書店を題材にした掌編、第4弾。
今回は趣向を変えてファンタジー寄りです。
荒廃と妖精がキー・ヴィジュアルとなっております。
伽藍堂樹木〈がらんどう・いつき〉の足が、ガラス片をくだいた。
建物の入り口に扉はなく、その名残である材木が床に散らばっている。
荒れ果てた空間は、元来の機能や意味を、とっくに失っていた。
ここにあるのは、中身のない、ただの形骸だ。
サビやカビやホコリ……荒廃のにおいが鼻をつく。
「やはり書店だったか」
つぶやき、十字弓〈クロスボウ〉に巻きつけた懐中電灯で、なかを照らす。
「案外、広いな」
奥は闇に包まれて端が見えず、ドーム状の天井は高い。
本棚の多くが引き倒され、行く手を阻む障害物となっている。
「まるで死体の山だ」
床は一面、積み重ねられた本で埋まっていた。
探索には時間がかかりそうだ。
「伽藍」
耳もとで声。
「なにか、います。気をつけて」
声の主は、塵芥〈チリアクタ〉だ。彼女の手が、軽く耳に触れている。
「久々の獲物だな。そろそろ空腹に耐えかねていたところだ」
「よかったですね」
「ほんとうに、いるんだろうな? 期待させておいての空振りは、なしだぞ」
「チリアちゃんが言うなら、まちがいないっす!」
反対側の耳に、べつの声が響いた。灰燼〈クァイシン〉だ。
今回は趣向を変えてファンタジー寄りです。
荒廃と妖精がキー・ヴィジュアルとなっております。
**********
建物の入り口に扉はなく、その名残である材木が床に散らばっている。
荒れ果てた空間は、元来の機能や意味を、とっくに失っていた。
ここにあるのは、中身のない、ただの形骸だ。
サビやカビやホコリ……荒廃のにおいが鼻をつく。
「やはり書店だったか」
つぶやき、十字弓〈クロスボウ〉に巻きつけた懐中電灯で、なかを照らす。
「案外、広いな」
奥は闇に包まれて端が見えず、ドーム状の天井は高い。
本棚の多くが引き倒され、行く手を阻む障害物となっている。
「まるで死体の山だ」
床は一面、積み重ねられた本で埋まっていた。
探索には時間がかかりそうだ。
「伽藍」
耳もとで声。
「なにか、います。気をつけて」
声の主は、塵芥〈チリアクタ〉だ。彼女の手が、軽く耳に触れている。
「久々の獲物だな。そろそろ空腹に耐えかねていたところだ」
「よかったですね」
「ほんとうに、いるんだろうな? 期待させておいての空振りは、なしだぞ」
「チリアちゃんが言うなら、まちがいないっす!」
反対側の耳に、べつの声が響いた。灰燼〈クァイシン〉だ。
「ちょちょいと、あたしが偵察してくるっすぁー!」
そう言うやいなや、彼女は伽藍の肩から飛び立った。
伽藍の手のひらサイズほどしかない小さな体躯に、半透明に光る羽を生やしている。
羽が動くたび、周囲の微粒子ごと空気が揺れた。
「あ、おい、クアイ──」
編んだ長い髪をなびかせ、止める間もなく、奥の空間へと飛んで行ってしまう。
「ったく……」
「ごめんなさい。困ったものですね」
「気にするな、もう慣れた」
伽藍の肩の上で、すとんと腰を下ろしたチリアに応える。
彼方種〈アチラシュ〉の少女の、ふわふわした金髪が視界の隅で揺れた。
「すごい埃ですね……ケホッ」
チリアがどこからか布を取り出し、自身の口に巻いた。
清楚系キャラを自負している本人には言わないでおくが、まるで盗賊のような見た目だ。
「クアイ」
先行突撃した彼方種のすがたをさがす。
「どこだ、クアイ」
チリアの言葉が正しく、「ある」のだとしたら。
ここは亜ノ万理〈アノマリ〉──なにが起きても不思議でない場所だ。
慎重に進みながら、足もとの本を照らす。
「どうだ、ありそうか?」
「ううん──反応はないですね」
「もっと奥?」
「おそらくは」
肩のチリアが答える。彼女が言うなら、そうなのだろう。
彼方種は、感応力が人より高い。
そう言うやいなや、彼女は伽藍の肩から飛び立った。
伽藍の手のひらサイズほどしかない小さな体躯に、半透明に光る羽を生やしている。
羽が動くたび、周囲の微粒子ごと空気が揺れた。
「あ、おい、クアイ──」
編んだ長い髪をなびかせ、止める間もなく、奥の空間へと飛んで行ってしまう。
「ったく……」
「ごめんなさい。困ったものですね」
「気にするな、もう慣れた」
伽藍の肩の上で、すとんと腰を下ろしたチリアに応える。
彼方種〈アチラシュ〉の少女の、ふわふわした金髪が視界の隅で揺れた。
「すごい埃ですね……ケホッ」
チリアがどこからか布を取り出し、自身の口に巻いた。
清楚系キャラを自負している本人には言わないでおくが、まるで盗賊のような見た目だ。
「クアイ」
先行突撃した彼方種のすがたをさがす。
「どこだ、クアイ」
チリアの言葉が正しく、「ある」のだとしたら。
ここは亜ノ万理〈アノマリ〉──なにが起きても不思議でない場所だ。
慎重に進みながら、足もとの本を照らす。
「どうだ、ありそうか?」
「ううん──反応はないですね」
「もっと奥?」
「おそらくは」
肩のチリアが答える。彼女が言うなら、そうなのだろう。
彼方種は、感応力が人より高い。
「伽藍」
チリアの手が、ふたたび耳に触れた。
「すでに敵の領域です」
わかってる、と伽藍はうなずく。
十字弓をかまえた。
すこしずつ歩を進め、建物のおそらく中央付近までたどりついたとき。
突如として、空間に変化があった。
もう電源も通っていないはずの壊れたスピーカが、ひび割れた曲を奏ではじめる。
あまりの音量に、耳をおさえた。
くだけたランプが、幾度も明滅をくりかえす。
伽藍は、全神経を集中させ、襲撃に備えた。
光のあいだの闇、騒音のなかのわずかな音、そこに敵のすがたをさがす。
敵……そう、敵だ。
すくなくとも、目に見えて、打ち倒すことのできる、明確な敵。
音がやんだ。光も消える。
静寂と暗黒が、空間を支配した。
十字弓に装着した懐中電灯が、唯一の光源だ。
「伽藍!」
チリアがさけぶ。
反応が遅れた。
ふりかえろうとしたところで、足もとの本が急に跳び上がり、伽藍の手を打った。
砂塵が舞う。
十字弓が弾き飛ばされ、懐中電灯の光が回転しながら周囲を照らし、離れた位置に落ちる。
衝撃による誤作動だろう、十字弓から矢が放たれ、運悪く伽藍に向かってきた。
暗闇でよく見えなかったが、空を切る音は聞こえた。
上半身をそらし、なんとか、それを避ける。
武器と明かりを失って、それでも伽藍は身がまえた。
敵に背を向けるのは得策ではない。
チリアの手が、ふたたび耳に触れた。
「すでに敵の領域です」
わかってる、と伽藍はうなずく。
十字弓をかまえた。
すこしずつ歩を進め、建物のおそらく中央付近までたどりついたとき。
突如として、空間に変化があった。
もう電源も通っていないはずの壊れたスピーカが、ひび割れた曲を奏ではじめる。
あまりの音量に、耳をおさえた。
くだけたランプが、幾度も明滅をくりかえす。
伽藍は、全神経を集中させ、襲撃に備えた。
光のあいだの闇、騒音のなかのわずかな音、そこに敵のすがたをさがす。
敵……そう、敵だ。
すくなくとも、目に見えて、打ち倒すことのできる、明確な敵。
音がやんだ。光も消える。
静寂と暗黒が、空間を支配した。
十字弓に装着した懐中電灯が、唯一の光源だ。
「伽藍!」
チリアがさけぶ。
反応が遅れた。
ふりかえろうとしたところで、足もとの本が急に跳び上がり、伽藍の手を打った。
砂塵が舞う。
十字弓が弾き飛ばされ、懐中電灯の光が回転しながら周囲を照らし、離れた位置に落ちる。
衝撃による誤作動だろう、十字弓から矢が放たれ、運悪く伽藍に向かってきた。
暗闇でよく見えなかったが、空を切る音は聞こえた。
上半身をそらし、なんとか、それを避ける。
武器と明かりを失って、それでも伽藍は身がまえた。
敵に背を向けるのは得策ではない。
分厚い本が、その表紙と裏表紙を使って羽ばたき、宙に浮いていた。
ページの合間から、まるで人間のもののような骨の手を三本も生やしている。
この空間を支配している敵──物離素〈モノリス〉だ。
その手のひとつが、見覚えのある生きものを捕らえていた。
「はなせーかいほうしろー」
クアイが暴れていた。が、やがて疲れたのか。
「無念っす」
と、ぐったり動かなくなった。
「なにやってんだ……」
伽藍はため息をつき。
「チリア」
こまかく指示するまでもなかった。
彼女は伽藍の肩から飛び立ち、全身からまぶしい光を放った。
彼方種は、自身のからだを発光させることができる。
が、カロリーを大量消費するとのことなので、ふだんは、ひかえさせている。
チリアの放つ光で、モノリスがひるんだ。
伽藍は後方に跳んで、十字弓をつかみとった。
それと同時にモノリスが立ち直り、伽藍に向かって飛来してきた。
とっさに、急接近してきた敵を十字弓で殴りつける。
かなりの速度と衝突したため、伽藍も衝撃で後方に倒れこんだ。
背負ったリュックのおかげで、背中を打ちつけずに済む。
ページの合間から、まるで人間のもののような骨の手を三本も生やしている。
この空間を支配している敵──物離素〈モノリス〉だ。
その手のひとつが、見覚えのある生きものを捕らえていた。
「はなせーかいほうしろー」
クアイが暴れていた。が、やがて疲れたのか。
「無念っす」
と、ぐったり動かなくなった。
「なにやってんだ……」
伽藍はため息をつき。
「チリア」
こまかく指示するまでもなかった。
彼女は伽藍の肩から飛び立ち、全身からまぶしい光を放った。
彼方種は、自身のからだを発光させることができる。
が、カロリーを大量消費するとのことなので、ふだんは、ひかえさせている。
チリアの放つ光で、モノリスがひるんだ。
伽藍は後方に跳んで、十字弓をつかみとった。
それと同時にモノリスが立ち直り、伽藍に向かって飛来してきた。
とっさに、急接近してきた敵を十字弓で殴りつける。
かなりの速度と衝突したため、伽藍も衝撃で後方に倒れこんだ。
背負ったリュックのおかげで、背中を打ちつけずに済む。
モノリスは反対側に吹き飛んで本棚のひとつに衝突し、それを砕きながら地に落ちた。
「ぁわーっ!」
モノリスといっしょに飛ばされたクアイの悲鳴がとどろいた。
「まだ生きてるか?」
スティール製の矢を取り出しながら、声をかける。
「もちのろんっす……」
敵が起き上がるまえに、伽藍はすばやく、矢を装填した。
起き上がる時間のロスを考えて、攻撃準備を優先。
尻をついたままの姿勢で、かまえる。
「あたしにかまわず、やっちゃってくださいっす!」
「もとより、そのつもりだ!」
「ひどいっす!?」
くずれた本棚のなかから、モノリスが飛び出してきた。
骨の指のあいだから顔だけのぞかせたクアイは、だーっと涙を流している。
「うああん、助けてくだせぇっすぅ」
「泣くな!」
狙いをつける。
モノリスが、目で追うのもやっとの速度で上下左右に揺れ動きながら、向かってくる。
骨の手による締めつけが強くなっていくのが、伽藍には見えている。
「苦しい──もう、もうダメっす」
「落ち着け」
伽藍は静かに言った。
「いま、助ける」
引き金を引いた。
発射した矢は、正確に、モノリスの本体部分を貫いた。
「クアイ、脱出しろ!」
彼女は、骨の手を蹴飛ばし、こちらへ飛翔してきた。
直後、周囲のなにもかもを巻き込むかたちで、モノリスが爆発した。
虚無爆発。
漆黒の渦──球状の無が、まわりの床や本棚を、ごそりと、えぐりとった。
「ぁわーっ!」
モノリスといっしょに飛ばされたクアイの悲鳴がとどろいた。
「まだ生きてるか?」
スティール製の矢を取り出しながら、声をかける。
「もちのろんっす……」
敵が起き上がるまえに、伽藍はすばやく、矢を装填した。
起き上がる時間のロスを考えて、攻撃準備を優先。
尻をついたままの姿勢で、かまえる。
「あたしにかまわず、やっちゃってくださいっす!」
「もとより、そのつもりだ!」
「ひどいっす!?」
くずれた本棚のなかから、モノリスが飛び出してきた。
骨の指のあいだから顔だけのぞかせたクアイは、だーっと涙を流している。
「うああん、助けてくだせぇっすぅ」
「泣くな!」
狙いをつける。
モノリスが、目で追うのもやっとの速度で上下左右に揺れ動きながら、向かってくる。
骨の手による締めつけが強くなっていくのが、伽藍には見えている。
「苦しい──もう、もうダメっす」
「落ち着け」
伽藍は静かに言った。
「いま、助ける」
引き金を引いた。
発射した矢は、正確に、モノリスの本体部分を貫いた。
「クアイ、脱出しろ!」
彼女は、骨の手を蹴飛ばし、こちらへ飛翔してきた。
直後、周囲のなにもかもを巻き込むかたちで、モノリスが爆発した。
虚無爆発。
漆黒の渦──球状の無が、まわりの床や本棚を、ごそりと、えぐりとった。
地面がクレーター状に割れたことで、床が傾く。
伽藍はからだを支えようとしたが、なすすべなく滑り落ち、空いた穴の直前でぶら下がった。
穴の下には、なおも渦巻いている無が確認できた。
吸引力が伽藍を襲う。小型のブラックホールみたいなものだ。
「しっかり、伽藍!」
「うおお、全力っすー!」
彼方種のふたりが、伽藍のそれぞれ両脇にもぐりこみ、自分たちの浮力で持ち上げようとしていた。
羽を激しく上下させている。
伽藍自身も、十字弓を前方に投げ出し、両腕に力をこめて這い上がろうとするが、うまくいかない。
何冊もの本が飛んできて、伽藍をかすめ、背後の穴へと吸いこまれていった。
「クアイ、チリア、矢を! 俺は、もうしばらく耐えられる!」
彼女たちは、すぐに行動した。
伽藍を支えるのをあきらめ、背中のリュックのファスナーをさぐり、なかから矢を抜き出す。
それをふたりがかりで持ち上げ、十字弓のところまで飛んでいった。
伽藍がこの場に持ちこんだ十字弓や彼方種たちは、虚無の吸引力の影響下にはない。
あれが欲するのは、その空間と、伽藍という人間だけだ。
クアイとチリアは、自分たちのからだよりも大きな十字弓に、矢をセットし始めた。
「どうするんだったっすかね」
「こっちに引っ掛けるのですよ」
「ああ、なーる!」
そんなやりとりが聞こえてくる。
「急いでくれ!」
いまや、両手の握力だけで、伽藍はぶら下がっている。
伽藍はからだを支えようとしたが、なすすべなく滑り落ち、空いた穴の直前でぶら下がった。
穴の下には、なおも渦巻いている無が確認できた。
吸引力が伽藍を襲う。小型のブラックホールみたいなものだ。
「しっかり、伽藍!」
「うおお、全力っすー!」
彼方種のふたりが、伽藍のそれぞれ両脇にもぐりこみ、自分たちの浮力で持ち上げようとしていた。
羽を激しく上下させている。
伽藍自身も、十字弓を前方に投げ出し、両腕に力をこめて這い上がろうとするが、うまくいかない。
何冊もの本が飛んできて、伽藍をかすめ、背後の穴へと吸いこまれていった。
「クアイ、チリア、矢を! 俺は、もうしばらく耐えられる!」
彼女たちは、すぐに行動した。
伽藍を支えるのをあきらめ、背中のリュックのファスナーをさぐり、なかから矢を抜き出す。
それをふたりがかりで持ち上げ、十字弓のところまで飛んでいった。
伽藍がこの場に持ちこんだ十字弓や彼方種たちは、虚無の吸引力の影響下にはない。
あれが欲するのは、その空間と、伽藍という人間だけだ。
クアイとチリアは、自分たちのからだよりも大きな十字弓に、矢をセットし始めた。
「どうするんだったっすかね」
「こっちに引っ掛けるのですよ」
「ああ、なーる!」
そんなやりとりが聞こえてくる。
「急いでくれ!」
いまや、両手の握力だけで、伽藍はぶら下がっている。
「伽藍!」
チリアが飛んできた。クアイと協力して、十字弓を運んでいる。
「準備できました!」
彼方種たちは、伽藍の頭上まで飛んでくると、十字弓を落とした。
伽藍は片手を離し、それをキャッチした。
「あっ」
頭上で悲鳴が聞こえた気がした。
だがいまは、やるべきことをやらねばならない。
からだが支えを失い、穴へと一気に引きこまれる。
虚無爆発が、穴の中心で伽藍を手招きしている。
なつかしい人の顔をして、なつかしい人の声で呼ぶ。
「伽藍」
そちらに向かって吸い寄せられながらも、伽藍は両足を駆使して体勢を立て直し。
十字弓をかまえ、撃った。
矢が、まっすぐ虚無爆発の中心へと沈みこんでいく。
やがて。
その中心部から、虚無爆発にひびが入った。
ふしゅううぅぅ、と。
ぱんぱんにふくらんだ風船から空気が抜けるような、そんな音がこだます。
腐臭が鼻先をかすめた。
虚無爆発は勢いを失い、収束していき、そして。
伽藍の肉体が接触してしまう寸前で。
完全に、消失した。
チリアが飛んできた。クアイと協力して、十字弓を運んでいる。
「準備できました!」
彼方種たちは、伽藍の頭上まで飛んでくると、十字弓を落とした。
伽藍は片手を離し、それをキャッチした。
「あっ」
頭上で悲鳴が聞こえた気がした。
だがいまは、やるべきことをやらねばならない。
からだが支えを失い、穴へと一気に引きこまれる。
虚無爆発が、穴の中心で伽藍を手招きしている。
なつかしい人の顔をして、なつかしい人の声で呼ぶ。
「伽藍」
そちらに向かって吸い寄せられながらも、伽藍は両足を駆使して体勢を立て直し。
十字弓をかまえ、撃った。
矢が、まっすぐ虚無爆発の中心へと沈みこんでいく。
やがて。
その中心部から、虚無爆発にひびが入った。
ふしゅううぅぅ、と。
ぱんぱんにふくらんだ風船から空気が抜けるような、そんな音がこだます。
腐臭が鼻先をかすめた。
虚無爆発は勢いを失い、収束していき、そして。
伽藍の肉体が接触してしまう寸前で。
完全に、消失した。
「伽藍」
一瞬、彼女の幻影を見る。
虚無に近づきすぎたせいかもしれない。
「伽藍」
まばたきする。
すると、次の瞬間には、なにごともなかったように。
周囲は、ただの荒れ果てた書店にもどっている。
床に穴など空いておらず、戦いの痕跡はのこっていない。
もちろん、彼女がいるはずもない。
伽藍は両手をつき、吐き気をこらえた。
床と顔面をつきあわせた姿勢で、深呼吸をくりかえす。
よだれがこみあげてくる。
かたく目をつむる。ひどい耳鳴りがした。
「──伽藍!」
それは。その声は。
……だいじょうぶ、現実が見えている。
瓦礫にまみれた、この世界。
目を開ける。
ノイズは去り、土に汚れたフローリングの床がクリアに見える。
「伽藍!」
チリアの切迫した声にふりむくと、クアイが倒れていた。
「どうした」
「飛んできた本が直撃して──」
チリアが言う。
切迫感こそあるが、どこか冷淡な調子で。
こういうとき、彼女たちが人間ではないことを、伽藍は思い出す。
「うう、しくじったっす……」
クアイが、苦しそうにうめいた。
「しゃべるな、馬鹿」
「あたし、死ぬっすかね?」
「言うな」
一瞬、彼女の幻影を見る。
虚無に近づきすぎたせいかもしれない。
「伽藍」
まばたきする。
すると、次の瞬間には、なにごともなかったように。
周囲は、ただの荒れ果てた書店にもどっている。
床に穴など空いておらず、戦いの痕跡はのこっていない。
もちろん、彼女がいるはずもない。
伽藍は両手をつき、吐き気をこらえた。
床と顔面をつきあわせた姿勢で、深呼吸をくりかえす。
よだれがこみあげてくる。
かたく目をつむる。ひどい耳鳴りがした。
「──伽藍!」
それは。その声は。
……だいじょうぶ、現実が見えている。
瓦礫にまみれた、この世界。
目を開ける。
ノイズは去り、土に汚れたフローリングの床がクリアに見える。
「伽藍!」
チリアの切迫した声にふりむくと、クアイが倒れていた。
「どうした」
「飛んできた本が直撃して──」
チリアが言う。
切迫感こそあるが、どこか冷淡な調子で。
こういうとき、彼女たちが人間ではないことを、伽藍は思い出す。
「うう、しくじったっす……」
クアイが、苦しそうにうめいた。
「しゃべるな、馬鹿」
「あたし、死ぬっすかね?」
「言うな」
伽藍はリュックを投げ出して矢の一本をつかみ、自身の親指を突いた。
傷口からは血が噴き出し、指の腹の上で、ぷくりとふくらんだ。
「ほら」
クアイの口もとに、それを寄せる。
小さな彼女のくちびるが、血の表面張力を割った。
白い喉が、ごくりと動く。
「癒やすに足るか?」
「ああ──ああ──」
「おい、だいじょうぶなのか?」
クアイが、こくりとうなずいた。
「林檎〈りんご〉」
呼びかける。
「ちゃんと言ってくれ。もう、だいじょうぶなんだな?」
そんな伽藍に。
クアイは、いつもとはちがう表情で。
はい、とかすれ声で答えた。
そこに、だれかの面影を見る。見てしまう。
しばらくクアイの様子を観察していたが、もう問題なさそうだと判断する。
「伽藍。いま──」
チリアが口を開く。
「なんだ」
「名前を……」
伽藍は答えず、散らかしてしまったリュックの中身を片づけた。
矢も、保存食も、色褪せた写真も。
──顔は、クアイのほうが似ていた。
性格は、チリアがイメージに近いが。実際のところ、クアイのような破天荒な面も、彼女は持っていた。
彼方種とは、人間の亡骸から生まれる存在。
ひとつの遺体から、対で発生する。
それがどういうことなのか。だから、どうなのか。
いまだ解明されていない。
だから。
似ている部分があるなどという「願望」に、意味などないのかもしれない。
彼女たちに、なにも期待するべきではないのかもしれない。
傷口からは血が噴き出し、指の腹の上で、ぷくりとふくらんだ。
「ほら」
クアイの口もとに、それを寄せる。
小さな彼女のくちびるが、血の表面張力を割った。
白い喉が、ごくりと動く。
「癒やすに足るか?」
「ああ──ああ──」
「おい、だいじょうぶなのか?」
クアイが、こくりとうなずいた。
「林檎〈りんご〉」
呼びかける。
「ちゃんと言ってくれ。もう、だいじょうぶなんだな?」
そんな伽藍に。
クアイは、いつもとはちがう表情で。
はい、とかすれ声で答えた。
そこに、だれかの面影を見る。見てしまう。
しばらくクアイの様子を観察していたが、もう問題なさそうだと判断する。
「伽藍。いま──」
チリアが口を開く。
「なんだ」
「名前を……」
伽藍は答えず、散らかしてしまったリュックの中身を片づけた。
矢も、保存食も、色褪せた写真も。
──顔は、クアイのほうが似ていた。
性格は、チリアがイメージに近いが。実際のところ、クアイのような破天荒な面も、彼女は持っていた。
彼方種とは、人間の亡骸から生まれる存在。
ひとつの遺体から、対で発生する。
それがどういうことなのか。だから、どうなのか。
いまだ解明されていない。
だから。
似ている部分があるなどという「願望」に、意味などないのかもしれない。
彼女たちに、なにも期待するべきではないのかもしれない。
……駄目だ。
かなり憂鬱が進行している。
伽藍は、目的のものをさがし、顔を上げた。
いまいる位置からすこし離れたところに、本が落ちている。
いや、本はたくさん落ちているのだが。
そいつは別格だ。
彼方種ほどの感応力がなくとも、はっきりと識別できる。
伽藍は痛むからだを動かし、壁に肩を預けて立った。
本に近寄り、手に取る。
装丁のしっかりした、分厚い本だ。
その表紙と裏表紙をつかみ、背表紙の部分から一気に引き裂いた。
勢いあまって、紙が飛び散る。
「読書の時間だ」
言って、その「肉」を食しはじめる。
ちぎっては、口に詰めこんでいく。
これこそが、ここに来た目的。
憂鬱病、唯一の治癒手段だ。
力を持った物語を食べることが。食べつづけることが。
これでまた、死に至る病を、すこしだけ先延ばしにすることができる。
「どうして?」
伽藍は、ふと疑問に思ってしまう。
どうして、足掻く?
「……約束してしまったからだ」
襲いくる憂鬱を払いのけ、自答する。
ただ、それだけの、無意味な意味。この、なにひとつ、のこっていない世界。
かなり憂鬱が進行している。
伽藍は、目的のものをさがし、顔を上げた。
いまいる位置からすこし離れたところに、本が落ちている。
いや、本はたくさん落ちているのだが。
そいつは別格だ。
彼方種ほどの感応力がなくとも、はっきりと識別できる。
伽藍は痛むからだを動かし、壁に肩を預けて立った。
本に近寄り、手に取る。
装丁のしっかりした、分厚い本だ。
その表紙と裏表紙をつかみ、背表紙の部分から一気に引き裂いた。
勢いあまって、紙が飛び散る。
「読書の時間だ」
言って、その「肉」を食しはじめる。
ちぎっては、口に詰めこんでいく。
これこそが、ここに来た目的。
憂鬱病、唯一の治癒手段だ。
力を持った物語を食べることが。食べつづけることが。
これでまた、死に至る病を、すこしだけ先延ばしにすることができる。
「どうして?」
伽藍は、ふと疑問に思ってしまう。
どうして、足掻く?
「……約束してしまったからだ」
襲いくる憂鬱を払いのけ、自答する。
ただ、それだけの、無意味な意味。この、なにひとつ、のこっていない世界。
そうして、行為を再開する。
噛めば噛むほど唾液が分泌され、紙を浸した。
味がする。
その感覚を言葉で表現することはできない。
病に侵され、すべての味覚が失われたにもかかわらず。
味が、する。
飢餓が、うすれる。渇きが、潤う。
心が、充たされる。
いまも彼女がそばにいる、つねに自分を見てくれていて、そのご加護があるだなんて。
そんな、色あざやかな幻想を、打ち砕いてくれる。
彼女は、自分を呪ったのだ。これは呪いだ。
伽藍は立ち上がり、リュックを背負いなおした。
腰をかがめ、十字弓を持ち上げる。どこか、ゆがんだ箇所がないか、軽くチェックする。
「行くぞ。チリア、クアイ」
右足を痛めてしまったかもしれない。やや引きずるようにして、歩きだす。
彼方種たちが、そっと寄り添った。
建物の外に出ると、冷たい風が出迎えた。
雨が降り、路上の灰を濡らしていた。粒がアスファルトに弾け、空気中に霧散する。
膝から下くらいの位置に、霧がたまっていた。建物が、かすんで見える。
暗雲がたちこめ、ただでさえ色彩の薄い廃墟を、モノクロに染めていた。
噛めば噛むほど唾液が分泌され、紙を浸した。
味がする。
その感覚を言葉で表現することはできない。
病に侵され、すべての味覚が失われたにもかかわらず。
味が、する。
飢餓が、うすれる。渇きが、潤う。
心が、充たされる。
いまも彼女がそばにいる、つねに自分を見てくれていて、そのご加護があるだなんて。
そんな、色あざやかな幻想を、打ち砕いてくれる。
彼女は、自分を呪ったのだ。これは呪いだ。
伽藍は立ち上がり、リュックを背負いなおした。
腰をかがめ、十字弓を持ち上げる。どこか、ゆがんだ箇所がないか、軽くチェックする。
「行くぞ。チリア、クアイ」
右足を痛めてしまったかもしれない。やや引きずるようにして、歩きだす。
彼方種たちが、そっと寄り添った。
建物の外に出ると、冷たい風が出迎えた。
雨が降り、路上の灰を濡らしていた。粒がアスファルトに弾け、空気中に霧散する。
膝から下くらいの位置に、霧がたまっていた。建物が、かすんで見える。
暗雲がたちこめ、ただでさえ色彩の薄い廃墟を、モノクロに染めていた。
「雨だな……」
「風邪をひいてしまうかもしれませんね。頭の上で、布でも広げましょうか?」
チリアが提案する。
「このくらいの雨なら、なんとか飛べると思います」
「お前たちが濡れる」
伽藍は周囲を見回した。
「傘でも、さがそうか」
「おお、三人で相合傘っすね!」
「あらステキ」
「ハーレムだハーレムだー」
湿気た風が運んでくる、雨特有のカビくささ。
「あれは、ぺトリコールとジオスミンという化学物質からくるんだ」
かつて、博識な彼女がそう言っていた。
ロマンがない、と伽藍は笑った。
もちろん、この世界にロマンなどなかった。
ただ茫漠たる現実が広がっている。
「よし」
伽藍は、ふりむいた。
「最初に傘を見つけたヤツの勝ちだ。勝者は、そうだな──王様ってことにしよう」
「王様?」
「ハーレムを手に入れる。ほかのふたりは、王様の言うことを聞かなければならない。どうだ?」
チリアとクアイは、きょとんと顔を見合わせた。
だが、次の瞬間には、スタートダッシュを切っていた。
伽藍も負けじと動き始める。
どこまでも灰色が広がる空の下。
雨は、まだまだ、やみそうもない。
「風邪をひいてしまうかもしれませんね。頭の上で、布でも広げましょうか?」
チリアが提案する。
「このくらいの雨なら、なんとか飛べると思います」
「お前たちが濡れる」
伽藍は周囲を見回した。
「傘でも、さがそうか」
「おお、三人で相合傘っすね!」
「あらステキ」
「ハーレムだハーレムだー」
湿気た風が運んでくる、雨特有のカビくささ。
「あれは、ぺトリコールとジオスミンという化学物質からくるんだ」
かつて、博識な彼女がそう言っていた。
ロマンがない、と伽藍は笑った。
もちろん、この世界にロマンなどなかった。
ただ茫漠たる現実が広がっている。
「よし」
伽藍は、ふりむいた。
「最初に傘を見つけたヤツの勝ちだ。勝者は、そうだな──王様ってことにしよう」
「王様?」
「ハーレムを手に入れる。ほかのふたりは、王様の言うことを聞かなければならない。どうだ?」
チリアとクアイは、きょとんと顔を見合わせた。
だが、次の瞬間には、スタートダッシュを切っていた。
伽藍も負けじと動き始める。
どこまでも灰色が広がる空の下。
雨は、まだまだ、やみそうもない。