中学時代に「泣けるドラえもん」ものとして投稿した作品。その①。
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なつかしい声が聞こえた。忘れかけていた、昔の思い出がよみがえってくる。
思いだす。夢がつまった宝箱のような毎日のこと。絶対に忘れないって約束したこと。裏山の一本杉の下で、五人で約束したこと。また、戻ってこよう。みんなで、また戻ってこよう。この町に。生まれ育った、この町に。そう約束したこと。
ずっと、忘れていた。思いだしたくなかった。あのころの自分は情けなくて。そして同時に、あのころの自分は幸せすぎて。いまの自分が失くしたものを、すべて持っていた。そのことに気づかなかった。失うまで、気づけなかった。
過去をうらやむのをやめたのは、仕事を見つけたころだったか。過去を振り返るのはやめ、今を生きることに専念しようとした。働いていれば、なにも考えずに仕事だけしていれば、昔のことなど思いださずにすむ。でも結局それは、ただ逃げただけだったのか。自分は、整理しなければならない事柄から、ずっと逃げてきたのか。
なつかしい声が聞こえる。呼んでいる。
知っている声だった。もう、聞こえてくるはずもない声。
だから、夢なのだと分かった。昔の夢を見ているのだ。これは、夢なのだ──。
目を覚ますと、開いた目から涙が零れ落ちた。
朝特有の肌寒さが突き刺すように身体を冷やす。まだ春だというのに開け放たれた窓からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。しばらく顔をふせたまま、窓から匂ってくる、露で濡れた草の香りに包まれていた。
顔を上げれば、シンプルな仕事机が目に入る。引っ越すときに、唯一実家から持ってきた机。数年前は昔の写真を貼っていたのだが、いつしか全部外してしまっていた。
夢で聞こえてきた声を思いだす。
上体を起こし、軽く伸びをして眼鏡をかける。
窓から朝日が差しこみ、机の上に山積みにされた書類を照らしている。そして、昔と何も変わらずに、ただそこに存在している机の引き出し。
君なのか? 心の中で問う。あの声は、君なのか?
引き出しに光が当たる。心臓が、とくんと弾んだ。
そこに、今はもういるはずもない親友の姿を見たように思ったから。
「のび太さん?」静香の声が聞こえる。「起きたの?」
「ああ」僕は引き出しを見つめたまま答えた。「いま行くよ」
引き出しに近づき開けてみる。中には、仕事関係の書類などがぎっしりつめられている。
──また、戻ってこよう。
今度はハッキリと声が聞こえた。
「君なのか?」
僕は声に出して振り向いた。振り向いた先には、おしいれがあるだけだ。
「のび太さん?」
また静香の声が聞こえる。
僕はなにも答えず、おしいれを開けた。中には、布団がつめこまれているだけ。
背後で、扉が開いた。静香が入ってくる。
「どうしたの?」
──みんなで、また、戻ってこよう。
僕は椅子に座り、机をなぞった。指に感じられる机の感触とともに、静かに思い出たちがよみがえってくる。
「……約束を覚えてる?」
僕は、静香のほうに振り向き、小さく笑みを浮かべた。
「ちゃんと覚えてるわよ」
静香が言った。
「裏山の一本杉の下で、最後の日、あの日に約束したのよね。中学校を卒業した日に。三十年後の今日、みんなで、また集まろうって」
「僕は忘れていた」
車を運転しながら、僕は膝の上に置いたアルバムのページをめくった。小さいころの自分。なんて楽しそうな顔をしているのか。
「すっかり、忘れていたんだ」
口にすれば泣きそうになる。なぜ、忘れていたのか。なによりも大切な仲間たちとの約束。なによりも大事な、仲間たちのこと。
静香の手が、僕の腕に触れた。そうしてくれると、安心する。いまを、そしていまでもまだ残っている仲間の絆を、思いださせてくれるから。
窓の外に目をやると、どこまでも続いていそうな草原が果てしなく広がっている。昔、この辺りは人が多く住んでいた。だが、火星などに移民が始まってからは、地球上の自然を取り戻す活動が広がり、景色が一変した。それはそれで素晴らしいことなのだが、自分たちの暮らした町には、変わっていてほしくなかった。空き地や学校や裏山や川原。あのままでいてほしい。仲間たちと同じように、あの風景たちにも、そのままでいてほしい。そんな僕の気持ちを悟ってか、静香が急に窓から顔を出し、吹いてくる風にあらがって、なにごとか叫んだ。
「なんて言ったんだい?」
「待っててね、今行くよって」
僕は微笑んだ。静香は変わらない。大人になっても、心は、あのころの静香と同じ。すべてを包みこむ優しさは変わらない。
そうだ。外見が変わったとしても、共有した思い出やそれぞれの個性は変わらないのだ。
「たけしさん、来てるかしら」
「……分からない」
最後に、あの憎めないガキ大将と会ったのはいつだったろう。
……スネ夫の葬式の日だったか。
それも高校二年のときの話だ。何年も会っていない。
「……彼には、会えるだろうか」
僕はつぶやいた。もちろん、静香には、だれのことか分かっていた。
「会えるわ」
僕は静香を見た。静香は、澄んだ瞳で僕を見つめ、微笑んでいた。
「きっと会える」
出発したのは朝だったのに、もう夜になってしまっていた。隣で寝ている静香の身体に毛布をかけてやると、僕は運転を再開した。もう少しで、あの町に着く。
ハンドルを握り、暗い道路を走る。ライトが闇を切り裂いていく。
眠気が襲ってくるが、運転中に眠るわけにはいかない。それに朝までに着いて、静香を驚かせたい。事故だけは起こさないように、慎重に夜道を走っていく。
膝の上には、開かれたままのアルバム。
僕は道を曲がり、トンネルに入った。ほかに車も通らない、無人のトンネルを抜けていく。車の走行音以外はなにも聞こえない静寂。
──また自慢かよ。
はっとして、窓の外を見た。トンネルには、だれもいない。静香を見ると、静かな寝息を立てて眠っている。
──ねえ、これ見てよ。最新型のラジコンさ。
顔を正面に戻したとき、目の前に、最新型のラジコンを手にしたスネ夫の姿が浮かんだ。
……そうだ。これは、スネ夫の声だ。
──まあ、すごい。
顔を、ゆっくり静香の方へと向ける。静香は、まだ眠っている。その奥──窓の外に、声の主はいた。少女時代の静香が、僕の正面に浮かぶスネ夫に向かって、ラジコンを褒めている。
──おい、もっとよく見せろ。
僕は慌てて右の窓に目をやった。ジャイアンが、スネ夫の持つラジコンに向かって手を伸ばしている。そして。
──ねえ、もっとよく見せてよ。
ジャイアンの隣に。
──ねえったら!
僕がいた。子供時代の僕。ずっと嫌悪し、そして、うらやんでいた昔の僕。
──ねえ、ジャイアン、スネ夫!
ハンドルを握る手に力がこもる。
「ずっと……」歯を食いしばって、囁くように言う。「ずっと、君のことが……」
次の瞬間、目の前が真っ白になった。
そして気がつくと僕は、あのころの空き地に立っていた。目の前では、子供時代の四人が、土管に座って話している。
──だから、俺に貸せよ!
──ダメだって!
──ねえ、僕にも見せてったら!
──ね、終わったら私にも見せて。
僕は辺りを見回す。こんなことがあるのだろうか。これはまるで──。
──あれ、だれかがこっち見てる。
昔の僕の声。そして、
「ねえ、おじさん、どうしたの?」
僕は顔を上げた。目の前に立っている。ずっと逃げてきた、昔の自分が。額には、ジャイアンに殴られたのだろうか、大きなタンコブ。
「僕は……」
目が泳ぐ。視線がさまよう。
駄目だ。しっかりと見なければならない。昔の自分と、きちんと向き合わなければ。
「君は……今、幸せかい?」
「え……そんなの分からないですけど」
「……だろうな」
「変なおじさん。じゃ、僕みんなと遊んでるんで、これで」
昔の僕は、走り去ってしまった。せっかくのチャンスを、僕は生かせなかった。
悔しくて目を閉じる。次に目を開けると、僕は学校の廊下に立っていた。
目の前に、廊下に立たされた昔の僕がいる。
「……僕は」目の前の僕が顔を上げた。「僕は、ずっと君が憎かったんだ」
世界が揺らぐ。昔の僕の姿が遠ざかり始める。駄目だ。まだ、駄目だ。
「僕は、」
言葉を紡ぐ。昔の自分へ、正直な言葉を。
「君のことを、うらやましがり、さげすんでいたんだ」
遠ざかりいく僕に向かって、叫ぶ。
「君は、頭が悪い、宿題はしない、喧嘩は弱い、何をしてもうまくいかないし、いつもいじめられたり怒られたり、人には迷惑をかけてばかりで……」
昔の僕は、何も言わずに僕を見ている。
「それなのに、それなのに僕が持っていないものを、たくさん持ってた。大切なものを、いっぱい持ってた。それが……なんだかうらやましくて卑怯な気がした」
涙が流れた。
昔の僕が、僕を見つめ、そして微笑んだ。僕は、信じられなかった。昔の僕が、僕を見て微笑んだ。その瞬間、視界はふたたび光に包まれた。
「──っ!」
目を覚ますと、僕はハンドルを握りしめて、車のなかに座っていた。車は停止しており、辺りはすでに朝になっていた。目線を動かすと、そこは、あの町だった。
着いたのだ。
首を振りながら下を見ると、膝の上の開かれたアルバムが目に入る。ラジコンを巡って乱闘しているみんなの写真。
「……着いたの?」静香の声。
「あ──ああ」
静香が戸を開け放って、外に飛び出た。
「うわあ、なつかしい!」
僕も車を下りて、静香の隣に立った。なにも変わっていない。店や道路など、細かいところは色々と変わってしまったが、本質はなにも変わっていない。
「行こう」僕は言って、静香の手を引いた。
「うん」
そして僕らは、僕らの町に足を踏み入れた。
──おかえり。
そう聞こえたように思ったのは、気のせいだったのか。
僕の家は、やはりなくなってしまっていた。それによって、もう二度と〝彼〟に会えないのだという気がした。僕の家だった場所は、公園に変わっていた。
一瞬、目の前の公園が僕の家に変わり、中から両親が笑いながら出てくる様子が目に浮かんだ。
──あら、どうしたの、そんなに汚して。まったく。早く洗いなさい。
──今日は会社休みだから、思いきり遊ぼう。
「……行こう」
僕は歩き出した。
「もういいの?」
静香が聞いてくる。やはり彼女は、ちゃんと分かってくれている。
「うん」
僕は振り向いた。今はもうない僕の家が見える。そして、今はもういない両親も後ろに立っている。ずっと笑っている。
僕は笑みを返して、前を向く。両親とは、きちんと、お別れもしていなかった。帰ったら、避けていたお墓参りにも、ちゃんと行こう。
「あ、空き地ね」
僕と静香は立ち止まった。今にも、幼い自分たちの笑い声が聞こえてきそうだった。土管の中には猫がいて、時折かわいく鳴き声を上げていたものだ。土管の上では、ジャイアンが腰を下ろしてスネ夫から奪った漫画を読んでいる。草の上に布団を敷き、昼寝をすると日光がポカポカ当たって気持ちいい。なにかあれば、いつもみんなここに集まった。野球もした。隣の家のガラスを割って、よく怒られたっけ。
僕と静香は、さらに歩き出す。学校からの下校中にいつも通った川を渡り、学校の正門前に着く。学校は、新装された様子もなく、陽射しと雨にさらされて、すっかり老朽化している。運動場からは、活気ある子どもの声も、もう聞こえない。
僕は正門前に立って、正面玄関を眺める。すると、しかめ面をした担任の先生が、玄関からふっと現れる。僕の記憶にある、いつもの先生の姿。
「おい、野比。宿題はやったのか?」
そうだ。この先生の第一声は必ずこれだった。
──いえ。今から済ませてしまうところです。
と僕は答える。
「そうそう、源静香くんとはうまくやっておるのかね?」
──はい、おかげさまで。
「結婚式のスピーチでも言ったが、君たちは必ず幸せになれると信じておったよ」
──先生のおかげです。みんながいてくれなかったら、僕はただの──。
「ただの……なんだったというのかね? 君は私が教える前から、すごくいいものをたくさん持っていた」
──そんな。僕はなにも出来ない弱虫だった。
「そして優しく人を思いやれる少年だった。それは、私が教えたものじゃない。君が自分で学び、自分で選んだものだ」
──……先生、校舎に入ってみてもいいですか?
「校舎に? なぜかね?」
──なんだか……とても寂しそうだから。
「寂しい? ここがかね? まさか。もっと静かならいいと思うくらいだよ」
──だけど、もう誰もいないみたいだし、それに──。
「誰もいない? みんないるよ。騒がしくて耳を塞ぎたくなる」
──……みんなは……。
「みんな元気だよ。さあ、もう卒業した学校に入ってくる必要なんかないさ。君は君の宿題を済ませて、今を生きればいいんだ」
──……はい。
先生は、学校の中に入って行こうとして立ち止まる。
「野比?」
──はい?
「君のことを誇りに思うよ。君を生徒にもてたこと、君たちみんなのことを心から誇りに思う。君たちのことを考えれば、寂しくなんかない。分かるね?」
僕はうなずく。
「君たちはいつまでも、私の生徒だよ」
その言葉を最後に、先生は学校の中へと戻って行き、学校は無人になる。
葬儀の時に見た先生の安らかな死に顔を思い出し、微笑する。
「さあ」僕は言って、静香を見た。「宿題を……済ませに行こう」
一本杉は、しっかりと残っていた。
僕らがそこに着いたとき、すでにジャイアンは木にもたれて目をつむっていた。
「やあ」
僕が声をかけると、口の上に髭を伸ばしたジャイアンが小さく笑みを浮かべ、「よお」と相変わらずの低い声で言った。
「なにしてたんだい?」
「ちょっとな……スネ夫のヤツに、いろいろと報告してたんだ」
僕はうなずいて木を見上げた。
スネ夫の墓参りに行ったとき、こんなところにスネ夫がいるはずがないと思った。こんな石の墓の下に、あの自慢屋がいるはずがないと。
だが、ここになら、この裏山の木の下になら、あいつがいそうな気がする。
「……約束、」
ジャイアンが口を開いた。なにも言わなくても分かった。
ここに、みんないる。ジャイアンも、スネ夫も、僕も、静香も。そして。
いきなりジャイアンの腕が伸びてきて、僕はその大きな身体のなかに抱きしめられた。
泣いていた。
ああ、ジャイアンだ。図体ばかりでかくて乱暴でオンチなくせに、昔から涙もろかったジャイアンだ。
「……これで、あの日の約束……」
「うん」
僕も、ついにこらえきれなくなって泣いた。涙があふれた。
木の枝が風で揺れ、葉がこすれて音を鳴らした。
静香も抱きついてきた。ジャイアンが腕を伸ばし、静香も抱きしめる。
そのとき、涙でかすんだ視界のなかに、僕は見た。少し背の低いツンツン髪の自慢屋が、ジャイアンの後ろからさらに抱きついてきたのを。
──また会おうって……言ったろ。
僕らは、泣き、笑い、手を叩きあった。
思いきり泣いて笑ったあと、僕らは裏山で寝転がり、空を見上げ、気が済むまで一緒に昼寝したのち、山を下りて道路に出た。
ジャイアンと別れる直前に見たものを、僕は一生忘れないだろう。
道路に接したレストランのガラスのドアに、僕らは並んで映っていた。そこに映っていたのは三人ではなく、五人だった。ジャイアンの隣にはスネ夫が、そして僕の隣には〝彼〟が、かすかに笑みを浮かべて立っていたのだ。
ジャイアンに別れを告げ、これからもの友情を誓いあい、僕らは帰途についた。
不思議なことに、もと来た道を戻る途中、一度もトンネルなど通らなかった。
あれは一種のタイムマシンだったのだろうか。あの光り輝くトンネル。そしてそれを通り抜けた時にたどり着く、過去の世界。
もしかするとあれは、〝彼〟の最後の〝お世話〟だったのかもしれない。
僕らは家に着いた。静香は風呂を浴びてから、寝室に向かった。
僕はしばらく机に座っていた。そしてふと、机の引き出しを開けてみた。やがて微笑すると、立ち上がって部屋を出て行こうとする。
戸のノブをつかんだとき、僕は感じた。
振り向くと、机の引き出しが開いていて、隣に〝彼〟が立っていた。もちろん、〝彼〟がここにいるはずはない。だが、〝彼〟はいたのだ。〝彼〟はなにも言わない。ただ、微笑んで僕を見ている。僕も微笑んだ。戸を開け、部屋から出る。
「お休み。ドラえもん」
最後に言うと、戸を閉めた。
夢を見た。
中学校の卒業式を終えた少年たちが、裏山の一本杉の下に集まった。そしてそれは、仲間たちの一人が未来に帰ってしまう日でもあった。
「ね、約束しようよ」
言い出したのはスネ夫だ。いつものように、なんだかんだいっても彼は提案者だ。
少年たちは、皆うなずく。おたがいの手を握りしめ、かたく結ぶ。
「また、戻ってくるって」
みんな、たがいの顔を見回す。
「みんなで、また、戻ってくるって」
「うん」
握り締める力が強くなる。
「俺……俺……」
ジャイアンが泣きそうな声で言う。
「ああ、俺、好きなんだなあ、みんなのこと」
「僕だってさ」
眼鏡をかけた少年は、みんなの手を誰よりも強く握り締め、離そうとしない。
「俺たち、いつまでも、友達だよな」
「そうさ。そうとも」
「約束だ」
五人は微笑み合い、やがて、手を離した。
「約束したからな」ジャイアンが言う。「この約束が、俺たちの友情の証だぜ」
あれから結局、全員が集まることはなかった。だが、約束は果たせたのだと思う。
夢から覚めたとき、どんな夢を見ていたのか、しっかりとは思いだせない。子供のときの夢だったというのは分かる。早朝の澄明な静寂のなかで、しばらく夢をたどって物思いにふけることもある。今を生きていく合間の、少しばかりの休息。
見ていた夢のことをもう少しで思いだしそうになりながら、僕は今を生きていく。
思いだす。夢がつまった宝箱のような毎日のこと。絶対に忘れないって約束したこと。裏山の一本杉の下で、五人で約束したこと。また、戻ってこよう。みんなで、また戻ってこよう。この町に。生まれ育った、この町に。そう約束したこと。
ずっと、忘れていた。思いだしたくなかった。あのころの自分は情けなくて。そして同時に、あのころの自分は幸せすぎて。いまの自分が失くしたものを、すべて持っていた。そのことに気づかなかった。失うまで、気づけなかった。
過去をうらやむのをやめたのは、仕事を見つけたころだったか。過去を振り返るのはやめ、今を生きることに専念しようとした。働いていれば、なにも考えずに仕事だけしていれば、昔のことなど思いださずにすむ。でも結局それは、ただ逃げただけだったのか。自分は、整理しなければならない事柄から、ずっと逃げてきたのか。
なつかしい声が聞こえる。呼んでいる。
知っている声だった。もう、聞こえてくるはずもない声。
だから、夢なのだと分かった。昔の夢を見ているのだ。これは、夢なのだ──。
目を覚ますと、開いた目から涙が零れ落ちた。
朝特有の肌寒さが突き刺すように身体を冷やす。まだ春だというのに開け放たれた窓からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。しばらく顔をふせたまま、窓から匂ってくる、露で濡れた草の香りに包まれていた。
顔を上げれば、シンプルな仕事机が目に入る。引っ越すときに、唯一実家から持ってきた机。数年前は昔の写真を貼っていたのだが、いつしか全部外してしまっていた。
夢で聞こえてきた声を思いだす。
上体を起こし、軽く伸びをして眼鏡をかける。
窓から朝日が差しこみ、机の上に山積みにされた書類を照らしている。そして、昔と何も変わらずに、ただそこに存在している机の引き出し。
君なのか? 心の中で問う。あの声は、君なのか?
引き出しに光が当たる。心臓が、とくんと弾んだ。
そこに、今はもういるはずもない親友の姿を見たように思ったから。
「のび太さん?」静香の声が聞こえる。「起きたの?」
「ああ」僕は引き出しを見つめたまま答えた。「いま行くよ」
引き出しに近づき開けてみる。中には、仕事関係の書類などがぎっしりつめられている。
──また、戻ってこよう。
今度はハッキリと声が聞こえた。
「君なのか?」
僕は声に出して振り向いた。振り向いた先には、おしいれがあるだけだ。
「のび太さん?」
また静香の声が聞こえる。
僕はなにも答えず、おしいれを開けた。中には、布団がつめこまれているだけ。
背後で、扉が開いた。静香が入ってくる。
「どうしたの?」
──みんなで、また、戻ってこよう。
僕は椅子に座り、机をなぞった。指に感じられる机の感触とともに、静かに思い出たちがよみがえってくる。
「……約束を覚えてる?」
僕は、静香のほうに振り向き、小さく笑みを浮かべた。
「ちゃんと覚えてるわよ」
静香が言った。
「裏山の一本杉の下で、最後の日、あの日に約束したのよね。中学校を卒業した日に。三十年後の今日、みんなで、また集まろうって」
「僕は忘れていた」
車を運転しながら、僕は膝の上に置いたアルバムのページをめくった。小さいころの自分。なんて楽しそうな顔をしているのか。
「すっかり、忘れていたんだ」
口にすれば泣きそうになる。なぜ、忘れていたのか。なによりも大切な仲間たちとの約束。なによりも大事な、仲間たちのこと。
静香の手が、僕の腕に触れた。そうしてくれると、安心する。いまを、そしていまでもまだ残っている仲間の絆を、思いださせてくれるから。
窓の外に目をやると、どこまでも続いていそうな草原が果てしなく広がっている。昔、この辺りは人が多く住んでいた。だが、火星などに移民が始まってからは、地球上の自然を取り戻す活動が広がり、景色が一変した。それはそれで素晴らしいことなのだが、自分たちの暮らした町には、変わっていてほしくなかった。空き地や学校や裏山や川原。あのままでいてほしい。仲間たちと同じように、あの風景たちにも、そのままでいてほしい。そんな僕の気持ちを悟ってか、静香が急に窓から顔を出し、吹いてくる風にあらがって、なにごとか叫んだ。
「なんて言ったんだい?」
「待っててね、今行くよって」
僕は微笑んだ。静香は変わらない。大人になっても、心は、あのころの静香と同じ。すべてを包みこむ優しさは変わらない。
そうだ。外見が変わったとしても、共有した思い出やそれぞれの個性は変わらないのだ。
「たけしさん、来てるかしら」
「……分からない」
最後に、あの憎めないガキ大将と会ったのはいつだったろう。
……スネ夫の葬式の日だったか。
それも高校二年のときの話だ。何年も会っていない。
「……彼には、会えるだろうか」
僕はつぶやいた。もちろん、静香には、だれのことか分かっていた。
「会えるわ」
僕は静香を見た。静香は、澄んだ瞳で僕を見つめ、微笑んでいた。
「きっと会える」
出発したのは朝だったのに、もう夜になってしまっていた。隣で寝ている静香の身体に毛布をかけてやると、僕は運転を再開した。もう少しで、あの町に着く。
ハンドルを握り、暗い道路を走る。ライトが闇を切り裂いていく。
眠気が襲ってくるが、運転中に眠るわけにはいかない。それに朝までに着いて、静香を驚かせたい。事故だけは起こさないように、慎重に夜道を走っていく。
膝の上には、開かれたままのアルバム。
僕は道を曲がり、トンネルに入った。ほかに車も通らない、無人のトンネルを抜けていく。車の走行音以外はなにも聞こえない静寂。
──また自慢かよ。
はっとして、窓の外を見た。トンネルには、だれもいない。静香を見ると、静かな寝息を立てて眠っている。
──ねえ、これ見てよ。最新型のラジコンさ。
顔を正面に戻したとき、目の前に、最新型のラジコンを手にしたスネ夫の姿が浮かんだ。
……そうだ。これは、スネ夫の声だ。
──まあ、すごい。
顔を、ゆっくり静香の方へと向ける。静香は、まだ眠っている。その奥──窓の外に、声の主はいた。少女時代の静香が、僕の正面に浮かぶスネ夫に向かって、ラジコンを褒めている。
──おい、もっとよく見せろ。
僕は慌てて右の窓に目をやった。ジャイアンが、スネ夫の持つラジコンに向かって手を伸ばしている。そして。
──ねえ、もっとよく見せてよ。
ジャイアンの隣に。
──ねえったら!
僕がいた。子供時代の僕。ずっと嫌悪し、そして、うらやんでいた昔の僕。
──ねえ、ジャイアン、スネ夫!
ハンドルを握る手に力がこもる。
「ずっと……」歯を食いしばって、囁くように言う。「ずっと、君のことが……」
次の瞬間、目の前が真っ白になった。
そして気がつくと僕は、あのころの空き地に立っていた。目の前では、子供時代の四人が、土管に座って話している。
──だから、俺に貸せよ!
──ダメだって!
──ねえ、僕にも見せてったら!
──ね、終わったら私にも見せて。
僕は辺りを見回す。こんなことがあるのだろうか。これはまるで──。
──あれ、だれかがこっち見てる。
昔の僕の声。そして、
「ねえ、おじさん、どうしたの?」
僕は顔を上げた。目の前に立っている。ずっと逃げてきた、昔の自分が。額には、ジャイアンに殴られたのだろうか、大きなタンコブ。
「僕は……」
目が泳ぐ。視線がさまよう。
駄目だ。しっかりと見なければならない。昔の自分と、きちんと向き合わなければ。
「君は……今、幸せかい?」
「え……そんなの分からないですけど」
「……だろうな」
「変なおじさん。じゃ、僕みんなと遊んでるんで、これで」
昔の僕は、走り去ってしまった。せっかくのチャンスを、僕は生かせなかった。
悔しくて目を閉じる。次に目を開けると、僕は学校の廊下に立っていた。
目の前に、廊下に立たされた昔の僕がいる。
「……僕は」目の前の僕が顔を上げた。「僕は、ずっと君が憎かったんだ」
世界が揺らぐ。昔の僕の姿が遠ざかり始める。駄目だ。まだ、駄目だ。
「僕は、」
言葉を紡ぐ。昔の自分へ、正直な言葉を。
「君のことを、うらやましがり、さげすんでいたんだ」
遠ざかりいく僕に向かって、叫ぶ。
「君は、頭が悪い、宿題はしない、喧嘩は弱い、何をしてもうまくいかないし、いつもいじめられたり怒られたり、人には迷惑をかけてばかりで……」
昔の僕は、何も言わずに僕を見ている。
「それなのに、それなのに僕が持っていないものを、たくさん持ってた。大切なものを、いっぱい持ってた。それが……なんだかうらやましくて卑怯な気がした」
涙が流れた。
昔の僕が、僕を見つめ、そして微笑んだ。僕は、信じられなかった。昔の僕が、僕を見て微笑んだ。その瞬間、視界はふたたび光に包まれた。
「──っ!」
目を覚ますと、僕はハンドルを握りしめて、車のなかに座っていた。車は停止しており、辺りはすでに朝になっていた。目線を動かすと、そこは、あの町だった。
着いたのだ。
首を振りながら下を見ると、膝の上の開かれたアルバムが目に入る。ラジコンを巡って乱闘しているみんなの写真。
「……着いたの?」静香の声。
「あ──ああ」
静香が戸を開け放って、外に飛び出た。
「うわあ、なつかしい!」
僕も車を下りて、静香の隣に立った。なにも変わっていない。店や道路など、細かいところは色々と変わってしまったが、本質はなにも変わっていない。
「行こう」僕は言って、静香の手を引いた。
「うん」
そして僕らは、僕らの町に足を踏み入れた。
──おかえり。
そう聞こえたように思ったのは、気のせいだったのか。
僕の家は、やはりなくなってしまっていた。それによって、もう二度と〝彼〟に会えないのだという気がした。僕の家だった場所は、公園に変わっていた。
一瞬、目の前の公園が僕の家に変わり、中から両親が笑いながら出てくる様子が目に浮かんだ。
──あら、どうしたの、そんなに汚して。まったく。早く洗いなさい。
──今日は会社休みだから、思いきり遊ぼう。
「……行こう」
僕は歩き出した。
「もういいの?」
静香が聞いてくる。やはり彼女は、ちゃんと分かってくれている。
「うん」
僕は振り向いた。今はもうない僕の家が見える。そして、今はもういない両親も後ろに立っている。ずっと笑っている。
僕は笑みを返して、前を向く。両親とは、きちんと、お別れもしていなかった。帰ったら、避けていたお墓参りにも、ちゃんと行こう。
「あ、空き地ね」
僕と静香は立ち止まった。今にも、幼い自分たちの笑い声が聞こえてきそうだった。土管の中には猫がいて、時折かわいく鳴き声を上げていたものだ。土管の上では、ジャイアンが腰を下ろしてスネ夫から奪った漫画を読んでいる。草の上に布団を敷き、昼寝をすると日光がポカポカ当たって気持ちいい。なにかあれば、いつもみんなここに集まった。野球もした。隣の家のガラスを割って、よく怒られたっけ。
僕と静香は、さらに歩き出す。学校からの下校中にいつも通った川を渡り、学校の正門前に着く。学校は、新装された様子もなく、陽射しと雨にさらされて、すっかり老朽化している。運動場からは、活気ある子どもの声も、もう聞こえない。
僕は正門前に立って、正面玄関を眺める。すると、しかめ面をした担任の先生が、玄関からふっと現れる。僕の記憶にある、いつもの先生の姿。
「おい、野比。宿題はやったのか?」
そうだ。この先生の第一声は必ずこれだった。
──いえ。今から済ませてしまうところです。
と僕は答える。
「そうそう、源静香くんとはうまくやっておるのかね?」
──はい、おかげさまで。
「結婚式のスピーチでも言ったが、君たちは必ず幸せになれると信じておったよ」
──先生のおかげです。みんながいてくれなかったら、僕はただの──。
「ただの……なんだったというのかね? 君は私が教える前から、すごくいいものをたくさん持っていた」
──そんな。僕はなにも出来ない弱虫だった。
「そして優しく人を思いやれる少年だった。それは、私が教えたものじゃない。君が自分で学び、自分で選んだものだ」
──……先生、校舎に入ってみてもいいですか?
「校舎に? なぜかね?」
──なんだか……とても寂しそうだから。
「寂しい? ここがかね? まさか。もっと静かならいいと思うくらいだよ」
──だけど、もう誰もいないみたいだし、それに──。
「誰もいない? みんないるよ。騒がしくて耳を塞ぎたくなる」
──……みんなは……。
「みんな元気だよ。さあ、もう卒業した学校に入ってくる必要なんかないさ。君は君の宿題を済ませて、今を生きればいいんだ」
──……はい。
先生は、学校の中に入って行こうとして立ち止まる。
「野比?」
──はい?
「君のことを誇りに思うよ。君を生徒にもてたこと、君たちみんなのことを心から誇りに思う。君たちのことを考えれば、寂しくなんかない。分かるね?」
僕はうなずく。
「君たちはいつまでも、私の生徒だよ」
その言葉を最後に、先生は学校の中へと戻って行き、学校は無人になる。
葬儀の時に見た先生の安らかな死に顔を思い出し、微笑する。
「さあ」僕は言って、静香を見た。「宿題を……済ませに行こう」
一本杉は、しっかりと残っていた。
僕らがそこに着いたとき、すでにジャイアンは木にもたれて目をつむっていた。
「やあ」
僕が声をかけると、口の上に髭を伸ばしたジャイアンが小さく笑みを浮かべ、「よお」と相変わらずの低い声で言った。
「なにしてたんだい?」
「ちょっとな……スネ夫のヤツに、いろいろと報告してたんだ」
僕はうなずいて木を見上げた。
スネ夫の墓参りに行ったとき、こんなところにスネ夫がいるはずがないと思った。こんな石の墓の下に、あの自慢屋がいるはずがないと。
だが、ここになら、この裏山の木の下になら、あいつがいそうな気がする。
「……約束、」
ジャイアンが口を開いた。なにも言わなくても分かった。
ここに、みんないる。ジャイアンも、スネ夫も、僕も、静香も。そして。
いきなりジャイアンの腕が伸びてきて、僕はその大きな身体のなかに抱きしめられた。
泣いていた。
ああ、ジャイアンだ。図体ばかりでかくて乱暴でオンチなくせに、昔から涙もろかったジャイアンだ。
「……これで、あの日の約束……」
「うん」
僕も、ついにこらえきれなくなって泣いた。涙があふれた。
木の枝が風で揺れ、葉がこすれて音を鳴らした。
静香も抱きついてきた。ジャイアンが腕を伸ばし、静香も抱きしめる。
そのとき、涙でかすんだ視界のなかに、僕は見た。少し背の低いツンツン髪の自慢屋が、ジャイアンの後ろからさらに抱きついてきたのを。
──また会おうって……言ったろ。
僕らは、泣き、笑い、手を叩きあった。
思いきり泣いて笑ったあと、僕らは裏山で寝転がり、空を見上げ、気が済むまで一緒に昼寝したのち、山を下りて道路に出た。
ジャイアンと別れる直前に見たものを、僕は一生忘れないだろう。
道路に接したレストランのガラスのドアに、僕らは並んで映っていた。そこに映っていたのは三人ではなく、五人だった。ジャイアンの隣にはスネ夫が、そして僕の隣には〝彼〟が、かすかに笑みを浮かべて立っていたのだ。
ジャイアンに別れを告げ、これからもの友情を誓いあい、僕らは帰途についた。
不思議なことに、もと来た道を戻る途中、一度もトンネルなど通らなかった。
あれは一種のタイムマシンだったのだろうか。あの光り輝くトンネル。そしてそれを通り抜けた時にたどり着く、過去の世界。
もしかするとあれは、〝彼〟の最後の〝お世話〟だったのかもしれない。
僕らは家に着いた。静香は風呂を浴びてから、寝室に向かった。
僕はしばらく机に座っていた。そしてふと、机の引き出しを開けてみた。やがて微笑すると、立ち上がって部屋を出て行こうとする。
戸のノブをつかんだとき、僕は感じた。
振り向くと、机の引き出しが開いていて、隣に〝彼〟が立っていた。もちろん、〝彼〟がここにいるはずはない。だが、〝彼〟はいたのだ。〝彼〟はなにも言わない。ただ、微笑んで僕を見ている。僕も微笑んだ。戸を開け、部屋から出る。
「お休み。ドラえもん」
最後に言うと、戸を閉めた。
夢を見た。
中学校の卒業式を終えた少年たちが、裏山の一本杉の下に集まった。そしてそれは、仲間たちの一人が未来に帰ってしまう日でもあった。
「ね、約束しようよ」
言い出したのはスネ夫だ。いつものように、なんだかんだいっても彼は提案者だ。
少年たちは、皆うなずく。おたがいの手を握りしめ、かたく結ぶ。
「また、戻ってくるって」
みんな、たがいの顔を見回す。
「みんなで、また、戻ってくるって」
「うん」
握り締める力が強くなる。
「俺……俺……」
ジャイアンが泣きそうな声で言う。
「ああ、俺、好きなんだなあ、みんなのこと」
「僕だってさ」
眼鏡をかけた少年は、みんなの手を誰よりも強く握り締め、離そうとしない。
「俺たち、いつまでも、友達だよな」
「そうさ。そうとも」
「約束だ」
五人は微笑み合い、やがて、手を離した。
「約束したからな」ジャイアンが言う。「この約束が、俺たちの友情の証だぜ」
あれから結局、全員が集まることはなかった。だが、約束は果たせたのだと思う。
夢から覚めたとき、どんな夢を見ていたのか、しっかりとは思いだせない。子供のときの夢だったというのは分かる。早朝の澄明な静寂のなかで、しばらく夢をたどって物思いにふけることもある。今を生きていく合間の、少しばかりの休息。
見ていた夢のことをもう少しで思いだしそうになりながら、僕は今を生きていく。