコ耳をピクピク、尻尾をフリフリしてみせながら、クゥは無愛想に応えた。だがその目が俺に向けられたとき、様子が変わった。彼女は、あたかも旧知の仲と再会したかのような色を浮かべ、俺を見た。
「わたしたちは、二人で暮らしているんです。宿も一ヶ所にはとどまらず、転々としています。そのほうが安全で生存確率が高いと、経験上、判断したからです」
 カチュターシャは俺たちに説明したあと、クゥを見上げた。
「クラタさんたち、どうしてました?」
「いちおう顔だけ見せようと思ったんだけどね……。あいも変わらず、消えた死体の捜索さ。あまりいい雰囲気じゃなかったから、すぐ、おいとましたよ」
 死体が消えた? それは聞き捨てならないワードだった。
 問いかけてみようとしたが――。
「んなことより、飯にしようぜ」
 クゥの言葉で、タイミングを逸した。人間社会ではタイミングがすべてだと、ミイは言っていた。わからないことだらけで情報は重要だが、ひとまずの安全は確保できたし、焦る必要はない。俺は椅子に座りなおった。
「ちょうどいい、ぱーっと、歓迎会でもやるか」
 クゥが玄関からなにかを引きずってくる。そして、真ん中のテーブルの上に、そのシロモノを、どかんと置いた。イノシシに似た、図体の大きい動物だった。
「おおー!」
 ミイがおびえるふうでもなく、目をパチクリさせ、食材を見る。
 その反応に気をよくしたのか、腰に手を当て、クゥがニヤリと笑った。
「な。今夜はごちそうさ」

       *

 草を踏み分けると、虫の音色が飛んでいった。
「いたいた」
 ようやく見つけて、俺は声をかけた。
「あまり、ひとりで出歩くなよ。危ないぞ」
 ミイは、宿を出てすぐのところで、夜空を見上げていた。その輪郭は、いまにも闇の黒に溶けてしまいそうに見えた。
「どこの世界でも、夜は独特のにおいがするんだね」
 澄んだ空気に、ミイの声が通る。
「あたしはずっと、星のにおいなんだって思ってた」
「へえ?」
「ほ、ほんとだよ? ほんとに、そう思ってたんだってば」
「ミイはロマンチストだからな」
 俺は彼女のとなりに立って、天をあおいだ。ああ――と声が漏れる。
「ここは、においが濃いね。星がいっぱいだ」
 空は天球状であると思い知るほどのプラネタリウムな星空。都会じゃ、こうはいかない。そんじょそこらの田舎でも、ここまでの迫力はのぞめまい。
「げふー」
「こら。女の子がげふーとか言うな」
「だって、食べすぎちゃったよ」
「たしかに。あの二人も、ちょっと引いてたぞ。ミイはほんと、よく食べるよな」
「だってだって、食欲は三大欲求のひとつだよ、しかたない!」
「そんなこと言って、ほかの欲求は知ってるのか?」
「下ネタ禁止! エロいのがふくまれてるのは、知ってるんだぞー!」
「でも、三大欲求は、しかたないんだろ?」
「うう、ユウ兄がイジワル言うよう」
 夜空の雰囲気にまったく適さない会話になってしまった。
「こんばんは」
 声がして、俺は空から視線を下ろした。カチュターシャが立っていた。
「あまり宿屋から離れないでくださいね。夜の森は危険です」
「わ、わかった……」
 イタズラを見つかった子どもの気分で、俺は首を縮めた。そんな俺の様子を見て、エルフの少女は、クスッと笑った。
「寝つけないのですか?」
「ああ、俺じゃなくてミイが。そっちは?」
「クゥと交代で、番をしているんです」
「なら俺も――」
「いえ。次から、お願いします。今日は大変だったでしょう。ゆっくり休んでください」
「ユウ兄、なんて話してるの?」
「寝ずの番をしてくれてるそうだ」
 それを聞いて、ミイはカチュターシャに頭を下げた。誠意が伝わるようにと、深々と。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 カチュターシャは照れたように手を振りながら、見回りに戻っていった。
「いい人、だね」
「ああ。出逢えたのは、幸運だったよ」
「あたしも」
「うん?」
「あたしも、あの人たちの言葉、わかるようになりたいな」
 ミイが頭を上げ、ポツリと言った。
「……よし、決めた! あたし、勉強する」
「勉強?」
「ユウ兄、お願い。あたしに、言語教育して」
 キラキラしてるなあ、と俺は、ミイの瞳を見て、思う。
 やるべきこと、やりたいこと、そういうものを見つけたときのミイときたら、猪突猛進で、どこまでもまっすぐだ。
「――いいよ。スパルタ教育してやる」
 請け合いつつ、俺はそこに、ミイなりの覚悟を読み取っていた。もしかしたらミイも、頭のどこかでは、感じているのかもしれない。
 もとの世界には、二度と戻れないかもしれないと。



   【log: <TITLE> 20170802-20170803 </TITLE>】


 iNOIDは夢を見るか?
 スリープモードの際に、記憶領域の整理・最適化・デフラグの最中、駆け巡る映像は、夢と表現しても差し支えないだろう。
 いま見ているのは三年前、八月二日の記憶だ。もちろん場所は、地球・日本。まだミイは、中学生だった。
 俺と彼女が雨のなかを歩いている。俺の左手にはカサ。学校まで送っているところだ。
 いつしか、俺の意識・俺の主観は、過去の映像に同期する。
「あたしが学校に行ってるあいだ、さみしいっしょ」
 ミイがとなりでからかう。
「そんなわけない」
 対する俺は、どうしようもなくウソをつく。そのあいだ、なにしてるの? という質問でなくてよかった。もっとウソをつかなければならないところだ。
「ほんとにー? 強がってなあい?」
「ああ。だが心配だ。学生男子は飢えているものらしいからな。いたいけなミイが毒牙にかかるんじゃないかと」
「か、かからないよ!」
「放課後の呼び出しには応じるな、俺が行く。靴箱の手紙は、まず俺に見せろ」
「プライバシーを尊重してください!」
「バレンタインデーは学校を休め」
「か、過保護! チョコとか作れないから、だいじょうぶだって!」
「友だちになろうという男がいたら、まず緊急の連絡先と履歴書を提出させろ。いつでも面談してやる」
「も、もう、ユウ兄ったら! あ、ほら着いた! じゃ、また放課後ね!」
「おーう、転ぶなよ」
 彼女を学校の正門で見送ったあと、俺は振っていた右手を止める。
 彼女がいなくなると、俺は、自分が自分でなくなるような感覚を持った。下ろしたばかりの右手を持ち上げ、その手首から指先までを、じっと見つめる。五本の指、その一本一本を、何度も何度も、くまなく数える。バカげた習慣だったが、そうせずにはいられなかった。その行為は、意味もなく長時間、鏡を見るのと似ている。
 俺は、きびすを返しつつもアパートには戻らず、目立たないよう注意しながら、学校の周囲を巡る。最初の七周、コーヒーでも飲もうとコンビニに寄るまでは、なにごともなかった。問題は、その後の八周目。
 俺は気づいて、カサを閉じた。雨は小降りになっている。不自然ではない。
 俺の徒歩間隔に追随する、不自然きわまりない足音。
 曲がり角にさしかかる。
 振り向きざまに、閉じたカサで相手の顔面を打った。
 突然のリーチを越えた攻撃に、相手は対処しきれない。強敵ではなさそうだ。もう一振り、カサで相手の腕を打ち、手のなかの武器をはじき飛ばした。重量感のある黒い拳銃が、塗れたアスファルトの上を滑っていく。
 ビニールガサの本来の使いかたではない。いま、カサは武器であり、凶器であり、兵器だ。生み出された理由とも目的とも動機とも関わりなく。
「殺しは、しない」
 そうだ。殺してはいけない。ミイが悲しむ。よって加減する。
 数分後。
 丁重に所属を訊き出し、相手を無力化・無効化した俺は、すぐに引っ越しについて考え始める。転校について考え始める。リスクを消去するために。
 俺は男を見下ろす。フィルム・ノワールから抜け出してきたような男だった。
 これで何人目だろう。そして、何度目だろう。
 ミイは友だちができたと言っていた。
 ――ごめんな。
 その夜、俺たちは街を出た。必要なものと、ミイの大切なものだけ、小さなバッグに詰めこんで。世界には俺たちの気分など関係なく、空は晴れ、星の降る夜だった。
 夜の闇は冷たい。ミイがくしゃみをする。その手を握る。
 電車やタクシーを乗り換えながら、次の街へと向かう。途中で寄った街は、ネオンの光や排気ガスのにおいが、うるさかったのを、おぼえている。路地裏の薄暗いジャズ・バーに身を隠し、日付をまたいだ朝方には、ファーストフード店に寄ってシェイクを飲んだ。目的地に到着するころには、よく晴れた夕陽が影を落としていた。
 新しい街では、ちょうど花火大会が開催されつつあって、ざわついた空気があった。人がいて、人がいた。たくさんの、数多くの、人で、あふれかえっていた。
 ミイは、やはり落ちこんでいた。
「せっかく、あの街の空気感がなじんできたとこだったのに」
 ミイは、新しい街でそわそわする感覚を、からだにしっくりこないと表現した。
「どうして、パパはあたしをあちこち引っ越しさせるんだろう」
 彼女のことは、幼いころからよく知っている。かつては、あのいまいましいガラス(いまとなっては、愛着も感じている。ヒビの数も箇所も、すべて、おぼえている)越しに、遠くから見つめることしかできなかった。だが、いまはちがう。
 俺は彼女を連れて、河原に向かった。花火会場は、いまから行ったのではまともな席を確保できないにちがいない。すこし離れた場所で、ゆったりするのもオツだ。
 俺の考えは、時折、甘い。
 土手も、たくさんの人であふれていた。みんな考えることは、おなじらしい。
 浴衣、浴衣、浴衣、法被、屋台、屋台、煙、焼き鳥、火、クレープ、たこ焼き、声、声、風鈴、下駄、巾着、太鼓、子ども、獅子舞、人、人、人、同種の群れ、息苦しい。
 なんとかスペースを確保し腰を下ろした地面の草は、わずかに湿っていた。
 悔しさ、というべきものが、あふれてきた。
 なにも、してやれていない。ほんとうの意味では、俺は。なにひとつ、彼女を幸せにできていない。俺は、彼女の人生を救えていない。学校に通わせているのは、せめてもの抵抗だった。だがそれもこうして、突然の断絶が生じてしまう。
「ごめんな」
 俺はつぶやいた。
 と同時に、最初の花火が上がる。特大のヤツだ。
 そいつがはじけたとき、横にいるミイが、なにかを言った。
「え? なんだって?」
 花火の音でよく聞こえない。
 俺とミイの横顔の奥、川のむこうでは、花火が次々と上がり始めていた。
 空に舞う花びらではなく俺を見て、彼女は言った。
「いつもいつも、ありがとう!」
 両手を口にあてて、すぐとなりにいる俺に、せいいっぱい、さけんでいた。
 彼女の横顔が色に染まる。花火が上がる。はじける。また上がる、そしてはじける。いろいろな色が、彼女を照らし、消え、照らし、消える。
 どこまでもヴィヴィッドでクリアな存在……。俺は、彼女の顔を見つめていた。
「きっと、いっぱい、助けてくれてるんだよね」
 彼女は、なにも知らないはず。なにも、おぼえていないはずだ。それでも、直感するなにかがあるのだろうか。
「万事おっけぃ! あたし、この街でも、ふてくされずにやってみる!」
 この子を護ろう。
 俺は思う。いまこの瞬間、俺自身への約束として。誓いを更新する。この記憶を、最重要項目に設定する。
  夢が、終わっていく。
 外界のデータ――気温の上昇と、光量の増加、鳥のさえずりを感知する。朝が近い。
 目的意識の再確認をもって、俺は記憶の整理を終了した。



   Act 2


 毎朝、雑踏のなかでひとり立ち尽くしているような感覚に襲われて、目が覚める。
 外から差しこむ細い光の筋が、朝に舞うホコリで乱反射しているのを見た。肉体を慣らしながら立ち上がる。
 俺たちは、かつて宿屋の個室として機能していた二階の各部屋で、一晩を明かした。なにかあればすぐ起きることのできる態勢ではいたが、なにごともなくてよかった。
 脳内で動作中の時刻アプリの履歴を確認すると、朝の七時だった。この世界の一日が地球計算の二十四時間とはかぎらないが、それは今後、観察することにしよう。誤差があるとしても、あまり大きくはなさそうだ。
 小さなベッドサイド・テーブルに、飲みかけのハーブ・ティーが置いてあった。昨夜、カチュターシャが刻んで淹れてくれたものだ。夜の冷気ですっかり冷たくなってしまったそれを一口すする。木でできた格子の窓を開け、森のにおいをかいだ。
 タオルをつかんで廊下に出ると、ミイの部屋の前で立ち止まった。わずかに扉を開けると、朝日がこぼれるシーツにくるまり、眠っている彼女が見えた。
 俺は、必ずしももといた世界に戻る方法を模索する必要なんてない、と考えている。あの世界は、社会は、ミイにとって、生きにくい仕組みと化していた。この世界の総体的な危険度を知らないいま、不安は当然のごとく存在するが、この世界にとどまる、慣れる、というのは、ひとつの有力な選択肢だ。おなじ時間を費やすなら、この世界で生きるすべを学ぶことに比重を置くべきなのかもしれない。彼女の結果的な幸せを思うなら。
 一階に下り、宿屋を出る。霧がすこし出ていた。湿気がふくむ葉のにおいが強い。空の青はまだ薄く、森の緑や樹のあいだの闇、霧の白が、かぎりなくモノクロに近い彩度で、世界に色をつけていた。
 ぬかるんだ土に足がめりこむ。自由気ままに生えた樹木の群れは、どこか醜く、美しい。整理された日本の自然公園では見ることのできない、生々しい自然だ。
 耳を頼りに、木の根をまたいで進み、ささやかな小川を見つけた。冷たい水に両手をつっこみ、じゃぶじゃぶと顔の汚れを落とした。白いタオルで水をぬぐうと、立ち上がり、歩いて宿屋の前を通りすぎ、草原に出た。
 なだらかな草の丘を、羊に似た名も知らぬ動物の群れが走り去っていく。危険はなさそうだった。起伏する地平の果てまで、世界がつづいている。その視界をさえぎる高層ビルは存在せず、かろうじて点々と風車小屋が見えるくらいだ。うっすらそびえる山並み。
 俺は風を浴び、息を吐いた。右手の指を数える。
 正直、不安だった。今日、目覚めたとき、心をなくしているのではないかと。そして、そのことに気づくことすらできないのではないかと。
「あの少女は、死んでた」
 俺は、だれにともなくつぶやいた。
「殺したんじゃない。止めたんだ」
 昨日の、医学的に生命活動停止しているにもかかわらず作動していた少女の肉体、その言葉を、思いだす。言語理解が進んだいま、彼女のメッセージは明瞭だった。
 ――ナナグ、ウ。オルガ、スイタ、ア、タ。
 もう眠らせて。おだやかな死を。
 そして。
 ――ニイ、ニイナ。ルスク、エンドゥ、ナサナ。コン、エターク。
 その、意味は。
 カシャ、と音がして、俺はふりかえった。
 ボサボサ頭のミイが、スマートフォンのカメラをこちらに向けていた。どうやら写真を撮ったらしい。俺がリュックに常備していた『無職』Tシャツを寝間着として着用している。黒地に白で漢字二文字がデカデカと打たれているシンプルなものだ。
「ミイ、起きたのか」
「うん。ユウ兄が、はだかエプロン着てる夢見た」
「妙な設定に俺を巻きこむな」
「あの夢は今後いろいろと使える。ご飯三杯いける」
「使うとか言うな」
「おはよう、ユウ兄」
「おはよう、ミイ」
「見て見て、ほら、ユウ兄in異世界」
 スマホの画面を向けてくる。俺の横顔越しに、青空と草原が写っていた。
「もの憂げな表情いただきましたー」
「もの憂げってなんかない」
 そこでふと、ミイが真顔になる。
「……ミイ?」
「ねえ、むかしの夢を見たんだ」
「むかしって?」
「ずっとまえ。あたしがお気に入りだった人形をなくして泣いてたら、その人形からの手紙をでっちあげて、届けてくれたよね? ちょっと落ちこんだので自分探しの旅に出ます、とかなんとかって。それがしばらく届いて、あの子は手紙のなかで、いろんな国を巡ってた。あなたのことが大好き、て毎日手紙をくれた」
「……なんのことだ?」
「あれっれ、お認めにならない?」
「なんだ。バレてたのか」
「わかったのは、大きくなってからだよ。小さいころは、ほんとに信じてた」
「怒ってるのか?」
「ううん、ちがうよ」
 その人形は彼女が、あの場所から唯一、持ち出せたものだった。ライナスという、男っぽい名前をつけられた、蒼い目をした金髪の女の子。
「人形を見つけるまでの時間稼ぎだった」
「最後の手紙じゃ、結婚して、相手の青年と、宇宙旅行に行ってしまったけど?」
「見つけられなかったんだ」
「あたしのこと、ずっと忘れないって書いてあって。すっごく、うれしかったんだ」
 胸に手を添え、彼女は目を閉じる。
「あの手紙は、あたしの一生の宝物」
 どうして彼女は急にこんな話を持ち出したのかという疑問が、ふくれあがっていく。不安が、喉を締めつけ始める。
「ねえ」
 ミイが、顔を上げる。瞳が揺れている。おびえている。それだけで、俺は、答えを知った。彼女の意図を。話が、どこへ向かおうとしているのかを。
「あたしの、パパ、はさ――」
 ギクリとする。そんな俺を、彼女は観察している。ダメだ。核心をつけば、なにかが壊れてしまいそうな気がする。音を立てて、ガラガラと。だから。
「……黙っちゃうんだ」
 だが彼女は、迷わず俺の図星を、思惑をついてくる。
「むかし、口ゲンカになっちゃったとき、言ったよね。黙るんだったら、あたしの勝ちだよ、て。いまとなっては大人げないなあと思うわけだけども」
「俺は」
「おはようございます」
 脈絡なく割りこんできた声に、救われた。
 振り向くと、カチュターシャが立っていた。寝起きであるのに、きちんと髪を整えているあたり、さすがは上品な印象だ。
「朝食にしませんか?」

       *

 カチュターシャが作ってくれたミート・スープで朝食を済ませた。
 食後には、熱々のコーヒーが飲みたくなる。人間でもないのにカフェイン中毒というわけもなかろうが、普段あるものがないというのは、まったく落ち着かない。カチュターシャに訊いてみると、豆をひいた粉末から作る飲料なら、あるという。
 試しに作ってもらったら、そいつは水色をしていた。飲むにはかなりの勇気を要したが、のどに通してみると、かなりコーヒーに近い味であることがわかった。あとからスースーしてくるものの、俺はミントタブレットをコーヒーに混ぜて飲むこともあったから(ミイに人外呼ばわりされて以来やらなくなったが)、そこまで違和感はない。気に入ったので、カチュターシャから粉末を分けてもらった。ほんとうは、とことん甘ったるい缶コーヒーの味がほしかったが、新生活というものは、いつだって妥協の連続だ。何度も引っ越しを経験している俺やミイは、そのことを十全に理解している。
 俺はミイを見る。
 彼女は学生服にふたたび着替え、表面がささくれだった木のテーブルの上でノートパソコンを開き、ワーグナーを口笛で吹きながら、キーボードをたたいていた。この世界で、グレーのアルミ製ラップトップは、はげしく違和感を醸し出している。
 わずかに戸惑う。彼女の問いを、俺は無視しようとしている。彼女も、そのことには気づいているだろう。そして、なにもなかったような顔をするにちがいない。
 俺は視線をさまよわせ、古いパソコンの裏にマジックペンで書かれた文字を見つけて、思わず和んだ。そこには皆城(みなしろ)美衣(ミイ)、と彼女の名前が、おさない字で書かれている。もう何度も目にしたものだが、そのたび、心が安らぐ。
 小さいころ、ミイは自分の持ちものすべてに、油性ペンで名前を書いていた。ある朝、俺が目覚めると、右手の甲に、つたない字で、彼女の名前が書いてあった。夏の朝、湿気を多分にふくんだ蒸した空気が、インクの匂いをわずかに立ち上らせていたのを、おぼえている。たしかに夜中、忍び足でモゾモゾと動く彼女の気配を感じてはいたが……。俺は笑いをこらえきれず、ついでに涙をこぼしかけた。
 俺とミイは、だいじょうぶだ。思い出に後押しされるようにして俺は勇気をふりしぼり、パソコンに向かうミイを見た。
「……なにやってるんだ?」
 声をかけると、ミイは文字の羅列で埋まった画面から顔を上げた。
「もとの世界に戻れたら、ここでのこと、タイムラインにアップしなきゃ。その下書き」
 彼女は、ごくふつうに、そう言った。俺はひそかに安堵する。
「そんなの、だれが信じる」
「フィクションってことでもいいんだよ。ほんとうは、自分のなかで整理してるだけなんだ。ただの日記。――あ、ところでユウ兄は最近、書いてないの?」
「書く?」
「小説」
「え」
「おぼえてるよー、あたし。ユウ兄、本を買う余裕がないからって、自分でお話を書いて、読み聞かせてくれたじゃない」
「や、やめろ。忘れてくれ、恥ずかしい」
「好きだったなー、とくに人と竜のヤツ」
「うわー、うわー」
 しばらく悶絶することになった。すべては黒歴史だ、闇に葬るしかない。
 やがて、なんとか過去から立ち直った俺は、再度ミイに話しかけた。
「充電は、まだだいじょうぶか?」
「あ、スマホおねがい」
 俺は彼女の携帯電話を受け取ると、充電ケーブルを差しこむ端子に指で触れた。時間はあまりかからない。バッテリーにムリのない程度で、急速充電していく。
「あ、そうだ。ねえねえ、ユウ兄」
「なんだ?」
「カチュターシャさんに、ひとつ頼みごとをしたいんだけど」
「へえ? なにを」
「魔法を、教えてくださいって!」
「……は?」

       *

 宿屋の庭先で、ミイが緊張した面持ちで立っている。
「自分の内側に流れるマナの力を感じて、制御します。手をかざしてください。最初は、両手のほうがやりやすいと思います。その両手の指先に、マナをあつめるイメージで」
 向かいに、カチュターシャが立ち、説明する。俺は、その横で通訳している。
「そうしましたら、目の前の空間、指先の向いている対象に、自身のイメージを集中させます。初歩的なのは炎ですね。比較的、発生させやすいです」
 カチュターシャが片手をかざし、実演してみせた。空中に、突然、火のかたまりが発生する。火柱になったり、竜巻状になったり。
「イメージ次第で、現象を変化させることができます」
 俺は、カチュターシャが魔法を使う様子を、注意深く観察した。もしこのさき、魔法を使う相手と戦うことになったなら、俺に対抗できるだろうか。魔法を使う人間の身体的変化、周囲の環境変化。魔法そのものの攻撃性。魔法を使われるまえに倒してしまえるなら、それがいちばん、いいのだが。後日、カチュターシャに頼んで、対魔法の戦闘訓練をしてみるべきかもしれない。
 ミイはといえば、いまや、ふんばって腰を落とし、両手をいっぱいにかざした状態で、うんうんうなりながら――変顔大会を始めていた。
「ち、力を抜いたほうが、御しやすいですよ」
「う、うす」
 アドバイスを受け、顔だけ真顔になる。なんだそりゃ。俺は笑いをこらえるのに必死だ。
「むむくくく、うー、なあー、いーっ」
 両手がわなわなとふるえだす。お、くるか?
「ほのおほのおほのーほのー」
 あらゆる手段を試しつくさんとするミイ。
 しかし。
「へなへなー」
 突如、全身から力が抜け、地面に手をついた。
 こいつ、いま、口で「へなへな」って言わなかったか。
「くそう!」
 女の子が、くそうとか言っちゃダメだ。
「ううー! ムリムリ! ぜんっぜん、わかんない! だって、たぶん、あたしの内側にマナなんて流れてないよ! 血液だけだよ、人体模型にもマナの項目なんてなかったもん! これが人間の限界かあ!」
 両手を地面にたたきつけ、くやしがる。
「だ、だいじょうぶです! わたしだって、すぐ使えるようになったわけじゃないですから! これからですよ、これから!」
 カチュターシャがフォローを入れてくれる。
「なあ、なんで急に、魔法を使えるようになりたい、なんて言いだしたんだ?」
「だって、それは――」
 俺の問いに顔を上げたミイは、わずかに逡巡した。
「それは?」
「えっと……だってだって、使いたいじゃん! 異世界にきてるんだよ? あたしたち。こんな機会、そうそうないよ!」
「まあ、ないな」
「でしょでしょ!? 魔法のひとつも使えず、なにが異世界か!」
 どことなくごまかされたような印象があったが、つっこむ必要もないだろう。ミイにはミイの考えや思いがあるだろうし、それは尊重すべきだ。
「なあ、ちょっと出かけてこようと思うんだ」
 俺は言った。
「あまり遠くまで行くつもりはない。俺が戻ってくるまで、カチュターシャといっしょに、ここで特訓して待っていてくれ。彼女は信用できる。いまさらだけど、心拍数から見て俺たちにウソは言っていないし、戦闘面でも頼りになる」
「え、いっしょに行く」
「ダメだ。このあたりが安全という保証はない」
 ミイは、なにか言い返そうとしてか、しばらく黙りこんでいたが、やがて。
「……わかった」
 シュンとなって、そうつぶやいた。
 彼女の安全が第一だ。ここで折れてはいけない。
「えいやあ!」
「あ痛っ!?」
 殴られた! グーで!
「無事に戻らなかったら、この倍の力で殴るよ?」
「いやいや、戻ってこなかった場合、この場にいないわけだから、殴れないだろ」
「殴られたかったら、ちゃんと戻ってくるように」
「いつ俺が殴られたがってるなんて前提が成り立ったんだ」
「わかったよ……じゃあコンビニ見つけたら、百円サラダ買ってきてよ」
「あるわけないだろう、コンビニなんて」
「わかってるよ異世界ンジョークだよ」
「なんだよ異世界ンって」
 俺は腰に手を当て、ため息をついた。
「……ちゃんと戻ってくるから。誓うよ」
「え? や、誓うだなんて……ちょっと、おおげさだな。余計に死亡フラグ立てちゃってる感じがするよ?」
「お前の前から、いなくなったりなんてしない」
 はっとした表情で、ミイが顔を上げる。
 俺は、できるだけ人間らしく、笑みを浮かべてみせた。

       *

 音を立てないよう、土の上、そっと足を滑らせる。
 森のなか、獲物を求め、息を殺して、俺は狩りの段階に入っていた。
 食べられる動物については、とくに美味であるものについては、カチュターシャやクゥから聞いてリストアップしてある。すこしでも、ミイの異世界ライフを幸福なものにしたかった。人間にとって食が重要な要素であることは、旅行における旅先評価の割合を大きく占めることからもあきらかだ。だからこうして、食料をさがし、俺は森の奥へと進んでいる。彼女のよろこぶ顔が見たい、というのは大きかった。
 しかしいま、すこしばかり、まずいことになっている。
 クゥ・リ・オが水浴びをしている現場に遭遇してしまったのだ。
 しかもなお悪いことに、バッチリと目が合ってしまった。彼女は、ズボンは履いたまま、上半身にはなにも身につけていなかった。
 俺は自分のとるべき行動のパターンを試行錯誤したあげく、どうすることもできず、フリーズした。おたがいに動かず、相手の出方を待つ。
「なにやってんだ。そんなとこで、突っ立って」
 タオルを肩にかけ、クゥは言った。
「こっちこいよ」
 肩からぶら下がったタオルによって、かろうじて、胸のメイン部分は隠れていた。
「い、行ってどうする」
「そこにいて、どうする」
 クゥは胸を隠すタオルの片側を持ち上げ、濡れた髪を拭いた。
「いいから、こい。とって食いやしないよ」
 俺はしかたなく、茂みから出て、彼女に近づいた。
「誓って、覗こうとしたわけじゃない」
 いちおう、誓っておいた。
「疑っちゃいない。命を軽んじるタイプにゃ見えないし」
 不敵に彼女は笑う。俺に言わせれば、彼女のほうこそ、裸を覗かれたくらいで騒ぐタイプには見えなかった。実際いまも、騒いでないわけであるし。こちらとしては、もうすこし隠す努力をしてもらいたいくらいだ。
「気にすんな。ほれ、ごらんのとおり、タオル一枚で隠れる貧相なモンだ」
「いやいや、そういう問題じゃない」
 どうにも論点がずれている。それに、タオル一枚で隠れきってはいないし、本人が言うほど貧相そうにも見えない。
「ところでさ」
「ん?」
「オマエ、強いだろ?」
 舌なめずり。
「オマエも脱げよ」
「は?」
「そのほうが、ヤリやすいだろ」
 そう言いつつ、自分は籠手をはめていく。上半身はタオル一枚のままだ。
「アタシと、シよーぜ」
 クゥが両手を打ち鳴らした。
「模擬戦さ」
「いやー、それはちょっと……」
 目のやり場に困るというか、なんというか。そもそも、恨みもなにもない女の子相手に、攻撃をくわえるなんてマネは、なかなかに実行しづらい。
「なんだ? 裸の女が相手じゃ、ヤり合えないってか?」
「そういうことじゃ、あるというか、ないというか……」
「んだよ、煮え切らねぇな。――なめるなよ?」
 下がれと情報がわめきたてた。
 俺は、一歩、下がる。
 直後、先ほどまで俺が立っていた地面が、えぐれた。
「おいおいおい! どこが模擬戦だ、どこが!」
 抗議する。
「実戦と同等の戦いをしないと、模擬戦にならんだろ」
 抗議は却下された。
 俺は、動作の基本系統を、周囲環境の情報収集を、戦闘用のそれに移行させる。それはいわゆる、人間の反射神経のようなものだ。
 ……しかたない。
 俺は、胸の前あたりに両手をかまえた。戦闘スタイルに関して、とくに決まった型を持つわけではない。クラヴ・マガ、カポエイラ、合気道、詠春拳、ジャンルを問わず、テクニック知識や動きの型をインストールし、状況に対しての引き出しを多くした。からだは生身であるため、実戦で使用するには動作練習が不可欠であるし、肉体的鍛錬も必要だ。そうやってからだになじませ、自己流に転化させている。
「オマエ、そこまで実戦慣れしてないだろ」
 対するクゥは、口もとをニィッとほころばせている。楽しくてしかたがない、といった表情で、かまえている。じりじりと間合いを計りながら、たがいに相手の動向を探る。頭のなかでは、あらゆるシミュレーションが組まれている。まるでチェスゲームだ。先の先を読みながら、次の一手を模索する。
 クゥが瞬発的一歩を踏み出した。それは、あらゆる思考、あらゆる計算を破壊し尽くすほどのスピードだった。知力ではいかんともしがたい、反射神経の世界だ。
 俺は、左手の甲で、クゥの拳を打ち払う。と同時に、こちらも一歩出て、距離を詰める。〇コンマ数秒の世界、視界の隅で、見えた。ミスを犯したことを知った。
 俺が打ち払った彼女の籠手が、その拳が、開かれた。襟首をつかまれる。
「見誤ったな」
 彼女の言葉が目前に迫る。
「こいつは石や棍棒じゃない――。アタシの手なんだぜ」
 全力の背負い投げ。そんな技も使えるのか。
 俺は身をひるがえし、地面にたたきつけられるまえに、彼女の背中から逃れた。
「わあ、いい反応だな」
 両足で着地し、屈伸のバネを利用して下がる。
「だから、服なんか着ないほうがいいんだ」
 距離をとる俺に、クゥはニヤリと笑いかけた。
 遠慮のない攻撃。それは、俺の技量への、この程度の攻撃では致命的なダメージに至らないだろうという、信頼だった。相手を観察し、正しく評価している。
「オマエ、ヒューマンじゃないだろ」
 クゥの言葉に、俺はおどろく。
「匂いでさ、なんとなく、わかんだよ。同類だ、てな」
 クゥは肩をすくめる。
「アタシらワービーストは、作られた存在なんだ。かつて、戦争のため、兵士として生み出された。人間と動物をかけ合わせて。その末裔さ」
「作られた……」
「オマエもそうなんだろ?」
「俺は……人の世話をするために作られた、iNOIDだ。あの女の子、ミイが俺のマスターだ。格闘術は、あの子を護るため、身につけた――」
「ウソだな」
 クゥは、あっさりと俺の言葉を切り捨てた。
「オマエのそれは、ハナッから戦闘用だ。戦いのために特化してる」
「そんなことはないっ!」
「本気でこい」
 彼女の全身から、闘志――殺気がほとばしる。
「それがすべてでないことくらい、わかるぞ。なにも隠すな。遠慮するな。使えるものはすべて使って、勝負しろ。してくれ」
 ほとんど懇願だった。ならば、これは必要なことなのだろう。彼女にとって、なにかしらの通過儀礼めいた行いに、俺は巻きこまれているのだ。
「……わかった」
 俺は息を吸った。
 出し抜けに、左手を突き出す。
【起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)】
 俺の肉体を取り巻く変化に、クゥが目をみはる。――だが、それも一瞬だった。クゥの動き、その速度は、さきほどのそれを軽く越えている。人間の出せる速度ではない。戦いに最適化した肉体を持つ、目的を持って生み出された存在だからこその動きか。
 むこうも、全力だ。なら、全力で応えなければ、敬意を表せない。
【類型(タイプ):触手(テンタクル)】
 俺はナノマシンに覆われた左手を、地面にたたきつけ、突き刺した。地中を、俺の一部が、駆け巡っていく。まっすぐ、クゥを目指して。このかたちは、威力こそ低くなるものの、射程距離が長く、陽動や急所狙いには役に立つ。
 クゥは異変に気がついたらしい、瞬時に地を蹴って、からだを横にスライドさせた。
 直後、俺の腕から地中に伸びていた、ワイヤーのように細い数本の触手(テンタクル)が、地表の土を突き破って、外に飛び出した。草のごとく地面から生えたそれらは、クゥにむかってムチのようにしなり、暴れた。
 クゥは、見事すべての猛攻を避けてみせたが、一瞬、体勢を崩した。
 そのときにはもう、俺はゼロ距離まで近づいている。触手はすでに引っこみ、バラバラのナノマシンの渦となって、光る粒子のように俺の左腕へ続々と戻ってきている。クゥは上体を反らして逃れようとするが、俺は両手を伸ばし、彼女のタオルの両端をつかんだ。そのまま、自らの足で彼女の足を払うと、彼女の背中を地面へとたたきつけた。
 しばらくの静寂があった。
「……やっぱタオルも外しときゃよかった。ジャマだ」
 クゥが、やがて笑った。
「あーあ、アタシの負けだ」
「純粋な格闘なら、わからなかった」
「いや。その能力もふくめ、オマエの才能であり実力だ」
「そう言ってくれるなら、うれしい」
「すごく野性的だったぞ。気に入った」
 俺はiNOIDで、機械的なのに野性的、か。
「それはそうとして」
 クゥは嘆息した。
「いつまで、そうしている?」
「え――?」
 言われて気がついた。言われるまで気がつきたくなかったのかもしれない。
 俺の左手は接地し、俺の上体を支えている。腕の側面が、彼女のすべすべした肌、背中から胸のふくらみへのラインに沿って、密着してしまっている。仰向きになっていることでわずかに横に広がっている胸のふくらみが、やや腕にしなだれかかってきている。だが、それだけなら、まあよかった。
 問題は右手だ。あろうことか、彼女のもう片方の胸を、わしづかみにしていた。タオルははねのけられ、つまりは、じかに触れている。というか押しつぶしてしまっている。
「す、すまん……痛い?」
「べつに痛くはないが……」
「そ、そうか……よかった」
 なにひとつとして、よかったりはしないのだが。動揺のあまり、どうでもいいことを話している気がする。冷静な思考を取り戻そうと感情を捨てて情報に頼った結果、つい勝手に、そのサイズを計測してしまう。Dだった。さらには、手のひらの中央付近に、つんとした感触があることにまで気がついてしまった。
 人間失格だ俺は。いや、実際iNOIDなわけだが、これはイケナイことだ、という分別はあるつもりだった。早急に、あやまらねば。そして、距離をとらねば。
「えっと、な。……どかないのか?」
「あっ悪い!」
 あわてて手を引こうとした拍子に、バランスがくずれた。普段なら、絶対にしないミス。
「あ――」
「なっ――? ちょっ」
 前向きに地面に倒れかけて、なんとかひじをついて耐えた。だが――。
「…………」
「…………」
 俺は、ほとんど抱きつくような格好で、クゥに覆いかぶさってしまった。
「……えっと」
「もう降参はしてるぞ……なにも押さえこまなくても」
 クゥの声とともに漏れた吐息が、顔にかかった。
「こ、こんなつもりじゃ、なかった」
 動揺してまともにしゃべれなくなった俺に、クゥが笑い声を上げた。
「なんだ。オマエは、ずいぶんとヒューマンらしいな」
「え?」
「アタシらのなかにもいるんだよ。戦いのために生まれたからって、戦いばっかに明け暮れてるヤツ。アタシも人のことはいえないが、それがすべてだ、なんて気分にはなれない。時代が時代だったなら、わからないが。いまは、こんな世界だ。だれと戦う? なんのために戦う? そこらへんをろくに気にもせず、ただ暴れているだけのヤツにはなりたくない」
「それは――」
 なんとなく、共感できる話だった。
「昨日、会った瞬間から感じていた。オマエは、アタシの不安を理解してくれるだろうと。似た空気を感じた。傲慢な考えかもしれないが、オマエなら、アタシのいいパートナーに、模擬戦相手になると、思ったんだ」
「俺たちは出自も似ているし、きっと世界と接する態度や考えかたにも近いものがある。機能的にそっくりなんだ。けど、だからこそ、俺たちはきっと、わかりあえないよ」
「……あの子のことが、大事なんだな」
「それは質問?」
「いや。あるいはドライなのかな」
「クールなんだ」
「クールな男が、女の胸つかんだくらいでテンパるかよ」
 言われて、状況を思いだす。急いで、クゥのからだから自分のからだを引きはがすよう、身を起こそうと試みたとき――。
「オマエ、かっこいいな」
 クゥがいきなり言った。
「は?」
「それにアタシを負かした。考えかたにも近いものがある――うん、理想だ」
「え? え?」
「ちょっと発情してきた。よし、キスしていいか?」
「は!?」
 なにが、よし、なのか、わからない。
 下から、思いっきり、両手両足でしがみついてきた。腰をやわらかくくねらせる。
「交尾したい。してくれ」
 模擬戦に誘ったときとまったく同じ口調で、クゥが言いつのる。
「いやいやいや。待て。待ってくれ」
「からだの問題か?」
 クゥが身をしならせる。密着度が上がる。
「アタシのからだが、どこか変か?」
 どことなく不安げな声に、思わず首を横に振る。
「そんなことはない!」
「じゃあ、オマエのからだに問題が?」
 俺のからだは、人間のそれと変わらない。だから、そういう行為は可能だ。
「じゃなくて、心の問題だ! 昨日出逢ったばかりの相手に――」
「胸を、揉まれた」
「ぐっ!」
「はじめてだった」
「ぐぐっ……」
 痛いところを突かれる。これではこっちが、責任をとらない最低野郎みたいだ。
「安心しろ、こんな文言、だれにでも言うわけではない。こういった経験はありません」
「ありません、じゃなくて! 俺だってないんだ! 勘弁してくれ!」
「逃がすかっ!」
「性急すぎるって!」
「なら、やりなおす! もうちっとムード重視して言いなおすから!」
「そういうことじゃない!」
 などと、盛り上がるつもりもなく騒いでいると。
「ほほう」
 いま、もっとも聞きたくない声が、頭上から降ってきた。
「やりますねえ、ユウ兄」
 ミイがいた。そこにいた。いてしまっていた。
 いかなる状況説明も、言い分も、役には立たないという直感。俺は裸同然のクゥを押し倒し、あろうことか彼女は下から俺を抱きしめている。
「ちゃっかり堪能してるねえ、この世界」
 笑っている。
「さすがです」
 ああ、ヤバい。この必要以上に抑えた口調。キレちゃってるときの声だ。拳をしっかり握りしめ、わなわな震えている。マズい。マズすぎる。
「な……にが、お前の前からいなくなったりしない(キリッ)、だ」
「ミ、ミイ! ちがう! これは――誤解だ!」
「お前の前からいなくなったりしない(キリッ)! ウケる! 片腹痛しなんですけど! へそで茶を沸かすわ! つら! ヒドイ最低! ぜったい裁判沙汰にしてやる!」
 言うやいなや、ミイはきびすを返し、走り出してしまった。
「ああ……最悪」
 俺は頭をかかえた。クゥがわずかに視線をさまよわせ、そっぽを向く。
「あやまらんぞ」
「いや……どう考えても、俺が悪い」
 もはや頭は冷め、上体を慎重に起こし、俺はミイが走り去った方角を見つめた。
「……追わないのか?」
「言葉が思いつかない」
「アタシが言うのもなんだが、そんなときは、とりあえず行動してみるといいぞ」
「それで、なんとかなる?」
「なにかは起きる。……良かれ悪かれ」
 俺はため息をつき、立ち上がった。
「あれか? 二人は付き合っていたのか? そうは見えなかったんだが」
「家族みたいなものだよ」
「それで、どうしてあんな反応になる」
「それでも、俺たちは、家族なんだ。そうやって生きてきた。いまさら」
 言葉にならなかった。俺は首を振る。
「後を追うよ」
「それがいいだろうな」
 俺は駆けだした。ミイが走り去った方角に向かう。
 かすかに。
 音楽が聞こえ、視界のすみになにかをとらえた。急ブレーキをかけ、それを見る。
 ミイの携帯電話が落ちている。木陰に。イヤホンが抜け、陽気な洋楽がスピーカーから漏れ聞こえている。走っていて落としたのだろうか?
 近づいて、周囲の土が荒れていることに気がつく。
 腰をかがめる。音楽がつづいている。
「一、二、三……四人か?」
 足跡が残っている。ふつうなら見過ごすだろうが、俺はちがう。
 ひざをつき、地面をにらむ。
「どうした?」
 気になったのか、追いついてきたクゥの声が背後から聞こえた。
「ミイが連れ去られた」
 おどろくほど静かで冷静な声が出た。
「拉致犯は三人。足のサイズと歩幅からして、一人は大柄で背も高い。そいつが指示を出して、残る二人が実行した」
「は!?」
 クゥのほうが、あわてた声を出す。
「あせるな」
 俺は、顔を地面から十センチも離れていないところにキープしたまま言った。自分に言ったのだと、自分でも気がつかなかった。
「人の足跡がぷっつり途絶えた。四本足の動物と、車輪……」
「馬車だな」
 クゥがとなりで補足してくる。
「馬車に押しこんで、連れ去った」
「目的はなんだろう」
「さて……このあたりじゃ、山賊も見ないし。ユウ、どうするんだ?」
 音楽を止め、耳をすます。なにも聞こえない。距離をとられた。俺はひざの土も払わず、立ち上がった。痕跡のつづく先を見やる。
「追う」
 クゥの返事を待たず、走り出した。
【起動(ブート):移動(ダッシュ)形態(モード)】
 全速力。いくらクゥでも追いつけないだろう。
 ……俺がついていながら。いや、俺がついていれば。
 後悔している場合ではない。ふつふつと、怒りが沸いてくる。
 足跡に沿って、走りつづけた。



   【log: <TITLE> Novel : Dragon Heart </TITLE>】


 竜は、たくさん殺しました。
 人のためでした。

 あなたが大事です、
 死にかけの竜は人に言いました、
 大事にしたいと考えてます。

 それなら人間になってよ、
 人は言いました。

 それはできない、竜に生まれてしまったから、
 と竜は答えました。

 死なないでよ、
 と人は泣きました。

 死なないよ、この程度では、だって竜だもの、
 と竜は笑いました。

 どうして、ぼろぼろなのに、笑ってるの、
 と人は怒りました。

 あなたは元気なすがたなのに、どうしてぼろぼろ泣いてるの、
 と竜は言い返しました。

 だって、きみが死んじゃう、
 と人はいっそう泣き始めました。

 空を雲が塗りつぶして、大粒の雨が降ってきました。

 ぼくにはわからないよ、
 とうとう竜は言いました、
 だってぼくには、心がないから。

 そうなの、
 と人はうつむいて涙をぬぐい、
 そうなの、
 と竜はうなずきました。
 でも、ずっとそばにいるよ、
 と言い添えました。
 いなくなったりなんてしないから。

 竜の言葉に、人は顔を上げました。

 雲がちぎれて、そのあいだから、一筋の光が差しこみました。
 光は、竜と人のあいだに横たわりました。
 人が、両手をお皿のようにくっつけて伸ばしました。
 そのお皿に、光があたたかくそそがれました。

 じゃあ、これあげる、
 人は今度は笑いました、
 あたしの半分。

 竜はおどろいて、まじまじと人を見つめ、
 たっぷり時間をかけて、泣き始めました。



   Act 3


 たどり着いたのは、朽ち果てた砦だった。
 束ねた杭でできた塀や門がモンスターの侵入を防いでいるのだろう。周囲もひらけていて、伏兵しにくい。門があるのと反対側は川に面していて、侵入が困難となっている。もとが砦だけに、悪くない立地条件だ。
 いま、そこを根城にしている者たちがいるのは、明らかだった。
 見張りが立ててある。四方、各方角の高台に一名ずつだ。
 門のむこうに、人の気配がした。塀に張りつき、見張りから見えない位置に立って、耳をすます。
「ほんとうか?」
「知らんよ。伝聞なんだから。でも、ほんとうなんだろう」
「クラタに報告したほうがいいな」
 会話しているのは二名だ。
 クラタ? どこかで聞いた名だ。いつ、どこで耳にした?
 さかのぼる。頭のなかでカシャカシャと音を立て、ファイル化された記憶がならび、場面が巻き戻され、切り替わっていく。
 ――クラタさんたち、どうしてました?
 カチュターシャの発言だ。
「なんて言うんだ? またドラゴンの死体が消えましたって?」
「そもそも、なんでアレ死んでたんだ」
「墜落したから?」
「いやいや、死んだから墜落してきたんだろ」
「魔法で調べたヤツによると、心臓が弱ってたんだと」
「それは最初のだろ。こないだ降ってきたのは?」
「そっちは知らん」
 ドラゴン? そんなものが実在するのか?
 いや、ちがう。俺が抜き出すべき、吟味すべき情報は、そこじゃない。
 ここは異世界で、モンスターだって目にした。ドラゴンがいたって、ちっとも不思議じゃない。疑念は大事だが、その対象選別をまちがえると、ノイズとなる。ドラゴンが実在するかしないか、現段階で判定の出ない疑問にかまけている余裕はない。
 ドラゴンはいる、実在する、まずはそれを前提にすえて。注目すべきは。
 ――死体が消えた。
 ドラゴンの、死体。それも、話の流れからして二匹ぶん。
 話し声はやがて遠ざかり、それ以上の情報を得ることはできなかった。
【起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)】
 俺は迅速に行動を起こす。
【類型(タイプ):触手(テンタクル)】
 発生した触手で、高台のひとつに狙いを定める。ひとつだけ、ほかの三ヶ所の高台からは見えない位置に立っている。あきらかに構造上の欠陥だ。
 見張りがこちらに背後を向けているあいだに、すばやく触手を伸ばし、高台の柱に根を張らせる。そして、跳躍――触手がファストロープ代わりとなって、高台に向け、急速に上昇移動する。
 俺が高台に着地すると同時に、見張りがふりむいた。俺は相手のひざにするどく蹴りを入れ、体勢をくずさせてから、そのまま腕をねじり上げた。
「騒ぐな。声を上げず、音を立てるな」
 俺は男を床に押しつけた。
「かんたんな質問をする。女の子を見てないか?」
「み、見てない」
 男は、苦しそうに言った。
「彼女は無事か?」
「せいぜい祈ってろ」
「どうか俺の手が血で汚れませんように」
 俺は祈った。
「女の子だ。若い。ヒューマン。聞き慣れない言語を用い、変わった服を着ている」
「放してくれっ」
「どこだ?」
「……知らな」
「知ってるか」
 俺は相手が言い終えるのを待たず、力点をずらす。
「ここの骨は、折れると痛いぞ。想像よりも、ずうっとな」
 ずらしていく。
「ああああああああああ! し、知ってる!」
「痛みのことか?」
「おおお女の子だよ!」
 男は泣きじゃくりながら、答えた。
「クラタが連れてくるのを見た。居場所も知ってる」
「そいつはよかった。手間がはぶける」
 おおまかな場所の情報を口走った男をその場に気絶させると、俺は動きだす。久々に明快な目的だ。ミイの奪還。そのためなら、手段を問わない。
 そういえば、目的を訊くのを忘れていた。敵の数や規模も。相手にしようとしている団体には、魔法を使える者もいるかもしれない。
「魔法がなんだってんだ。こちとら、二十二世紀のお世話iNOIDだぞ」
 だれにも見つからず、砦のなかに侵入し、ミイのもとへ急ぐ。
 このあたりだろうか、というところで、声が聞こえてきた。扉のひとつ、その内側からだ。くぐもっていてよく聞こえなかったが、ミイの声だ。
 俺は扉に耳を押し当てた。声と足音からして、人数は七人前後。ミイの足音は聞こえない。身動きがとれないのだろうか。
 ミイのスマートフォンを操作し、床に置いてから、触手を伸ばし、天井に張りついた。直後、スマートフォンから、軽快なポップスが流れ始めた。
 扉が勢いよく開き、体格のいい男がひとり、剣をかまえて外に出てきた。廊下を左右見渡し、やがて床の上のスマートフォンの近くでかがんだ。
「なんだ、こりゃあ」
 俺は男の真横に着地した。羽交い締めにし、鋭利に変化した腕を首に突きつける。スマートフォンを拾って男の背中を押し、部屋のなかへと足を踏み入れる。
 男たちは、ほかに八人いた。その中央で、ミイが椅子に縛られていた。
「お前ら」
 俺は、声を絞り出した。いかなる論理的思考より、感情が優先されていた。
 男たちのうちひとりが進み出た。男の頭部は、豚のそれだった。正直おどろいたが、現状確認を優先する。屈強そうなからだつき、高い背丈。こいつが、ミイの拉致を指揮した、あの足跡の男だと直感した。
「彼を放せ」
「手順ってものがある。その子が先だ」
 言い返す。取り巻きの男たちは、動揺し、互いを見ている。
 やかましい音が鳴り響いた。
 クゥ・リ・オだった。
 俺が入ってきたのとは反対側の扉に立ち、両の籠手を打ち鳴らし、ちょっと待った、とさけぶ。となりには、カチュターシャのすがたもあった。
「待ってください、クラタさん!」
 俺は、彼女たちと、豚の顔の男を交互に見た。
「……やっぱり、知り合いか?」
 カチュターシャに確認する。
「ええ、ユウさん。彼は雑貨商をしているクラタさん。オークなんです」
「説明してほしいな、クラタ。どうして、あの子を拉致した?」
 クゥが腕組みし、豚面の男をにらみつけた。
「この男が、オレの娘の首を切り落としたからだ。その女の子も、そのとき、そばにいた」
 カチュターシャが息をのんだ。
「なっ――ユウさん、ほんとうですか?」
「ちょっ、待てよ! ユウはそんな腐ったヤツじゃない」
 クゥが俺をかばって、さけぶ。
「交わったアタシには、よくわかる」
「交わったって――! クゥ、あなた!」
「そんな、うろたえるなって。拳を交えたって意味さ」
 あのとき彼女は、あきらかにそれ以上踏みこんでこようとしていた気がするが、いまはおたがいのため、黙っておく。
「……確認したい」
 俺は口を開いた。
「その、娘、というのは……死体じゃなかったか」
 俺の言葉に、その場の全員が一瞬、声を失い、俺を、そしてクラタを見た。
「そうだ。オレの娘は……死んでいた」
 クラタの口調は、静かだった。認めたくないことだったが、それは、ミイが連れ去られたとわかったときの俺に似ていた。
「だれかが墓を暴き、あの子の亡骸を持ち去った。探し、ようやく見つけた。草原でだ。魔法で調べてもらった。追跡魔法で、首を切り落としたヤツを見つけた。テメェだ」
 クラタの充血した目が、俺に向けられる。
「テメェは、オレの娘の遺体を盗み、傷つけ、首をはねた。そうだな」
「ちがう」
 俺は首を振った。
「それは事実ではない」
「すべてか? いま言ったことすべてが、まちがいだと?」
「部分的には……。あの死体は、俺たちを襲った。だから止めた。それが、真実だ」
「――なに?」
「あの死体は活動していた。動いていたんだ」
 男たちだけでなく、カチュターシャたちまでもが、動揺していた。どうやらこの世界でも、死体というのは動かないものらしい。それなら、なにが起こっていたのか?
「やめろ」
 クラタの声がふるえている。おそらくは、怒りで。
「死者を冒涜するな」
「俺じゃない。あの子を冒涜したヤツは、ほかにいる。信じろ、クラタ! あの子は、まちがいなく亡くなっていた。それなのに動いていた! 動かされていた!」
「世迷い言を――」
 クラタが、壁に立てかけてあった斧をつかみ、振り上げた、そのとき。
 ボーッと、船の汽笛に似た音が響き渡った。
「ダグラスの角笛だ」
 男たちのひとりが言った。
 笛の音は幾度か聞こえてきたが、最後に、不自然な途切れかたをした。
「野郎、なにかあったんだ」
「落ち着け」
 クラタが場を鎮め、俺に向きなおる。
「あれは見張りの人間が、危険を知らせる合図だ。だれかがはるばる、この砦をたずねて来たらしい。お前の友だちか?」
「友だちはいない」
 俺はクゥたちを見た。
「これで全部だ」
 窓が揺れた。男たちのひとりが、剣をかまえ、窓脇の壁に張りつく。
「なにか見えるか?」
「ちょい待ち」
「外の連中は?」
「どうかねぇ……いや、なんも見えん」
 直後、窓を突き破り、人の腕が突き出された。その手が、窓脇の男をつかみ、窓の外へと引きずり出し、あっという間に、連れ去ってしまった。
 呆然と、全員、立ち尽くす。
「トム爺さんが、いた」
 男のひとりが腰を抜かし、言った。
「一瞬だけど、見えた。むこうの壁、伝って……こっち見てた」
「しゃんとしやがれ!」
 クラタが男の首根っこをつかみあげ、立たせた。
「全員、窓から離れろ! 武器を持て!」
「俺、あの爺さんの埋葬、手伝ったんだぞ。この手で……」
「やいユーリカ! しっかりしねぇか!」
 俺は人質にしていた男を突き飛ばすと、ミイに走り寄り、その拘束を解いた。
「テメェ!」
「クラタ、ちょっと待った」
 クゥがクラタの前に立ちふさがる。
「見ろ、この状況。信じがたいけどさ、ユウが正しいのかもしれない、そうだろ?」
「クゥ」
 俺は呼びかけた。
「ミイを頼む」
「は? オマエは?」
「さっき、見張りをひとり、眠らせた。彼が死んだら、俺の責任だ」
 いや、それどころか。彼を眠らせたことは、この事態を、かなり悪化させているのではないか? 彼の見張り位置は、死角をカバーするものだった。彼が起きていれば、もっと早い段階で、この襲撃を察知できていたかもしれない。
「ユウ?」
 ミイが、俺の腕にしがみついてくる。いま、彼女のそばで守ってやらないといけないのは、わかっている。だが、俺は、俺にはミイからもらったモノがあるから。あるはずだから、あの見張りを見捨てることは、できない。できてはいけないのだ。
 俺は、そっとミイの手を放す。
「すまない、すぐに戻ってくる。どうしても、しなきゃならないことがあるんだ」
「ユウ、オマエ」
 クゥが俺を見ている。あまり、優しい表情とは言えない。
「優先順位をはきちがえるなよ」
「……どれもこれも、必要なことなんだ、俺が俺であるには」
 扉に手をかける。
「すぐ、戻る」
 そして、俺は部屋を飛び出す。

       *

 絶対的な結果として、確定した具体的事実として、俺は、間に合わなかった。
 奴らが見張りの残骸を漁るのを目にして、俺は一瞬、息が詰まった。
 胸をつかみ、ぜいぜいと息を吐く。
 奴ら。そのすべてが、死者だ。心臓が停止している。絶対的死者だ、どう考えても死んでいる、とっくに死亡が確定している。
 死者のひとりが顔を上げた。白濁した目で俺を見る。首をひねり、ク・キ・キ、と音を発した。
「どうして、動いている?」
 俺は、ゆらりと後ずさりする。
「どうして、なんのために、動いて、襲っている?」
 あるいは、どうして、動かし、襲わせている? 何者かの意思を、俺はここに、感じ取っている。第六感めいた予感。だれかが、死者たちを操っている。
「クキキ・キ・ハ・ハハ・サア……ナンデ・カ・ナア?」
「なに!?」
 俺は目をみはる。死者が口をきいたのだ。
 死者たちが飛びかかってくる。
 俺は扉をバタンと閉め、階段を駆け下りる。扉に衝突する肉の音が響いてくる。
「くそっ」
 燭台の火が消えるほどの速さをもって、ミイのもとへ走る。
 男たちの数は、半分ほどに減っていた。先ほどより広い部屋に逃げこみ、家具を動かして窓にバリケードを張ろうとしているところだった。ユーリカと呼ばれていた男が、床に血まみれで倒れていた。絶命している。襲われて重傷を負い、ここまで運ばれてはきたものの、息絶えてしまったのだろう。
 クラタを入れて男たち五人。カチュターシャ、クゥ、それにミイ。俺は、面々を見渡し、状態を確認し、こちらに駆け寄ってくるミイを抱きしめる。
「どうします」
 カチュターシャとクゥもとなりにやってくる。
「戦闘に魔法は使えるか?」
 カチュターシャは首を横に振る。
「生き残っている人間で、魔法を使えるのはわたしだけです。そのわたしも、回復魔法以外は、日常用途程度のものしか使用できません」
「連中の動きを見た。立てこもるのはムリだ」
 俺はバリケードを見やる。
「すぐ破られるぞ」
 俺は、ひとつの選択肢を真剣に吟味している。ミイだけを連れ、ここを脱出するという手段。残りの者は、いわばオトリだ。だがそんなことを、ミイは許さないだろう。
 俺は顔を上げる。
「ここはよくない。この砦の内部構造は、入り組みすぎてる。連中は壁や天井さえ伝って移動してる。ここにとどまれば、三次元の襲撃を受けることになる。壁のない外に出れば、前後左右、四方だけ守ればいい。上下を気にする必要がなくなる」
「テメェの指図なんか受けるか。娘の亡骸を、あんな風にあつかっておいて」
「ここで見ただろ。死者が動いてるんだ! 言い訳はしない。俺は、自分たちを守るために、彼女のからだを傷つけた。そのときのことを、たしかに俺は、話さなくちゃならない。いいや、聞いてくれ、クラタ。――彼女の意思だったのか、その残響だったのか、ともかく俺は、彼女の声を聞いた」
 思いだす。
「彼女は、眠らせてくれ、と」
「テメェ!」
 クラタが俺の胸ぐらをつかむ。止めようとするカチュターシャを制し、俺はクラタの目をまっすぐと見た。その瞳のなかに、怯えに似たなにかが光る。
「彼女は、それから、こうも言った」
 俺は、どこにも行けず浮遊していた言葉を、届くべき相手に届ける。
「愛してるパパ。答えは夢だよ。そこで会おうね」
 クラタの表情が変わる。
「意味は、伝わるか?」
 すぐには答えず、クラタは俺を放す。その巨大な手で目もとを覆う。
「……太陽が沈むと開く宝箱がある」
 クラタは、人が変わったように、静かで優しく哀しい声を発した。
「そのなかには、失くしてしまったものがすべてあって、それらに触れることができる。けど決して取り出すことはできず、朝日が訪れると箱は閉じてしまう」
 かすかに、からだをふるわせる。
「娘が無邪気に出してきた謎かけだ」
 クラタは涙を流さなかった。ただ、なにかに身を浸すように、じっと床を見つめていた。手に持つ斧の切っ先が、床すれすれを揺れている。
「……コイツの言うことを聞こう、クラタ。外に逃げよう」
「マエ?」
 マエと呼ばれた青年は、俺をあごで示した。
「理にかなってる。ここじゃ、まるでヤツらの狩り場だ」
「廊下だ!」
 べつの男がさけんだ。廊下の、床を、壁を、天井を、死者たちが這ってきていた。
 数人がかりで両開きの扉を閉め、タンスでふさぐ。だが、扉の強度からいって、破られるのは時間の問題だった。
「ここを出よう!」
 窓のバリケードの隙間から伸ばされる死者の腕を切り落としながら、マエがさけんだ。
「アンタが正しかったんだ! コイツら、みんな死んでるッ! リリーも、エジも、ミユキも、見知った顔が大勢いやがる。アンタが正しかったから正しいんだッ!」
 窓のバリケードがくずれた。死者が数名、流れこんでくる。床に上体から落ちたが、痛みを感じるわけもなく、すぐに立ち上がり襲いかかってくる。
 男のひとりがあっという間に囲まれ、窓から外へ引きずり出されていった。
「カーター!」
 だれかがさけび、べつの窓ガラスがバリケードごと砕ける。
「くそったれっ!」
 マエの攻撃が、空を切った。死者がマエに詰め寄る。ガードが間に合わず、がら空きとなった頭部に、蹴りが入った。死者が、足蹴りという技術を用いた。
 激しく壁にたたきつけられるマエ。双剣が床に散らばる。
「マエ!」
 クラタが援護に走る。
「っ危ない!」
 俺はさけび、とっさにクラタのひざを蹴った。大きなからだがバランスをくずし、「なにしやがる!」とわめくクラタと俺の顔のあいだギリギリを、矢がかすめ飛んでいった。
 直後、べつの矢が飛来し、マエの頭部をつらぬいた。マエのからだが、ひくひくと双剣の上にくずれ落ちる。
「なっ――弓も使うのか!?」
 事態を察知したクラタが弓兵をさがす。俺も後ろへ身を滑らし、あたりを見回す。
 進入してきたのとはべつの窓際に立った弓兵は、次にミイを狙っていた。
「ミイ!」
 走り、彼女を抱きしめた。ナノマシンによる防護が間に合わず、背中に四本の矢が刺さったことを、痛覚とともに感知する。腕のなかでミイが悲鳴をあげた。
 俺はふりむき、次の矢をかまえようとする死者へと一気に距離をつめ、つかみかかる。もみ合っているうち、いきおいあまって窓ガラスを突き破った。
 落下していく。
 ナノマシンを体内で張り巡らせ、脚部を筋力増強し、衝撃に備えた。地面との距離、ゼロ。死者をクッションにし、着地する。
 背中に刺さりっぱなしだった矢を体内のナノマシンが押しだし、抜き去る。
 ピクピクと痙攣する死者の握力を逃れると同時、触手を伸ばし、頭上の窓枠を、とらえる。部屋のなかへと戻り、窓縁の上から、状況を俯瞰する。ここまで人数が減ってしまったいま、立てこもるのは現実的ではない。
 もう、守りはムリだ。
 俺は廊下につながる扉へとむかい、思いきり蹴破った。衝撃で、扉に殺到していたらしき死者が数名、吹っ飛んでいった。
「逃げるぞ!」
 俺のさけびに、カチュターシャとクゥがうなずいた。
「ミイ、逃げよう!」
 ミイにも、日本語でさけぶ。
 クラタたち三人はわずかにためらっていたが、顔を見合わせ、俺たちにつづいた。

       *

 クラタたちの戦闘能力は、それなりに高かった。これで生粋の戦士ではないというのだから、おどろきだった。
 クラタは先頭に立ち、斧で、次々とむかってくる死者を切り捨てていく。一連の動作が自然で、いちいち立ち止まることもない。
 俺の前を走る男の真横から死者が飛び出してきた。青白い裸体が男に体当たりして、もろとも窓を突き破り、外に落ちていった。すこしまえに、俺が人質にした男。悲鳴も聞こえなかった。俺たちは足を止めなかった。死から逃れるため、足を動かしつづける。
 死者を避けて走るうち、壁天井のない、渡り廊下に出た。砦の建物と建物をつないでいる。俺だけが気づいた。
「ミイ!」
 俺はさけんだ。ミイをかばう。
 右腕に異変があった。その異変とは、痛みであり、損壊であり、喪失であった。
 右腕が食いちぎられていた。ドラゴンに。肘から先が消えていた。あっという間に。
 それは、ドラゴンだった。
「ウソだろ? ――あれも死者なのかっ!?」
 だれかがさけんでいた。
 漆黒の鱗につつまれた肉体。まさしくドラゴンだった。翼の生えた死が、上空を舞っていた。
 ドラゴンの死体が消えた――男たちの会話を思いだす。
 俺は倒れこむ。血中を泳ぐナノマシンが、すでに傷口をふさぎ、止血している。だが、突然の対処に、ナノマシンが全エネルギーを右腕にそそいでいる。
 十秒は動けない。冷静に、自分の状態を判断する。その十秒は、絶対的に命取りだ。
 立ち止まってしまった俺たちを、ドラゴンが狙う。翼を広げ、強烈な風圧とともに飛来してくる。あんなのに襲われたら、ひとたまりもない。
「止まるなっ、行け!」
 大声が、膠着を打ち砕いた。
「たいせつな人を守れ! ぜったいに、手放すな!」
 クラタが気迫とともに声を張り、斧をかかげ、渡り廊下から飛び出した。
「ウオオオオオオオォォッ!!」
 咆哮が響きわたった。
 オークの肉体が弾丸のごとく跳躍し、ドラゴンの頭めがけ、斧を振り下ろす。
 ドラゴンの口がパックリと開き、杭のように長く大きな牙が迫り、巨躯のクラタを丸呑みにした。彼の斧が宙を舞い、ドラゴンの鼻を打った。ドラゴンがひるみ、後退する。
 俺は激昂した。理不尽な死に対して。それを招いた、己自身の未熟に対して。よみがえる死者に対して。目の前のドラゴンに対して。すべての状況に対して。
 からだが動いた。
 無事な左手を伸ばし、ミイを抱き上げ、駆けた。
 まばゆい赤が、爆ぜた。ドラゴンが火を噴いたのだ。それはカチュターシャを狙った。
 彼女は、軽やかにステップし、炎を避けた。だがその炎による攻撃はフェイク――つまりフェイントだった。ドラゴンの前脚が近くに建っていた見張り台を砕きながら、カチュターシャに振り下ろされた。彼女は間一髪それをかわしたが、くずれてきた見張り台の壁石をもろに受けて倒れた。気を失ってしまったようだった。
「カチュ!」
 クゥがさけんだ。彼女らしくない、あせりの色がにじんでいた。
 俺は逡巡する。
 ミイのことを一番に考えるなら、カチュターシャを見捨てるべきだった。彼女を、置き去りにすべきだ。
 だが、それをすれば、ミイはなげくだろう。悲しむだろう。
 そしてなにより、冷静に機械的に、無機質に、あくまで合理的に、そういう行動をとってしまう自分は、ミイとは遠くかけ離れた存在になってしまうかもしれない。
 ミイを見る。彼女はショック状態で、顔面蒼白だ。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだ」
 俺はささやく。
「ミイは強い」
 ミイは知っている。止めてもムダだと。止めるべきではないと。
「行って、ユウ兄」
 ふるえる声。俺は意志をもらう。
「こっちだ!」
 クゥが拳を打ち鳴らし、大音声を張った。ドラゴンが彼女をにらむ。
「ユウ!」
 クゥが俺を見る。必死に、懇願してくる。
「助けてくれ! カチュを助けて!」
 そのときには、ようやく俺も動いていた。動けていた。
 ミイを下ろして走り、カチュターシャの近くに滑りこみ、左腕だけで彼女を持ち上げた。逃げようとしたところで、ドラゴンと目が合う。戦慄。汗が背中を伝う。
 俺は、無数の触手を放った。膨大なエネルギーを消費するため、一日に何度もは使えないであろう、奥の手。伸ばした一本でミイのからだをつかまえ、一本でクゥを持ち上げ、もう一本で生き残っている青年をとらえた。そして、彼ら全員を引っ張り、俺は後ろ向きに、渡り廊下から飛び降りた。
 数本の触手をワイヤー代わりに使用した。俺たちは、地面にやわらかく着地した。
 建物のむこう側にいるドラゴンが飛び立つ音が聞こえてくる。俺たちは全速力で走った。砦の敷地を抜け、森に逃げこむ。背中のカチュターシャの状態は、あまりよくない。
「彼女の傷、魔法とかで治せないのか?」
「回復魔法を使えるのは、カチュターシャ本人だけだ」
「くそっ、そうだった」
「死ぬなよ……死なないでくれよ、カチュターシャ」
 森を、どんどん奥へ抜けていく。
「待て!」
 クゥがさけんだ。
「どうした?」
 クゥと青年が足を止めたので、俺もしかたなく立ち止まる。
「早く逃げないと」
「この先は、魔の森ってヤツだ」
「魔の森?」
「このあたりにくわしいヤツなら、だれも近寄らない」
「……まえにカチュターシャが言ってた、汚染域がどうとか?」
「それともちがう。古くから言い伝えられているんだよ。この森に入って、生きて帰ったものはいないと」
「けれど」
 俺は周囲を見回す。背後にドラゴンが迫っている以上、ほかに行き場はない。
「ここで立ち止まっていても、生き残れないぞ。俺たちも、カチュターシャも」
 伝承は、ときに真実をふくむ。警告としての価値がある場合も多い。だがいまは、確実な脅威が迫っている。
「――わかった、進もう。ユウ……」
「右腕のことなら心配ない」
「背負うのを代わろうか」
「だいじょうぶ。けど突発的な戦闘には不利だ。先導してくれ」
 クゥがうなずき、先に走りだした。

       *

 俺たちは、森を抜け、荒涼とした空間に出ていた。円形状に森に包まれ、外界から切り離されている。その中心に、巨大ななにかが鎮座していた。
「……なんなんだよ、コレ」
 それは、あまりにふさわしくなかった――状況に、場所に、世界に。不釣り合いで、折り合いがついていなくて、浮いていて、際立っていて、寒気がした。
 俺は、ミイの口笛と、彼女が木のテーブルの上でブラインドタッチするノートパソコンの打鍵音を思いだしていた。この世界で、グレーのアルミ製ラップトップは、はげしく違和感を醸し出している……。
 メインの部位が円筒形の物体。それは、いわゆる飛行機だった。あるいは軍の輸送船に似ていた。しかし、でかい……バカでかい。表面は、グレーの金属製。はるか昔に不時着したように見える。地面と衝突した箇所――底がつぶれてしまっていた。
 いや――ちがう。
 底はつぶれてなどいない。めりこんでいる。土のなかにすっぽりと埋まっている。
 この重厚な物体――おそらくは飛行物体が不時着したのは、ずっと昔の話だろうから、あとから土が隆起して、接地面を覆ってしまったのだろうか。
 そもそも。不時着したにしては、傷がほとんどないことも変だ。擦れた跡すら見当たらない。では、普通に着陸したのか? だが物体は、斜めに地面へと突き刺さっているのだ。まるで突然、このかたちで、この場に出現したかのようだった。
「ドラゴンは追ってこないな」
 クゥが後ろを振り返りながら言う。
「やけに、かんたんに引き下がったな」
 魔の森……。
 死せるドラゴンですら、この場所を恐れているというのか? それとも――。
「イヤだな」
 クゥがつぶやく。
「死のにおいがする。たしかに、この世界は、とっくのむかしに死んでるさ。けど、この森は――そんなの凌駕してる」
 俺は、いったんカチュターシャを下ろし、比較的やわらかそうな土の上に横たえた。
「……ひどいな」
 彼女の傷は、皮も肉も斬り裂き、かなりの深さにまで達していた。
「応急処置しないと」
 クゥが、両手に持ってきたなにかを、患部へと押しつけた。おそらくは、薬草のたぐいだろう。カチュターシャの顔が苦痛にゆがむ。
「ごめん、ごめんよ、すこしのガマンだから」
 クゥが呼びかけながら、テキパキと処置をほどこしていく。
「ゆゆゆゆゆゆゆゆ」
 妙な声が聞こえた。振り向くと、ミイだった。
「なんだ? どうした」
「ゆゆゆゆユウ兄! ううう腕! 腕がが!」
 俺の右腕を指さしてくる。
「ああ。なくなった」
「そんな! そんな!」
「だいじょうぶだ。痛覚は遮断したし、もう痛まないから」
「そゆことじゃない!」
 ミイが自分の髪をわちゃわちゃとかき乱す。
「ユ、ユウ兄! ちょっちょっとあたし、あわててててて――」
「落ち着け!」
 俺は左手を伸ばし、ミイの肩に置く。
「あああもう、なんであたしが元気づけられる側! なにやってんだろ」
 ミイは両手でピシャリと自分の頬を打った。そして言う。
「ごめん、ユウ兄。あたしのせいで。……あたしのせいだ」
 そこまで言って、ぽろっと涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう。ユウ兄。ごめん、ごめんね……」
「よしてくれ、ミイ」
 俺は肩に置いていた左手を動かし、彼女の涙をすくった。
「俺は、ミイが無事でうれしいんだ。これ以上にうれしいことはない。だから、俺はつらくなんてない。わかるか?」
 彼女は、ふるふると首を横に振る。
「泣かないで」
 俺は、ぎこちなくありませんようにと願いながら、笑みを浮かべて見せる。
「ミイはおぼえてないかもしれないけどな、むかし、言ったことがあったんだ。この右手は、お前のために使うんだって」
「なにそれエロい」
 ミイが顔を伏せたまま、そんなことをつぶやいた。
 待て。
「いや――エロくはないだろ」
「あたしを使って右手でとか……」
「言葉を並べ替えて曲解するな!」
「やらしい」
「ちょっと待て。俺はいま、イイ話をしてたんだ」
「うん。ありがとう」
 急に素直に礼を言われた。俺は、うまく言葉が出てこなくなった。
「……つまりだな、結果としてミイを救えたんだから、俺の右手は本望だったというか、本懐を遂げたというか……」
「ありがとう。ごめん、なんて言って……ごめん。ほんとうに、ありがとう」
 俺は、今度こそなにも言えなくなった。油断すれば泣いてしまいそうだった。
 ミイは強い。俺よりも、はるかに。彼女の強さは、俺の弱さを補ってあまりあるものだ。
「おかげさまであたしは、万事おっけぃ」
 いつもの決めポーズで、ぐいっと口端をつり上げ、ミイは笑顔を作る。
「小さいころ、ユウがこれ教えてくれたよね。どんなに悲しいことがあっても、こうやってムリヤリにでも笑っていれば、きっと状況がよくなるってさ」
 ……そうか。彼女は、忘れているんだ。このことすらも。
「ちがうよ」
 俺は言った。
「もともとこれは、俺がミイから――」
「悪い、ユウ。ちょっと、いいか?」
 クゥが遠慮がちに入ってきた。
「ああ……すまない。カチュターシャがあんな状況なのに」
「いや、そんなことは、いいんだ。前向きでいてくれることは、ありがたい」
「カチュターシャの様子は?」
「よくない」
 クゥは、暗い顔で首を振った。
「もう陽が沈む。どこか晩を明かせそうな場所をさがさないと」
「ああ……だな。このなかは、どうだろう」
 俺は、物体を見上げた。
「なか? コイツに入れると?」
「入れるはずだ。乗り物だと思う」
「長く放置されているみたいだ。人工物……だよな。こんなのは見たことがない。なかに獣がいる可能性は?」
「これから調べるさ」
「……たしかに、このまま外を歩き回るのは危険だし、カチュターシャも、ちゃんと手当しなきゃいけない。それに、オマエのソレも」
 クゥは、俺の腕を横目で見てから、物体に近づいた。
「これが乗り物だとして? 乗りこみ口はどこだ」
 丸みを帯びた表面は、よじ登れそうもなかった。入り口をさがすが、それらしいものが見当たらない。窓ひとつない。
「動物の死がいみたいに冷たい」
 クゥが、物体の表面に手を滑らせ、つぶやいた。きゅきゅきゅと指の腹が音を立てる。
 俺も彼女にならって、歩きつつ全体を見わたしてみる。
「入り口、入り口……」
「……そこじゃ、ないかな?」
 ミイが指さす。小さなくぼみがあって、そこには、『開閉ボタン』と書いてあった。
 一瞬、見まちがいかと思った。
 そこに書かれていたのは、日本語だった。
 俺とミイは顔を見合わせる。
「なんて書いてあるんだ? これは。まったく知らない言語だ」
 クゥが腕組みする。
「二つの言語が合わさっているのか? 最初の二文字と次の三文字は、異なる文字体系に見えるが……」
「そこの突起を押すと、どこか扉が開くようだな」
 俺は言った。クゥが目を丸くして、俺を見る。
「これ、読めるのか?」
「ああ……まあな」
 俺は、思考が混乱するのを抑えつつ、答えた。
「どうなってるの、ユウ兄?」
「わからない。なかに、なにかヒントがあるかもしれない」
 俺はボタンを押した。すると、意外でもなんでもない、予想どおりのことが起きた。
 すなわち、扉が開いた。物体の表面の一部が上方にスライドし、空洞が生まれる。俺たちは、奥につづく暗闇を覗きこんだ。
 俺はポケットからペンライトを取り出し、なかを照らした。慎重に足を踏み入れたいところだが、物体が斜めに地面に刺さっているせいで扉の位置はやや高く、軽く地面を蹴る必要があった。乗りこみ、付近の安全を確認してから、ほかの者たちが登ってくるのを手伝う。
 物体内部は薄暗く、多分に湿気をふくみ、雨の日の午後のコインランドリーみたいな、においがした。わずかに空調の音がする。不快な、だがなつかしい、カビたエアコンの風。ちらつく照明。我らが文明――電力が稼働している。
「なんですか、ここ」
 クラタの仲間で唯一生き残った青年(彼は名前をルフィンといった)が言った。
 白い壁が、床が、天井が、廊下がつづいている。引いてあるラインや、壁の膝くらいの位置に等間隔で並んでいる非常灯の青白い明かりだけが、区切りであり、道しるべだ。微妙に不親切な構造。内部に攻めこまれたときのことを想定している?
 通路は上り坂になっている。これも、物体が斜めに突き刺さっているせいだ。床の材質は硬く、病院のようにつるつるしている。
 通路の両側に、いくつか扉があったが、いずれも開かなかった。俺の力でも、こじ開けることはできなかった。コントロールルームに行けば、制御できるかもしれない。
「おお」
 前方から声がした。俺たちは、ギョッとなって立ち止まり、闇の奥を見つめた。
「やあやあ、親愛なるお客さまっすか」
 ペタペタ、ペタペタペタ、ペタ、と音がした。不規則すぎて、最初、それが足音だと気づかなかった。
 そうして、少女があらわれた。ぶかぶかの白いローブを身にまとい、手には、少女の低い背丈よりも長い杖を持っている。彼女は裸足だった。
「親愛なる我が家へようこそっす」
 少女は、仏蘭西人形のような顔立ちをしていた。だが、さきほどまで死者たちを相手にしていたこともあって、彼女の生きた表情には安心感があった。
「ここが、家?」
「はっはは」
 俺の問いに対し、特異な笑い声で応え、少女はペタペタと裸足のまま奥に進む。
「散らかってるけど、気にしないで、くつろいでくれっす」
 通路が、わずかに広いスペースへと突き当たった。そこは、ただのT字路だった。部屋でもなんでもない。少女はそこで、たき火をしていた。空調が問題なく動いているためか、酸素の欠如や煙がたまる様子はない。それと等しく、スプリンクラーが作動する様子もなかった。電力はともかく、水はもう残っていないのかもしれない。火の上につるした器のなかで、スープがグツグツと煮立っていた。
「ちょうど夕食にしようと思ってたとこだったんすよ。いっしょにどうっすか? 大勢での晩餐、いやあ、うれしいなあっす」
 少女はローブの裾を引きずりながら、歩き回った。
「さささ、遠慮なく遠慮なく。どうぞどうぞ、座って座ってっす」
 俺たちは、目を交わし合った。無言の議論の議題はもちろん、どうする? であり、信用できるか? だ。
「信用してくれっす」
 少女は、パタパタと両腕を振り、主張した。
「親愛なるみなさんも、親愛ならざる死者に追われてきたんすよね? この森には追ってこない。そうっすよね? だったら、境遇はおなじっすよ」
 杖を持たないほうの手を差し出してくる。
「親愛なる私の名前は、ネクサっす」
「……俺はユウ。こっちはミイ。それに、クゥとルフィン。その子はカチュターシャ」
「ケガしてるっすね」
 ネクサは俺たちをひとりずつ見た。
「片腕さんが親愛なるユウ、そっちのエルフさんが親愛なるカチュターシャ」
「ああ。治癒魔法を使えないか?」
「あちゃー。親愛なる私、魔法はてんでダメでして」
「薬とか、持ち合わせていたら、分けてくれないかな」
「とりあえず、親愛なるカチュターシャを火の近くに寝かせてあげてくださいっす。親愛なるユウも休んどくっすよ。ちょい探してみるっすから」
 パタパタと奥へ走っていってしまった。
 俺は、警戒心を完全にとくわけではないが、一段落ついたと、肩の力を抜いた。それを見て、ほかの面々も息をつくのがわかった。
 いつものクセで右手の指を数えようとして、それがそっくりすべて失われてしまったことを思いだした。ひじから先には、なにもない。なくしてしまった。
 クゥが、ギョッとしたようにこっちを見る。
「オマエ、なんで泣いてるんだ」
「ええ?」
 ああ。俺は泣いているのか。泣いていたのか。
「なんでもない」
 最低限の所作で目もとを拭う。
「ありがとう、ユウ」
 クゥが言った。
「彼女を助けてくれて」
 カチュターシャの意識はまだ戻っていなかった。思った以上に容体はかんばしくないようだ。
「もし……もしもカチュターシャがいなくなってしまったら……」
 クゥがカチュターシャの手を握る。
「アタシ……ひとりぼっちになる。こんな、世界で」
 肩をふるわせる。彼女は、年相応の女の子のように、小さく、か弱く見えた。そのすがたに、一瞬、幼き日のミイを思いだす。
「ひとりは、イヤだ。イヤだよ……」
 クゥはカチュターシャの手を持ち上げ、額に押しつける。
「がんばれ。がんばれ、カチュ。アタシを……ひとりにするなよ……」
「――クゥ」
 か細い声が漏れた。
「カチュ? カチュ!」
 クゥが腰を上げ、カチュターシャの顔を覗きこんだ。
「クゥ……」
「カチュ! アタシだよ、ここにいる! わかるか?」
「逃げて……逃げて……」
 目を開くことなく、苦しそうに、うわごとをくりかえす。
「うなされてる」
 クゥは、カチュターシャの額に浮かんだ汗を拭った。
「かわいそうに」
「逃げて……」
「カチュ。アタシはだいじょうぶだよ。なんとか逃げきったんだ。いまはゆっくりして」
「……ユウさん」
 自分の名を呼ばれ、俺はエルフの少女を見る。
「ユウさん、おねがい、カチュを……」
 消え入りそうな声は、やがて沈黙に溶け、聞こえなくなった。
 近くにきたミイが、俺の耳に口を近づけた。
「ユウ兄、言葉を教えて」
「教えるって?」
「あたしの言葉を翻訳してほしい。そして、発音を教えて」
「必要なら、直接、俺が通訳するけど」
「ううん。自分の口から、伝えたいんだ。ほんとうは、自分の言葉で伝えたいけど、それはまだムリだから。お願い、手伝って」
 俺から発音を教わり、ミイはカチュターシャに一歩、近づいた。クゥが、わずかに身を寄せ、ミイにゆずる。
「カチュターシャ」
 たどたどしく、ミイは言った。
「ありがとう」
 クゥがミイを見る。
「モンスターから助けてくれて。とても親切にしてくれて。この世界にきて、右も左もわからないあたしたちに、居場所をくれて。ご飯、すっごく、おいしかった。夜の見回り、今度からは、あたしも手伝う。だから――」
 ミイは、涙を流した。クゥがおどろく。俺は、おどろかない。ミイは、こういう子なのだ。人一倍感じやすく、出逢って間もない少女のことを本気で心配する、そういう、人。
「がんばれ」
 ミイは言い終えた。俺は、場を離れた。
 自分の判断の遅さが、呪わしかった。ミイのために、カチュターシャを見殺しにしようとした。だが、おなじ場面に出くわせば、やはり俺は、ためらうのだろう。
 離れたところに座る。
 俺は、ミイに返すタイミングもなく、持ったままだった彼女のスマホを取り出した。壁紙は、見たことのある絵だった。
 ……こんなかたちで、まだ持っていたのか。
 俺は、ミイのために物語をでっちあげた日々を、思い返した。
 iNOIDにインスピレーションなんてものがあるのかは、わからない。ミイを喜ばせたい、楽しませたい一心だった。紙ナプキンやチラシの裏、とにかく白い紙ならなんでももっておいて、どんどん書きつけた。
 そうして俺がかつて書いた物語、そのひとつ。――とある竜と人との物語。
 その挿し絵。物語に魅了されたミイが描いたもの。それは、結末部分だった。
 竜は、数多くの血で赤く染まった自分のすがたを、だれかに見られるのがイヤだった。だから、同色にまぎれる夕陽のなかでしか空を飛ばなかった。
 ラスト、竜は自分の背に大切な人を乗せ、蒼穹へと羽ばたく。だれもがそのすがたを見上げ指差し、悲鳴をあげるなか、しかし竜は、誇らしさで胸がいっぱいになる。そうすることで、竜は、その人を救えたからだ。
 ミイは、絵が上手かった。
 群青色の大空にて自分の勇気と居場所を見いだす竜の姿を、生き生きと描いている。だからこそ不思議だったのは、その背に乗る人の顔だ。場面と服装からして少女だが、その表情は描かれていない。肌色でつぶされてしまっている。
 ネクサが戻ってきた。ミイたちになにかを手渡す。俺はスマホをしまった。取っ手の長い銀の皿に黄緑色のスープをのせて、ネクサは俺のむかいではなく、となりに腰を下ろした。スープを差し出してくる。
「ひどい顔、してるっすね」
「もともと、こういう顔なんだ」
「はっはは。そいつはウソっすね。ほら、飲めば元気でるっすよ」
「薬、あったのか」
「あまりちゃんとしたのは、なかったっす。応急処置は、親愛なるクゥがしているみたいだから、もう薬というより、自然治癒に期待、という段階っすね」
「訊いてもいいか」
「なんなりと」
「ここは、なんなんだ?」
 俺は周囲を見回す。
「この物体は――この、船は」
 書かれていた日本語、内部構造……。この船は、この世界のものではない。
「残念ながら、その問いには答えられないっす。親愛なる私も、ここに滞在してるだけっすからね」
 俺は、考える。この世界で、かつて起きたという戦争とは、なんだったのか。だれとだれが、どことどこが、なにとなにが、戦ったのか。
 もし。もし、この物体――この船が、俺の知る世界から来たのだとしたら。この船こそが、この船を作った世界こそが、この世界の敵だったのだとしたら。
 俺が、作られた意味は。敵は。
 深く考えず、スープを飲む。瞬間、からだ全体がアラートを発した。異分子の分解を試みる――だが、間に合わない。
 俺は、倒れこむ。倒れこみながら、ミイたちを見る。彼女らも倒れている。床には、彼女らが落とした銀の皿が転がっている。スープが、こぼれている。
「よかった。親愛なるユウにも、ちゃんと、効いたっすね」
 ネクサの声が頭上から聞こえる。俺は、床で頭を打つ。痛みがない。意識が遠のく。
「薬、ちゃんと探してきたんすよ。親愛なるユウには特別、強力そうなヤツを。魔力がこもってるっすから、まあ抵抗は無意味っすよ」
 俺は、さらに周囲を見る。見慣れたリュックサックが転がっていた。俺のだ。あの宿屋に置いてきたはずなのに、どうして。
「持ってきてあげたっす。必要なものもあるかと思って」
「なぜだ」
 かろうじて発せた言葉は、疑問だけだった。
「親愛なる家族をとおして、親愛なるユウたちのことは、観察してたんすよ。ずっと、見てたっす」
 闇に包まれていく意識。過去が追いつく。
「久々に興奮をおぼえたっす。見つけた、と思ったっすねえ。運命の人。わかってくれる人。理解し合える人。ほかの世界から来たんすよね。そして、親愛なるユウは、作られた存在――戦闘に特化して作られた存在。そうっすよね? 戦いのために。戦争のために」
 矢継ぎ早に言葉が降ってくる。半分も理解できない。沈んでいく。
「奇遇っすねえ。親愛なる私も、そうなんすよ。ここに対する反応で、ピンときたっす。親愛なるユウは、これが作られた世界からきたんすね? そこで作られたんすね? 親愛なるユウと親愛なる私は、それぞれ敵同士で、ほんとうなら、戦争で殺し合うはずだった。それなのに、ズレが生じて、こんなふうに出逢った。運命を感じたっすねえ。うれしかったなあ。ひとりぼっちな気がしてたっすけど、これからは、ちがうかも」
 逃げて――そうささやく声が、聞こえた気がした。
 俺は意識をこじ開けた。
 ダメだ。ここで落ちては、ダメだ。ミイがいる。そこに、ミイがいるんだ。
「安心してくださいっす」
 俺は床を這う。声が、ゆったりと追いかけてくる。
「親愛なるほかのかたがたは、ちょいと眠ってもらっただけっすから。親愛なる私が関心あるのは、親愛なるユウだけっすよ。一途で一筋っす」
 ミイ。ミイ。
「親愛なる私は、この世界で作られたっす。殺すために。死者を生き返らせ、生者を襲わせる死霊魔術師(ネクロマンサー)。死者たち――親愛なる家族はすべて、親愛なる私が統括してるっす。その目・その耳に入った情報はすべて、親愛なる私にそっくりそのまま入ってくるっす」
 俺は手を伸ばす。思ったよりも進んでいない。ミイは、まだ遠い。
「親愛なる私は、生命のないからだ――中身のない器だけをあやつれるっす」
 はっはは、と少女が笑う。魔物が笑う。
「さてさて。親愛なるユウは、どうっすかね?」
 待て。まさか。
 俺は戦慄する。恐怖する。イヤだ、それだけは。
「家族になろうっす、親愛なるユウ」
 わずかに顔を持ち上げ見上げると、ぶかぶかのローブを着た少女が、ヒツジに似た動物の面をかぶるのが見えた。杖をかざすすがたがあった。
 直後、精神に、体内に感じる、異物。自分のものではない、意志。
 拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。やめろ。やめろ。やめてくれ。
 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
「親愛なるユウは、死体と変わらないんすね」
 ヒトは、死んだら、モノになる? なら、もとからモノである俺は? 
 ちがう、俺は、ちゃんと持っている! ミイがくれたから、だから、だけど、もう右手はない、彼女が包んでくれた右手は、いや、俺は――。
 ――きみの権限は、きみがもっている。
 既視感(デジャヴュ)。まえにも、こんなことがあった。二度と、あってはならないと、心に刻んだ。
 たくさんの人が、死んだ。俺は、ミイを連れて、逃げ出した。
 あの、夕陽――。



   【log:
    <TITLE>
    One of my father. And his daughter.
    </TITLE>】


 生まれたとき、俺には二人の兄弟と四人の姉妹、それに五人の父親と、三人の母親がいた。ミイ? 彼女は、父親の一人――所長の娘だった。
 兄と姉たちは、わりとすぐ、いなくなった。弟と妹たちも、べつの部屋に連れて行かれた。だからというわけではないけれど、俺は、ひとりだった。いや、あるいはゼロだ。
 俺は、バカでかい水槽のなかで、肩までエメラルドグリーンの液体に漬けられ、大量のケーブルやチューブにつながれて、ただそこにいた。あるいは、どこにもいなかった。
 俺は、街の外の、壁の内の、ガラスのなかで生まれた。
 そこは――施設と呼ぶのは、思い出として無機質すぎるので、仮にホームと呼称する――実験・研究・開発をおこなっていた。ホーム・スイート・ホーム。
 監視はされているものの、知識の自由、ネットサーフィンの自由はあった。世界中の写真を見るのが趣味だった。とくに、空を写したものがお気に入りで、日の出や日の入りは、動画でも見た。アニメや映画、電子書籍もたしなんだ。
 ガラスの外では、常に五人の父親と三人の母親――研究者のだれかが、せわしなく動き回っていた。ご苦労なことだ、と俺は高みの見物をしている気持ちでいた。
 ときどき。
 彼女は、きた。所長の娘。幼い少女。
 彼女は、俺に興味があるような視線を送ってきつつも、周囲の研究者たちに遠慮してか、近づいてはこなかった。それでいい、と俺も思った。親近感をおぼえるには、彼女はあまりに人で、人すぎた。
 ある日の日常的で唐突なできごと。実験体〇〇一三――俺の、廃棄処分が決まった。
 なにかが、失敗だった。俺は不要となった。だから、消される。
 理解はできていた。決めるべき覚悟などなかった。黙って受け入れるだけだ。
 ガラスの外、だれかが駆け寄ってきた。自分の顔をガラスに押しつけ、俺を見る。所長の娘だった。なぜか、ほんとうになぜなのか、彼女は、泣きそうな顔をしていた。
 ガラスのむこう、彼女の言葉は、その唇の動きだけで読み取れた。
 ――パパ、あのこ、ないてる。
 泣いてる? 俺が?
 俺は笑った。声が、かすれた。嗚咽しているみたいに。
 おいおい。
 もう一度、笑ってやろうとする。笑い飛ばそうとする。だが、つっかえる。
 まるで、ほんとうに泣いているみたいだと、そう思った。
 それは作りものだよ、と所長が簡潔に説明しているのが聞こえた。だが少女は、なにが悔しいのか、首をブンブンと振る。まるで自分にまつわることのように、ムキになって訴える。いったいどうしたのかと、すべての研究員が手を止め、彼女を見る。
 ――だって、いきたいって、いってる。
 刹那、俺は両手を伸ばしていた。救いを求めるように、無様に。ガラス越しの少女にむかって。こちらを見つめてくる、その瞳にむかって。
 ガラスが邪魔をした。ガラスが、邪魔だと思った。そんなふうに考えたのは、初めてかもしれなかった。外に出たい、どこまでも広がる青空を見てみたい、と願うなんて。

 俺は、廃棄されずに済んだ。
 あるいは、延長されただけなのかもしれない。
 おそらくは秘密裏に、俺は、いましばらく、存在することを許された。

 それからというもの、ガラスのなかにあいもかわらず幽閉されてはいたが、所長の娘が積極的に話しかけてくるようになった。名前の発音はミイ。
「あなたの、なまえは?」
「〇〇一三」
「むー。なまえっぽくないー」
「……お父さんに言ってくれよ」
「じゃあ、あなたのなまえは、ユウね」
「ゆう?」
「あなた、はエイゴで、ユウっていうんだよ」
「アイ・アム・ユー、か」
 彼女は、自分が描いた絵を、ガラスに押しつけ、見せてくれた。彼女は、よく笑ってくれた。いろいろな話をしてくれた。
 俺にとって彼女の言葉は、インターネットで拾ういかなる知識よりも、価値があった。
「わらうれんしゅうしよう!」
 彼女は、思いついた! というように息巻いて言った。
「ユウ、かおがこわすぎ! わらったら、きっと、にあうよ」
 彼女の顔を参考に、笑顔を特訓した。
「はい、これ、マネしてみて! ばんじおっけースマイル!」
 両腕を伸ばし、肘を曲げ、両手の指で、唇の両端をつり上げる。
「パパにおそわったんだ。かなしいとき、こうやってムリにでもわらえば、きっと、じょうきょうがよくなるって」
「いや、ケーブルつながってるし、せまいしで、腕とか動かせないよ」
 彼女の訪れが、楽しみになった。生きる喜びになった。俺は単純だ。初恋とか、そういうものではない。そんな言葉では、半分も表現しきれない。ガラスのむこうで輝く彼女は、俺の命、そのもののようだった。

       *

 そんなある日、夢を見た。夢?
 ガラスが勝手に開き、液体ごと外に流れ出て、ケーブルやチューブがからだから離れ、俺はよろよろと外に立つ。そんな夢。
 ――血みどろ。
 ぼんやりとした視界に、鮮明に赤が映える。赤く染まっている。なにが? すべてが。なにもかもが。
 血だ。血なのだ。
 そして、人だ。人が倒れている。廊下で、連なるようにして。父だ。母だ。見たことのない人間もいる。あの部屋を訪れたことのない者だろう。血と、肉に分裂して。散らばって。俺はそれらを無造作に蹴飛ばし、歩く。敵をさがして。さがしつづけて。
 視界が情報で埋まる。外界データが数字で表示される。奇妙な夢だ。周囲の物体を、有機物か無機物か、敵であるか否か、そんな指標で選りわけていく。
 見つけた。俺は進む。敵だ。敵を見つけた。俺は動く。
 ――ブツンッ――。
 と、俺は立ち止まった。
 なにかが、途切れた。自分と外とをつなぐ、なにかが。
 静止する。動けない。動いていいのか? 動く判断をしてもいいのか?
「もう、だいじょうぶだ」
 唐突に、耳からの情報が入った。声として識別できた。
「きみを支配するものは、なにもない」
 聞いたことのある声だった。
「きみは、きみだ」
 情報や記号にしか見えていなかった世界が、様変わりした。デジタルな数字の羅列から、色のついた世界へ。いや、世界ではなく、俺の頭脳が変わったのだ。
 敵であり破壊対象である、とだけ認識していた相手。それは、所長だった。
「攻撃を受けた」
 所長の白衣は、赤く染まっていた。いくつかの穴が空いている。
 俺は――俺が?
「他国のスパイだろう。こんな状況でも、ろくに協力し合えないということか。くそっ」
 所長は咳きこみながら、壁に背中を預けて、そのまま床に滑り落ちた。
「ハッキングされた。すべてだ。きみの行動制御権限は取り戻した」
 たしかに、からだは自由に動く。では、さっきまでのできごとは? 夢だと思っていた、あれは? 現実だったと? ハッキングされ、俺は所長たちを襲ったのか?
「きみだけじゃない。きみ以外のiNOIDは、いまも連中の支配下だ」
「……俺は? いまは、所長に権限が?」
「いいや」
 所長は首を振った。
「きみだよ。きみの権限は、きみがもっている」
「でも、じゃあ、どうしたら」
 どこからか悲鳴が聞こえてきた。そう遠くない。
「俺は、なにをしたら」
「ここは、もう終わりだ」
 またしても悲鳴。すぐに、かき消える。
「廃棄処分したことになっていたからね、きみだけは命令系統を切り離していたから、ハッキングを容易に隔離できた。ほかは――もうダメだ、命令を根本に埋めこまれた。死ぬまで止まらないだろう」
 弟。二人の妹たち。
「だが、きみは自由だ。相応の責任を負うことになるが、自分で選ぶことができる」
 所長はなにかを差し出した。携帯端末だ。
「こいつは安全だ。隠れ家や金を、ある程度は入手できるだろう。好きにしてくれ」
「わからない。わからないよ、俺には、なにも、なにひとつ……」
「わがままを言わせてもらうなら、娘を――あの子を助けてくれ。連れて、逃げてくれ」
「所長、俺には、できないよ。なにも知らない、俺は、ここしか……」
「行ってくれ」
「けど――」
「行って、あの子を救ってくれ。守ってやってくれ。きみが、そう望んでくれるなら」
「俺は――」
「行きなさい!」
 びくんと、俺は背筋を伸ばした。この人が声を荒げるのを、はじめて聞いた。どんなに慌ただしそうでも、ほかの研究者に対して怒鳴ったりすることのない人だった。
 うつむいていた顔を上げると、いつもの優しい笑顔が、そこにはあった。
「ユウ、くん」
 俺の名前を呼んだ。実験体番号ではなく、あの子がくれた、その名前で。
「きみを、破棄しなくて――殺してしまわなくて、ほんとうに、よかった」
 それは、きみがいてくれてよかったと、そう言ってくれていて。それは、存在を認めてくれたということで。それは、生まれてよかったと喜んでいいのだと、ここにいる意味や存在理由など関係なく、自分の生に胸を張っていいのだと、そう教えてくれていて。まるで俺が、かけがえのないものであるかのように。
「娘を、たのむ」
 俺の生を祝福する言葉。願いのかたちをした、祈りだった。
「――この命にかけて、かならず守りとおします」
 そのために、ここにいるのなら。できることがあるというのなら。
「心配しないでください。絶対に、この約束を違えません。――お父さん」
 所長は、わずかに目を丸くした。それから、苦笑を浮かべる。生ある者として、最後の、動作だった。
「娘と添い遂げろと言ったわけじゃない」
「いや、そうじゃなくて!」
 俺はあわてて弁明する。
「俺を、生み出してくれたから。だから」
 その言葉は、彼に届いただろうか。
 彼のからだから、すでに命は、こぼれ落ちていた。
 俺は、彼の瞳を閉じた。死者を弔う動作として、この知識が正しいかどうか、自信はない。それでも、気持ちはこめたつもりだった。
 ――行きなさい。
 俺は、ついていたひざを伸ばす。立ち上がる。
 ミイを、さがそう。
 俺はホーム内を走りだした。廊下の先で、弟が暴れていた。
 自分のからだについての知識は、おどろくほど、ない。知ろうとしてこなかった。急速に学ぶ必要がある。不要のものとなったはずの俺が、いまここにいる、意味。
「行くぞ」
 俺は身がまえる。弟が襲いかかってくる。弟は――彼は、夢を見ているのだろうか。その夢を見ながら、なにを思っているのだろう。
「ごめんな、兄弟」

       *

 俺は血みどろだった。壊れたロッカーから拝借した研究者の私服が、すでに血にまみれ重くなっている。弟の血であり、妹たちの血だ。彼らは、解放した。
 ホームが、燃えている。炎が広がっている。終わっていく。生存者のすがたはない。壁や天井から血がしたたる。臭気がたちのぼっている。
「ミイ!」
 俺は走り回った。彼女をさがした。
 生まれてはじめての自分の役目。自分の意志。
「ミイ!」
 俺は、彼女を見つけた。
 ミイは、ふるえていた。居住スペースの一室に隠れ、クローゼットのなかで小さくからだを丸め、おびえきっていた。見つけることができて、よかった。
「ミイ」
 俺は話しかけた。
「俺だよ。ユウだ」
「……ユウ?」
 ミイは顔を上げた。
「ユウ!」
 胸に飛びこんでくる。服についた血が、彼女の顔を汚す。彼女の青いワンピースにも、わずかに染みが付着してしまった。着替えておくべきだった、と後悔したが、捜索を最優先していたのだ、そこまで考えることができなかった。
「みんな、みんなおかしくなっちゃって、みんながっ」
「ああ」
 俺は、彼女を抱きしめた。
「ここを出よう。ここにいちゃ、いけない」
「パパ! パパをさがさなきゃ!」
 ――娘を、あの子を助けてくれ。連れて、逃げてくれ。
「……さきに、逃げてるよ。俺たちも、急がなきゃ」
 胸が痛んだが、いまは必要なことだった。
「ほんとう? パパ、ぶじなの?」
「ミイを心配してる。いまも、きっと。ここにいると死んでしまう。死んじゃいけない。お父さんが悲しむ」
 ウソでは、なかった。
「その子、名前は?」
 彼女が腕に抱えていた人形を指差し、たずねる。
「ライナス」
「そっか。ライナスのこと、ちゃんと守ってやらないとな」
「あたしが?」
「そうだよ」
 俺は、かがんでミイを見た。そして、
「ミイ、ほら」
 両手の指で、唇の両端をつり上げてみせる。
「万事おっけぃ! だろ?」
 笑う。ひきつっていただろうか。そうかもしれない。慣れないことはするものじゃない。そんな俺の必死の形相を見たせいか、ミイが吹き出した。そして、笑った。
 俺は手を伸ばした。その手を、ミイが取る。
「行こう」
 俺は歩き出した。ミイの手を引いて。
 ごうごうと燃え盛る炎を逃れるため、俺は何度か彼女を抱え上げ、お姫さま抱っこをした。そうして向かう、ホームの外へ。外の、世界へ。
 曲がり角の先。
 長い長い廊下があった。その先に、四角く切り取られた光が見えた。赤い光。外の世界の光。空気が変わる。風が吹いている。
 一瞬、状況を忘れ、俺は立ち尽くした。喜びがあった。不安があった。恐れがあった。期待があった。ホームへのセンチメンタルな想い、外への羨望、すべてが一体となって風に乗り、俺の全身をつらぬいていた。
 開いた世界。まるでからっぽに見える。あまりにもおおきくて、あんなところでは、かたちを保ってなどいられない。呑みこまれてしまう。せまいガラスのなかが、お似合いだ、俺には。
「だいじょうぶ」
 となりで、声がした。ミイの手の体温が、俺に伝わる。
「だいじょうぶだよ、ユウはつよい」
「あ――」
 俺は、頬に熱いものが流れたのを感じながら、一歩、踏み出す。
「ほら、だいじょうぶだから」
 歩いていく。
「がんばれ」
 さらに一歩。
「まけるな」
 もう一歩。
「がんばれ」
 あと一歩。
 俺は、よろよろと、外に歩み出た。
 まぶしい。焼けてしまいそうだ。溶けてしまいそうだ。世界は、そのくらい広く、光にあふれていた。情報に満ちていた。
 そこは、どこかの断崖絶壁だった。
 空が視界を埋め尽くす。地平線のむこうまで、ずっと広がっている。どっちを向いても、終わりがない。すべてがあまりに遠く、届かないものだらけだ。確固たるものは地面だけ、だがそれも前方は途切れている。
 俺はふらふらとその場に立つ。ミイは手を放し、そんな俺を見ている。
 はじめての夕陽だった。
「タイヨーがしにかけてる……」
 ぼそっと、ミイが言った。
「死にかけてる?」
「うん。でも、またうまれるんだ。みたことある? ヤマやウミがママなの」
 爆発は、まだつづいていた。
 焼け落ちていくホームを背に、ふたたび彼女は俺の手を握った。青いワンピースが風に揺れている。血に赤く濡れた俺とはまったく異なる存在に思える。
 炎が、ごうごうと空に舞い上がる。
「タマシイって、てんにのぼるとき、あんなかんじなのかなー?」
 ミイは、ちぎれて風に舞う火の粉を見上げ、言った。
「さあ……俺にはないものだし、わからないな」
 え、とミイが俺を見た。
「タマシイがないの?」
「ああ、そうだな。ついでに、たぶん心もない」
「ココロも?」
「そうさ、俺にはきっと、そんなたいそうな代物なんてない」
「おはなし、できてるのに?」
「疑似的なんだ、なにもかも。学習して、模倣して、できあがったのが俺だ。まがいもので、ニセモノだ。ほんとうのところは、からっぽさ」
「そうなんだ……」
 彼女の顔が、悲しげにゆがむ。そんな顔をさせてしまったことに、後悔の念が押し寄せてくる。小さな女の子相手に、変にグチったりして、バカみたいだ。あやまって話題を変えようかと口を開きかけたとき。
「そうだ!」
 彼女は、いいこと思いついた! というように、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあね、あたしのぶん、わけてあげる!」
「え?」
「はい、どうぞ」
 彼女は両手で、俺の右手を包んだ。
「だいじに、してね」
 夕陽と炎が、それらの熱と光が、俺たちを両側から照らした。
 彼女のほうが、ずっとつらいはずなのに。
 しばらく、言葉もなく、立ちつくしていた。そう思う。
 俺は、声を出して泣いている自分に気づいた。彼女の両手に包まれた右手を、宝もののように胸に抱き寄せながら、声をかぎりに泣いた。
 思う。
 このとき、ほんとうに生まれたのだ、俺のほんとうは。ミイから、いや、ミイとのあいだに、生まれたのだ。だから、この日がバースデイだ。
「ミイ」
 俺は右手を包まれたまま、かがみこみ、彼女とむかい合った。
「いろいろな場所を、見に行こう」
 左手を伸ばし、俺の右手を包みこむミイの両手に添える。
「これから」
 俺は、笑う。
 作られて――生まれて、はじめて。指も使わずに。俺は、へたくそに、笑う。
「いろいろな場所で、生まれてくる太陽を、いっぱい見よう」
 焼け落ちていくホーム。沈んでいく夕陽。俺とミイは、ここから、始まった。

       *

 二人だけの生活が始まって、まもなくのことだ。
 時間が経つにつれ、現実を直視する余裕が出るにつれ、ミイの心は閉じていった。
 彼女を元気づけようと、俺はネットで収集したありとあらゆるストーリーを語って聞かせ、ときには自分で創作もして、彼女を物語の世界へと誘った。
 そして、彼女の記憶の改ざんは始まった。
 もともと、ホームでの生活や、最後にそこで起きた地獄は、幼い彼女には理解不能な事柄がおおく、夢のようなものだったのかもしれない。
 彼女のなかから、ホームでのできごとは消えていった。そのかわり、新しいストーリーが彼女のなかで芽生え、育っていく。父親との普通の生活。お世話型iNOIDである俺との、普通の出会い。
 俺の語る物語を再利用して、彼女は逃避していく。俺は、それを止める力も、自信もなかった。現実を直視させれば、真実の海に投げ落とせば、彼女はつぶれる。つぶれてしまう。真実の過去は、正しい思い出は、彼女を危機にさらすほどの価値があるだろうか。家族同然だった研究者たちや、父親とのほんとうの思い出……。
 ――相応の責任を負うことになるが、自分で選ぶことができる。
 ――守ってやってくれ。きみが、そう望んでくれるなら。
 俺は、このとき、まちがえたのかもしれない。罪を犯したのかもしれない。
 決断。俺は、彼女の逃避行を守ることにした。そうしようと決めた。それを現実に置き換えてやると、決心した。
 同時に、物理的にも、彼女には守護が必要だった。
 敵国のスパイなのか、平和な世界の裏で行われている戦争の相手なのか。なぜか連中は、執拗にミイを狙った。俺たちは幾度も名を変え住む街を変えた。
 襲撃者を、そのつど、俺は撃退した。殺してしまいそうになることもあった。彼女を攻撃しようとすることは、許せなかった。だが耐えた。
 彼女に、もらったからだ。
「俺にはきっと、もともと心なんてものはなかった。もしそんなものがいま、俺のなかにあるのだとしたら、それは、お前から生まれたんだよ。お前とのあいだに生まれたんだ」
 だから、俺にとっての右手は。あのとき、俺と彼女とをつないだ、右手は。
「そこに、心があるような気がして」
 俺は、だから。
「ミイ」



   Act 4


 俺は目を覚まし、のどがカラカラであることを認識した。
 右手を伸ばそうとする。反応がない。ひじより先の感覚がない。遮断されている。
 ああそうか、と喪失を思いだす。
 ゆっくりと左手を伸ばし、転がったリュックサックをあさって、ペットボトルを一本、取り出した。封は開いていた。まえに、だれかが口をつけたものだ。かまわずキャップを回して開け、のろのろと口もとに運び、こぼれて頬から喉に伝い落ちるのも気にせず、ひたすら飲んだ。水の味はしなかった。力を入れている感覚はないのに、握力に制限がきかない。やわいプラスティックのボトルがゆがんでしまう。飲み干し、容器を放り捨てる。
 なにかしなければ、という焦燥感、強迫観念が襲ってきていた。
 突然の嘔吐感。俺は排他的に吐いた。
 ここはどこだろう。最初にいたT字路とはちがう。だれのすがたもない。
「ユウ?」
 声がした。クゥ・リ・オだった。よろよろと歩いている。
「くそ、頭が痛い……なにがあったんだ」
 クゥが頭部を押さえ、壁にもたれかかる。
「オマエひとりか? カチュは……」
 急速に俺は理解した。からだがうずく。このうずきは、危険だ。
「ミイをさがしてくれ」
 俺は声をしぼり出した。
「ほかのみんなも。見つけて、いっしょに逃げてくれ。できるかぎり、遠くへ」
 おれのからだは、すでに――信用ならない。
「ユウ……いったい?」
「あやつられてる」
 端的に言った。
「ネクサだ。あいつは、死体をあやつる。俺のからだは、死者のそれとかわらない。ただの容れもの。だから、あやつられてる。またハッキングされてる」
 血みどろ。思いだす。血と肉。
「俺は、お前を襲う。お前たちを襲う。ミイを襲ってしまう。だから」
 全身がふるえる。
「逃げてくれ。まだ支配が完全じゃない。いまのうちに」
 クゥは、壁から身を離し、二本の足で地に立った。
「できない」
「おねがいだ。ミイのためなんだ」
「正直なところ、あの娘に、そこまでの思い入れはない」
 クゥは両手を打ち鳴らした。
「救いたいのは、オマエだ。アタシは、オマエを取り戻したい」
「ムリだ。ムリなんだ。こうなったら――もう手遅れだ」
「やってみなけりゃ、わからない」
「カチュターシャを連れて逃げろ!」
「もちろん、そうするさ……オマエを助け出した、そのあとでな!」
 言うやいなや、クゥが地を蹴った。俺は――目を閉じた。
 目を、開けた。
 終わっていた。状況が変わっていた。
「ああ」
 俺は声を漏らした。両手が、ぶらりと垂れ下がる。血がついている。
 クゥが倒れている。弱かった。
 こうするために生まれた。こうするために作られた。
「ちがう、俺は――」
 ヒトに、なりたかったわけじゃない。
 ただ、彼女がくれた心をなくさないようにと、必死だった。
 俺はキノピオ・コンプレックスじゃない。人間になりたいだなんて、思ったことはない。自己表現も必要ない。他者との差異や確立したアイデンティティーを認識したいわけでもない。確たる自分などという厄介なシロモノなどほしくはない。生まれた意味や存在意義については、俺の場合、考えたくもない。
 ただ、参加したかった。どんなありかたでも、ミイのいる世界に、自分も関わりたかったのだ。そこに、関わりのなかに、あの子がくれた心は、きっとあるから。
「ごきげんようっす」
 声がした。目の前に、ヒツジの面があった。
「これで、親愛なる家族っすね。親愛なる我々。うれしいっす」
「……どうして、こんなことをする?」
「どうしてって……」
 ネクサは、しばし考えこむ。
「できたから。できるから」
「死者をあやつることに、なんの意味がある?」
「その問いは、つまるところ、こういうことっすか? 親愛なる私が生まれたことに、なんの意味がある?」
「いや、そうじゃない」
「いや、そうっすよ。だって、親愛なる私は、そのために作られたんすよ。その存在理由を否定されたら、それはつまり、親愛なる私自身を否定されたことになるっす」
「作られた目的と、いまここにいる意味とは、べつだ」
「意味? 意味なんて、ないっすよ。作られた延長で、親愛なる私は、ここにいるだけっす。自分の意志じゃあない」
 ちがう。ちがうと、言いたかった。だが、彼女の思いは、俺のそれに、あまりに似ていて。言葉が、うまく出てこない。自分のなかで放置しっぱなしだった、もやもやと渦巻く闇を相手に、対話しているような気分だ。
「死霊魔術師(ネクロマンサー)。それが――そんなものが、唯一無二、親愛なる私の名前っすよ。はっはは。悪い冗談みたいっすよね。おかしいっすよね? 笑えるっすよね? これが親愛なる私なんっす。さぞ、世界は祝福してくれるはずっすよね?」
 ネクサは杖を振り、ローブをはためかせ、笑った。
「親愛なる私は、死者をあやつらなければならない。そう生まれたんすから、そうするっす。なあに、コツはゲーム感覚でやることっすよ。最近は人も減って、退屈してたんすが。こないだの砦での攻防戦、アレは楽しかったっすねえ。やっぱドラゴンは反則だったっすか? ゲームバランス崩壊してたっすかねえ? 右腕はごめんなさいっす」
 こいつは、なにを、言っているんだ。
 理解できない。したくない。なにもかもが、なにもかもと、ずれている。
「それ、まだ死んでないっすよね?」
 ネクサが首をかしげた。俺の足もとに横たわるクゥを見ている。
「殺しといてくれるっすか? 親愛なるユウ」
「やめろ」
「えー? 親愛なるユウのたのみごとっすか? どうしても?」
「そうだ。……やめてくれ」
「はっはは。ダメっす」
「聞け、ネクサ。たしかに俺たちは、殺すために、作られた。けど、だからというだけで、殺しちゃ、いけない」
「ほんとうにそうしちゃならないなんてことは、この世にはないんすよ。あるとすれば、それはあくまで個人的見解っす」
「……たのむ。俺のことは連れて行ってくれてかまわない。彼女たちは助けてくれ」
「ついてきてくれるんすか? 親愛なる家族になってくれる?」
「ああ」
「じゃ、ちゃあんと殺してくれないと」
 ダメだ。あらがえない。俺は、これから、クゥを殺すのだろう。
 そして、その次は……。
 ――だいじょうぶ。ユウは強い。
 刹那。
 からだを動かし、ネクサにむかって走ろうとした。
 すさまじい重力がきた。その場にひざをつく。動けない。上から、なにかに押しつぶされているようだ。いや、俺のからだが、俺に抵抗しているのだ。
「やめてくださいっすよ。無粋っすよ。親愛なる家族に、なってくれたんじゃなかったっすか。安心してくれっす。親愛なるミイを手にかけたくないなら、気にしなくていいっす。ほかの親愛なる家族に襲わせてるっすから。親愛なる私は、いまも、そっちの状況を見ることができるっす。親愛なるユウの名を呼んでるっすよ。親愛なるカチュターシャを守ろうとしてるみたいっすね。けなげじゃないっすか。これ以上、駄々をこねるようなら、親愛なるユウに直接殺してもらうっすよ。いいんすか? 耐えられるんすか?」
 ……耐えられる、わけがなかった。
「親愛なるユウの記憶は見せてもらったっすよ。そういうこともできるんす。はっはは。はじめての夕陽、竜の物語、ロマンチックな要素てんこもりっすねー。それに見合った状況で、死んでもらうことにするっす、親愛なる彼女には。劇的演出ってヤツっすねー」
 これは悪夢だ。悪夢だ悪夢だ悪夢だ。
「親愛なるユウ、自分の目的を受け入れるっす」
「……目的?」
「殺すんすよね? いっぱい。手伝うっす。おともするっすよ」
 うれしそうに、ネクサはからだを揺らした。
「いっしょに、いーっぱい、殺すっす」
「殺、す」
「そうっすよ。まずは、そーいーつ。そいつから」
 俺は、じっとりと、クゥに近づく。気を失っている。暗い情動がうごめく。
 殺す……殺しつづける。それが目的。生まれた意味。存在理由。
「起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)」
 わかりやすく、命令がくだった。やるべきことがハッキリしているというのは、こんなにも安心できるものなのか。安定するものなのか。
「あっは」
 口から、息が漏れた。
 腕を振り上げ、クゥの頭をつぶした。
 血みどろ。血と肉。
 何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も、満たされるまでつぶしつづけた。
 赤、赤、赤、赤、敵、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤――。
 得体の知れない、歓喜がこみ上げてくる。うれしい。うれしいうれしいうれしい。
 俺は荒く息をつき、クゥの残骸を見た。
 ……彼女の頭部は、無傷だった。
 意味がわからなかった。俺は、もう一度、しっかりと彼女を見た。
 彼女は生きている。息をしている。傷ひとつない。
 俺は、見た。俺の、右腕……。
「あ、そっか。右腕はないんすもんね。うまく命令できなかったっす」
 右腕で、クゥを攻撃しているつもりになっていたのか。
 歓喜の正体は、コレだ。
 ふと、俺は理解した。自分自身の意思に気がついた。
 もちろん、俺はクゥを殺したくなどない。実際、彼女を殺さずにすんだ。
 まるで、なくなった右腕に守られたみたいだ。そこにたしかに宿った、なにかに。
 俺はまだ、完全に支配されたわけではない。あのときのハッキングとおなじだ。まだ、異物として排斥が可能なはず。俺がほんとうに望むなら、選ぶことができる。
 ――きみの権限は、きみがもっている。
 俺は、さきほどまで見ていた夢を思いだした。夢ではない、記憶だ。ミイに隠しつづけた、ほんとうにあったこと。過去に、記憶に、価値はないのだろうか。
 意味はある。
 所長が命をくれた。ミイが心をくれた。
 だったら俺は、そのすべてを守り抜く。否定されるわけにはいかない。
 思いだす。体験を、経験を、人生を、俺を、思いだす。
 兵器という目的的にいうなら、俺は失敗作だ。けど所長は、そんな俺の生を「よかった」と言った。なにが、「よかった」のか。どうして、「よかった」のか。そこに、意味なんてさがすのは、そもそもまちがっているのではないか。それは、ただ、そうなのだ。ただ「よかった」のだ。なら俺は、それに全力で応えなきゃならない。全身全霊で、全存在をかけて、否定概念に挑まなけりゃならない。
 俺は、顔を上げる。ネクサをにらみつける。ヒツジの面の奥の奥をにらみつける。
 さあ、いま。
 このまま、自由にさせておいて、いいのか。
 自分の拳が、指が、脚が、なにもかもが凶器と化していくのを、他人ごとのようにながめながら、しかしふつふつと、心の奥底からわきあがってくる、さけびがあった。
 それは、俺の声だった。
 こんなことをしている場合ではない、そうだろう、ユウ。
(なんの話だ? なんの話をしている?)
 ずっと昔、誓ったろう。
(だから、なんの――)
 聞こえないか、あの声が!
(あの声……?)
 うわぁん、うわぁん、うわぁん、
 心臓が跳ね上がった。
 心の奥底によみがえる、いまもどこかで、おなじ光景がくりかえされている。
 家族を失い、置き去りにされた、あいつ。独りぼっちで、泣いている、あいつ。
 約束。誓い。身と心を結びつけ、過去と未来をつなげる、きざまれた決意。
 フラッシュバック。記憶の奔流。
 絶対に守り抜くと誓った。
 あまりに一瞬、断片的情報の洪水で、ほとんど、まともにつかみ取ることもできなかったが。それでも、自分がいますべきことは、はっきりとした。
 ああそうか。
 俺は、理解した。
 これが、意志ってヤツか。
 最初に右腕、次いで、からだ全体が動かなくなった。今度は、みずからの意思で。
「ん?」
 ネクサが怪訝そうな声を出す。杖をかざす。
「俺は、iNOID」
 声に出す。
「ヒトではない」
 からだ全体に命令を送り、行動を制する。
「モノでもない」
 言葉にする。
「モノなんかじゃない」
 意志があるなら、このからだは、からっぽじゃない。ならば、好きになどさせない。全神経が、全細胞が、全器官が、抵抗を始める。
「……なんでっすか」
 とまどった声。教えてやろうか、と腹の底から力をふりしぼる。
「生まれた意味なんて知らない。でも、生きる理由なら、ある」
 息を吸う。
「俺は生きたい。守るために」
 ネクサは息を呑んだ。らしくない動揺した声で、命令をくりかえす。
「……起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)!」
 からだの制御が、再度、取り上げられそうになる。
 負けるか。
 左手が、震え、自分の胸をつかんだ。そこに心臓を、心をさがそうとするように。
 おのれのからだに、おのれの命令を下す。からだの内側で、二つの命令信号が競り合う。
 あいつが泣いている、だから行かなくては。
【起動:戦闘形態】
 あいつが泣いている、行かなくてはならない。
【起動:戦闘形態】
 あいつが泣いている、行くんだ、行って助けるんだ、絶対に。
【起動:戦闘形態!】
「俺は、ミイを助ける!」
 声を張り上げた。ひじから先の欠けた右腕を、前に突きだす。
「この手で守ると、あいつに誓ったんだ!」
 からだを縛っていた拘束が、ぱっと解けた。全身の力が、伸ばした右腕へと集結していく。血管をたどり、腕にむかって、ひじの先にむかって、流れていく、移動していく。
 俺は、かつての自分の声を聞いていた。
 ――この右手はさ、お前のためにあるんだ。
「俺のからだなんて、どうなったってかまわない。けど、この右手は――あいつがくれた心は、これだけは、あいつのものなんだって」
 腕に群がるナノマシンは、集まり、かたまり、手のかたちに整っていく。
「あいつのために使うんだ、この命は――この、手は」
 黒くかたい右手。ナノマシンが集結し構成された新しい右腕を顔の前に持ち上げ、幾度か拳の握り開きをくりかえしてみる。
 これまで、武器として変化させるのは、いつも左手だった。右手が変わってしまうことを、おそれていた。できるのに、しなかった。
 だが、いまは。
 鋼鉄の右腕。漆黒でメタリック。心とともに。
 悪くない。
 呆然と面を外すネクサと目が合う。口端を吊り上げ、笑ってみせる。
「I(アイ) got(ガット) control(コントロール)」
 ネクサは動かない。ただ、俺を見つめている。ひどく、悲しそうに見えた。
「……行かないでくれっす」
 懇願。小さな、ほんとうに小さな声だった。
 同情しているひまも、余地もない。
 俺はクゥを抱え上げ、反対方向に駆けだした。ワービーストの戦士は、生きていた。だいじょうぶ、息をしている。それほど重傷ではない。気を失っているだけだ。
 ――夕陽、竜。
 俺の記憶を読んだというネクサから、それらのキーワードが出てきた。
 ミイは、船の外にいる。カチュターシャとともに。おそらくは、ドラゴンに襲われる。襲われようとしている。あるいは、すでに襲われている。
「急がないと」
 はやるが、現在地がわからない。どっちに向かえばいいのか。
 角を曲がる。直進する。角を曲がる。いくつもの扉――いずれも、横のパネルが赤くともり、電子キーロックがかかっていることを示している。
 やがて、行き止まりにぶち当たった。
「ちくしょう!」
 壁を殴りつける。背中のクゥがうめく。
「クゥ」
 呼びかけるが、返事はない。
「だいじょうぶだ、カチュターシャは見つける」
 周囲を見渡す。
「くそっ、どこか――」
 一つ、緑色に光るパネルの扉があった。
入ってみると、そこには、所狭しと、モニターやコンピュータがならんでいる。
「制御室か……?」
 俺はコンピュータに近寄った。扉の開閉を、ここでコントロールできるかもしれない。
 端末に右手を押しつけ、ハッキングを試みる。あまり時間はかからない。電子音がして、モニターにロック解除をしめす文字と、各扉の位置が図面で表示された。
 引き返す。
 頭のなかにインストールした地図を参照しながら、脳内のコンパスを頼りに、走る。いまや、すべてのスライド式扉が開いた状態になっている。
「こっちか!」
 ようやく、正解のルートを発見した。
 通路の奥に、四角く縁取られた淡い明かりが見えてくる。いつかのように。
 出口を見つけ、俺は飛び出した。
「ミイ!」
 空はすでに、青く明るみ始めていた。いつの間にか、夜が明けようとしている。日の出が近い。
「やめろっやめてくれ!」
 クラタの仲間で唯一の生き残りであるルフィンが、尻もちをつき、両手の運動だけで後ずさっているのが見えた。かかとで土を蹴っているが、進まない。
 瑠璃色の空を背に、ドラゴンが、地に降り立つ――ルフィンの下半身を足踏みにして。ミイ(生きている!)の発した甲高い悲鳴ですら、ドラゴンの咆吼にさえぎられた。ルフィンは肺をつぶされ、さけぶこともできない。血が、口もとからこぼれ落ちただけだった。
 ドラゴンと俺とのあいだに、ミイはいた。ひざをつき、カチュターシャを守るように抱きしめている。ドラゴンとの距離は、俺との距離よりも近い。
 ドラゴンが首を伸ばし、ルフィンの胸を噛んだ。彼の上半身が、ドラゴンの口内へと消えた。ドラゴンの巨大な歯と歯のあいだから、ルフィンの両腕がばたついているのが見えた。死にものぐるいでドラゴンの頭部を殴りつけているのが見えた。
 すべては、無意味だった。無力だった。
 ドラゴンが首を持ち上げた。ルフィンのからだは真っ二つに裂かれた。
 ミイの悲鳴が聞こえる。
 ドラゴンはルフィンの上半身を吐き捨てた。彼の腹より上の部分は、血をまき散らしながら、俺の背後まで飛んで、船にぶつかり、地面に落ちた。
「ミイ!」
 俺は船から離れ、駆け寄ろうとした。
 真紅のドラゴンが顔を上げる。その足もとには、残されたルフィンの下半身の残骸がある。
 待て。
 前回、襲ってきたドラゴンは、漆黒ではなかったか。
 背後から咆吼――ふりかえると、べつのドラゴンが、ちょうど船の上に降り立ったところだった。翼の起こす風圧で、砂や小石がはじけ飛んでいく。黒い皮膚のエッジが、空のわずかな明かりを受け、にぶく乱反射している。
 ――またドラゴンの死体が消えましたって?
 ――それは最初のヤツだろ。こないだ降ってきたのは?
 二匹のドラゴンの死体。
 漆黒のドラゴンと真紅のドラゴンが、俺たちをはさんでいた。
「くそっ」
 俺は前と後ろを交互に見る。
「最悪だ」
 だが、躊躇はしない。地を蹴って、走りだす。
「ミイ!」
 彼女は、カチュターシャを抱いている。傷ついた人を見捨てて動くはずはない。そういう少女だ、彼女は。だから、俺がオトリになる必要がある。
 そんな俺の考えを見透かしたように。
 真紅のドラゴンが跳躍し、ミイの真後ろに降り立った。その口が大きく開いた。
 すべてが、スローモーション。ミイが髪をなびかせ、竜を、次いで、俺を見た。ミイが手を伸ばす。俺も手を伸ばす。たがいに手を伸ばす。
 牙が、ドラゴンの巨大な牙が、ミイの肩を背中からつらぬいた。
 血が、俺の顔にかかった。
 ミイと目が合った。彼女の伸ばした腕が垂れた。
 うそだ。
 彼女のからだが、がくんと後方に引かれた。ドラゴンが首をねじり、彼女をつらぬいた牙を持ち上げた。血が、さらに出た。
 うそだ。
 ドラゴンが、地を離れる。ミイをくわえたまま。
 待て。待てよ。
 ミイ。
「待てええええええッ!」
 俺はさけび走った。背後からの気配――漆黒のドラゴンが爪を振り下ろしてくるが、サイドステップで避けた。足を止めない。真紅のドラゴンとの距離を詰めていく――浮上するドラゴンの尾に飛びかかり、右腕でつかんだ。
【類型(タイプ):爪(アロー)】
 指先がかぎ爪状になる。爪を皮膚の表面に食いこませる。ドラゴンの皮膚はかたく、あまり深くは刺さらない。
 直後、すさまじいいきおいで引っ張られた。
 いまの右腕は、ナノマシンで構成されている。だから――伸びる。
 ドラゴンとつながったまま、俺は宙に浮き、空へと上昇していく。とてつもないスピードだ。風圧が顔面を直撃する。足がばたつく。あっという間に、雲を抜けた。
 伸びる、伸びる、伸びていく――ナノマシンには際限がある、有限だ、よっていつかちぎれる、そうすれば振り落とされる。
 ――ぜったいに、手放すな。
 シャツのはためく音が、けたたましく耳をつんざく。
「うおああああああああああ!」
 全身全霊の力で、ナノマシンを自身のからだに引き戻す。ドラゴンとの距離が縮まっていく。その勢いを利用して。
【類型(タイプ):鉄槌(ハンマー)】
 巨大な鉄の塊に包まれた左手で、ドラゴンの頑丈なからだを殴りつけた。
 ドラゴンがうなった。ミイを落とした。
「ミイ!」
 ミイが墜ちていく。空を、急速に。
 怒れるドラゴンが、俺に襲いかかった。その牙が、迫ってくる。
「がああッ!」
 右腕を――いや、肉体の腕から伸びる、ナノマシンで構成された延長の腕を噛みちぎられた。数万単位のナノマシンが根こそぎ奪われる。頭の中で、大量のアラートが鳴り響いた。
 ドラゴンのからだをつかんでいた腕を失い、俺は、空を墜ちていく。頭上でドラゴンが、旋回しながら機械の腕を咀嚼し、呑みこんだ。
「ミイ!」
 俺の意識は、彼女にフォーカスする。追え。それでなにができる? まずは追え。
 雲を突っきる。水滴粒子のなか、風にあおられるミイのからだを見失わないよう、追跡する。彼女の意識はない。血が、俺の額まで飛んできて、はじける。
 限界というものは、目の前に落ちているものじゃない。ずっと遠くにある。まだ、見えることはない。あのむこうに見える地平線なんかより、もっと奥の奥の奥の奥だ。そんなところまで、俺はたどり着いてなんかいない。まだやれる!
【類型(タイプ):触手(テンタクル)】
 命じると、からだが悲鳴をあげた。さきほど、大量のナノマシンを失ったばかりなのだ。足りていない。物理的に不足している。文字どおり、命が削られていく感覚。
 かまいやしない。
 俺は、ナノマシンを前方に吐き出し、触手として、ミイに伸ばした。
 もうすこし、あとすこしだ……!
「いっ――けえぇぇッ!」
 触手が、ミイに追いつく。その足首をつかむ。
「届いた!」
 ミイを引き寄せる。気を失っている。地面はまだ遠い。だが迫っている。
 彼女の出血はつづいている。傷口をふさがないと。肉体の損傷も心配だ。傷口は、あまりに広い。このままでは死ぬ。ミイが死んでしまう。
 イヤだ。
 入射角のするどい陽光が降り注いだ。朝陽が、山のむこうに見えている。
 彼女を、助けたい。助けろ、俺。たのむよ。なあ、iNOID。かぎりを尽くせ。
 ひらめきに似た、なにかがきた。できる、という確信。自分のなかで、なにかが【解除(アンロック)】される。いま、絶対的に、必要な機能が。
【起動(ブート):修復(リペア)形態(モード)】
 俺は、抱き寄せたミイのからだに、ナノマシンを無数に放った。彼女の傷口を埋め尽くすように、ナノマシンがうごめき、進入していく。大量の情報が、俺のCPUへと流れこんでくる。どこを修復すればいいのか、すべてわかる。いつも自分の肉体に対して行っているように、あらゆるデータをもとに、彼女のからだを修復していく。
 その間も、落下が止まるわけではない。ぐんぐん地上は近づいてくる。
 対象被害甚大、と情報が告げる。うるさい、とにかく直せ――治せ。
 傷口にナノマシンを固め、塞ぐ。俺という本体から完全に切り離されたナノマシンは、俺からの命令が届かず、活動を停止する。手術に用いられる糸なんかとおなじで、傷が自然治癒により治れば、自然と異物として吐き出されるだろう。
 ミイのまぶたがふるえる。
「ミイ、聞こえるか」
 風の音に負けぬよう、俺は耳もとで言う。
「俺の声に耳をすませ、そうだ、そうだよ、ミイ、聴きつづけろ」
 ナノマシンに上半身を包まれたミイは、苦しそうにうめく。
「スマートなやりかたじゃなくてゴメンな、いつものことかもしれないけど」
 彼女のからだは華奢だ。どこかにいってしまいそうだ。風の圧力が、俺たちを引きはがそうとする。そんなことはさせるか。
「俺たちは家族だ」
 ずっと、いっしょに生きてきたんだ。
「お前が大切だ、ミイ」
 修復はつづいている。効果がある。脈を感じる。吐息を、命を感じる。
「お前を、失えない。失いたくない」
 たのむよ、神さま。俺の命を、どれだけ使ったってかまいやしない。
「がんばれ、まけるな、がんばれ……」
 風の音。
 ――せいぜい祈ってろ。
「ミイ」
 俺は祈る。
「目を覚ませ」
 雲を抜ける。地上の緑が見える。
「……ユウ」
 彼女はわずかにまぶたを開き、俺を見ていた。
「見て……ほら、新しい太陽が」
 朝陽が、のぼってきていた。空中にいる俺たちを照らしている。
「空から見るのは、はじめてだね……」
 ――いろいろな場所で、生まれてくる太陽を、いっぱい見よう。
「記録更新だねえ?」
 俺は、涙をこらえた。彼女を強く抱きしめた。
「ユウ兄、ボロボロじゃん……なに、がんばってんの」
 ミイがつぶやく。
「なにを、がんばっちゃってんだか」
 内容に反して、声にとがめる色はない。
「そんながんばらなくったって、ユウ兄、あなたは――」
「がんばるさ。ミイが応援してくれるしな」
「……ユウ兄の、バカ」
「俺は超高性能iNOIDだからな、自分で選んでバカできるんだ」
 ドラゴンのすがたが見えた。
「つかまってろよ、ミイ」
 俺は、すばやく触手を伸ばす。ドラゴンの尻尾をとらえ、つかむ。ドラゴンのからだが、ぐん、と落下する俺に引っ張られる。憤怒の雄叫びが、ここまで聞こえてくる。ドラゴンは飛翔を保とうとし、俺たちの落下速度がやわらぐ。地面は近い。踏ん張る。ナノマシンを下半身へと集結させる。そして。
 衝撃。
 俺たちは、地上に降り立った。彼女をお姫さま抱っこした状態で、両足で、着地する。
 やや離れたところで、俺の触手に引っぱられた漆黒のドラゴンが、地面にたたきつけられる。朝陽にキラキラと砂埃が舞い、ドラゴンが暴れる。
 俺は、ミイのからだの修復がほぼ終わっていることを確認すると、ナノマシンを彼女の体内から撤退させた。一部は右肘の先端に集め、右手を再生させる。
「ユウ」
 ふりむいた。クゥ・リ・オが立っていた。
「だいじょうぶなのか」
「ヒューマンよりは頑丈にできている、問題ない」
 そう言いながらも、負傷箇所を手でかばうようにしている。
「すまない、ユウ。戦闘では、いまのアタシじゃ、あまり力になれない」
「わかってる。ミイとカチュターシャをたのむ」
「当然だ。すまない」
「お前を傷つけたのは俺だ、なにをあやまる」
「戦士として生まれたアタシが、戦いの足手まといだなんて」
「守る、というのも、戦士の役目だろ」
「……ちがいない」
「行ってくる」
 俺は走る。ドラゴンを、あるいは、それらを操っているネクサを倒す。そうでなければ、ここでみんな、死ぬだけだ。戦わなければ、死んでいくだけだ。
「はっはは」
 巨大な船の上に、ネクサが腰かけていた。俺は足を止める。太陽を背にした彼女の表情は見えない。
「はっはは。はっはは」
 彼女は笑っている。なにが、おかしいのか。世界のすべてか。俺か。彼女自身か。
「いっしょにくるっす、親愛なるユウ。これが最後っすよ」
 ネクサが、遠く手を伸ばす。俺は、その手を見ない。彼女の顔を見つめたまま。
「俺は、お前とはいっしょにいけない。いっしょになれない」
 いや、こんな言いかたはフェアじゃない。俺は、ハッキリと告げる。
「俺は、お前が嫌いだ」
「――理由は?」
 しかしネクサは、すこしまえに見せたような動揺は顔に出さず、問う。
「俺に、あまりにも似ているから」
「はっはは。同族嫌悪っすか」
「その単語で正しい。俺の記憶から、いろいろと学んだらしいな」
「はっははー」
 ネクサは空をあおいだ。
「殺すっす」
 宣言する。
「親愛なるユウを殺すっす。そうすれば、いっしょにいてくれるっす。親愛なる家族になれるっす。これは初恋なんすよ、親愛なるユウ。ぜったいに殺してやるっす」
「ネクサ」
「なんすか」
「殺し合おう。――存在をかけて」
「はっはは」
 ネクサは、さも楽しそうに笑う。俺にそう言ってもらえるのが、ほんとうにうれしい、とでもいうように。
「もちろんっす。約束しましょうそうしましょう。あくまで正々堂々と。ここからさき、つまらない小細工はなしっす」
「いいだろう」
「自信満々っすねえ。けど、親愛なる私の剣は……コレっすよ?」
 直後、上空から飛来した漆黒のドラゴンが、地面すれすれをかすめ、俺の下半身をくわえた。そのまま空へ急上昇する。
「ぐっ――!」
 腹に食いこもうとする牙を、間一髪、ナノマシンで構成した鎖かたびらで食いとめる。
 ドラゴンは、俺を連れ、ぐんぐん昇っていく。あっという間に、空。なにもない空中で、ドラゴンと対峙している。だが、心細さも、不安も感じない。
 そんなものたちはすべて、風に押し流されてしまった。あとに残るのは、静かで、ほんとうに小さな、決意だけ。
 ――がんばれ。
 嵐は去った。空が青い。朝陽がまぶしい。
 ――まけるな。
 世界は広い。まだまだ、行っていない場所がたくさんある。
 ――がんばれ。
 右手で胸もとをまさぐりつかむ。
 熱い。まるで胸に炎を抱えているみたいだ。
 焼け落ちていく施設を思う。白衣を染めあげる血の色を思う。沈んでいく夕陽を思う。花火に赤く照らされる彼女の寂しげな横顔を思う。
 ――だいじに、してね。
 彼女には、蒼穹が似合う。どこまでも晴れた笑顔が似合う。
 どくどくと、胸の熱が暴れだす。青の炎が、内側にある。
 いま、知った。
 これが命なんだ。これが心なんだ。これが意志なんだ。これが、俺なんだ。
 行け。
 俺は力をふりしぼり、上体を起こして、ドラゴンと正面からむかい合った。漆黒のドラゴンは、俺の下半身をくわえたまま、空から地上へと降下していく。次の獲物は、ふたたびミイだ。ミイをさがしている。俺の目前で殺すために。
「そうは、させない……!」
 俺は渾身の力で、右手をドラゴンの頭部にたたきつけた。ドラゴンの硬質な肌とぶつかり合い、ナノマシンがいくつか削り取られ、剥がれ落ちる。
 もう一度。拳を振り上げ、振り下ろす。ナノマシンがさらに砕け散る。ドラゴンの表皮とナノマシン、黒の破片が、青空に散らばっていく。
 ドラゴンが首を振り、俺を食いちぎろうとする。重力が、遠心力が、ありとあらゆる圧力が全身を襲い、意識が乱れる。耳もとで、ごうごうと風が鳴っている。髪が、やかましく、はためく。
「まだだっ!」
 もう一度……!
 まったく同じ部位を、寸分の狂いなく、打った。
 ドラゴンのウロコがはじけ飛んだ。拳が、ドラゴンの肌を破り、肉にめりこんだ。ドラゴンが悲鳴を上げ、墜落した。接地し、土をえぐりながら不時着する。衝撃で、ドラゴンの牙が腹部に食いこむ。ナノマシンの防護でも衝撃を防ぎきれない。なにかが潰れる。
 肉体損傷状態深刻危険、とアラートがやかましく騒ぎ立てる。うるさい。
 やるべきことを、やれ。
 さきほどのひらめきに似た、気づきがきた。できる、ということを知る。自分のからだの機能を知る――というよりは、思いだす。
 行け。
 おそれるな。行け。
 人でないことをおそれるな。自分を見失うのではないかなんて小さなおそれを抱くな。
 ――行ってくれ。
 ――行って、あの子を救ってくれ。守ってやってくれ。
 ――生きなさい。
 父の、言葉が。明確な、意味をもって。
【起動(ブート):転移(シフト)形態(モード)】
 ミイのからだを修復するために彼女の体内へと潜りこんだときと、おなじように。ナノマシンが、ドラゴンの開いた傷口に集まっていく。だが、ミイのときのように、一部のナノマシンを送り出すわけではない。俺のすべてをそそぎこんでいく。
 そうして。
 俺は、俺という精神を積んだナノマシンの群れは、漆黒のドラゴンの体内へと移動した。俺の思考ごと。俺の意識ごと。俺の意思ごと。俺の、心ごと。
 このまま消えてしまうのではないかという不安。
 だいじょうぶだ。
 俺に、魂、なんて高尚なものがあるかどうか知らないが、からだを離れても、俺は俺だ。心は、ちゃんと、そこにある。
 おそろしい。
 だいじょうぶだ。
 俺は、戦いかたを知っている。あらゆる恐怖に対抗する方法を知っている。ミイが教えてくれた。
 ――万事おっけぃ。
 ドラゴンの全身に、俺を送りこむ。血管を巡り、活動をやめた心臓へと到達する。
 動け。
 疑似的にでもいい。そうすれば、きっとネクサの支配は止まる。
 この黒きドラゴンは、死亡してから、そこまでの時間が経過していない。その情報を、肉体の状態から得る。まだ壊死していない。血は、乾ききっていない。心臓が煮えたぎり、動きさえすれば、それは流れだす。
 動け。
 俺は、ドラゴンの肉体に働きかける。
 ネクサとおなじことをしようとしている。それはわかっている。自分のエゴのために、このドラゴンの肉体を利用する心積もりだ。
 だが、揺るがない。
 俺は、ミイを救うためなら、なんだってする。死体だって利用する。そういう存在だ。
 すまない。
 ドラゴンの器官という器官を、再起動していく。可能なかぎりの修復を施し、強制的にではあるが、活動をうながしていく。
 すべて終わったら、俺から、そしてネクサから、かならず解放する。約束する。
 心臓が、わずかにはずむ。それをきっかけに、ドクドクと脈打ち始める。血が流れる。巡っていく。活動停止していた肉体を、たたき起こしていく。
 力を貸してくれ。
 そのときだった。全身に送りだしたナノマシンが、同時に、ひとつの情報を取得した。
 ――止められるか?
 それは声のかたちをしていた。ドラゴンの肉体が発した、声という情報。いや、声、というよりは、意志のかたまり、残響のようでもあった。
 だれだ? そこにいるのか?
 俺は呼びかける。はたして、応えが、ある。
 ――止められるか?
 声はくりかえした。
 だれだ、という問いは愚問だった。これは、この肉体の持ち主の、心の名残――。俺は、俺が首を切り落とした少女が、最期に父へ向けて言葉を発していたことを思いだした。
 ――止められるか?
 彼女を、という響きがあった。切実な響き。瞬間、ひとつの気づきが訪れた。
 ……そうか。
 つがい、だったのか。
 鮮烈なイメージが降りてくる。漆黒のドラゴンと真紅のドラゴンは、二匹でひとつの影となって、空を舞う。黒と赤、入り交じって、黄昏の色。
 ああ、止める。
 俺は彼に答える。
 止めよう。
 そして俺たちは――俺は、ドラゴンの大きく燃えるような目を開き、真紅のドラゴンをさがし、飛び立った。俺の、人間のかたちをしたからだ、その抜け殻は、地上に置き去りにした。いま、ミイを救うためには、不要のものだった。ネクサにあやつられてしまうとしても、すくなくとも、俺の心はここにある。
 敵をさがす。どこまでも白い雲のなか。空の青がまぶしい。
 真横の雲を突き破り、真紅のドラゴンがこちらの首に噛みついてきた。するどい牙のならんだあごを、すんでのところで避けると、俺は漆黒のドラゴンの肉体をひるがえし、その尾で、敵の顔面を打った。
 真紅のドラゴンが悲鳴を上げる。俺も、その悲鳴を打ち消すようにして吼えた。
 全身が燃えるように熱い。そうだ、怒れ。命を燃やせ。燃やしつづけろ。
 彼女を救え!
 漆黒のドラゴンが咆吼した。
 暗雲が似合いそうな、血と肉が舞う戦い。なのに、空は青と白でできている。陽光を浴びて、敵の全身を覆っている紅色の鱗がきらめいた。
 一瞬、目をしかめる。直後、爪が俺の右目を襲った。爪は、まるで発泡スチロールでもけずるように、漆黒のドラゴンの顔面をそいだ。眼球が、ごそりとえぐりとられた。
 視界が半分になる。右半分が見えない。敵を見失う。
 右の前脚に衝撃があった。骨ごと砕かれたのだと理解した。
 からだを反転させ、敵と向き合おうとするが、右の翼にかぶりつかれたらしく、ろくに動けない。まるで溺れているかのように、じたばたともがいた。うまい具合に、右の後ろ脚が、敵を蹴飛ばした。振り向くと、敵の脇腹が、裂けて割れていた。
 右目を失い、右足は折れ、右翼が傷ついている。バランスが悪い。空中での位置を把握できず、敵との距離を測れない。
 真紅のドラゴンの動きは、すばやく、荒々しい。死者であるがゆえ、傷にひるむようすもなく、ふたたび滑空し、迫ってくる。
 俺は爪を振り下ろす。しかし、真紅のドラゴンはそれを避け、回避動作とひとつながりで、俺のあごを打った。牙が数本、欠けた。一瞬、意識が遠くなりかけた。
(ユウ兄……ごめんね)
 ミイの声がして、俺はなんとか意識を保つことができた。
 ミイ? そこにいるのか?
 呼びかけてみる。幻聴というには、あまりにリアルな声だった。
(いつも、あたしのことばかり優先してくれて……)
 俺の声が届いた様子はない。それでも、ミイからの想いは、次から次へと届く。
 彼女の傷口を、ナノマシンを固めることで、塞いだ。あの、彼女のからだに残してきたナノマシンが、わずかながら、俺という本体との通信を可能にしているのだろうか? 
(あたしは、なにひとつ、ユウ兄にあげれてないのに)
 そんなことはない。そんなことはないだろう。
 俺は思わず、あきれかえった。
 俺は、すべてを彼女からもらったんだ。ちょっとやそっとで返せるはずもない、たくさんのすべてを、彼女からもらったんだ。
 俺は。
 ああ――そうだった。
 見失いかけていた、単純なことを思いだした。
 俺は、ドラゴンではない。
【類型(タイプ):刃(ブレード)】
 漆黒のドラゴンの砕けた右腕が、剣のかたちへと変化する。
 俺の名前はユウ。iNOIDだ。
 ――止められるか?
 ああ。翼を貸してくれ。
 弾丸のように、まっすぐ、飛んだ。疾風となる。雲のすきま、青の群れが見える。
 すれちがいざま、真紅のドラゴンの首に、刃を斬りこんだ。のど笛が破裂する。その瞳ごと、大きく開いた口ごと、そこから漏れだす唸りごと、首をはねとばした。
 あっけない幕切れ。
 バランスをくずし、漆黒のドラゴンは紅色のドラゴンと重なり合うようにして、地上に落下した。かたい土にたたきつけられる。
 終わった。
 地面に横たわったまま、静けさに身を浸す。
 ――ありがとう。
 声は言う。
 ――ありがとう。
 それきり、なにも聞こえなくなった。
 行ってしまった。真紅とともに。
 ――さあ行け。最後に飛ぶ力くらいは残していく。
 わずかな、意思の残響。
 ありがとう。
 俺は身を起こし、翼を動かす。羽ばたく。
 浮上していく途中で、真紅のドラゴンの肉体が朽ち果て、塵となってくずれていくのが見えた。風に乗って、漆黒の竜のまわりをふわりと一巻きし、空へと還っていく。
 俺は飛ぶ。
 空から、彼女を見つけた。ミイ。ひざまずき、俺のからだを抱いている。
 風をぶつけぬよう、ゆっくりと着地する。彼女は俺を見上げている。俺が、俺だと気づいている。こんなすがたになっているというのに、俺がユウだと確信している。彼女の瞳が、俺を見つめている。
 アイ・アム・ユウ。
 俺は、首を下げ、彼女に顔を近づけた。彼女の両腕が伸びてきて、俺を迎え入れる。彼女は、竜の頭を、強く抱きしめた。その唇が、そっと額に押しつけられる。ドラゴンの鱗越しでも、その感触を感じることができた。
「わかるよ。ユウ兄」
 ミイは言った。
「ありがとう。おかえり」
 彼女は俺からそっと離れた。そして、ひざに乗せた、俺のもともとのからだを見る。
 俺は、さらに首を下げ、自分のからだに、ドラゴンの頭を寄せた。
【起動(ブート):転移(シフト)形態(モード)】
 帰っていく。黒い渦となって、ドラゴンの肉体から、もとのからだへ。
 俺は、目を開けた。
 見下ろすミイの顔と、その後ろに広がる青空、そして、朽ちていく漆黒のドラゴンが、頭上に見えた。おだやかに、くずれていくドラゴン。俺は、右手を持ち上げる。黒い手袋をしているみたいな、硬質な腕。帰ってきた。
「はっはは。負けちゃったっすねえ」
 俺は首を動かす。ネクサのすがたは見えない。
「ユ、ユウ……」
 そのかわり、クゥ・リ・オが見えた。そして、彼女を後ろから羽交い締めにして、首に矢を突きつける、カチュターシャが見えた。
「カチュ、どうしたんだ、やめてくれ。やめてくれよ」
 クゥが訴える。
 カチュターシャの目に、生気はなかった。その肌は、どこか青白かった。ギクシャクと、動いていた。まるで、なにかにあやつられているみたいだった。
「死者は、あやつれる。親愛なる私の、唯一の特技っすよ」
 カチュターシャが言った。カチュターシャの口が動いて、そう言った。
「ウソだ」
 クゥが言う。
「カチュは死んでない」
「それなら、こんな状況にはなってないっすよ。おかしいっすねぇ?」
「意識を失ってるだけだ。オマエは、それにつけこんで――」
「いやまあ、解釈はおまかせするっすけど」
 カチュターシャのからだが、首をかしげる。
「とにかく、このまま親愛なるクゥを殺すことができるのは、事実っす」
「クゥを、放せ」
 俺は声を上げた。腕を伸ばし、ミイを後ろに下がらせる。
「ええー? 親愛なるカチュターシャは、親愛なるクゥを連れて行きたがってると思うっすよ? ひとりは孤独っすから。じゃあ、代わりに親愛なるユウが来てくれるっすか?」
「俺は行けない」
「はっはは。ブレないっすねぇ、親愛なるユウは。すっごく、ワガママだ」
「聞こえなかったのか。クゥを放せ」
 俺は、身を起こそうとして、失敗した。
「あまり動かないほうがいいっすよ。死ぬっすよ?」
「それを望んでいたんだろ、お前は」
「いや、それもいいんすけど、どうも親愛なるユウは、生きて動いてるほうが刺激的みたいっす。考えたんすよね。どれだけ死者をあやつっても、孤独は癒えなかった。あたりまえすぎる結論かもしれないっすけど、それはつまり、そこに意思がなかったからっす。すべてが思い通りで、刺激がない。殺し合わせたりしてゲームはできるっすけど、それも飽きる。けど、親愛なるユウ、はっはは、親愛なるユウとの殺し合いは、これまでにない、最高に刺激的だったっす。これを、つづけられるだけつづけたい」
「どうして、そんなふうにしか生きられない」
「……親愛なる私はね。親愛なるユウがほしいんだと思ってたっす。でも、ちがうんすね。親愛なる私は、親愛なるユウに嫉妬してた」
「俺に? なぜ」
「親愛なるミイといっしょにいる」
「どういう意味だ」
「親愛なる私には、そういう人はあらわれなかったっすから。……とうとう、あらわれなかったんすよ。はっはは」
 カチュターシャのからだは、空をあおいだ。
「あは、なあんだ、そうだったんだ。それだけの、ことだったんだ。壮大なつもりだったけれど、つまらないものっすね、案外」
「お前を理解することはできる」
 俺は言う。
「状況設定さえ異なれば。俺たちは、友だちになれたかもな」
「友だち? はっはは、そんなものじゃ、到底、足りやしないっすよ。この孤独に追いつきはしないっすよ。親愛なる私のなかの奥の奥、とことんのとこに、親愛なる私はっすね、親愛なるユウを置いておきたかったんすから」
 カチュターシャの肉体が、クゥを突き飛ばした。クゥは地面に倒れながらも、すかさず振り向く。だがすでに、カチュターシャは遠ざかっている。
「ではでは」
 カチュターシャの声が言う。
「さよなら、親愛なるユウ。また、会えるといいな」
「待て!」
 クゥがさけぶ。さけんでいる。
「行くな、カチュ! 行かないでくれ! 返してくれ! 彼女を返せ!」
 返事はない。もうすがたも見えない。
 俺は立ち上がろうとして、そのままくずれ落ちる。からだが言うことを聞かない。まだナノマシンがからだになじんでいないのか。あるいは、ムリをさせすぎたのか。そういえば、たくさんのナノマシンを失ったし、はじめての試行錯誤もくりかえした。ドラゴンに噛まれたことで、損壊もしている。修復しなければ。
 もうろうとする。まるで人間みたいに。
 ミイが俺の顔をのぞきこむ。その後ろに、大きく広がる群青が見える。彼女の色だ。キレイで、自由で、広くて、まっすぐで。
「ゆ、ユウ兄!」
 どうしたんだよ。そんなあわてた声、だすなよ。
「いいい、いま、救急車を呼ぶから!」
 思わず笑う。
「落ち着けって。この世界に、そんなもの、あるわけないだろ」
 俺は夢心地で、そう言った。
「しっかりして、しっかり、ユウ、おねがい――」
 彼女の声が好きだ。
 そんなことを思って。俺の意識は途切れる。



   【log:
    <TITLE>
    Prime Directive : Update by the developer.
    </TITLE>】


 皆城(ミナシロ)美衣(ミイ)ヲ保護スルコト。



   Act 5


 船内に足を踏み入れると、暗闇と静寂が、俺を迎えた。
 巨大な船だ。安全を重視しながらすべてを散策するには、数日を要するだろう。
 ネクサが住みついていた船。これは、地球から来たものにちがいない。ならば、地球に帰るためのヒントや、あるいは俺という存在にまつわるヒントがあるかもしれない。
 ひとつ、思うことがある。
 もし俺が、この異世界と戦争するために作られた存在であると推論するなら。ミイをここへ連れてきてしまったのは、俺に関係するなにかではないのか。本来なら俺だけですむところを、近くにいた彼女をも巻きこんで、この世界に転送してしまったのではないか。
「考えるな。いまは、まだ」
 自分に言い聞かせる。
 つづいて船内に降り立ったクゥが、無言で俺の横を抜けた。切羽詰まっているように見えるが、ムリもない。
 あのあと周辺をさがしたそうだが、カチュターシャもネクサも、見つけることができなかった。クゥは、カチュターシャとずっと二人で生きてきたと言っていた。エルフで長寿のカチュターシャが、クゥにとって幼いころからの姉のような存在であったことは、容易に想像がついた。つまりは、俺とミイのような関係だったのかもしれない。
 あれから二日が経過していた。俺が動ける状態に回復するまで、クゥが単独でムチャな探索を始めないよう、ミイが止めてくれていたらしい。
 無機質な船内――機能第一といった様相だ。移動する倉庫であって、ホテルではない。この船の目的は、旅行ではなく、運搬だ。
「ユウ兄」
「どうした?」
 ふりかえると、ミイが持つスマートフォンのライトがまぶしかった。
「あたしはべつに、どうしても地球に戻りたいだなんて考えてないよ」
「どうして、そんなことを、いま言うんだ?」
「ユウ兄が、ひとりで思いつめてたらイヤだな、と思って。だいじょうぶだよ。新天地への引っ越しには慣れっこだしさ」
「ああ、でも」
 俺は前方を向く。
「この世界には、危険が多すぎる。ネクサは、また襲ってくるだろう」
 彼女は死者を用いて、遠方から俺たちに攻撃をしかけることができる。非常にやっかいな相手であると言えた。対峙しつづけるのは、危険だ。方法があるのであれば、地球に帰還してしまうのが、ミイにとっての一番の安全策であると、俺は考える。
「……ここにいる」
 クゥのつぶやきが、不気味に反響した。どういうことかと問おうとする俺の唇を、クゥの人差し指がふさいだ。そのまま、ある一点を指差す。
 通路のすみに、見覚えのある仮面が落ちていた。ヒツジの仮面。忘れもしない――ネクサがかぶっていたものだ。
「ここに、いる」
 ふたたび、クゥが言った。
「カチュターシャも、きっと」
 ……カチュターシャ。彼女はおそらく、生きていないだろう。そのことはきっと、クゥにもわかっている。だが、その亡骸を好きにされたままにはしておけない――その気持ちは、痛いほどよくわかった。
 俺はかがみこむと、慎重に仮面に触れ、持ち上げた。
「……忘れものかな?」
「あのあと、このあたりは軽く調べた。あんな仮面はなかった」
 罠ではないか、という思いが、瞬時に脳裏を駆けめぐる。仮面の落ちかたは不自然にすぎる。だが、あまりにあからさまであるという気もする。
 不安が大きくなる。
「ミイ」
「なあに?」
 宿に戻れ、と言おうとしたのだが、クゥは先に進みたがるだろうし、ここでバラバラになってしまうのは危険だ。
「……俺から離れるな」
 これが罠だとすれば、俺たちはすでに、そのなかにいる。

       *

 奥へ進む。
 やがてたどりついた、ホールのような広い空間。そこに広がっていた光景に、俺たちは息を呑む。
 無数の、人のからだが、折り重なるようにして倒れていた。
 いや、これは――。
「人じゃない……iNOIDだ」
「え? これ全部?」
 俺のつぶやきに、ミイが反応する。
「ああ……まちがいない」
 こんなに大量生産されていたのか。
 俺は近づき、一体一体を調べてみる。劣化はしているが、腐ってはいない。ほんものの人体ではないわけだし、当然といえば当然だ。それに、この連中は、俺の肉体ほど、正確に人間を模してはいない。量産型、あるいは目的的に作られている。
「う……」
 ミイが立ち止まる。人間の死体ではないとはいえ、見ていて愉快なものではないはずだ。
「死んでるの?」
「ちょっとちがうな。中身がない」
「中身?」
「ナノマシンが入ってない」
 ――動物の死がいみたいに冷たい。
 俺は目を背け、からっぽの器から手を放した。
「カチュ!」
 ふりかえると、クゥが、さけんで部屋のひとつへと走りこむところだった。
「待て、クゥ!」
 あわてて追いかけ、部屋のなかをのぞく。
 ――そこに、カチュターシャはいた。
 簡素なベッドと、テーブルと、棚がある。個室のようだ。
 ベッドに横たわったエルフの少女は、目を閉じ、眠っているように見えた。死んでいる、ではなく、眠っているみたいだと感じたのには、理由がある。
「肌の色が……」
 青白くなく、ほんのり赤みが差している。血が、全身にみなぎっているかのように。
「……生きてる!」
 カチュターシャの腕に触れたクゥがふりかえり、涙ぐんでさけんだ。
「生きてる!」
 俺はミイの横を抜け、部屋のなかに駆けこむ。クゥとおなじように、カチュターシャの腕に触れてみる。たしかな、鼓動を感じる。
 俺のうなずきを見て、安堵のあまりだろう、クゥがその場にくずれ落ちた。
 カチュターシャの容体は安定しているようだった。俺も胸をなで下ろす。
 それでは、クゥの読みは正しかったのだ。ネクサは、気を失ったカチュターシャを連れて行っただけだったのか。だが、生かしておく理由がわからない。
 クゥが肩をふるわせている。すこしのあいだ、そっとしておいてやるべきかもしれない。
「ミイ、ついててあげてくれ。もうすこし、あのiNOIDたちを調べたい」
 ミイが、わかったとうなずく。
 俺は部屋を出て、手近な一体の近くにかがみこんだ。それから、顔をのぞきこもうとしたところで、動きを止めた。
 俺たちがこの空間にやってきたのとは反対側の通路から、なにかが聞こえてきた。
 まただ。
 キ・キ・キ、という、奇妙で不快な音。
 俺は立ち上がり、ミイたちがいる部屋を気にしながら、奥へと進んだ。ホールを出て、音がするほうへと進む。あまりミイたちから離れすぎないよう、意識する。
 曲がり角にある部屋の前に立つ。このなかからだ。
 意を決し、暗い室内に足を踏み入れる。

       *

 その部屋は、あまりに奇妙だった。
 なにもない。
 机も、椅子も、ロッカーも、機械類も、なにひとつとして。まるで独房だ。
 その部屋の角に、人影がうずくまっていた。
 黒ずくめのローブ、シルエットには、見おぼえがある。
 警戒心を高めながら、そっと近づいていく。
 死霊魔術師(ネクロマンサー)は微動だにしない。
 様子が、変だった。
 俺は手を伸ばし、彼女の肩に置いた。抵抗感がない。意を決すると、腕を引き、彼女をふりかえらせた。首ががくんともたげ、こちらをむく。
 大量の虫のようなものが、ネクサの顔面を走り抜けた。
 わっと声を上げ、俺は身を離した。
 その両目が、ばっと開かれる。眼球が、青黒く染まっていた。
「親愛なる……ユウっすか?」
 声に、ウィウィウィという、機械音のような響きが混ざった。
 俺は恐慌のあまり、返答できない。
「そこに……いるっすね」
 ぐらりと、ネクサが首をねじる。
「あ、ああ……頭のなかでさえずってる……虫の羽音が」
 青黒い渦が、一瞬、彼女の全身をめぐり、耳や鼻、口、毛穴という毛穴に消えていった。
 こいつは――これは――。
「転移(シフト)形態(モード)――」
 つぶやく。ネクサの身に起きていること。俺は、この能力を知っている。
 ナノマシンの群れに寄生されている。
 悪寒が走り、俺はよろめき、後ずさった。
「親愛なる……ユウ……」
 ミキシングに失敗したような声で、ネクサは言う。その異常に白い肌に、発疹のような無数の黒ずんだ斑点が、一瞬、浮かび上がり、消えた。
「助けて……助けてっす……」
 ひどい。ひどすぎた。
「こんなのはイヤ……イヤっす……イヤだぁ……」
 ――もう眠らせて。おだやかな死を。
「ネクサ」
 名を呼んだことに、意味はなかった。ただ、そばにいることを伝えてやらねば、という気持ちが先行した。
「ああ……」
 彼女の口から、わずかながら、おだやかな色が漏れる。
「会いたかった……会えて、よかったっす」
 その右腕が伸びてきて、俺をつかんだ。救いを求めての動作だったのかもしれない。だが、黒い渦が俺に向かって流れてきた瞬間、脳内アラートがけたたましく鳴り響き、俺はその手を払ってしまった。ネクサを呑みこんだナノマシンは、俺にも進入を試みたのだ。
「作られて、この世界に祝福なんて、求めてなかった、っすけど」
 がくがくとネクサの肉体が揺れる。天井をあおいだ顔から、言葉があふれる。
「親愛なる、ユウ、あなたに、会えた」
 ネクサは、手にした杖で、いきなり俺を殴りつけた。
 俺は無様に吹っ飛び、壁で後頭部を打った。
 彼女は、あやつられている。あのナノ粒子生命体に。
「もう、作られ、た理由に、いま、ここにい、る無意味に、おびえ、る必要もな、い」
 ほほえんだ少女の顔を。
 俺は、可憐だと、そう、思ってしまった。
【起動(ブート):戦闘(コンバット)形態(モード)】
【類型(タイプ):刃(ブレード)】
 腕を変化させ、一歩、歩み出る。
 ネクサと目が合う。――決して、ためらわない。
 その首を、刃ではね飛ばした。
「ありが、とう」
 のどに残っていた空気とともに、そんな言葉が流れた。
 血の吹き出る首のつけ根の真上に、黒い渦が一瞬、わき上がった。夏場、電柱の近くで目にする蚊柱を思わせた。あの群れのなかに顔をつっこんでしまったときの感覚を思い出し、総毛立った。
 ネクサの肉体が、その場にくずれ落ちる――
 ――かと思うと、そのまま人間離れした姿勢で起き上がった。切断した首もとからあふれる青黒い渦が、床に伸びて、落ちた首を拾い上げた。
 首を両足のあいだにぶら下げた格好のまま、かつてネクサだった肉体が歩み寄ってくる。口が開き、ガラガラと音を発した。
 俺は左手で胸を押さえた。死者を停止させるのとは、まったく異なる感覚。ネクサは、まだ生きていた。その命を、俺は終わらせたのだ。
 目の前の存在を見る。
 コイツは、なんだ。なんなんだ、コイツは。
 この船が、いつからここに存在するのかわからない。だが、いまになって、コイツがあらわれたのは、どうしてだ。
 ひょっとすると。
 俺はあのとき、制御室にハッキングして、船内すべての扉のロックを解除した。その行為が、結果として、船内の、どこかの区画に物理的あるいは電子的に閉じこめられていたコイツを、解放してしまったのではないか。
 大量のiNOIDの抜け殻を思い出す。
 推論。この船がいつからここにあるにしろ、あのiNOIDたちは、生き延びることを最優先し、肉体を捨て、ナノ粒子生命体の群れ(スウォーム)となった。食物庫の食料や機器類を分解し、腐食させ、養分や資源を摂取し、これまで生きながらえてきたのだ。そして、俺があらゆるロックを解除したことで、一定区画から晴れて自由の身、外に出てきて新たなエサを得た。ネクサだ。もともと、この船がもし戦争のためにやってきた船だとするなら、iNOIDたちは、戦いのために作られたはず。その攻撃性は、まだ持っているかもしれない。いまだ船内にとどまっているのは、人体を持たないいま、外の環境に警戒しているためだろう。いくばくかにも知能は残っているのか、群れとしての本能がゆえか。
 もし連中が、外の世界に解き放たれてしまったら? もう手がつけられない。どこまでも広がっていき、疫病のごとく蔓延し、汚染のない安全な場所は、やがて消え失せるだろう。
「そんなものが、成れの果てなのか……」
 お前たちの。俺の、同類の。
(ユウ兄!)
 ミイの声が頭にこだました。
 まただ。彼女の傷口をナノマシンで修復して以来、離れていても、彼女の声が聞こえることがある。
(ユウ兄……)
 その声は切迫していて、悲痛に満ちている。
 ぎくしゃくと歩く、かつてネクサだったものから離れると、俺は走りだした。
「ユウ兄!」
 ミイがホールのほうから走ってきて、俺に抱きついた。
「ミイ、だいじょうぶか! ケガはしてないな!?」
 ふるふると、ミイがうなずく。
「なにがあった?」
「クゥさんが――カチュターシャさんが」
 言いかけたミイの背後から、それはあらわれた。
 青黒く波打つ大量のナノマシン。そのなかに呑まれ、一体化してしまっているカチュターシャとクゥのすがたが、そこにあった。カチュターシャの両手両足が、四本足の役割を果たしている。クゥは、上半身だけが露出していて、俺たちを見ている。
「なにが、あった」
 聞かずとも、わかっているが、口にせずにはいられない。
「カチュターシャさんのからだが――急に起き上がって――アレ、が――」
 やはり、すでに寄生されていたのか。本来、彼女は死んでいた。そして、蘇生させられていたのだ。俺が、あのドラゴンを蘇生したのとおなじように。
 理由はわかっている。死体よりも、生きた生物からのほうが、継続的に養分を摂取できるからだ。
「逃げるぞ!」
 俺は手を引き、後ろに走りだした。そっちの方角には、ネクサに寄生していた群れ(スウォーム)がいる。ちょうど、部屋から出てこようとするところだった。
「ミイ、止まれ!」
 さけんで、俺だけ前に出る。
【類型(タイプ):鉄槌(ハンマー)】
 ――すまないな、ネクサ。
 巨大な鉄塊と化した右手で、ネクサの肉体ごと、ナノマシンをたたく。あまりの衝撃にネクサの肉体がはじけ、血が、赤い霧となって周囲に乱舞した。ナノマシンのひとつひとつがくだけ、血と入り交じって、壁や床に飛び散った。
「いまだ、走れ!」
 ミイは俺の指示に従い、霧散した怪物の横を走り抜ける。ちらっとふりかえると、ネクサの下半身だけを残した化け物は、よろよろと歩いていたが、その後ろからやってきた巨大なクゥたちの群れに呑まれ、一体化した。
「さっきのって、もしかして――」
「気にするな。いまは」
 頭のなかに地図を浮かべる。
 くそ、こっちの通路は、出口とは反対方向にしかつながっていない。奥へ進むしかない。
「待てよ」
 俺はT字路で方向転換し、さらに進む。
「どこへ向かってるの!?」
「制御室だ、あそこに行けば、もしかして!」
 あのスウォームの動きは遅かった。距離はかなり稼げたはずだ。そのあいだに、やるべきことがある。

       *

 俺たちは、制御室に駆けこんだ。俺は、すぐさま端末に右手をかざし、アクセスする。
 監視カメラの映像が、いくつか生きている。それによると、あのスウォームは、まだ離れた場所にいる。ネクサのように、いくつか分裂した個体がいる可能性もあったが、宿主――よりどころとなる肉体がないかぎり、分裂はうまくいかないのだろうと俺は分析している。人間の肉体を、つなぎのように利用している。念のため、船内全体をスキャンしてみるが、生体反応があるのは、俺とミイ、クゥとカチュターシャのみだ。
「なにをさがしてるの?」
「iNOIDを強制停止させるシステムだ」
 俺は答えた。なんらかのエラーでiNOIDが暴走することが、万にひとつもないとは言えない。当然、この船には搭載されていてしかるべきだ。
 コンピュータの領域内を、検索していく。途中、いくつか気になるデータを発見した。船が、この地点に到着してから、すでに二百五十年近く経過している。船がたいして腐食も劣化もしていないのは、製造に使用されている金属の自然修復機能によるらしい。
 俺は、その意味するところを考える。さすがに、俺の知る地球の技術よりも先端すぎた。わずかに寄り道し、船の製造された年月を調べる。
「……百年後?」
 この船が地球を旅立ったのは、俺がいた時代より、一世紀も未来だ。
 理屈に合わない気がした。俺は、この異世界と地球とでは、時間の流れかたがちがうのではないか、となんとなく推測していた。だが、俺たちより未来の地球にいた船が、俺たちよりも過去にこの世界に到着している。
 もっとくわしく調べたい気持ちもあったが、いまはそれより優先すべきことがある。
「これか!」
 対象iNOIDの強制停止を実行する無線信号。それらしき制御アプリを発見し、俺はコマンドを実行する。だが、表示されるのはエラーの文字。
「……ダメだ。命令を受けつけない」
「どうして?」
「あのナノマシンは進化しすぎている。なんらかの原因でプロテクトが外れて――」
 本能的で、プリミティブで。野生化してしまっている。
「止められないってこと?」
「いや……くそ」
 ちいさく毒づく。
「なに? どうしたの?」
 ミイにも聞こえてしまったらしい。
 俺は躊躇する。逡巡する。
「ミイ」
 ふりむき、彼女の手を握った。
「カチュターシャとクゥ。あのふたりのこと、好きか?」
 ミイは、しばらく俺の顔を見つめた。そして、真剣にうなずいた。
「うんうんっ! 好きだよ、大好き!」
「そっか」
 彼女の答えを聞き、ひとつうなずく。
「俺は、まえから迷ってる。いまだって、迷ってる。ミイの安全のためなら、いつでもあのふたりを見捨てられると、ずっと思ってるんだ。俺は、そういうヤツだ。けどさ」
「……ユウ兄?」
「俺たちがこの世界にきたとき、ふたりは親切にしてくれた。ミイによくしてくれた。仲良くしてくれた」
 俺の、ちっぽけな独占欲は、きっとミイを不幸にする。
 彼女の世界を、広げたいと、いまは思う。
「俺さ」
 立ち上がる。ミイの手は握ったまま。
「ミイが好きな人のこと、ミイの気に入った世界、ぜったいに守りたいって思う」
 そっと、ミイの手を放す。
「転校ばかりさせて、悪かったな」
「ゆ、ユウ兄」
「あのふたりを、助ける」
 俺さえいなければ、ミイは、安穏と生きられたのではないか?
 そんな思いが、疑念が、いまになって、ある。
 所属不明の男たちに狙われていたのは、俺たち、ではなく、俺、だけだったのではないか? 異世界にも、本来なら転移するのは俺だけで済んでいたんじゃないか?
 すべて、都合のいいように考えていた。謎の組織からミイを守らねばならない、だから、いっしょにいる。異世界に転移されてきた際も、ミイをひとり地球に残してきたわけじゃなくてよかった、などと考えていなかったか。
「ここにいてくれ、ミイ」
「そんな、でも」
「ミイを守りながらじゃ戦えない」
 足手まとい――そう言った。彼女の安全のために、あえて。
「だいじょうぶ、ぜんぶ、うまくいくから」
 ほかに、口にしたい言葉は、いくつもあった。けど、彼女に疑念を与えたくなかった。
「行ってくるよ」
 それだけ言い残し、部屋を出る。思いを振りきるように、走る。
 クゥとカチュターシャ、二人は生きている。スウォームが生かしている。貴重な栄養源を、死なせるはずはない。
 自己更新と進化をくりかえしたあのスウォームにアクセスし、その動作を停止させるシステムは、船内に存在しなかった。けれど。
 ナノマシンそのものを破壊する方法なら、存在した。
 この船は、地球から異世界へと転移航行する機能を持っている。そのコアには、とてつもない強磁場環境が使用されている。それを利用すれば、近くにあるありとあらゆる精密機器に決定的破壊という不具合を生じさせることができるはずだ。
 それに。
 うまくいけばミイを、地球に帰すこともできるかもしれない。

       *

 まずは、あのスウォームを船のコアがある区画に誘いこまねばならない。
 監視カメラでチェックしたスウォームの現在地を思い出し、その動線とミイのいる制御室のあいだに身を置くようにして移動する。
「……妙だな」
 俺は足を止める。前方が闇に包まれていた。
 ペンライトを取り出す。一部の区画だけ、電力が停止しているわけでもないだろうに、なぜ暗闇なのか。
 五感を研ぎ澄まそうとして、すかさず遮断する。
 悪臭――すさまじい。これは、腐敗臭だ。
 足を進める。
「くそ――ちくしょう」
 意図して発した言葉ではなかった。
 ライトの光を、見つけたものに向ける。
 壁にこびりつき、もぞもぞと動く、卵かなにかに見える集まり、つまりは巣のような、かたまり。それが周囲を覆って、電灯を隠してしまっている。
 見上げて唖然とする。戦慄に、背筋が凍る。
 見覚えのあるものが、とりこまれている。それは、ネクサの一部だった。ちぎれて引っかかった衣服の残骸から、かろうじてそれがわかる。変質し、変色している。
 俺は、iNOIDでありながら、嘔吐感を経験した。
 彼女の肉体は、どろどろに溶けかかっていた。もはや養分として以外の価値を失った彼女のからだは、ひたすらに消化されようとしていた。
 このナノマシンどもは、まるで吸血鬼のように血を吸い、鉄分を吸収し、油分も脂質もねこそぎ奪い、ありとあらゆる栄養をしぼりとっている。
 ライトの明かりが踊る。持つ手が、動揺で揺れていた。
 俺はさけんだ。
【類型(タイプ):鉄槌(ハンマー)】
 青黒い群れに、たたきつけた。
 くだける。散る。悲鳴のように、金属音が鳴る。
 巣の危機に、廊下の向こうから、スウォームがあらわれた。薄暗いなか、上半身を突き出したクゥの両目が光るのが見えた。
 俺は即座に背を向け、走りだした。
 追ってこい!
 闇雲に走っているように見せつつ、誘導する。
 広大な吹き抜けの空間に出た。天井ははるか高く、底はとてつもなく深い。ここが、この船の最大の特徴である転移機能の要だ。空間の中央に球体型の巨大なコア部が存在し、それを囲うようにして、らせん状の通路やハシゴが存在している。太い柱で宙に固定された球体は、数本の金属の帯に覆われていた。帯は、ゆるやかに球体上を回転している。磁場を発生させるしかけだろう。ここにくるまでのあいだに長い通路を抜けたが、あれは磁場を遮断する隔壁の役割を果たしていたにちがいない。
 コア部に手動でアクセスするには、ハシゴを下り、橋の役目を果たす鉄の格子床に到達して、渡らねばならない。が、もちろん、俺はそんな面倒な手段をとる必要はない。
【類型(タイプ):触手(テンタクル)】
 伸ばした触手でコアの突起をつかみ、飛んだ。ターザンにでもなった気分で、振り子移動する。
 コア側の細い通路に降り立ち、制御盤を開く。
「っ!?」
 肩を、細い棒がつらぬいていた。ナノマシンの群れで構成されたものだ。そのまま、ぐいっと後方に引っぱられる。その間にも、ナノマシンは俺を侵食しようとする。おのれのナノマシンをぶつけ、侵入しようとする異物をのこらず排除していく。
 スウォームが俺をつかまえた。目の前に、クゥの顔があった。
「助けてやる。待ってろ」
 俺が言うと、彼女は、ぎこちなくこちらを見た。その瞳からは、ほとんど意思が消えてしまっていた。
「いいんだ、ユウ」
 ハウリングを起こしたような声で彼女は言う。
「アタシはいま、カチュとひとつだ……」
「バカ野郎っ、しっかりしろ!」
 俺はさけんで、彼女のからだを呑みこんでいる接合部を殴りつけた。手ごたえがない。接触する直前に、ナノマシンが拡散し、俺の攻撃を直で受け止めないようにしている。
 けたたましい笑い声が、クゥののどから漏れる。
 俺は、通路とコアのあいだで宙に浮くスウォームに振り落とされそうになり、両手でクゥのからだにしがみついた。下を見ると、奈落の底が口を開いている。
 コアさえ起動させれば――。
 そうすれば、このスウォームを構成するナノマシンのすべてが強磁場にさらされ、活動を停止するはず。
 そして――この俺を構成する、すべても。
 スウォームに解放されたクゥとカチュが落下してしまわないよう、助ける時間が、俺にあるだろうか。
 なるべく床のある場所までスウォームを引きつけ、コアを起動させるしかない。
 クゥの顔をのぞきこむ。
 ――オマエ、なんで泣いてるんだ。
「ミイのこと、たのむよ」
 言って、制御盤に触手を伸ばそうとする。
【Error】
 突如、視界を、文字列が覆った。
【Prime Directive : Update by the developer.】
【皆城(ミナシロ)美衣(ミイ)ヲ保護スルコト】
 なんっだ、これ、は――?
 頭が痛む。ぐわんぐわんと警報が鳴る。赤く染まる。
 右手が制御を失い、握力が消えた。左手のみでぶら下がる。
 自身のなかに眠る、なんらかのシステムが、妨害してくる。行動を、左右しようとしてくる。まだまだ自分のなかに未知の領域がある――そのことに、いらだちがつのる。
 スウォームが、ナノマシンを一点に集中させ、ドリルのかたちを作る。俺をねらう。
 ちくしょう、ふざけた殺戮システムめ。
 システム。
 システム、システム、システム。くそったれシステムだ。そんなものに踊らされて。あやつられて。争って。殺し合って。
「つまらないだろ、そんなの……!」
 俺はわめいた。
「つきあって、られるか!」
 襲いかかってきたドリルを右手で殴りつけた。ナノマシン同士がぶつかり合い、はじける。【Error】の表示が、ゆがんで、視界から消えていった。
 俺の心は、俺のものだ。
 右手でスウォームにぶら下がり、再度襲いかかってきたドリルを今度は左手でつかむと、手の肉を刻むのもかまわず、全力で引きちぎった。
 その隙に、俺はコアに向かって跳んだ。左手で手すりをつかみ、右手の触手を制御盤へと伸ばす。
 ……ミイ。
 彼女は、許してくれるだろうか。おそらく許してはくれないだろう。それでも、俺はやる。彼女を守れるのだから。
(……ユウ兄? ユウ兄なの?)
 ミイ。ミイの声がする。通信がつながってしまっている。
「なあ、ミイ。ほんとうに聞こえているか、わからないけど」
 背後にスウォームが迫ってきているのがわかる。時間がない。
 それでも、最後に、ひとつだけ。
 ――あたしは、なにひとつ、ユウ兄にあげれてないのに。
「そんなことは、なかったよ」
 俺は、すべてを君からもらったんだ。ちょっとやそっとで返せるはずもない、たくさんのすべてを、君からもらったんだ。
 君が、命をくれた。
 名前をくれた。
 心をくれた。夢をくれた。
 自由をくれた。指針をくれた。生きがいをくれた。
 生活を、日常を、人生をくれたんだ。
「だから……ありがとう、ミイ」
 俺は、ずっと言いたかった言葉を、告げる。
「お前の半分、うれしかった」
 そのできごとを、君はおぼえていないかもしれないけれど。
 さよなら。幸せだった。
 俺は目を閉じる。制御盤にアクセスする。
 ここで死にたくない・死にたくない・死にたくないと心がわめきたてる。矛盾が、システムの齟齬として、思考をきしませる。
 振動がきて、コアの暴走が始まる。全身のナノマシンがふるえだし、麻痺していくのがわかる。
 ミイが助かる。善良な人たちとともに。
 これで。万事おっけぃだ。
(ユウ兄――)
 風が、吹き抜けたような気がして。
「――そんなの、ぜんっぜん万事おっけぃじゃないよ」
 声がした。頭のなかからではない。
「……バカな」
 ふりかえり、目を疑う。
「ユウ兄、単純だもん――わかりやすいもん」
 俺は光につつまれていた。時間が静止しているかのような、光の波のなかにいる。
「うぬぼれんなぁっ! ユウ兄のバカっ!」
 光の外から聞こえる声の色が変質し、罵声が飛んだ。
「いつだって、ぜんぶぜんぶぜーんぶ、ひとりで決めちゃうんだからっ! ひとりでやっちゃおうとするんだからっ! お世話型のくせに! ムチャしてっ!」
 それは、魔法だった。おそらく。
 ミイが立っていた。壁側の通路で、全力で怒ってます、という表情で。かざした両手のさき――コア側に立つ俺と周囲のはざまに、巨大な光の壁が発生している。俺に襲いかかろうとしていたスウォームの一粒一粒が、壁にぶつかり、火花を散らし、はねかえって、青白い光の放物線となり、落ちていった。明滅する光が、そのたび、美しいミイの顔をシャープに照らし出す。まるで花火だと、俺は思った。
「あたしがっ、ユウ兄を守るんだっ!」
 聞いたこともないような大声で。
「あたしが近くで見てないと、危なっかしくて!」
 そんな、バカなことを言って。
「だから、あたしがいっしょにいてやるんだ!」
 光の壁の圧力で、スウォームを一挙にはじきかえした。
 俺は、はじける光を見ていた。そのむこうに立つ、ミイを見ていた。目が離せなかった。
 スウォームが、がくがくと痙攣を始めている。コアの暴走により、強磁場が発生し、ナノマシンの機能を乱している。バラバラにくずれていこうとしている。こびりついていた靴底の泥が、かわいて、ぱらぱらとはがれ落ちていくみたいに。
 分解が始まった。クゥとカチュターシャの全身から、ナノマシンの群れが離れていく。生き延びようと、ふるえ、もがき、力を失って、風に吹き散らされるように、コアへと引き寄せられていく。
 俺はあわててクゥとカチュターシャ、ふたりの肉体が浮力を失って落下するまえに抱きとめた。その間も、光の波が、俺を強磁場から守っている。まだわずかにクゥたちのからだにへばりついていたナノマシンが、光の壁にぶつかり、くだけた。
 粒子群は、青黒い霧となって、コアに吸い寄せられていく。
「……おだやかに眠れ」
 俺は、彼らにつぶやく。
「ユウ兄、こっちへ!」
 手をかざしたまま、ミイがさけぶ。
「さっさとする!」
「はいっ」
 あまりの剣幕に、反射的にイエスマンになってしまう。俺はぐったりしているふたりをかかえ、ミイの真横まで移動した。
「魔法、いつのまに使えるようになったんだ」
「たったいまだよ」
「え?」
「ユウのピンチに駆けつけまして、えいっ! てやったら、できた。才能開花の音がした」
「できたてかよ!」
「だいじょうぶ、使いこなしてる気がしてしかたない」
「気がするだけ!?」
 俺は、シリアスな気分が吹き飛ぶのを感じていた。これこそが、ミイの才能だ。天性のシリアス・クラッシャー。どんなに絶望的な状況であったとしても、彼女は前向きを捨てない。
「助かったよ……ミイ」
「て、照れる! 照れて集中できないっ」
「コアの暴走で、なにが起きるかわからない。逃げよう。ふたりを外へ連れ出さないと」
「あいあいっ」
「移動しても、だいじょうぶか? 魔法、途切れない?」
「余裕です」
「いこう」
 コアの区画を出て、磁場を遮断している長い廊下に入った。
 体勢をととのえようと、一度、クゥたちのからだを下ろす。
 その瞬間、床がぐらりと揺れた。俺は壁に手をつき、もう片方の手でミイを抱きとめる。ミイは膝から折れかけたが、手はつっぱったまま、ふんばっている。
 船体が振動していた。クゥたちのからだが壁ぎわにすべった。
「どうなってるの、ユウ兄!」
 小刻みな振動に、ときおり強い衝撃が混じった。
 壁が、床が、天井が、ゆがんだり、多重にブレたりして見えた。ミイのすがたも同様だ。白い光の帯が、通路を走り抜けていく。
「移動する――」
「え?」
「跳ぶぞ、この船は!」
 さけんで、しっかり立とうとするが、ふたたび衝撃が突き上げ、俺は床に投げ出された。船がかたむき、そのまま通路をすべっていって、磁場隔壁の通路を抜けた。
 ほかの三人もすべってくる。俺は壁に足をついて踏ん張り、自分のからだをクッションにして、彼女たちを受け止めた。
「地球へ、行くのかなっ」
 振動を全身で浴びながら、ミイが、なんとか口にする。
「わからない!」
 さけびかえす。
「衝撃に備えろ!」
 俺は触手状のナノマシンを体外に放出し、壁や床、天井へとクモの巣のように張りめぐらせた。そうして、ナノマシンで構成された繭に全員を包みこむ。
「ユウ兄!」
 しがみついてくる彼女のからだを、しっかりと抱き寄せる。
 走馬燈のように、かすかなハミングと、夕陽を浴びて立つ彼女の後ろすがたがフラッシュバックした。ガラスに顔をくっつけてこちらを見る彼女の笑顔が脳裏をかすめた。
「いっしょにいるよ、ミイ」
 いや、ちがうな。
「……ミイ。いっしょに、いてくれる?」
 俺の言葉に、おどろいたようにミイが顔を上げた。それから、こくこくとうなずいて、俺の胸もとに顔をうずめた。
 放電。青白く明滅するスパーク。光の洪水に、つつまれていく。溶けていく。
 この街を出よう――。ミイにそう言って家を出た、ある日を思い出す。満天の星のきらめきを連想する。
 轟音と、衝撃。
 立てつづけに襲いかかってきたそれらが、俺の意識を強制的にシャットダウンした。
 抱きしめた彼女のからだが、最後の感覚だった。



   Epilogue


「ユウ兄、ユウ兄」
 からだをゆさぶる手。意識をゆさぶる声。
 もう朝か?
 そんな寝ぼけた思考を振りはらい、現状を思い出す。
「ミイ、無事か……」
 応えつつ顔を上げると、ミイが泣きそうな顔で、その場にへたりこんだ。
「死んじゃったかと、思った」
「そんなにヤワじゃない」
 俺は頭を振りつつ立ち上がり、ミイに手を貸した。
「クゥとカチュターシャは……」
「まだ意識はないけど、だいじょうぶ」
「ともかく、ここを出よう」
 とっくに死んだ船。長居は無用だ。
 クゥたちを持ち上げようとする横に、ミイがきた。
「どうした?」
「手伝う」
 言うと、ミイは「んしょ、んしょ」と、カチュターシャのからだの下にすべりこみ、背中で持ち上げた。
「ぬう」
「重いだろ。俺がやるから」
「ひど! 女の子に重いとか言わないであげて!」
「いや、意識のない人間っていうのは重いんだよ」
「このデリカシーなし!」
「わかったわかった」
 俺は苦笑する。
「まかせてもいいか?」
「もちのろん」
 ミイは親指を立て、エルフを背負って歩きだした。
 船は、完全に静止しているようだった。
 俺たちは、ゆっくりと廊下を進む。
「……運動不足を、痛感、なう」
 息切れしながら、ミイがつぶやく。
「あとっ、どのくらい、だっけ」
「もうちょいだ。がんばれ」
「おう……」
 やがて、目的地が見えてくる。俺たちは、クゥとカチュターシャをその場に下ろし、息をついた。
 船の出入り口。このさきに、なにが待ち受けているのか。
 ボタンを押し、扉が開いた。
 出口からさしこんでくる太陽の光に、俺は腕で視界をさえぎった。そのすきに、ミイが横をすり抜け、外に出る。
「こらミイ、俺がさきに――」
 俺は腕を下ろし、広がる青い空と同時に、だいじな人のすがたを見た。
「朝陽だよ、ユウ兄」
 ミイがふりかえる。その手をさしだす。
 俺はミイのやわらかな手をにぎり、外の世界へと踏み出して、彼女とならんだ。
 空の青が目にしみる。
 視覚のシステムに微々たる不具合が生じているらしく、まぶしい。慣れるまでのあいだ、俺は考える。
 ここはどこだろう。
 地球だろうか? 異世界だろうか?
 ここはいつだろう。
 過去か? 未来か?
 考えてもしかたない。ともかく、どこかで、いつかなのだ。
 今度は、どんな世界にたどりついたのか。
「行こう」
 ひとつだけ、たしかなことがある。
 俺にとって、たったひとつの、たいせつなこと。
 つないだ手と手のあいだ――ぬくもりが、教えてくれること。
「万事おっけぃ」
 ここは、ミイのいる世界だ。

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