中学時代に「泣けるドラえもん」ものとして投稿した作品。その②。
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ドラえもん。おばあちゃん。僕は明日、結婚するよ。
今一番、誰よりも伝えたい二人の相手に向けて、僕はささやいた。
だがどこか、その言葉は虚ろに響いてしまう。冬の夜空に向かって、口から白い吐息が吐き出される。夜空の星の煌きの中に、思い出の一つ一つを見出そうとする。
思い出たちは、確かにそこにいる。静まりかえった街並みのなかに。溶け込むように消えていく吐息のなかに。過ぎ去っていく今日という時間のなかに。
冷えてきた手をポケットに突っこみ、土手を降りる。階段を降りて、道路にさしかかったとき──。歩みが、止まる。
「あ──」
確かに見たと思った。
笑みを浮かべている、親友の姿──。そして、何度倒れても起き上がるダルマのイメージ。優しい、温かな、あの人の笑顔。
次の瞬間、それらの姿はかき消え、車のライトが闇を切り裂いてきた。
声を上げる暇すらなかった。
遠くで呼ぶ声がする。でも、そんなはずはない。
気づけば、車にはね飛ばされて宙を舞っていた。
もういい……。
意識が闇に埋もれていく。夜空に浮かぶ星は、もう見えない。
一瞬、彼女の顔が浮かんだが、すぐにそれも消えていった。
誰かの声が聞こえた。
──僕、ダルマになる。転んでも転んでも、ちゃんと一人で起きる。だから……心配しないで。
これは……僕の声だ。幼い自分。亡くなった、おばあちゃんとの約束。
目を開けると、僕は暗闇のなかに倒れていた。
「誰か……いる?」
僕は起き上がり、呼びかけながら、一寸先すら見えない闇の先へと歩いた。
覚えているのは、車に轢かれたことだ。とすると、僕は死んでしまったのか。
……それはそれで、いい。
もう、じゅうぶんに楽しかった。たくさんの思い出を抱きしめて歩いてきた。
帰りたい。楽しかった思い出の日々に帰りたい。最近、そう感じていた。
もう僕は──。
──なぜ、目は前に付いていると思う?
いつかの、先生の言葉が思い浮かぶ。
「……前へ前へと進むため……ですよね」
だが、そんな言葉も、ただの記号にしか聞こえなかった。少しも意味を成さない。いや、僕が意味をくみ取ろうとしていないだけだ。僕は逃げている。未来という重荷から。楽しい過去へと逃げようとしている。タイムマシンはもうないというのに。仮にあったとしても……そんなことを考えるのは意味がない。どちらにしろ、僕は死んでしまったのだから。
──あんたのお嫁さんを、一目見たいねぇ。
なつかしい声が聞こえる。
……また、約束を破ってしまうね。おばあちゃん。
僕は闇のなかを歩き続けた。するとようやく、人影が見えてきた。
「あ、あの……」
僕の声に反応して顔を上げたのは、見たことのない女の子であった。
「あなたは……どうしてここにいるの」
少女はつぶやいた。そして、はっとしたように僕の腕をつかんだ。
「引き返して。きっと、まだ間に合うわ」
「……どうして」
僕の空ろな声に驚いてか、少女は手を離した。
「どうしてって……このまま進めば、あなたは死ぬのよ?」
「……いいんだ。もう疲れた。休みたいんだ」
少女は、ショックを受けたような顔で僕を見た。
「君も、さっき死んだのかい?」
僕は聞いてみた。
「いいえ、もっと前に」
「じゃあなぜ、こんなところに?」
「大切な人に会ってきたの。声が聞こえたから」
「ふうん……」
僕は少女の隣に座りこんだ。
「……どうして、死にたいなんて思うの?」
少女が聞いてきた。
「死を望んだりはしてなかったよ……ただ、これが一つの機会かなと思ったんだ。明日からはすべてが変わる。死が、もっと悲しくなる」
そこで僕は顔を上げ、少女に悲しく笑顔を浮かべて見せた。
「明日、僕は結婚するんだ。ずっと昔から好きだった人とね」
「だったら、なおさら──」
「……僕には自信がないんだ。静香とずっと結婚したくて、それだけを目標に生きてきたんだ。だけど……」
なぜこの少女に、ここまで話してしまうのだろう。見ず知らずの人に話したって、しかたのない話だ……。だが、僕は話し続ける。
「だけど、自信がないんだ。彼女を幸せにすることを、僕にできるとは思わない。昔から僕は駄目な奴だった」
「そんなことは……」
「君は知らないだろう。僕はいじめられっこで、意気地なしで、寝坊宿題忘れの常習犯。生活力ゼロの情けない奴だった」
「でも、それからあなたは成長したでしょ。それに、昔からいいところもたくさんあったでしょう」
なぜこの少女に話してしまうのか……少女にはどこか、安心感を覚える温かさがあった。
「そう?」
抱いた印象を伝えると、少女は嬉しそうに笑った。
「私も、あなたと話せて嬉しい。そっか。じゃあ私たち、相思相愛だね。あ、これから結婚する人に言うことじゃないか」
僕は首をゆるゆると振った。
「僕には幸せなんてつかめない。静香ちゃんは、他に素敵な男性を見つけるべきなんだ」
少女の手が伸びてきて、僕の手を包んだ。
「僕は静香ちゃんに幸せになってほしい。僕じゃ駄目なんだ。誰か素敵な人が現れて彼女を幸せにしてくれるのを、僕は見守りたい。たとえば、僕のような泣き虫じゃなくて、彼女が辛いときや悲しいときに、しっかり支えられるような人が」
「……来て」
少女が立ち上がった。僕の手を引いて、走り出す。
「どこへ行くんだ? 僕は戻りたくなんて──」
急に光が差し込み、僕は目を腕で覆った。
世界は、朝になっていた。僕と少女は、町の上空に立っていた。
見下ろしてみると、なにか違和感を感じる。まず、冬ではなく夏のようだ。そして、僕の家の近所の風景も、現在のものとは違っていた。
「ここは……」
過去の世界。
少女についていき、地上へと降下する。
空き地の辺りに降りた時、泣き声が聞こえた。僕は情けなさのあまり、耳を塞ぎたくなった。大泣きしている幼稚園児の僕が、空き地から出てきた。また苛められたのだろうか。
隣には、幼い静香。昔の僕を優しく慰めている。
強く握り締めたために爪が食い込んだ拳から、血が一筋流れる。
情けない。こんな僕に、彼女を幸せになど出来ない。
「ほら、言っただろう──」
僕はつぶやいて少女のほうを向こうとした。
そのとき、幼い静香が石につまづいて転んだ。彼女は目に涙を浮かべ、我慢しきれなくなったのか、手を顔に押し当てて泣き始めた。
僕は思わず駆け寄ろうとした。彼女に僕の姿は見えないだろうという直感がある。僕の実体は、おそらく、ここにはない。それでも走らずにはいられなかった。
だが、僕は、足を止める。
さっきまで泣いていた幼い僕が、涙を拭いて、幼い静香のもとに駆け寄った。昔の僕は、必死で自分の涙を堪えながら、静香を慰めていた。
「あの子と結婚するんだね」
少女が横で言う。僕は、なにも答えられない。ただ、かつての自分の、自分たちの姿を見つめている。
その後、泣き声に気づいた幼いジャイアンとスネ夫が、親たちを連れてきて静香は家に送られていった。そして、ようやく自分の傷の痛みを思い出したのか、昔の僕は再び泣き始めた。すると、誰かが近づいてきた。
おばあちゃんだった。
おばあちゃんは、優しく手を昔の僕の頭にのせ、穏やかに撫でてくれていた。
「のびちゃんは優しいね」
おばあちゃんが言った。瞼が熱くなって、涙があふれた。
「のびちゃんは、私の誇りだよ」
僕は何か言おうとした。口を開こうとした。
そのとき、確かに。
僕は確信を持って言える。
そのとき、確かにおばあちゃんは僕を見たのだ。見えるはずのない僕を。おや、という表情で。にっこりと。
世界が歪み、気がつけば、僕はまた暗闇の中に立っていた。隣に立っている少女が、優しく僕を見つめている。
「……約束したんだ、おばあちゃんに。何度でも起き上がるって。何度でも起き上がるダルマみたいになるって。約束したんだ」
少女が、頷いた。
「まだ、間に合うかな」
「間に合うわよ」少女が言った。
その時、大きな音がした。振り向くと、引き返す道が、完全に消えていこうとしていた。
「時間がないわ。さあ、行って!」
「おばあちゃんに……謝らなくちゃ」
「謝る必要なんてないのよ」
少女が言った。
「あなたは私の誇りなんだから」
「え──?」
「行って!」
僕は走り出した。生きるために。もう一度静香に会うために。約束を守るために。
ふたたび、起き上がるために。
「もう、大丈夫よね」
少女の声が聞こえてくる。温かな、優しい声。
「これで私も進めるよ」
出口が消えていく。僕は走る。
「のびちゃん──あなたはいつも、たくさんの優しさを私たちに与えてくれたんだよ。なによりも大事な温かさを、あなたは持っていたんだよ」
僕は、走る。転んでもいい。起き上がればいい。
「私の想いが、あなたの優しさに乗って、未来に続いていってくれることが、嬉しい」
消えていく出口に向かって、僕は飛びこんだ。
「幸せをありがとう。のびちゃんのおばあちゃんになれて──良かったよ」
さようなら。ありがとう。おめでとう。
目を開けると、無機質な天井が目に入った。ここは病室のようだ。
「のび太さん!」
誰よりも幸せにしてあげたい顔が、僕の顔を覗きこんでいた。
「よかった……」
「ゴメン……僕は……」
視線を彷徨わせると、棚の上に置いてあるものが目に入った。
「あれは……?」
「ダルマ? のび太さんが倒れている間、ずっと握り締めていたのよ」
そうか。
僕は微笑んだ。
いつも……見守っていてくれたんだ。僕が起き上がることを忘れかけていたから。また、おばあちゃんが抱きしめてくれたのかな。
……もう、大丈夫です。僕は歩いていける。未来へ向かって。
目を閉じると、押入れのなかの親友の姿が目に浮かぶ。ダルマと猫をかけ合わせたような、愛嬌のある、あの姿。
君がおばあちゃんに会わせてくれたのか。
──君を幸せにすることが、僕の使命だからね。
笑みが浮かんだ。
「幸せになろう」
僕は静香を見つめた。
こんな僕だけど。こんな僕らだから。
「絶対に、僕が幸せにするよ」
窓から見える空は、高く高く、青色だった。
いつか親友と初めて出会った元旦の空のように。
いつかおばあちゃんが抱きしめてくれた、あのときの空のように。
ドラえもん。おばあちゃん。
僕は──結婚するよ。
今一番、誰よりも伝えたい二人の相手に向けて、僕はささやいた。
だがどこか、その言葉は虚ろに響いてしまう。冬の夜空に向かって、口から白い吐息が吐き出される。夜空の星の煌きの中に、思い出の一つ一つを見出そうとする。
思い出たちは、確かにそこにいる。静まりかえった街並みのなかに。溶け込むように消えていく吐息のなかに。過ぎ去っていく今日という時間のなかに。
冷えてきた手をポケットに突っこみ、土手を降りる。階段を降りて、道路にさしかかったとき──。歩みが、止まる。
「あ──」
確かに見たと思った。
笑みを浮かべている、親友の姿──。そして、何度倒れても起き上がるダルマのイメージ。優しい、温かな、あの人の笑顔。
次の瞬間、それらの姿はかき消え、車のライトが闇を切り裂いてきた。
声を上げる暇すらなかった。
遠くで呼ぶ声がする。でも、そんなはずはない。
気づけば、車にはね飛ばされて宙を舞っていた。
もういい……。
意識が闇に埋もれていく。夜空に浮かぶ星は、もう見えない。
一瞬、彼女の顔が浮かんだが、すぐにそれも消えていった。
誰かの声が聞こえた。
──僕、ダルマになる。転んでも転んでも、ちゃんと一人で起きる。だから……心配しないで。
これは……僕の声だ。幼い自分。亡くなった、おばあちゃんとの約束。
目を開けると、僕は暗闇のなかに倒れていた。
「誰か……いる?」
僕は起き上がり、呼びかけながら、一寸先すら見えない闇の先へと歩いた。
覚えているのは、車に轢かれたことだ。とすると、僕は死んでしまったのか。
……それはそれで、いい。
もう、じゅうぶんに楽しかった。たくさんの思い出を抱きしめて歩いてきた。
帰りたい。楽しかった思い出の日々に帰りたい。最近、そう感じていた。
もう僕は──。
──なぜ、目は前に付いていると思う?
いつかの、先生の言葉が思い浮かぶ。
「……前へ前へと進むため……ですよね」
だが、そんな言葉も、ただの記号にしか聞こえなかった。少しも意味を成さない。いや、僕が意味をくみ取ろうとしていないだけだ。僕は逃げている。未来という重荷から。楽しい過去へと逃げようとしている。タイムマシンはもうないというのに。仮にあったとしても……そんなことを考えるのは意味がない。どちらにしろ、僕は死んでしまったのだから。
──あんたのお嫁さんを、一目見たいねぇ。
なつかしい声が聞こえる。
……また、約束を破ってしまうね。おばあちゃん。
僕は闇のなかを歩き続けた。するとようやく、人影が見えてきた。
「あ、あの……」
僕の声に反応して顔を上げたのは、見たことのない女の子であった。
「あなたは……どうしてここにいるの」
少女はつぶやいた。そして、はっとしたように僕の腕をつかんだ。
「引き返して。きっと、まだ間に合うわ」
「……どうして」
僕の空ろな声に驚いてか、少女は手を離した。
「どうしてって……このまま進めば、あなたは死ぬのよ?」
「……いいんだ。もう疲れた。休みたいんだ」
少女は、ショックを受けたような顔で僕を見た。
「君も、さっき死んだのかい?」
僕は聞いてみた。
「いいえ、もっと前に」
「じゃあなぜ、こんなところに?」
「大切な人に会ってきたの。声が聞こえたから」
「ふうん……」
僕は少女の隣に座りこんだ。
「……どうして、死にたいなんて思うの?」
少女が聞いてきた。
「死を望んだりはしてなかったよ……ただ、これが一つの機会かなと思ったんだ。明日からはすべてが変わる。死が、もっと悲しくなる」
そこで僕は顔を上げ、少女に悲しく笑顔を浮かべて見せた。
「明日、僕は結婚するんだ。ずっと昔から好きだった人とね」
「だったら、なおさら──」
「……僕には自信がないんだ。静香とずっと結婚したくて、それだけを目標に生きてきたんだ。だけど……」
なぜこの少女に、ここまで話してしまうのだろう。見ず知らずの人に話したって、しかたのない話だ……。だが、僕は話し続ける。
「だけど、自信がないんだ。彼女を幸せにすることを、僕にできるとは思わない。昔から僕は駄目な奴だった」
「そんなことは……」
「君は知らないだろう。僕はいじめられっこで、意気地なしで、寝坊宿題忘れの常習犯。生活力ゼロの情けない奴だった」
「でも、それからあなたは成長したでしょ。それに、昔からいいところもたくさんあったでしょう」
なぜこの少女に話してしまうのか……少女にはどこか、安心感を覚える温かさがあった。
「そう?」
抱いた印象を伝えると、少女は嬉しそうに笑った。
「私も、あなたと話せて嬉しい。そっか。じゃあ私たち、相思相愛だね。あ、これから結婚する人に言うことじゃないか」
僕は首をゆるゆると振った。
「僕には幸せなんてつかめない。静香ちゃんは、他に素敵な男性を見つけるべきなんだ」
少女の手が伸びてきて、僕の手を包んだ。
「僕は静香ちゃんに幸せになってほしい。僕じゃ駄目なんだ。誰か素敵な人が現れて彼女を幸せにしてくれるのを、僕は見守りたい。たとえば、僕のような泣き虫じゃなくて、彼女が辛いときや悲しいときに、しっかり支えられるような人が」
「……来て」
少女が立ち上がった。僕の手を引いて、走り出す。
「どこへ行くんだ? 僕は戻りたくなんて──」
急に光が差し込み、僕は目を腕で覆った。
世界は、朝になっていた。僕と少女は、町の上空に立っていた。
見下ろしてみると、なにか違和感を感じる。まず、冬ではなく夏のようだ。そして、僕の家の近所の風景も、現在のものとは違っていた。
「ここは……」
過去の世界。
少女についていき、地上へと降下する。
空き地の辺りに降りた時、泣き声が聞こえた。僕は情けなさのあまり、耳を塞ぎたくなった。大泣きしている幼稚園児の僕が、空き地から出てきた。また苛められたのだろうか。
隣には、幼い静香。昔の僕を優しく慰めている。
強く握り締めたために爪が食い込んだ拳から、血が一筋流れる。
情けない。こんな僕に、彼女を幸せになど出来ない。
「ほら、言っただろう──」
僕はつぶやいて少女のほうを向こうとした。
そのとき、幼い静香が石につまづいて転んだ。彼女は目に涙を浮かべ、我慢しきれなくなったのか、手を顔に押し当てて泣き始めた。
僕は思わず駆け寄ろうとした。彼女に僕の姿は見えないだろうという直感がある。僕の実体は、おそらく、ここにはない。それでも走らずにはいられなかった。
だが、僕は、足を止める。
さっきまで泣いていた幼い僕が、涙を拭いて、幼い静香のもとに駆け寄った。昔の僕は、必死で自分の涙を堪えながら、静香を慰めていた。
「あの子と結婚するんだね」
少女が横で言う。僕は、なにも答えられない。ただ、かつての自分の、自分たちの姿を見つめている。
その後、泣き声に気づいた幼いジャイアンとスネ夫が、親たちを連れてきて静香は家に送られていった。そして、ようやく自分の傷の痛みを思い出したのか、昔の僕は再び泣き始めた。すると、誰かが近づいてきた。
おばあちゃんだった。
おばあちゃんは、優しく手を昔の僕の頭にのせ、穏やかに撫でてくれていた。
「のびちゃんは優しいね」
おばあちゃんが言った。瞼が熱くなって、涙があふれた。
「のびちゃんは、私の誇りだよ」
僕は何か言おうとした。口を開こうとした。
そのとき、確かに。
僕は確信を持って言える。
そのとき、確かにおばあちゃんは僕を見たのだ。見えるはずのない僕を。おや、という表情で。にっこりと。
世界が歪み、気がつけば、僕はまた暗闇の中に立っていた。隣に立っている少女が、優しく僕を見つめている。
「……約束したんだ、おばあちゃんに。何度でも起き上がるって。何度でも起き上がるダルマみたいになるって。約束したんだ」
少女が、頷いた。
「まだ、間に合うかな」
「間に合うわよ」少女が言った。
その時、大きな音がした。振り向くと、引き返す道が、完全に消えていこうとしていた。
「時間がないわ。さあ、行って!」
「おばあちゃんに……謝らなくちゃ」
「謝る必要なんてないのよ」
少女が言った。
「あなたは私の誇りなんだから」
「え──?」
「行って!」
僕は走り出した。生きるために。もう一度静香に会うために。約束を守るために。
ふたたび、起き上がるために。
「もう、大丈夫よね」
少女の声が聞こえてくる。温かな、優しい声。
「これで私も進めるよ」
出口が消えていく。僕は走る。
「のびちゃん──あなたはいつも、たくさんの優しさを私たちに与えてくれたんだよ。なによりも大事な温かさを、あなたは持っていたんだよ」
僕は、走る。転んでもいい。起き上がればいい。
「私の想いが、あなたの優しさに乗って、未来に続いていってくれることが、嬉しい」
消えていく出口に向かって、僕は飛びこんだ。
「幸せをありがとう。のびちゃんのおばあちゃんになれて──良かったよ」
さようなら。ありがとう。おめでとう。
目を開けると、無機質な天井が目に入った。ここは病室のようだ。
「のび太さん!」
誰よりも幸せにしてあげたい顔が、僕の顔を覗きこんでいた。
「よかった……」
「ゴメン……僕は……」
視線を彷徨わせると、棚の上に置いてあるものが目に入った。
「あれは……?」
「ダルマ? のび太さんが倒れている間、ずっと握り締めていたのよ」
そうか。
僕は微笑んだ。
いつも……見守っていてくれたんだ。僕が起き上がることを忘れかけていたから。また、おばあちゃんが抱きしめてくれたのかな。
……もう、大丈夫です。僕は歩いていける。未来へ向かって。
目を閉じると、押入れのなかの親友の姿が目に浮かぶ。ダルマと猫をかけ合わせたような、愛嬌のある、あの姿。
君がおばあちゃんに会わせてくれたのか。
──君を幸せにすることが、僕の使命だからね。
笑みが浮かんだ。
「幸せになろう」
僕は静香を見つめた。
こんな僕だけど。こんな僕らだから。
「絶対に、僕が幸せにするよ」
窓から見える空は、高く高く、青色だった。
いつか親友と初めて出会った元旦の空のように。
いつかおばあちゃんが抱きしめてくれた、あのときの空のように。
ドラえもん。おばあちゃん。
僕は──結婚するよ。